聖書の言葉 ルカによる福音書 2章1節~21節 メッセージ 2022年12月25日(日)熊本伝道所朝拝説教 ルカによる福音書 2章1~16節「天に栄光、地に平和」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が、豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 クリスマス、おめでとうございます。クリスマスは、イエス・キリストがお生まれになった日を記念する教会の祝日でありますけれども、同時に、それは私たちにとって大きな恵みの日でもあります。先ほどご一緒にお聞きしましたルカによる福音書2章11節には、こう書かれております。「今日、ダビデの町であなたがたのための救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」 クリスマスは、私たちのための救い主がお生まれになった日であります。クリスマスに実現された主イエス様の救いの中心は、一体何かといいますと、それは人間の罪、人間が犯すすべて罪を神様が主イエス様によって赦してくださるということです。さらに、私たち自身のことも含めまして、この罪から生まれていた悪しきものの一切をこのお方が解決してくださるということであります。それは、例えばスーパーマンのような超自然的な力によって解決してくださるということではなくて、ただ神の御子の十字架という不思議な仕方で罪の問題を解決してくださるのであります。それによって、神と人間との和解、再結合がなされるのであります。それこそがクリスマスの恵みの中心なのです。先日、ある高名な神学者の先生を囲むズームの勉強会がありました。その先生は、クリスマスの恵みの出来事は、人類の歴史にとって必然的なこと、なくてはならないこと、駆らず起こるべきことであったと言われました。そのとき、わたくしは改めて、クリスマス、イエス・キリストがこの世界においでになったことの大きな恵みを覚えました。 さて、もう3年も続いているコロナの災いの中にあっても、クリスマスは変わることなく世界中で祝われております。世の中には、自分は信者でもないので、いったい何がめでたいのかわからないという人もおられるかもしれません。けれども、多くの人々はあまり真剣に考えずに冬の季節の一大イベントとして、また食事や買い物の動機付けの一つとして、クリスマスを迎え、お祝いしています。わたくしは、キリスト教会の牧師として、そういった信仰の思いからは程遠いクリスマスのことを決して批判は致しません。コロナで心が緊張し、或いは不安に満たされる、そういう毎日の生活から逃れること、何か心に温かいことを人々は求めているのです。飾り付けがなされ、クリスマスキャロルが流れる、わたくは、むしろ、そういった町の雰囲気を一緒に楽しんでおります。そのうえで、このクリスマスの季節に、もう一歩踏み込んだクリスマス、聖書がわたしたちに示しております、本当のクリスマスに心を向けて下さったらよいなあと思っているのです。 2、 さてお読みしました短い聖書の個所ですが、はじめに出てまいりますのは、皇帝アウグストゥスです。1節に皇帝アウグストゥスから勅令が出たとあります。ズグストゥスの本名は、聞いたことがおありになると思いますが、オクタビアヌスといいます。彼は、かの有名なユリウス・カイザーの妹の孫でした。ローマは共和制で、独裁を避けるために三頭政治という合議制の政治でした。しかしユリウス・カイザー一人が実質的に国を治めるようになりました。紀元前46年ごろと言われます。この人は戦さに強かったのです。このあたりのことは、世界史を勉強する人は必ず覚えさせられることですね。「賽は投げられた」「ルビコン川を渡る」とか「来た、見た、勝った」とか、・・ユリウス・カイザー、カイザルという人は逸話に事欠かないひとです。 ユリウス・カイザーは自らを皇帝と名乗ることはなかったそうですけれども、実質的に独裁者としてローマ帝国を治めました。この統治を受け継いだのがオクタビアヌス、つまりアウグストゥスです。カイザーの妹の孫であります。アウグストゥスのローマ帝国の統治は、紀元前27年から紀元後14年、あわせて41年間です。ちょうどイエス・キリストの誕生を挟んでいます。このアウグストゥスという名は、尊厳なる者と言う意味です。ローマ元老院から送られた栄誉ある称号です。今朝の聖書の個所には、当時考えられる限りの偉い人の名がまず初めに出てきております。2000年以上たった今でも、世界中の人が教科書で習う世界的な人物が、ここに姿を現しています。 もう一人の偉い人はシリア総督のキリニウスです。そしてユダの国も当時はローマの植民地であり、シリアの総督がこれを治めていました。この人は紀元6年から9年にかけてのシリア総督です。この人が、ローマ皇帝のもとでシリアとユダヤを治めていて、人口調査を命じたのです。そのためにヨセフとマリアは、出産が間近いというのに長旅に出なければなりませんでした。 