聖書の言葉 ヨハネによる福音書 7章37節~44節 メッセージ 2022年11月27日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書7章37節~44節「渇く人に潤いを」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 今朝の説教題は「渇く人に潤いを」と致しました。今朝のみ言葉の中で、主イエス様がこうおっしゃられたからであります。37節の後半です。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」 中東の砂漠の中を旅する人にとって、水は決して欠いてはならないもの、命に関わる者であります。蒸し暑い日本の夏においても、水分補給が出来なければ熱中症になり時には死に至るということも現実に起こっております。わたくしたちが、暑さの中でコップ一杯の水を飲んだ時、生き返ったような気がするということは本当のことであります。渇く人にとって水を飲むことは命を守ることでもあります。 けれども、ここで主イエス様が下さるものは、実際の水ではありません。そうではなく、主イエス様は、渇いた魂、霊的な意味で命の危機にある人に、命の糧をあくださるのであります。あたかも渇く人に十分な水が与えられるように癒しと救いとを与えてくださるのであります。 実は、今朝の説教題の候補がもう一つありまして、それは「生きた水を与えるイエス」というものでした。けれども、御言葉をつぶさに読みますと、直接には、「主イエス様が生きた水を与えられる」と書かれているわけではないということが分かりました。それで「渇く人に潤いを」といたしました。 37節後半と38節にあります主イエス様の御言葉をもう一度お読みしますのでお聞きください。 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 確かに、主イエス様は、「わたしのところに来て、飲みなさい」と言っておられますので、主イエス様はここでは水、あるいは何かのみものを下さるのだろうということは想像できます。けれども、「主イエス様が生きた水を与える」という直接の言葉はないのですね。実は「生きた水を与える人」は、ここでは主イエス様ということではありません。そうではなくて、その水、あるいは水とも直接に書いてありませんから、何かを主イエス様から与えられた人、その人が水を出す、水を与えるようになると言うのです。主イエス様のところに来て、主イエス様を信じる人が、生きた水を流し出すようになる、それも川のように流れ出るようになると約束されております。 38節で、川と訳されている言葉は複数形です。何本もの川というように訳している聖書もあります。主イエス様を信じる人は、もう、その人のうちから生きた水が何本もの川のように流れ出すのだ、こう言う約束であります。ここでは流れるようになるという言葉は、聖書のもとの言葉では未来形であります。これから先のある時点になると、そう言うことが起こる、起こるようになるのです。 つまりこの仮庵祭の時点においては、主イエス様を信じるものが、誰でも、その内側から、つまり体から、おなかから、あるいは心のうちから、生きた水が何本もの川となって流れ出るのは、まだ先のことであります。しかしそのことは主イエス様の約束、宣言としてここに記されているのです。それが起こるのは、いつでしょうか。それは主イエス様が十字架にお掛かりになり、罪の赦しの福音が実現し、そして使徒言行録2章に書かれている聖霊降臨というペンテコステの出来事が成し遂げられて以降のことであると言わなければなりません。主イエス様が、この御言葉を語られた時は、まだ主イエス様が地上でのお働きをなさっている時でありました。39節に主イエス様の栄光の時はまだきておらず、霊、聖霊も降っていなかったという聖書記者ヨハネの解説があります。しかし、今のわたしたちにおいては、そのことがすべて成し遂げられています。 今朝、わたしたちは主イエス様において生きる神、まことの神を礼拝するために信仰の心を持ってここに集ってきています。そのように主イエス様のところに来て、主イエス様を信じる人は皆、自分の中から、生きた水を周囲に流し出すものとなると言うことであります。 今、みなさんの中で、お腹に手を当てた人は、おられるでしょうか。えっ、本当にわたしから生きた水が流れ出しているだろうかと疑っていても仕方がありません。目に見えることではなく、確かに、そのことは霊的な意味では起こっていることなのです。 