2023年01月08日「イエスの言葉「わたしはある」」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 8章21節~30節

メッセージ

2023年1月8日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書8章21節~30節「主イエスの言葉「わたしはある」」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 今朝のみ言葉は、ヨハネによる福音書の8章のちょうど中ほどにあります。仮庵祭というユダヤ人の祭りの時にエルサレム神殿に入って行かれました主イエス様の有様が、7章と8章を通して記されています。そのクライマックスは、明らかに昨年の年末に説教したところですが、8章12節だろうと思います。主イエス様は、仮庵祭の終わりに神殿に灯される大きなロウソクの灯を前にして、「わたしは世の光である」宣言されました。わたしこそ暗闇の中で輝く本当の光、命を与える光であると言われたのです。今朝の個所は、それに続くユダヤ人たちとの激しい論争の場面になります。

 説教題を「主イエスの言葉「わたしはある」」と致しました。「わたしはある」これは今朝のみ言葉の24節と28節の二度にわたって記されている主イエス様の御言葉であります。「わたしはある」

 ずいぶん前になりますが、いのちのことば社から、「神なんていないと言う前に」という本が出ました。これは本と言っても漫画です。パク・ヨンドクという韓国の牧師が原案を考え、漫画の才能のあるクリスチャンのグループであるクレマインドという集団が読みやすい漫画の本にしてくれました。韓国でベストセラーになったそうです。漫画ですけれども、少し理屈っぽい本で、その中身は神学的に深いものがあります。漫画の主人公は、本の中で無神論と対決し、また仏教や儒教、イスラム教とキリスト教を比較します。そして最終的には主イエス様の神の恵みを賛美しています。日本も韓国と同じように仏教や儒教の影響がありますから、わたくしは共感をもって読むことが出来ました。

 神様がおられるのか、おられないのか、このことは、あの東日本大震災を経験し、その後も新型コロナウイルスのパンデミック、またロシアによるウクライナ侵略など悲しいことや理不尽なことを目の当たりにしているわたしたちにとって切実な問題であると思います。信仰を待たない人でも、この世界の秩序と言いますか、自然の仕組みへの信頼、人間世界と調和しているということについて何か安心感のようなものがずうっとあったと思います。なんだかんだあるけれども、大丈夫だ、大丈夫に違いない、こう思っていたのです。けれどもあの地震・津波・原発事故や新型コロナウイルス、あからさまな戦争を前にして、何か世界の底が向けたと言いますか、タガが外れたというような気持ちになりました。

もしかしたら、私たちはこれから先に毎日の生活の中でも同じような経験をするかもしれません。あるいは年齢を重ねた人の人生経験の急所と言うものは、思いもかけない不幸に陥れられるという経験かもしれません。そう言うとき私たちは問いかけるのです。神様はおられるのか。

神様がおられるのか、このような問題は、キリスト教の影響の強い韓国でも欧米でも一つのテーマになっていると言います。大きな災害、疫病や戦争があり、また経済的な行き詰まりということもあって、今や世界と人類は悩んでいます。単純にその事柄について悩んでいるだけでなく、出口が見えない、この先どうなるだろうかという不安があるのです。

2、

「神様はおられるのか」、「おられる」としたなら、その神様どういうお方なのか、この問いをもつことは大切なことだと思います。なぜなら、どんな仕方であっても、そのような問いを通ることなしには、「神様はおられる、この確かなお方により頼もう」という私たちに希望をもたらす結論もわたしたちの中で生まれない、そう思うからであります。

今朝の御言葉の24節において主イエス様はユダヤ人たちにこう言われます。

「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

主イエス様は、神様がおられる、神はおられるというだけではなく、「私はあると言うことを信じる」それが大切だと言われたのです。主イエス様がご自身について「わたしはある」と言われたと言うのはどういう意味でしょうか。わたしたちにはわかりにくい言葉であると思います。すぐそこに主イエス様がおられてユダヤ人たちと対話をしているのですから、そこに主イエス様がいる、おられるということは当たり前のことです。しかし、ユダヤ人たちが、この主イエス様の御言葉を聞いた時に、彼らはその意味を即座に理解したと思います。

なぜかと言いますと、この「わたしはある」ギリシャ語ではエゴー・エイミーと言うのですが、この言葉自体が旧約聖書の天地創造の神の名前として、神様ご自身から告げられた言葉であるからです。

旧約聖書の御言葉を一か所お読みしますのでお聞きください。出エジプト記の3章13節から15節の御言葉です。ここでは、イスラエルをエジプトの奴隷の状態から救いだし、シナイ山で十戒を受け取ったモーセという人に。神様ご自身が語っておられる、そう言う箇所です。モーセは、ここで初めて、出エジプトという使命を神様から与えられます。この神様の召しを受け入れたモーセが神様にその名前を知らせて欲しいと願うのです。お読みします。