私たちは一人一人、生まれも育ちも違います。熊本で生まれた人もいれば、よそから転勤や結婚によって引っ越して来た人もいます。そういう一人一人の人生は、決して自分一人で決められるものではないのだと思います。この後に出てきますヨセフとマリアと同じように、世界の情勢、歴史の中のいろいろな出来事と深く関係しています。戦争があったり、災害があったり、国が栄えたり衰退したり、その中で一人一人は人生を歩みます。あの時、こうしていたらということはありますが、うまくゆきません。しかし、その一人一人の人生もまた神様の深いご計画の中に置かれていることです。 3、 2節に「シリア総督キリニウスによる最初の人口調査」とあります。ローマ帝国の勅令を背景に、現地の総督の命令によって人口調査がはじめられました。人口調査は税金や労役、徴兵などの基礎資料をつくるために行われます。支配者たちにとっては、自分の持つ支配地域の有様を知るためのものであり、重要なものでした。人口調査には時の権力がむき出しになっているのだと思います。 マリアの婚約者であったヨセフは、ダビデの家に属するものと書かれています。ダビデ王は、もともとはベツレヘムの羊飼いエッサイの末の男の子でした。ダビデは、後にイスラエルの王に就きます。ベツレヘムはダビデの出身地、故郷ですからダビデの町と呼ばれています。ルツ記の舞台もこのベツレヘムです。ルツ記が旧約聖書におさめられているのは、主人公のルツの死んだ夫がベツレヘム出身であって、そしてその故郷に帰ってきたナオミがボアズと結婚し、その孫が、ダビデの父エッサイであったからです。 クリスマスには、つぎのようなフレーズが、よく語られます。「イエス・キリストは、王侯貴族の宮殿ではなく、ベツレヘムという名もない村にお生まれになった。」 けれども、私たちはよく注意しなければならないと思うのですが、ベツレヘムは決して名もない村ではなくて、旧約聖書に親しんでいるはずのユダヤ人ならば知らないはずのない町、「ダビデの町」でありました。旧約聖書のミカ書5章に、救い主、メシアはダビデの町であるこのベツレヘムから出ると預言されていました。由緒あるこの町で主イエス様が生まれたことは、旧約聖書の預言の実現なのです。 ローマ皇帝やシリア総督という旧約聖書とは無関係ない偉い人の人口調査という企てが、聖書のみ言葉が歴史の中で実現していくための重要な働きをしています。貧しい若夫婦であったヨセフとマリアはその人口調査のお陰でベツレヘムに行きました。 今朝一箇所だけ開いていただく聖書の箇所です。ミカ書5章1節から4節をお読みします。旧約聖書の1454ページです。 1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。 5:2 まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。 5:3 彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。 5:4 彼こそ、まさしく平和である。 4 人口調査にあたりヨセフは、ダビデの家系のものでしたから、ナザレからは80キロ近くの道のりを旅してベツレヘムへ行きました。身ごもっている、いいなづけのマリアがこの80キロもの旅に同行することは、当時としては決して普通のことではありません。登録は、代表者であるヨセフ一人が行けばよいことでありました。しかし、マリアは、たとえ、両親や親戚が面倒を見てくれるとしても、一人ナザレに残ることが出来ませんでした。どうしてかと言いますと、人々から冷たい視線を浴びていたからです。正式な結婚の前に妊娠したからです。生まれてくる子が、実はヨセフとマリアの間の子ではなく、聖霊によって、神様の力で、救い主として生まれるもの、いと高き方の子、つまり神の子であるということは村の誰もが知らないことです。ヨセフとマリアだけが知っていました。ヨセフは、告発しなかったし、結婚も取りやめることはありませんでした。普通であれば、マリアは、姦淫罪で死刑です。マタイによる福音書では、ヨセフにも天使のお告げがもたらされていました。人口調査をきっかけに2人は、一緒に村を出て、ベツレヘムに旅立ちました。 そういうわけでヨセフとマリアとは旅先で臨月を迎えることは、ある程度予測していたと考えられます。ベツレヘムへの旅は一週間程度で終わるとしても、大混雑の中で登録に時間がかかることは予測できました。 5 クリスマスの降誕劇などには、ヨセフとマリアがベツレヘムにやっと到着して、宿を探す、そうこうしているうちにマリアに陣痛が始まるというような場面が良く見られます。演出としてはドラマティックですが、これは聖書の伝えることと少し違います。6節をもう一度お読みします。 6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、 「ベツレヘムにいるうちに」です。 