39節には、信じる人が受けるのは霊であるとはっきりと書いてあります。 「39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」 聖霊によって神さま主イエス様を信じるように心が変えられた人は、必ず、その人の内側から、この世界の飢え渇き、一人一人の飢え渇きを潤すように生きた水が何本もの川になって流れ出すようになります。いや、今この瞬間にもそのことが起きています。ほんとうに素晴らしいことではないでしょうか。 2、 熊本に参りましてから、つくづくありがたいと思うことの一つは、水がおいしいということであります。水道の水がおいしいのです。聞くところによりますと熊本市の水道水は100%地下水であって、滅菌用の塩素の量は最低レベルに抑えられているそうであります。わたくしは、毎朝、起き掛けにコップ一杯の水を飲みます。大阪や神戸では一度沸かした水を一晩おいて冷ましたものを飲んでいましたが、熊本に来てからは、水道水をそのまま飲んでもおいしいということが分かって感謝しています。 地下水の豊かな熊本市では、地下鉄の建設が困難だという話も聞きましたが、そういった問題があっても、毎日、阿蘇の天然水をただ同然で飲むことができることは幸せなことであります。 日本のように、雨が多い、水には不自由しない国でありましても、水は大切なもの、神さまと関係があるもととして位置付けられてきました。まして、イスラエルのような乾燥している地域では、水はどれほど貴重なものであったことでしょう。 37節に、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」と書かれています。この祭りは、7章2節に「ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた」とありますように、仮庵祭という秋の祭りでした。仮庵はテント、幕屋、仮小屋というような言葉です。かつてイスラエルの人々は40年間荒れ野をさまよい、仮庵、つまり幕屋、テントにすんで不便な生活を送りました。そしてそこから約束の地、カナンの地に入って町を造り、きちんとした家に住むことが出来るようになりました。仮庵祭はその神様の恵みとかつてのつらい出来ごとを改めて思い起こす祭りです。そしてこの仮庵祭は秋の祭りであり、収穫感謝と翌年の豊作祈願の祭りでもありました。さらに大切なことは、この祭りが雨乞いの祭り、水の祭りであったと言うことです。 パレスチナでは、この祭りが終わって、冬に入るころに大量の雨が降ります。冬のはじまりと春先、春の雨、秋の雨という二回の雨季の内でも重要な雨の季節です。この時の雨が十分でないと、その年の収穫は大きな打撃を受けるのです。そこで秋に行われる仮庵の祭りでは、祭りのクライマックスに雨乞いの祈りを捧げました。 孫引きで申し訳ないのですが、元東京恩寵教会牧師の榊原先生が引用しておられるミシュナ―というユダヤ教の資料からこの雨乞い祭りの様子を見てみたいと思います。 祭りは七日間続きますけれども、この七日の間、毎朝、祭司を先頭にして巡礼の行列が神殿の中を巡るそうです。人々は、棕櫚(しゅろ)の枝を束ねたものと、レモン、シトロンというよい香りのする果実の枝を持っています。それは仮庵、つまり幕屋を造る材料と季節の収穫のシンボルだとされます。行列は神殿を出て、500メートルほど南に降ったところにあるギホンの泉まで下り、そこで一人の祭司が金の容器に水を満たします。そして行列は再び神殿に帰ってきます。そして祭壇のところに来ると祭壇の隅にあるラッパのかたちをしたところにその水を注ぎ込みます。この水は、そこから地下にしみ込んでゆきます。当時の信仰では、この水は地下深くの大地の淵にまで達して、そこから天に移って行き、神さまが秋の雨を降らせるようにして下さるとされていました。 祭司が、ギホンの泉から水を汲む時には、一同は、イザヤ書12章2節3節の御言葉を歌うようにして唱えたそうです。 「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなって下さった。あなたたちは喜びの内に泉から水を汲む」 そして水の満たされた黄金の壺を先頭にハレルヤハレルヤと歌いながら神殿に帰ったと言われます。 3 主イエス様は、この雨乞いの祭りの最終日に、人々の前に仁王立ちになって、高らかに叫ばれました。 