「13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

3:15 神は、更に続けてモーセに命じられた。「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。これこそ、とこしえにわたしの名/これこそ、世々にわたしの呼び名。」

当時エルサレム神殿に集まっているユダヤ人たちは旧約聖書の御言葉を幼いころから繰り返し学んでいましたので、この「わたしはある」、エゴー・エイミーと言う言葉を聞いた時に、これは天の父なる神様がご自身の名を示された、あの言葉ではないかと分かるのであります。

このヨハネによる福音書の中で、主イエス様はこのエゴー・エイミーと言う言葉を「私はある」と言う意味のほかに、わたしは何何であるという意味で7回用いられました。エゴーは「私」、あのエゴイズムのエゴですね。エイミーは、である、イズ、あるいはアイアムのアムに当たる言葉です。

聖書の箇所はいちいち挙げませんけれど、「わたしは命のパンである」「わたしは世の光である」「わたしは門である」「わたしは良い羊飼いである」「わたしは復活であり、命である」「わたしは道であり、真理であり、命である」そして「わたしはまことのぶどうの木」この7つです。この7つの言い方はどれも、それぞれニュアンスや強調点は違いますけれど、主イエス様が御自身と共いるものに恵みを与え、命を与える方であるということを示しております。

命を与えることが出来る方とは、天地を造られた神様以外におられないのですから、この「わたしは○○である」というのは、「わたしはある」という神様の名前を主イエス様ご自身に重ねておられるのだと言わなければなりません。

「私はある」と言うことを信じるとは、主イエス様が、このように「エゴー・エイミー」で始まる7つの言葉でご自身について告げられた、おっしゃった、そのことを信じ受け入れよと言うことでもあるのです。

この「わたしはある」と訳されている言葉は、以前の口語訳聖書では「わたしはそういうものだ」と訳されていました。文法的にもそう訳すことが可能です。古くは文語訳聖書においてもそうでありました。ヨハネ伝8章24節と28節「汝らもし、我のそれなるを信ぜずば、罪の内に死ぬべし」「汝ら人の子を挙げしとき、我のそれなるを知るべし」

このように訳しましたときには「わたしがそれである」、つまりあなたがたが旧約聖書の預言者の時代から待ち望んでいた存在、わたしがそれなのだという意味になります。しかし、この新共同訳でも、新しく出ました聖書協会共同訳、またそれよりも少し古い新改訳2017でも、ここは「わたしはある」と訳しています。旧約聖書出エジプト記3章の、モーセに対する神様の顕現、あらわれに際して神様ご自身の名乗りのみ言葉との結びつきがはっきりといたしました。

神さまは、出エジプト記3章で、ご自分の名前を「わたしはある」、わたしはある、そう言うものだとモーセに告げてくださいました。神様は決しておられない方ではなく、おられる方です。確かに、人間の目から見てすぐには理解できない、受け入れることが出来ない現実はこの世において起こります。しかし、それでもなお、神さまは、「わたしはいる、確かにいる」と告げ知らせ、そして救いの御業をなされるお方、わたしたちに手を差し伸べて下さるお方なのです。そしてその神様は、いまや主イエス様において私たちに遣わされている、その神様の究極の救いの業を主イエス様というご存在そのものにおいて成し遂げて下さるのです。

3、

 今朝の御言葉が主イエス様によって語られているときと場所は、仮庵の祭りの最終日のことであろうと思われます。ガリラヤで伝道しておられた主イエス様は、今エルサレムへ上って行くことは危険だと知りながら、しかし、この仮庵祭りには神殿に入って福音を語って下さいました。

しかし、祭りも終わり、今や主イエス様はここを去ろうとしておられます。ここを去ってゆくだけでなく、やがて、主イエス様はこの世をも去って行かれます。ユダヤ人たちがどんなに求めても会うことが出来ないところへゆくとここでは言われました。

 このことは、主イエス様の十字架の日が近づいていることを意味しています。28節をお読みします。

「28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」

 人の子とは主イエス様ご自身のことですが、その主イエス様を上げた時とは、何のことでしょう。一つは、十字架の上に上げると言うことにほかなりません。多くのユダヤ人たちは、このあと主イエス様を救い主として受け入れることをしないで、十字架に付けて殺してしまいます。しかし、十字架のあとに起きたことは、主イエス様の復活であり、昇天、天に帰って行かれたことであります。父なる神様は、この特別な奇蹟によって、主イエス様が本当に神さまの御心を行ったものであることを世に明らかにされました。

 十字架とその後の復活によって、人々は主イエス様が「わたしはある」と言うお方、すなわち神の子であり、神ご自身であることを悟るだろうと、こうおっしゃっているのです。

 もう一つ主イエス様は、十字架そのものが天の父なる神から主イエス様に与えられた使命であったことをここではっきりと語ってくださいました。

主イエス様は自分勝手に世に来て、自分勝手に語り、そして十字架にかかられたのではなく、すべては父なる神のご計画によることでした。十字架によって罪人の罪を完全に裁き、処置して、信じるものを赦すためです。十字架こそ、神さまの愛の現れなのです。そして十字架にこそ悪や罪を解決しないではおかれないと言う神様の義、正義があるのです。神の子の命を贖いとして、罪人の命の身代わりとされたのです。