ベツレヘムに到着し、恐らく大勢の人が帰ってきていて、住民登録のためにたぶん一か月二か月と順番を待っているその中に彼らもいました。7節の「宿屋」と訳されている言葉も、もとの言葉では、きちんとした宿屋ではなくて仮住まいの小屋、今で言えば、ちょうど大災害のときの避難所や仮設住宅のような場所を指す言葉です。単純に「部屋」と訳している聖書もあります。おそらく、大勢の人がそういった急ごしらえの臨時宿泊所に泊まっていたのだとおもわれます。しかし、マリアは陣痛が始まり、大勢の人の前で出産するわけには行かない、そこで急遽、近くの家畜小屋に入っていったということだろうと思います。これを使うように配慮してくれた家主の暖かい思いが伝わってきます。 ヨセフとマリアは、確かにあわてたと思いますし、心配だったと思います。しかしベツレヘムの人々の温かい配慮の中で無事に赤ちゃんを産みました。主イエス様は、間違いなく、労苦している人、重荷を負っている人の味方です。わたしたちの人生の境遇と言うものを考えてみますと、大げさないい方かもしれませんが、どんな人も実は界史的な出来事の中で生きていることは間違いありません。今私たちが、この日本という国の熊本の地で生活しているということにも、世界の歴史がかかわっているのです。もしかしたら、私たちの父や母が外国に出てゆくようなことがあり、私たちがそこで生まれたならば、あの中国残留孤児のように、まったく別の人生が待っていたことでしょう。 このようなわけで、歴史を支配しておられる神様の大きなご計画、預言者にあらかじめ示されていたとおりに、主イエス様は生まれてこられました。ミカ書の預言のとおりにダビデの町で、しかも、イザヤ書11章1節の預言のとおり、エッサイの根から萌え出るダビデの家系の子としてお生まれになりました。 羊飼いたちが確かに聞いた天使の歌声は「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」であったと14節に記録されています。 この天使たちの讃美は、こののちにイエス・キリストと言うお方が、この世界に来たらして下さる「救い」を賛美する歌であります。真の神が崇められること、そして人々の言葉も思いも、すべてが神の御心に適うものとなること、地上のすべての場所に平和、平安があること、これらをもたらすためにイエス・キリストはお生まれになられました。 このことが実現するまでに、皇帝アウグストゥスと総督キリニウスによる人口調査の企てがありました。ローマの国力を誇示し、支配をいっそう徹底するための権力者の計画が、預言の成就のために用いられたことをここに見ることが出来ます。さらに、マリアに対するヨセフの思いやりと生まれてくる子供への配慮がここには大きな役割を果たしました。 このことに関わっている一人一人は、決して、メシアの誕生が預言どおりに実現するために意識してこれらのことを行ったのではありません。しかし、全てのことが組み合わされ、予期しない仕方であったかも知りませんが、それらは確かに用いられて、神様の御心が約束どおりに果たされました。その中心におられるお方こそが飼い葉おけに寝かされている幼子イエス・キリストというお方です。 主イエス様のお誕生には、とてつもなく大きなことから、ほんのちょっとした思いやりの心まですべてがかかわっています。今日、私たちはこの熊本教会のクリスマスの礼拝に出席しています。このことのためには、私たちを取りまく実にいろいろなことが関係していることに思いをはせたいものです。それは、私たちを愛し、憐れんでくださる神様の御手の中で起こっていることではないでしょうか。 クリスマスの恵みは、人間世界の罪の悲惨の完全解決への道が開かれたということです。神の子でありつつ人の子としてお生まれなった主イエス・キリストは、そのことを成し遂げられるためにお生まれになりました。今、ここにおりますわたしたちは、このお方が与え下さる罪の赦しと永遠の命というクリスマスの恵みにあずかることが出来ます。信じるものの救いのため一つとして無駄になることはない、このことを信じましょう。起こり来る全てのことがらの背後に主の深いご計画、恵みのご計画がある、そのことを覚えようではありませんか。お祈りをささげます。 祈り 神様、あなたに深い配慮の中で、救い主である主イエス・キリストはお生まれになりました。あなたの永遠のご計画が一つ一つ間違いなく実現して行くことを覚えて感謝をいたします。コロナの災いもまたあなたの御手の内にあります。大それたことではなく、小さな、小さなことの積み重ねの中であなたは御心を実現されるお方であることを覚えさせてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
2022年12月25日(日)熊本伝道所朝拝説教
