聖書の言葉 詩編 1編1節~5節 メッセージ 2023年1月1日(火)熊本伝道所新年礼拝説教 詩編1編 1~6節「神に従う人」 1、幸いな人 明けましておめでとうございます。2023年度の最初の主の日は、これは神様のお計らいによると思いますが、ちょうど新年、1月1日、新しい年の初めの日の朝になりました。わたしたちは、今朝このところに集って、主の日の礼拝を捧げています。 新しい年のはじめにふさわしい御言葉として詩編1編のみ言葉をご一緒にききたいと思わされました。最初のフレーズは、とても恵み深いものであります。 「いかに、幸いなことか」。単に詩編1編が、この言葉で始められるだけでなく、詩編の全体がこの言葉で始められていると考えなければなりません。ヘブライ語の原文の響きはこのようなものです。「アシュレー ハー イーシュ」 直訳しますと「幸いなるかな、その人は」、こういう言葉です。 「いかに幸いなことか」。詩編は、嘆きの言葉でもなく、祈りの言葉でもなく、幸いを告げる言葉で始まるのです。新しい年の初め、この聖書の御言葉の告げる幸い、この幸いに、心を満たされた、新しい年の歩みを始めたいのであります。 全部で150編まである詩編は、実は、旧約時代の礼拝で用いられた賛美歌集でありました。150編の詩編は、つくられた順に古いものから並べてあるということではないのです。あるいは、全体である物語ストーリーを持って並べられているということでもないようです。現在の姿になるまでには、いろいろと変遷があったと思うのですが、しかし、最終的に現在の姿に編集されました。そうでありますから、この賛美歌集のはじめ、冒頭の歌、詩編として、どの歌を持ってくるのかということは、詩編を編纂した人にとりましては、いろいろと心砕いたこと、大切なことであったに違いないと思うのです。その結果、選ばれたのが、この詩編です。このことによって、詩編の全体が、幸いに包まれたのであります。 2 「幸いな人」「いかにさいわいなことか」と祝福される人は、どんな人でしょか。 私たちは、それは、こういうことをする人だ、それが神様のお喜びになることに違いない、一体なんだろうと興味をそそられます。ところが、ここで続いている言葉は、何かをする、何かに励む、という、能動的、積極的な言葉ではないことに気がつきます。 そうではなく、しない、行わないということです。まず、よく吟味をする、動かないのです。慎重に今、自分がしようとしていることを見極めるのです。神様をないがしろにしている人の様々な考えや思いには従わない、そういう道には、長居をしない、さっさとどこかへ行くのです。ましてや、その悪い人の仲間になって、座り込んでしまうようなことはしないのです。そういう人が、幸いな人だというのです。 しかし、わたしたちは動きたがるところがあると思うのです。外界からのいろいろな言葉に心を左右されてしまう。私たちの心は誘惑に弱いのであります。どんな時でも神様のそばにいる、心も言葉も行動も、すべてが主のもとにいてはなれないこと、このことは本当に難しい、至難の業であるといってよいのではないでしょうか。 思い返してみますと、私も、今年で、またひとつ年をとりますけれども、これまでの人生において、私自身、苦い思い出、経験を沢山してきたなあと思います。そのときに、ああ、あのときに、こんなことをしたのは、はやまったなという後悔の念を持つことが多いということです。「しなかった」ということで反省することもありますけれども、いっそう強い想いとしては、あまり物事深く吟味しないで思わず話したこと、あるいはしてしまったことによって人を傷つけてしまったことはいくつもあるということです。「しなかったということよりも「してしまった」ことで反省することが圧倒的に多いのですね。後になって考えてみると、罪のあるものの道に結局自分は従ってしまったのかなあ、神に逆らうものに心惹かれてしまったなあ、あとになって自分のいろいろな悪しき思いに気がつくということがあるのです。 何かをしなさいというのではなく、まずは、何かをしない人が幸いを告げられている、祝福されているということは、重要なことではないでしょうか。私たちが、どれほど悪い思いや悪い道にひきづられやすいかということを、現しています。何かをしたくてしようがない、けれども、それは、翌間あげ吟味しなさい、それはたいていは悪いことだといわんばかりではないでしょうか。だからこそ、そちらへ行かないこと、踏みとどまることを教えるのです。 3、 わたくしは、熊本にきまして楽しみにしていることの一つは、立田山の散策です。古くからある人々の憩いの場であります。