「「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 神様が下さる水、それは確かに貴重なもの、素晴らしいものであるけれども、その水を与える源である生ける神であるお方主イエスご自身が今、このように約束されるのです。 この渇いている者というのは、肉体の水不足、乾燥による渇きではありません。霊的な飢え渇きであります。この世界には確かに水があり私たちの必要を満たしてくれます。この日本という国は特に水が豊富であり、まさに湯水のように水を使っています。しかし、その豊かな水を持ってしても、決して癒すことが出来ない渇きがあるのです。それは霊的な渇き、心の飢え渇きです。人間の罪、わたしたちの小さな生活の営みの中で繰り返される葛藤や争いです。そこから来る苦しみはどうすればいやされるでしょうか。 わたしたちの心を不安にさせ、心全体を暗く覆うような罪の感覚、将来への不安、あるいは、わたしたちが日常の生活において、思わず口に出した言葉による過ち、醜い心の思い、愛のない渇いた心はどうすれば平安になるのでしょうか。潤されるのでしょうか。 それはただ一つ、私たちの罪の赦しが自分の力によってではなく、神さまの恵みによって与えられることです。独り子である主イエス様の十字架によって完全に救われ癒されることです。 神様の愛を信じること、主イエス様ご自身を信じることです。主イエス様は、わたしたちの心に聖霊の恵みを満たして下さいます。主イエス様の十字架は、わたしたちに対する罪の裁き、神さまの怒りを完全に解決されます。そして、主イエス様によってわたしたち自身がうるおされ、癒されるのです。それだけでなくて、わたしたち自身からも、生ける水が何本もの川のようにほとばしり出て、まわりの人々を、周囲の小さな世界を潤します。そのことが世界全体において恵みとして現れ、それは信じられないような大きな力になるのです。 主イエス様のこの宣言の言葉を聞いて人々は、「この人は本当にあの預言者だ」あるいは「メシアだ」と言いました。 あの預言者とは、旧約聖書の申命記18章15節で預言された、荒れ野で民を救ったモーセのような預言者のことです。神様は、やがて時満ちてモーセのような、いやモーセ以上の預言者を与えると約束しておられました。主イエス様こそ、その人だと人々は賛美したのです。 旧約聖書詩編78編15節16節にこう書かれています。 神様は「15 荒れ野では岩を開き/深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。16 岩から流れを引き出されたので/水は大河のように流れ下った。」 イスラエルの民が荒れ野をさまよっていたとき、神様は天からマナという不思議な食べ物を降らせました。またそればかりでなく、モーセに命じて、岩を叩かせ、そこから水がほとばしり出るようにして下さいました。この詩編では、その水は大河のようになって荒れ野全体がうるおされたと歌われています。この岩こそ主イエス・キリストその人を預言していたのです。新約聖書コリントの信徒への手紙十章四節にこうあります。 「4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」 4、 さて、聖霊によって心が変えられ、主イエス様に結ばれた人は、その内側から生きた水が川のように流れ出ると言われています。この生きた水という表現に注目したいと思います。生きた水とは死んだ水、つまり腐ってしまって飲めなくなってしまった水ではないということですけれども、それ以上に、動きのあると言う意味でもあります。どんよりとたまっているたまり水ではなく、勢いよくほとばしり出ているまさに走り井のような水です。 しかし、やはりそれだけではないとわたくしは思わされています。走り出すような勢いがあったとしても、しかし水は水であり、そこには命はありません。生きているわけではありません。生きた水とは、やはり霊的なことであると言わなければなりません。 教会は、自らがただ潤っている、心地よい交わりを楽しんでいると言うだけでなく、必ず周りの人に影響を与えるべきものです。生きた水を周囲にも与える存在だと言うことです。クリスマスが近づいています。人々を教会にお招きしたいと思います。もちろんそれだけでなく、その人達が主イエス・キリストのもとに来て、霊的な恵みをいただくことが出来る、それがわたしたちの願いであります。 受けるばかりで出さないなら災いです。阿蘇の伏流水の源は、阿蘇の外輪山一体に降り注ぐ雨ですが、それは昨日降った雨と言うわけではなく、何年、何十年もかかって地下に染みこんでたくわえられたものです。