ルカによる福音書 2章1~16節「天に栄光、地に平和」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が、豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
クリスマス、おめでとうございます。クリスマスは、イエス・キリストがお生まれになった日を記念する教会の祝日でありますけれども、同時に、それは私たちにとって大きな恵みの日でもあります。先ほどご一緒にお聞きしましたルカによる福音書2章11節には、こう書かれております。「今日、ダビデの町であなたがたのための救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」
クリスマスは、私たちのための救い主がお生まれになった日であります。クリスマスに実現された主イエス様の救いの中心は、一体何かといいますと、それは人間の罪、人間が犯すすべて罪を神様が主イエス様によって赦してくださるということです。さらに、私たち自身のことも含めまして、この罪から生まれていた悪しきものの一切をこのお方が解決してくださるということであります。それは、例えばスーパーマンのような超自然的な力によって解決してくださるということではなくて、ただ神の御子の十字架という不思議な仕方で罪の問題を解決してくださるのであります。それによって、神と人間との和解、再結合がなされるのであります。それこそがクリスマスの恵みの中心なのです。先日、ある高名な神学者の先生を囲むズームの勉強会がありました。その先生は、クリスマスの恵みの出来事は、人類の歴史にとって必然的なこと、なくてはならないこと、駆らず起こるべきことであったと言われました。そのとき、わたくしは改めて、クリスマス、イエス・キリストがこの世界においでになったことの大きな恵みを覚えました。
さて、もう3年も続いているコロナの災いの中にあっても、クリスマスは変わることなく世界中で祝われております。世の中には、自分は信者でもないので、いったい何がめでたいのかわからないという人もおられるかもしれません。けれども、多くの人々はあまり真剣に考えずに冬の季節の一大イベントとして、また食事や買い物の動機付けの一つとして、クリスマスを迎え、お祝いしています。わたくしは、キリスト教会の牧師として、そういった信仰の思いからは程遠いクリスマスのことを決して批判は致しません。コロナで心が緊張し、或いは不安に満たされる、そういう毎日の生活から逃れること、何か心に温かいことを人々は求めているのです。飾り付けがなされ、クリスマスキャロルが流れる、わたくは、むしろ、そういった町の雰囲気を一緒に楽しんでおります。そのうえで、このクリスマスの季節に、もう一歩踏み込んだクリスマス、聖書がわたしたちに示しております、本当のクリスマスに心を向けて下さったらよいなあと思っているのです。
2、
さてお読みしました短い聖書の個所ですが、はじめに出てまいりますのは、皇帝アウグストゥスです。1節に皇帝アウグストゥスから勅令が出たとあります。ズグストゥスの本名は、聞いたことがおありになると思いますが、オクタビアヌスといいます。彼は、かの有名なユリウス・カイザーの妹の孫でした。ローマは共和制で、独裁を避けるために三頭政治という合議制の政治でした。しかしユリウス・カイザー一人が実質的に国を治めるようになりました。紀元前46年ごろと言われます。この人は戦さに強かったのです。このあたりのことは、世界史を勉強する人は必ず覚えさせられることですね。「賽は投げられた」「ルビコン川を渡る」とか「来た、見た、勝った」とか、・・ユリウス・カイザー、カイザルという人は逸話に事欠かないひとです。
ユリウス・カイザーは自らを皇帝と名乗ることはなかったそうですけれども、実質的に独裁者としてローマ帝国を治めました。この統治を受け継いだのがオクタビアヌス、つまりアウグストゥスです。カイザーの妹の孫であります。アウグストゥスのローマ帝国の統治は、紀元前27年から紀元後14年、あわせて41年間です。ちょうどイエス・キリストの誕生を挟んでいます。このアウグストゥスという名は、尊厳なる者と言う意味です。ローマ元老院から送られた栄誉ある称号です。今朝の聖書の個所には、当時考えられる限りの偉い人の名がまず初めに出てきております。2000年以上たった今でも、世界中の人が教科書で習う世界的な人物が、ここに姿を現しています。
もう一人の偉い人はシリア総督のキリニウスです。そしてユダの国も当時はローマの植民地であり、シリアの総督がこれを治めていました。この人は紀元6年から9年にかけてのシリア総督です。この人が、ローマ皇帝のもとでシリアとユダヤを治めていて、人口調査を命じたのです。そのためにヨセフとマリアは、出産が間近いというのに長旅に出なければなりませんでした。