お祭り広場の近くには、江戸時代に肥後藩主の細川の殿様が鷹狩をしていた際の東屋跡地というものがあって、歴史を感じる場所でもあります。大抵は、ふもとの駐車場に車を止めて、山頂までルートをその日その日で変えて登ります。その時、ありがたいことは、いろいろなルートを案内してくれる道しるべであります。左に行くと秋の森、あるいは山頂まで近い道と遠い道など丁寧に表示されています。詩編1編は、わたしたちに人生の、道しるべを与えてくれるものであります。迷子になったり、危ない目に遭ったりしないようにわたしたちを守ってくれるものです。神様が喜んでくださる良い道を歩むように案内し、また決して悪しき道に入らないように、まして、そのような悪にどっしりと座り込んでまうことがないようにと警告するのです。 「幸いなものだ」と祝福される人は、主の教えを愛する人、その教えを昼も夜も口ずさむ人だと書かれています。主の教えと訳されている言葉は、ヤワウエのトーラー、すなわち、神様の律法です。ヘブライ語の旧約聖書の並べかたは、私たちが手にしてものと順番が違います。律法、預言、そしてその他の書物という順番です。律法とはモーセ五書のことです。そのあとに歴史書の一部とイザヤ書から先の預言書を、合わせて預言書、預言者と呼びます。そして、詩編やヨブ記や歴代誌などをその他の書といいます。中心に律法、トーラーがありその周りに、預言者、そしてサラにその外側にその他の書がくる、そういう同心円で旧約聖書の全体を把握します。主の教え、律法を中心とする旧約聖書に記されている神の御言葉に自分の心を重ねる人、主の教えを愛する人が幸いだというのです。口ずさむとももうしますのは、いつも口の中でもぐもぐしている、つぶやいているという言葉です。御言葉からはなれないので安全だというのです。 3、 そのように、神様のみ言葉にいつも親しむ人は、ただ安全なだけではありません。危険がないというだけではない、大きな恵みがあるのです。ここで、たとえられているのは流れのほとりの青々とした木です。季節に応じて豊かに実を結び、葉もしおれず、繁栄するのです。新しい年、私たちの人生もこのように神様によって祝福されたいものです。 この木は、自然に生えてきたような木ではなく、植えられた木です。神様の大きな意思、御心によって実は全てを守られているひとです。植えてくださった神様の御心に信頼しているのです。 主の教え、律法に従う人は、いっそう大きなお方、より高いお方の恵みによって、行きます。すなわち流れのほとりに植えられた木のようです。 ヨハネによる黙示録の最後の章22章には、黙示録の記者であるヨハネが、神さまから見せていただいた終わりの日の救いのありさまが記されています。そこには、命の川の両岸に命の木が並んでいると書かれています。その命の木は、豊かに実を結んでおり、さらのその木の葉でさえも諸国の民の病を癒すとあります。そこで神の僕たちは神を礼拝するのです。わたくしたちも今は地上に生きておりますが、こうして新しい年の最初に教会に集い、礼拝する中で、その神の恵みの一端、あるいは前味を味わうのではないでしょうか。 木は、やたらに動きません。しっかりと立っています。悪しき思いに惑わされません。多くの人のゆくその道に従いません。この木にたとえられているひとは正しい道を歩み続けるのです。 この詩編に謳われる二種類の人は、やがて、どうなるでしょう。神に逆らう思いに従うならば、麦の殻が実と分けられて飛ばされてゆくように、やがて、集めて燃やされる籾殻になります。神様の正しい裁きに耐えることはないのです。 この詩編1編を、そのままに読むならば、この幸いなる道は、何か消極的に思える道であるかもしれません。しかし、私たちは、悪しき思いにゆだねて進んでゆかない、待つということの中にある積極性、そのために修練と謙遜とがどれほど必要かということを覚えたいのです。この積極的な断念、積極的に待っている姿にこそ幸いがあります。 新しい年に、今年はああいうことをしよう、こういうことをしようと、それぞれの計画がすでに与えられているかもしれません。そのときに、求めることよりも、断念する、自分の思いではなく、神様の用意してくださっている手すりや鎖によって導かれることにこそ幸いがある、このことを心に留めたいと思うのです。 5節にこう書かれています。「神に逆らうものは裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。」 ここで記されている「裁きに堪えない」という言葉は、直接には、今現在のことではありません。やがて来る神の裁きのことです。