その水は常にいたるところで湧き出し、あるいは汲み上げられて、使われることによって、常に循環しています。一方。イスラエルにある死海にはヨルダン川が流れ込んでいますが、あまりに死海の水面が低いのでそこから流れ出す川は一つもありません。そこで死海は湖でありながら塩の海となり、人がその水を飲むことも出来ません。またヨルダン川上流のガリラヤ湖と違って、魚一匹でさえ済むことが出来ない死の湖になっています。 主イエス様を信じる人は、そうではありません。教会は、生きた川が流れだすように、そこから福音を世の人々に分け与え伝えるのです。そのことによって自分自身ももっともっと主イエス様から恵みを受け続けることが出来るのです。 ここで主イエス様のもとに来て、飲みなさいと招かれているのは渇いた人です。自分は神様なんかなくても大丈夫、自分の力でやってゆけるという人、自信満々の人は、主イエス様の下さる聖霊の水が入ろうとしても入ることが出来ないでしょう。しかし、わたしたち人間の本当の姿は、それほど強いものなのでしょうか。あると思っていたものはなくなり、持っていると思うものは失われるのではないでしょうか。この世のものに永遠というものはないのです。 私たちには想像できない仕方で、神様は人々に渇きを自覚させて下さり、生ける水を求めるものとして下さいます。 主イエス様もエルサレム神殿で人々をお招きになりました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 私たちもまた、人々をお招きしようではありませんか。わたしたち自身も主イエス様からよいものを受け続け、与えられて、それを周囲の家族やあの人この人に注ぎ続けて行こうではありませんか。祈りをささげます。 父なる神様、あなたの尊い御名を讃美します。あなたはわたしたち一人一人に聖霊を注いで下さり、悔い改めとあなたと御子イエス・キリストへの信仰を与えてくださったことを感謝します。生きた水を注がれたわたしたちです。そしてその生きた水をもって世を潤し、この世界をあらゆる渇きから解放する働きに生きていくことが出来ますようお願いします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
2022年11月27日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書7章37節~44節「渇く人に潤いを」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
今朝の説教題は「渇く人に潤いを」と致しました。今朝のみ言葉の中で、主イエス様がこうおっしゃられたからであります。37節の後半です。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」
中東の砂漠の中を旅する人にとって、水は決して欠いてはならないもの、命に関わる者であります。蒸し暑い日本の夏においても、水分補給が出来なければ熱中症になり時には死に至るということも現実に起こっております。わたくしたちが、暑さの中でコップ一杯の水を飲んだ時、生き返ったような気がするということは本当のことであります。渇く人にとって水を飲むことは命を守ることでもあります。
けれども、ここで主イエス様が下さるものは、実際の水ではありません。そうではなく、主イエス様は、渇いた魂、霊的な意味で命の危機にある人に、命の糧をあくださるのであります。あたかも渇く人に十分な水が与えられるように癒しと救いとを与えてくださるのであります。
実は、今朝の説教題の候補がもう一つありまして、それは「生きた水を与えるイエス」というものでした。けれども、御言葉をつぶさに読みますと、直接には、「主イエス様が生きた水を与えられる」と書かれているわけではないということが分かりました。それで「渇く人に潤いを」といたしました。
37節後半と38節にあります主イエス様の御言葉をもう一度お読みしますのでお聞きください。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