私たちは一人一人、生まれも育ちも違います。熊本で生まれた人もいれば、よそから転勤や結婚によって引っ越して来た人もいます。そういう一人一人の人生は、決して自分一人で決められるものではないのだと思います。この後に出てきますヨセフとマリアと同じように、世界の情勢、歴史の中のいろいろな出来事と深く関係しています。戦争があったり、災害があったり、国が栄えたり衰退したり、その中で一人一人は人生を歩みます。あの時、こうしていたらということはありますが、うまくゆきません。しかし、その一人一人の人生もまた神様の深いご計画の中に置かれていることです。
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2節に「シリア総督キリニウスによる最初の人口調査」とあります。ローマ帝国の勅令を背景に、現地の総督の命令によって人口調査がはじめられました。人口調査は税金や労役、徴兵などの基礎資料をつくるために行われます。支配者たちにとっては、自分の持つ支配地域の有様を知るためのものであり、重要なものでした。人口調査には時の権力がむき出しになっているのだと思います。
マリアの婚約者であったヨセフは、ダビデの家に属するものと書かれています。ダビデ王は、もともとはベツレヘムの羊飼いエッサイの末の男の子でした。ダビデは、後にイスラエルの王に就きます。ベツレヘムはダビデの出身地、故郷ですからダビデの町と呼ばれています。ルツ記の舞台もこのベツレヘムです。ルツ記が旧約聖書におさめられているのは、主人公のルツの死んだ夫がベツレヘム出身であって、そしてその故郷に帰ってきたナオミがボアズと結婚し、その孫が、ダビデの父エッサイであったからです。
クリスマスには、つぎのようなフレーズが、よく語られます。「イエス・キリストは、王侯貴族の宮殿ではなく、ベツレヘムという名もない村にお生まれになった。」
けれども、私たちはよく注意しなければならないと思うのですが、ベツレヘムは決して名もない村ではなくて、旧約聖書に親しんでいるはずのユダヤ人ならば知らないはずのない町、「ダビデの町」でありました。旧約聖書のミカ書5章に、救い主、メシアはダビデの町であるこのベツレヘムから出ると預言されていました。由緒あるこの町で主イエス様が生まれたことは、旧約聖書の預言の実現なのです。
ローマ皇帝やシリア総督という旧約聖書とは無関係ない偉い人の人口調査という企てが、聖書のみ言葉が歴史の中で実現していくための重要な働きをしています。貧しい若夫婦であったヨセフとマリアはその人口調査のお陰でベツレヘムに行きました。
今朝一箇所だけ開いていただく聖書の箇所です。ミカ書5章1節から4節をお読みします。旧約聖書の1454ページです。
1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
5:2 まことに、主は彼らを捨ておかれる/産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は/イスラエルの子らのもとに帰って来る。
5:3 彼は立って、群れを養う/主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり/その力が地の果てに及ぶからだ。
5:4 彼こそ、まさしく平和である。
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人口調査にあたりヨセフは、ダビデの家系のものでしたから、ナザレからは80キロ近くの道のりを旅してベツレヘムへ行きました。身ごもっている、いいなづけのマリアがこの80キロもの旅に同行することは、当時としては決して普通のことではありません。登録は、代表者であるヨセフ一人が行けばよいことでありました。しかし、マリアは、たとえ、両親や親戚が面倒を見てくれるとしても、一人ナザレに残ることが出来ませんでした。どうしてかと言いますと、人々から冷たい視線を浴びていたからです。正式な結婚の前に妊娠したからです。生まれてくる子が、実はヨセフとマリアの間の子ではなく、聖霊によって、神様の力で、救い主として生まれるもの、いと高き方の子、つまり神の子であるということは村の誰もが知らないことです。ヨセフとマリアだけが知っていました。ヨセフは、告発しなかったし、結婚も取りやめることはありませんでした。普通であれば、マリアは、姦淫罪で死刑です。マタイによる福音書では、ヨセフにも天使のお告げがもたらされていました。人口調査をきっかけに2人は、一緒に村を出て、ベツレヘムに旅立ちました。
そういうわけでヨセフとマリアとは旅先で臨月を迎えることは、ある程度予測していたと考えられます。ベツレヘムへの旅は一週間程度で終わるとしても、大混雑の中で登録に時間がかかることは予測できました。
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クリスマスの降誕劇などには、ヨセフとマリアがベツレヘムにやっと到着して、宿を探す、そうこうしているうちにマリアに陣痛が始まるというような場面が良く見られます。演出としてはドラマティックですが、これは聖書の伝えることと少し違います。6節をもう一度お読みします。