 当時のユダヤ人たちは、神の十戒に反する行為として自殺を最も呪わしいことと考えていました。そのユダヤ人たちが、誰も捜せないところへ去ってゆくという主イエス様の言葉を聞いて、この人は自殺でもするつもりなのだろうか、まさか、そんなことは考えられないと思ったときに、主イエス様はいわれました。

あなたがたは下のもの、この地上世界、この世に属するものだ、わたしは違う、上に属するものだ。こう言われました。上とは、神のみくに、天上世界のことです。下とはこの世のことです。

 この地上の世界は、天上の国とは違う世界です。そこには罪と悪と汚れとがいたるところに存在しています。私たち自身もそうです。

そもそも聖書によればこの世界は神の祝福のうちに善きものとして作られました。しかし、最後に被造世界の冠として作られた人間が神様に背き、神から離れてしまったので、世界は罪に染まったものとなりました。だからこの地に属するものは、必ず死なければならないし、その死に方は罪において死ぬ、そのような死に方だと言うのです。

「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」主イエス様は、ここで三度繰り返して語られます。21節、24節に二回です。三度も繰り返しいわれたことは、このことが主イエス様にとって重要なことであることを示しています。あなたたちが罪の内に死ぬ、救いようのない仕方で死ぬ、主イエス様は、このことに心を痛めておられるのです。

あなたがたは「わたしはある」ということを信じないならば自分の罪の内に死ぬ、裏返せば、主イエス様について、この方は私はあると言うお方、つまり神さまだと信じるなら、決してそのような死に方はしないと言うのです。

 神様を信じ、このお方に従う生活をしたとしても、そうではなく、神も仏もないといって自分のしたい放題に生きる生活をしたとしても、体を持って生きているわたしたちは死から逃げることが出来ません。人が神様に背いて罪に落ちてしまった時から、わたしたちのからだは死ぬべきものとなったからです。

 けれども、わたしはあると言うお方、主イエス様を信じ、このおかたの十字架の恵みに与る時、私たちの死は、もはや罪の内に死ぬような仕方で死ぬではありません。罪許されたものとして、死にます。また神様から見るなら、十字架の上で私たちの罪も肉も死んだのですから、わたしたちは主イエス様の清いご性質を身にまとって、つまり主イエス様を着て死ぬのです。そして主イエス様のおられる天において顔と顔とを合わせて主イエス様にお会いすることになるのです。

4、

 最初に、「神なんていないと言う前に」という本のお話を致しました。この本の結論は、ただ神様がおられると言うことではありません。神様が私たちを愛し、救うお方、援けるお方であること、その中心にイエス・キリストがおられると言うことを書いて、結論にしています。

 エジプトの奴隷となって苦しんでいたイスラエルの民は、モーセに導かれて、神さまの不思議な助けを受けながら、シナイ半島の荒れ野を旅して約束の地へ入って行きました。神様は、「わたしはある」という名をモーセに示しました。それは神様が、救う方、助け出す方として働く神であることを示しています。

 今、韓国ではキリスト者は25%、つまり75%はキリスト者ではありません。日本では99%がキリスト者ではありません。その沢山のひとたちも何となく、神様の存在を感じて入ると思います。しかし、その神様の姿は、あまりにもぼんやりしていると思います。私たちに働きかけて下さるような神ではないのです。静かな神です。たとえ神がおられるとしても「あたかも『ない神、おられない神』のように静かにしている方なのです。しかし主イエス様はそのような神ではありません。そうではなく、神は、確かにおられる神、わたしたちを助ける神、共にいる神、救う神です。そして主イエス様は、その生きておられる神であり、神の子であります。

 今朝の御言葉の最後に、主イエス様は、ご自分と父なる神様との関係についてこう語られます。「29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」

 父なる神は、この共におられる主イエス様において、私たちと共にいて下さいます。わたしたちを決して一人にしておかず、共にいて下さるお方です。

 これらのことを主イエス様が語られた時、多くの人々がイエスを信じたと30節にあります。わたしたちもまた主イエス様を信じて、神さまの恵みをうけつつ歩みを続いて行きたいと思います。お祈りを致します。

祈り

天にいます父なる神、御名を讃美します。新しい年を迎えた二回目の主日礼拝を捧げることができて感謝いたします。この新しい年も、思いがけないことや困難な出来事にわたくしたちは遭遇するかも知れないと思います。しかしその中に、確かにあなたはいて下さり、わたしたちを支えてくださる、憐れんでくださる、そのことを信じて感謝を致します。愛の神である主イエス様に導かれて歩むことが出来ますようお願いいたします。主の名によって祈ります。アーメン。