確かに、主イエス様は、「わたしのところに来て、飲みなさい」と言っておられますので、主イエス様はここでは水、あるいは何かのみものを下さるのだろうということは想像できます。けれども、「主イエス様が生きた水を与える」という直接の言葉はないのですね。実は「生きた水を与える人」は、ここでは主イエス様ということではありません。そうではなくて、その水、あるいは水とも直接に書いてありませんから、何かを主イエス様から与えられた人、その人が水を出す、水を与えるようになると言うのです。主イエス様のところに来て、主イエス様を信じる人が、生きた水を流し出すようになる、それも川のように流れ出るようになると約束されております。
38節で、川と訳されている言葉は複数形です。何本もの川というように訳している聖書もあります。主イエス様を信じる人は、もう、その人のうちから生きた水が何本もの川のように流れ出すのだ、こう言う約束であります。ここでは流れるようになるという言葉は、聖書のもとの言葉では未来形であります。これから先のある時点になると、そう言うことが起こる、起こるようになるのです。
つまりこの仮庵祭の時点においては、主イエス様を信じるものが、誰でも、その内側から、つまり体から、おなかから、あるいは心のうちから、生きた水が何本もの川となって流れ出るのは、まだ先のことであります。しかしそのことは主イエス様の約束、宣言としてここに記されているのです。それが起こるのは、いつでしょうか。それは主イエス様が十字架にお掛かりになり、罪の赦しの福音が実現し、そして使徒言行録2章に書かれている聖霊降臨というペンテコステの出来事が成し遂げられて以降のことであると言わなければなりません。主イエス様が、この御言葉を語られた時は、まだ主イエス様が地上でのお働きをなさっている時でありました。39節に主イエス様の栄光の時はまだきておらず、霊、聖霊も降っていなかったという聖書記者ヨハネの解説があります。しかし、今のわたしたちにおいては、そのことがすべて成し遂げられています。
今朝、わたしたちは主イエス様において生きる神、まことの神を礼拝するために信仰の心を持ってここに集ってきています。そのように主イエス様のところに来て、主イエス様を信じる人は皆、自分の中から、生きた水を周囲に流し出すものとなると言うことであります。
今、みなさんの中で、お腹に手を当てた人は、おられるでしょうか。えっ、本当にわたしから生きた水が流れ出しているだろうかと疑っていても仕方がありません。目に見えることではなく、確かに、そのことは霊的な意味では起こっていることなのです。
39節には、信じる人が受けるのは霊であるとはっきりと書いてあります。
「39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。」
聖霊によって神さま主イエス様を信じるように心が変えられた人は、必ず、その人の内側から、この世界の飢え渇き、一人一人の飢え渇きを潤すように生きた水が何本もの川になって流れ出すようになります。いや、今この瞬間にもそのことが起きています。ほんとうに素晴らしいことではないでしょうか。
2、
熊本に参りましてから、つくづくありがたいと思うことの一つは、水がおいしいということであります。水道の水がおいしいのです。聞くところによりますと熊本市の水道水は100%地下水であって、滅菌用の塩素の量は最低レベルに抑えられているそうであります。わたくしは、毎朝、起き掛けにコップ一杯の水を飲みます。大阪や神戸では一度沸かした水を一晩おいて冷ましたものを飲んでいましたが、熊本に来てからは、水道水をそのまま飲んでもおいしいということが分かって感謝しています。
地下水の豊かな熊本市では、地下鉄の建設が困難だという話も聞きましたが、そういった問題があっても、毎日、阿蘇の天然水をただ同然で飲むことができることは幸せなことであります。
日本のように、雨が多い、水には不自由しない国でありましても、水は大切なもの、神さまと関係があるもととして位置付けられてきました。まして、イスラエルのような乾燥している地域では、水はどれほど貴重なものであったことでしょう。
37節に、「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」と書かれています。この祭りは、7章2節に「ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた」とありますように、仮庵祭という秋の祭りでした。仮庵はテント、幕屋、仮小屋というような言葉です。かつてイスラエルの人々は40年間荒れ野をさまよい、仮庵、つまり幕屋、テントにすんで不便な生活を送りました。そしてそこから約束の地、カナンの地に入って町を造り、きちんとした家に住むことが出来るようになりました。仮庵祭はその神様の恵みとかつてのつらい出来ごとを改めて思い起こす祭りです。そしてこの仮庵祭は秋の祭りであり、収穫感謝と翌年の豊作祈願の祭りでもありました。さらに大切なことは、この祭りが雨乞いの祭り、水の祭りであったと言うことです。