6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
「ベツレヘムにいるうちに」です。
ベツレヘムに到着し、恐らく大勢の人が帰ってきていて、住民登録のためにたぶん一か月二か月と順番を待っているその中に彼らもいました。7節の「宿屋」と訳されている言葉も、もとの言葉では、きちんとした宿屋ではなくて仮住まいの小屋、今で言えば、ちょうど大災害のときの避難所や仮設住宅のような場所を指す言葉です。単純に「部屋」と訳している聖書もあります。おそらく、大勢の人がそういった急ごしらえの臨時宿泊所に泊まっていたのだとおもわれます。しかし、マリアは陣痛が始まり、大勢の人の前で出産するわけには行かない、そこで急遽、近くの家畜小屋に入っていったということだろうと思います。これを使うように配慮してくれた家主の暖かい思いが伝わってきます。
ヨセフとマリアは、確かにあわてたと思いますし、心配だったと思います。しかしベツレヘムの人々の温かい配慮の中で無事に赤ちゃんを産みました。主イエス様は、間違いなく、労苦している人、重荷を負っている人の味方です。わたしたちの人生の境遇と言うものを考えてみますと、大げさないい方かもしれませんが、どんな人も実は界史的な出来事の中で生きていることは間違いありません。今私たちが、この日本という国の熊本の地で生活しているということにも、世界の歴史がかかわっているのです。もしかしたら、私たちの父や母が外国に出てゆくようなことがあり、私たちがそこで生まれたならば、あの中国残留孤児のように、まったく別の人生が待っていたことでしょう。
このようなわけで、歴史を支配しておられる神様の大きなご計画、預言者にあらかじめ示されていたとおりに、主イエス様は生まれてこられました。ミカ書の預言のとおりにダビデの町で、しかも、イザヤ書11章1節の預言のとおり、エッサイの根から萌え出るダビデの家系の子としてお生まれになりました。
羊飼いたちが確かに聞いた天使の歌声は「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」であったと14節に記録されています。
この天使たちの讃美は、こののちにイエス・キリストと言うお方が、この世界に来たらして下さる「救い」を賛美する歌であります。真の神が崇められること、そして人々の言葉も思いも、すべてが神の御心に適うものとなること、地上のすべての場所に平和、平安があること、これらをもたらすためにイエス・キリストはお生まれになられました。
このことが実現するまでに、皇帝アウグストゥスと総督キリニウスによる人口調査の企てがありました。ローマの国力を誇示し、支配をいっそう徹底するための権力者の計画が、預言の成就のために用いられたことをここに見ることが出来ます。さらに、マリアに対するヨセフの思いやりと生まれてくる子供への配慮がここには大きな役割を果たしました。
このことに関わっている一人一人は、決して、メシアの誕生が預言どおりに実現するために意識してこれらのことを行ったのではありません。しかし、全てのことが組み合わされ、予期しない仕方であったかも知りませんが、それらは確かに用いられて、神様の御心が約束どおりに果たされました。その中心におられるお方こそが飼い葉おけに寝かされている幼子イエス・キリストというお方です。
主イエス様のお誕生には、とてつもなく大きなことから、ほんのちょっとした思いやりの心まですべてがかかわっています。今日、私たちはこの熊本教会のクリスマスの礼拝に出席しています。このことのためには、私たちを取りまく実にいろいろなことが関係していることに思いをはせたいものです。それは、私たちを愛し、憐れんでくださる神様の御手の中で起こっていることではないでしょうか。
クリスマスの恵みは、人間世界の罪の悲惨の完全解決への道が開かれたということです。神の子でありつつ人の子としてお生まれなった主イエス・キリストは、そのことを成し遂げられるためにお生まれになりました。今、ここにおりますわたしたちは、このお方が与え下さる罪の赦しと永遠の命というクリスマスの恵みにあずかることが出来ます。信じるものの救いのため一つとして無駄になることはない、このことを信じましょう。起こり来る全てのことがらの背後に主の深いご計画、恵みのご計画がある、そのことを覚えようではありませんか。お祈りをささげます。
祈り
神様、あなたに深い配慮の中で、救い主である主イエス・キリストはお生まれになりました。あなたの永遠のご計画が一つ一つ間違いなく実現して行くことを覚えて感謝をいたします。コロナの災いもまたあなたの御手の内にあります。大それたことではなく、小さな、小さなことの積み重ねの中であなたは御心を実現されるお方であることを覚えさせてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。