今は、なんの支障もなく人生を歩んでいる人も、その人が、神を知らず求めず、神に背を向けて歩んでいるならば、やがて訪れる神様の裁きには決して耐えられない、必ずそのことの報いを受けるというのです。「神に従う人の集い」というのも、今の世にあって神様を信じている人の集まり、つまり、この教会の礼拝のような集まりという意味もありますが、しかし何よりも、やがて訪れる神様の裁きに結果として現れる集まり、神に従う人、義人の集いということです。おわりのときのことを、あらかじめ告げている言葉です。 わたしたちは、先週はクリスマスの礼拝を捧げました。クリスマス、主イエス・キリストが、この世に来てくださったことを覚えて過ごしました。主イエス様が来られた時、その十字架とお蘇りが成し遂げられたということはまさしく決定的なことです。この時に、世界の救いの日、言い換えると、世の終わりの時というものは、すでに始まったということを確認したいと思います。 これは詩編1編が語る、神様の恵みと裁きとは、もうすでに始まったと言い換えてもよいと思います。 主イエス様を信じて、神様の赦しと恵みとを受けるときはすでに始まり、主イエス様を信じない、知らないことの頼りなさ、虚無感そのものが、今のこととして起こっています。 神に逆らわない、正しい道を歩む、これは主イエス様の道を歩むことです。そうすれば、必ず恵みを受けます。 いかに幸いなことか 神に逆らう人の計らいに従って歩ます つみあるもの道にとどまらず 傲慢なものと共に座らず 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人 主の教え、主イエス様の愛の教えに導かれて、自分の思いを抑制することが出来る人は、大きな祝福を受けます。つまり流れのほとりに植えられた木のように豊かに実を結ぶのです。もっと言うならば、その祝福の実は、主イエス様によって、すでに与えられているのです。今年一年が、幸いな年でありますように。祈ります。 神様、私ども一人一人の歩み、家庭、また家族一人一人歩みを導いてくださって感謝します。また、主わたしあっち熊本教会は、この町でイエス様を信じより頼み、また集っている小さな群れであります。そのようなわたしたちの歩みをも、同か導いてください。 新しい年を与えられました。信じて待つ、喜んで主に従うものになりますよう、どうかあなたの上からの恵みをお願いいたします。主イエスのみ名によって祈ります。アーメン。
2023年1月1日(火)熊本伝道所新年礼拝説教
詩編1編 1~6節「神に従う人」
1、幸いな人
明けましておめでとうございます。2023年度の最初の主の日は、これは神様のお計らいによると思いますが、ちょうど新年、1月1日、新しい年の初めの日の朝になりました。わたしたちは、今朝このところに集って、主の日の礼拝を捧げています。
新しい年のはじめにふさわしい御言葉として詩編1編のみ言葉をご一緒にききたいと思わされました。最初のフレーズは、とても恵み深いものであります。
「いかに、幸いなことか」。単に詩編1編が、この言葉で始められるだけでなく、詩編の全体がこの言葉で始められていると考えなければなりません。ヘブライ語の原文の響きはこのようなものです。「アシュレー ハー イーシュ」 直訳しますと「幸いなるかな、その人は」、こういう言葉です。
「いかに幸いなことか」。詩編は、嘆きの言葉でもなく、祈りの言葉でもなく、幸いを告げる言葉で始まるのです。新しい年の初め、この聖書の御言葉の告げる幸い、この幸いに、心を満たされた、新しい年の歩みを始めたいのであります。
全部で150編まである詩編は、実は、旧約時代の礼拝で用いられた賛美歌集でありました。150編の詩編は、つくられた順に古いものから並べてあるということではないのです。あるいは、全体である物語ストーリーを持って並べられているということでもないようです。現在の姿になるまでには、いろいろと変遷があったと思うのですが、しかし、最終的に現在の姿に編集されました。そうでありますから、この賛美歌集のはじめ、冒頭の歌、詩編として、どの歌を持ってくるのかということは、詩編を編纂した人にとりましては、いろいろと心砕いたこと、大切なことであったに違いないと思うのです。その結果、選ばれたのが、この詩編です。このことによって、詩編の全体が、幸いに包まれたのであります。
2
「幸いな人」「いかにさいわいなことか」と祝福される人は、どんな人でしょか。
私たちは、それは、こういうことをする人だ、それが神様のお喜びになることに違いない、一体なんだろうと興味をそそられます。ところが、ここで続いている言葉は、何かをする、何かに励む、という、能動的、積極的な言葉ではないことに気がつきます。