パレスチナでは、この祭りが終わって、冬に入るころに大量の雨が降ります。冬のはじまりと春先、春の雨、秋の雨という二回の雨季の内でも重要な雨の季節です。この時の雨が十分でないと、その年の収穫は大きな打撃を受けるのです。そこで秋に行われる仮庵の祭りでは、祭りのクライマックスに雨乞いの祈りを捧げました。
孫引きで申し訳ないのですが、元東京恩寵教会牧師の榊原先生が引用しておられるミシュナ―というユダヤ教の資料からこの雨乞い祭りの様子を見てみたいと思います。
祭りは七日間続きますけれども、この七日の間、毎朝、祭司を先頭にして巡礼の行列が神殿の中を巡るそうです。人々は、棕櫚(しゅろ)の枝を束ねたものと、レモン、シトロンというよい香りのする果実の枝を持っています。それは仮庵、つまり幕屋を造る材料と季節の収穫のシンボルだとされます。行列は神殿を出て、500メートルほど南に降ったところにあるギホンの泉まで下り、そこで一人の祭司が金の容器に水を満たします。そして行列は再び神殿に帰ってきます。そして祭壇のところに来ると祭壇の隅にあるラッパのかたちをしたところにその水を注ぎ込みます。この水は、そこから地下にしみ込んでゆきます。当時の信仰では、この水は地下深くの大地の淵にまで達して、そこから天に移って行き、神さまが秋の雨を降らせるようにして下さるとされていました。
祭司が、ギホンの泉から水を汲む時には、一同は、イザヤ書12章2節3節の御言葉を歌うようにして唱えたそうです。
「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなって下さった。あなたたちは喜びの内に泉から水を汲む」
そして水の満たされた黄金の壺を先頭にハレルヤハレルヤと歌いながら神殿に帰ったと言われます。
3
主イエス様は、この雨乞いの祭りの最終日に、人々の前に仁王立ちになって、高らかに叫ばれました。
「「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
神様が下さる水、それは確かに貴重なもの、素晴らしいものであるけれども、その水を与える源である生ける神であるお方主イエスご自身が今、このように約束されるのです。
この渇いている者というのは、肉体の水不足、乾燥による渇きではありません。霊的な飢え渇きであります。この世界には確かに水があり私たちの必要を満たしてくれます。この日本という国は特に水が豊富であり、まさに湯水のように水を使っています。しかし、その豊かな水を持ってしても、決して癒すことが出来ない渇きがあるのです。それは霊的な渇き、心の飢え渇きです。人間の罪、わたしたちの小さな生活の営みの中で繰り返される葛藤や争いです。そこから来る苦しみはどうすればいやされるでしょうか。
わたしたちの心を不安にさせ、心全体を暗く覆うような罪の感覚、将来への不安、あるいは、わたしたちが日常の生活において、思わず口に出した言葉による過ち、醜い心の思い、愛のない渇いた心はどうすれば平安になるのでしょうか。潤されるのでしょうか。
それはただ一つ、私たちの罪の赦しが自分の力によってではなく、神さまの恵みによって与えられることです。独り子である主イエス様の十字架によって完全に救われ癒されることです。
神様の愛を信じること、主イエス様ご自身を信じることです。主イエス様は、わたしたちの心に聖霊の恵みを満たして下さいます。主イエス様の十字架は、わたしたちに対する罪の裁き、神さまの怒りを完全に解決されます。そして、主イエス様によってわたしたち自身がうるおされ、癒されるのです。それだけでなくて、わたしたち自身からも、生ける水が何本もの川のようにほとばしり出て、まわりの人々を、周囲の小さな世界を潤します。そのことが世界全体において恵みとして現れ、それは信じられないような大きな力になるのです。
主イエス様のこの宣言の言葉を聞いて人々は、「この人は本当にあの預言者だ」あるいは「メシアだ」と言いました。
あの預言者とは、旧約聖書の申命記18章15節で預言された、荒れ野で民を救ったモーセのような預言者のことです。神様は、やがて時満ちてモーセのような、いやモーセ以上の預言者を与えると約束しておられました。主イエス様こそ、その人だと人々は賛美したのです。
旧約聖書詩編78編15節16節にこう書かれています。
神様は「15 荒れ野では岩を開き/深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。16 岩から流れを引き出されたので/水は大河のように流れ下った。」
イスラエルの民が荒れ野をさまよっていたとき、神様は天からマナという不思議な食べ物を降らせました。またそればかりでなく、モーセに命じて、岩を叩かせ、そこから水がほとばしり出るようにして下さいました。この詩編では、その水は大河のようになって荒れ野全体がうるおされたと歌われています。この岩こそ主イエス・キリストその人を預言していたのです。新約聖書コリントの信徒への手紙十章四節にこうあります。
「4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」
4、
さて、聖霊によって心が変えられ、主イエス様に結ばれた人は、その内側から生きた水が川のように流れ出ると言われています。この生きた水という表現に注目したいと思います。生きた水とは死んだ水、つまり腐ってしまって飲めなくなってしまった水ではないということですけれども、それ以上に、動きのあると言う意味でもあります。どんよりとたまっているたまり水ではなく、勢いよくほとばしり出ているまさに走り井のような水です。
しかし、やはりそれだけではないとわたくしは思わされています。走り出すような勢いがあったとしても、しかし水は水であり、そこには命はありません。生きているわけではありません。生きた水とは、やはり霊的なことであると言わなければなりません。
教会は、自らがただ潤っている、心地よい交わりを楽しんでいると言うだけでなく、必ず周りの人に影響を与えるべきものです。生きた水を周囲にも与える存在だと言うことです。クリスマスが近づいています。人々を教会にお招きしたいと思います。もちろんそれだけでなく、その人達が主イエス・キリストのもとに来て、霊的な恵みをいただくことが出来る、それがわたしたちの願いであります。
受けるばかりで出さないなら災いです。阿蘇の伏流水の源は、阿蘇の外輪山一体に降り注ぐ雨ですが、それは昨日降った雨と言うわけではなく、何年、何十年もかかって地下に染みこんでたくわえられたものです。その水は常にいたるところで湧き出し、あるいは汲み上げられて、使われることによって、常に循環しています。一方。イスラエルにある死海にはヨルダン川が流れ込んでいますが、あまりに死海の水面が低いのでそこから流れ出す川は一つもありません。そこで死海は湖でありながら塩の海となり、人がその水を飲むことも出来ません。またヨルダン川上流のガリラヤ湖と違って、魚一匹でさえ済むことが出来ない死の湖になっています。
主イエス様を信じる人は、そうではありません。教会は、生きた川が流れだすように、そこから福音を世の人々に分け与え伝えるのです。そのことによって自分自身ももっともっと主イエス様から恵みを受け続けることが出来るのです。
ここで主イエス様のもとに来て、飲みなさいと招かれているのは渇いた人です。自分は神様なんかなくても大丈夫、自分の力でやってゆけるという人、自信満々の人は、主イエス様の下さる聖霊の水が入ろうとしても入ることが出来ないでしょう。しかし、わたしたち人間の本当の姿は、それほど強いものなのでしょうか。あると思っていたものはなくなり、持っていると思うものは失われるのではないでしょうか。この世のものに永遠というものはないのです。
私たちには想像できない仕方で、神様は人々に渇きを自覚させて下さり、生ける水を求めるものとして下さいます。
主イエス様もエルサレム神殿で人々をお招きになりました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
私たちもまた、人々をお招きしようではありませんか。わたしたち自身も主イエス様からよいものを受け続け、与えられて、それを周囲の家族やあの人この人に注ぎ続けて行こうではありませんか。祈りをささげます。
父なる神様、あなたの尊い御名を讃美します。あなたはわたしたち一人一人に聖霊を注いで下さり、悔い改めとあなたと御子イエス・キリストへの信仰を与えてくださったことを感謝します。生きた水を注がれたわたしたちです。そしてその生きた水をもって世を潤し、この世界をあらゆる渇きから解放する働きに生きていくことが出来ますようお願いします。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。