そうではなく、しない、行わないということです。まず、よく吟味をする、動かないのです。慎重に今、自分がしようとしていることを見極めるのです。神様をないがしろにしている人の様々な考えや思いには従わない、そういう道には、長居をしない、さっさとどこかへ行くのです。ましてや、その悪い人の仲間になって、座り込んでしまうようなことはしないのです。そういう人が、幸いな人だというのです。
しかし、わたしたちは動きたがるところがあると思うのです。外界からのいろいろな言葉に心を左右されてしまう。私たちの心は誘惑に弱いのであります。どんな時でも神様のそばにいる、心も言葉も行動も、すべてが主のもとにいてはなれないこと、このことは本当に難しい、至難の業であるといってよいのではないでしょうか。
思い返してみますと、私も、今年で、またひとつ年をとりますけれども、これまでの人生において、私自身、苦い思い出、経験を沢山してきたなあと思います。そのときに、ああ、あのときに、こんなことをしたのは、はやまったなという後悔の念を持つことが多いということです。「しなかった」ということで反省することもありますけれども、いっそう強い想いとしては、あまり物事深く吟味しないで思わず話したこと、あるいはしてしまったことによって人を傷つけてしまったことはいくつもあるということです。「しなかったということよりも「してしまった」ことで反省することが圧倒的に多いのですね。後になって考えてみると、罪のあるものの道に結局自分は従ってしまったのかなあ、神に逆らうものに心惹かれてしまったなあ、あとになって自分のいろいろな悪しき思いに気がつくということがあるのです。
何かをしなさいというのではなく、まずは、何かをしない人が幸いを告げられている、祝福されているということは、重要なことではないでしょうか。私たちが、どれほど悪い思いや悪い道にひきづられやすいかということを、現しています。何かをしたくてしようがない、けれども、それは、翌間あげ吟味しなさい、それはたいていは悪いことだといわんばかりではないでしょうか。だからこそ、そちらへ行かないこと、踏みとどまることを教えるのです。
3、
わたくしは、熊本にきまして楽しみにしていることの一つは、立田山の散策です。古くからある人々の憩いの場であります。お祭り広場の近くには、江戸時代に肥後藩主の細川の殿様が鷹狩をしていた際の東屋跡地というものがあって、歴史を感じる場所でもあります。大抵は、ふもとの駐車場に車を止めて、山頂までルートをその日その日で変えて登ります。その時、ありがたいことは、いろいろなルートを案内してくれる道しるべであります。左に行くと秋の森、あるいは山頂まで近い道と遠い道など丁寧に表示されています。詩編1編は、わたしたちに人生の、道しるべを与えてくれるものであります。迷子になったり、危ない目に遭ったりしないようにわたしたちを守ってくれるものです。神様が喜んでくださる良い道を歩むように案内し、また決して悪しき道に入らないように、まして、そのような悪にどっしりと座り込んでまうことがないようにと警告するのです。
「幸いなものだ」と祝福される人は、主の教えを愛する人、その教えを昼も夜も口ずさむ人だと書かれています。主の教えと訳されている言葉は、ヤワウエのトーラー、すなわち、神様の律法です。ヘブライ語の旧約聖書の並べかたは、私たちが手にしてものと順番が違います。律法、預言、そしてその他の書物という順番です。律法とはモーセ五書のことです。そのあとに歴史書の一部とイザヤ書から先の預言書を、合わせて預言書、預言者と呼びます。そして、詩編やヨブ記や歴代誌などをその他の書といいます。中心に律法、トーラーがありその周りに、預言者、そしてサラにその外側にその他の書がくる、そういう同心円で旧約聖書の全体を把握します。主の教え、律法を中心とする旧約聖書に記されている神の御言葉に自分の心を重ねる人、主の教えを愛する人が幸いだというのです。口ずさむとももうしますのは、いつも口の中でもぐもぐしている、つぶやいているという言葉です。御言葉からはなれないので安全だというのです。
3、
そのように、神様のみ言葉にいつも親しむ人は、ただ安全なだけではありません。危険がないというだけではない、大きな恵みがあるのです。ここで、たとえられているのは流れのほとりの青々とした木です。季節に応じて豊かに実を結び、葉もしおれず、繁栄するのです。新しい年、私たちの人生もこのように神様によって祝福されたいものです。
この木は、自然に生えてきたような木ではなく、植えられた木です。神様の大きな意思、御心によって実は全てを守られているひとです。植えてくださった神様の御心に信頼しているのです。
主の教え、律法に従う人は、いっそう大きなお方、より高いお方の恵みによって、行きます。すなわち流れのほとりに植えられた木のようです。
ヨハネによる黙示録の最後の章22章には、黙示録の記者であるヨハネが、神さまから見せていただいた終わりの日の救いのありさまが記されています。そこには、命の川の両岸に命の木が並んでいると書かれています。その命の木は、豊かに実を結んでおり、さらのその木の葉でさえも諸国の民の病を癒すとあります。そこで神の僕たちは神を礼拝するのです。わたくしたちも今は地上に生きておりますが、こうして新しい年の最初に教会に集い、礼拝する中で、その神の恵みの一端、あるいは前味を味わうのではないでしょうか。
木は、やたらに動きません。しっかりと立っています。悪しき思いに惑わされません。多くの人のゆくその道に従いません。この木にたとえられているひとは正しい道を歩み続けるのです。
この詩編に謳われる二種類の人は、やがて、どうなるでしょう。神に逆らう思いに従うならば、麦の殻が実と分けられて飛ばされてゆくように、やがて、集めて燃やされる籾殻になります。神様の正しい裁きに耐えることはないのです。
この詩編1編を、そのままに読むならば、この幸いなる道は、何か消極的に思える道であるかもしれません。しかし、私たちは、悪しき思いにゆだねて進んでゆかない、待つということの中にある積極性、そのために修練と謙遜とがどれほど必要かということを覚えたいのです。この積極的な断念、積極的に待っている姿にこそ幸いがあります。
新しい年に、今年はああいうことをしよう、こういうことをしようと、それぞれの計画がすでに与えられているかもしれません。そのときに、求めることよりも、断念する、自分の思いではなく、神様の用意してくださっている手すりや鎖によって導かれることにこそ幸いがある、このことを心に留めたいと思うのです。
5節にこう書かれています。「神に逆らうものは裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。」
ここで記されている「裁きに堪えない」という言葉は、直接には、今現在のことではありません。やがて来る神の裁きのことです。今は、なんの支障もなく人生を歩んでいる人も、その人が、神を知らず求めず、神に背を向けて歩んでいるならば、やがて訪れる神様の裁きには決して耐えられない、必ずそのことの報いを受けるというのです。「神に従う人の集い」というのも、今の世にあって神様を信じている人の集まり、つまり、この教会の礼拝のような集まりという意味もありますが、しかし何よりも、やがて訪れる神様の裁きに結果として現れる集まり、神に従う人、義人の集いということです。おわりのときのことを、あらかじめ告げている言葉です。
わたしたちは、先週はクリスマスの礼拝を捧げました。クリスマス、主イエス・キリストが、この世に来てくださったことを覚えて過ごしました。主イエス様が来られた時、その十字架とお蘇りが成し遂げられたということはまさしく決定的なことです。この時に、世界の救いの日、言い換えると、世の終わりの時というものは、すでに始まったということを確認したいと思います。
これは詩編1編が語る、神様の恵みと裁きとは、もうすでに始まったと言い換えてもよいと思います。
主イエス様を信じて、神様の赦しと恵みとを受けるときはすでに始まり、主イエス様を信じない、知らないことの頼りなさ、虚無感そのものが、今のこととして起こっています。
神に逆らわない、正しい道を歩む、これは主イエス様の道を歩むことです。そうすれば、必ず恵みを受けます。
いかに幸いなことか
神に逆らう人の計らいに従って歩ます
つみあるもの道にとどまらず
傲慢なものと共に座らず
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人
主の教え、主イエス様の愛の教えに導かれて、自分の思いを抑制することが出来る人は、大きな祝福を受けます。つまり流れのほとりに植えられた木のように豊かに実を結ぶのです。もっと言うならば、その祝福の実は、主イエス様によって、すでに与えられているのです。今年一年が、幸いな年でありますように。祈ります。
神様、私ども一人一人の歩み、家庭、また家族一人一人歩みを導いてくださって感謝します。また、主わたしあっち熊本教会は、この町でイエス様を信じより頼み、また集っている小さな群れであります。そのようなわたしたちの歩みをも、同か導いてください。
新しい年を与えられました。信じて待つ、喜んで主に従うものになりますよう、どうかあなたの上からの恵みをお願いいたします。主イエスのみ名によって祈ります。アーメン。