2022年11月06日「神の人、イエス」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 7章14節~24節

メッセージ

2022年11月6日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書7章14節~24節「神の人、イエス」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 今朝のみ言葉の最後のところですが、24節の御言葉をもう一度お読み致します。

「24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

この裁きと言いますのは、裁判と言うことではなく、判断する、決定するということです。わたくしたちは、日常生活におきましては、様々な判断をしなければならないということが多くあります。私たちの人生や社会を導く様々な教えや、それを教えている人物について、それが正しいことであり受け入れるべきことか、そうでないことか、わたくしたちは見定めなければなりません。主イエス様が、今朝、わたくしたちに命じておられることは、その時に、うわべだけ、外形的なことだけによるのではなく、正しい判断、裁きをしなさいと言うことであります。

もちろん、このことは日常生活のルール、知恵として神様の前に正しいことです。旧約聖書サムエル記上16章7節で、神様は預言者サムエルにこう言われました。「人は目に映ることを見るが、主その心によって見る」。この時、サムエルは、サウル王に代わる次のイスラエルの王となるべき人物に油を注がなければなりませんでした。神様は、人を外見で判断せず人物全体、特に心を見なければならないと言われたのです。この時主なる神様が示されたのは一番下の弟、羊飼いのダビデでありました。

しかし、ここで主イエス様が、「うわべだけで裁くな」と言われたのは、特別の意味があります。主イエス様は、わたしたちの人生における知恵としての普遍的な判断基準について言われたのでなく、このとき主イエス様の周りに集まっている特定の群衆に対して言われたのです。あなたがたは、わたしを誰と思うのか、判断するのかということであります。「24 うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

このとき、エルサレムにはすでに主イエス様についてのいろいろなうわさが広まっておりました。この時点のユダヤ人たちにとってイエスという人をどう見るのか、それは大問題でありました。なぜならば、主イエス様が、春の過ぎ越しの祭りのときに、38年間病気で歩くことが出来なかった人をご自身の御言葉によって立ち上がらせるという著しいしるしを行ったからでした。さらに、ガリラヤでは役人の息子を癒し、最後には、5千人の群衆を五つのパンと二匹の魚をもって養われたことが知れ渡っていたからです。また、その教えに多くの人々がひきつけられていたためでもありました。

主イエス様について仮庵祭に集まっている群衆がイエス様を「うわべで判断する」ということはどういう意味でしょうか。このとき主イエス様は、このとき不思議な奇跡、しるしを行って人々を助ける超能力を持っているに違いない人として見られています。

五千人養いの奇蹟を経験した人は、主イエスこそ、我々の王となるべき人だと判断しました。そして主イエス様を先頭に立ててエルサレムに上ろうとしました。また、主イエスの肉の兄弟、弟や妹たちは、今こそ、エルサレムに行って名を上げるべき時だと言いました。しかし、主イエスご自身は、これらを拒否なさってその人たちの言うとおりになることはなさいませんでした。

ユダヤ当局の指導者たちと一般の群衆とでは意見が分かれています。群衆は、主イエス様を神の力を持つ人見る人、そうではなく、悪霊,悪鬼に取りつかれた人と見ました。ユダヤ教の当局者である祭司たちやファリサイ派は、このとき主イエス様について180度違う見方をしていました。彼らは、主イエス様を排除し、殺さなければならないと考えていました。なぜなら、主イエス様に救い主の権威を認めて従おうとする人々が多くなることを、ユダヤ教の神殿当局者達は最も恐れていたからです。自分たちの地位や立場が脅かされる恐れです。同時に、主イエス様が特別な緊急事態でもないのに、安息日に癒しの業を行っては、何らはばかるところがなかったからでした。彼らにとってはモーセ律法の安息日規定は非常に大切な掟であり、そして、掟・律法を守ることこそ救いの条件であったからです。半年前の過ぎ越し祭の終わりに位置しています5章18節には、ユダヤ人たちは主イエスを殺そうと狙うようになったと書かれています。その主イエス様が、この仮庵の祭りに姿を現わしたのです。

2、

 仮庵の祭りは当時のエルサレム神殿の最大の祭りです。昔エジプトから逃れたイスラエルの民が荒れ野で仮の小屋、天幕のようなみすぼらしい家に住んで苦労した、そのことを思い起して神に感謝を捧げることが仮庵の祭りの意味でした。秋の収穫の祭りであり、収穫を終えて農閑期に入った多くの巡礼客がエルサレムに集まります。もちろん神殿にも沢山の人が入っていました。主イエス様は、この時、ひそかに、自分が誰であるのかを悟られないようにして神殿に入り、人々を教え始められたのでした。たとえ命の危険があっても、主イエス様は、神の御子であり、また神がお遣わしになった「神の言葉」として天の父なる神の御心を現わさなければならなかったからです。

人々は主イエスの教えを聞いて驚いたと書かれています。彼らは言いました。「この人は、どうしてこんなに聖書をよく知っているのか」。当時、ユダヤ教の教師達はラビと呼ばれて、人々に聖書を教えました。聖書と言いましても、まだ当時は、新約聖書は書かれていませんから、旧約聖書です。新約聖書の主人公の一人であるパウロという人もそうですけれども、当時は、律法学者、つまり聖書の専門家をめざす人は、必ずラビ・アキバとか、ラビ・シャンマイというような評価の定まった先生の流れにある有名な教師たちの弟子となって学ぶことが決まりでした。15節で「学問をしたわけでもない」と訳されている言葉は、「誰かの弟子になっていない」と言う言葉です。主イエス様は自分が一体だれの弟子であるのか、いっこうに語られなかったのです。

当時のラビたちは、口を開けば、自分はガマリエルのもとで学んだとか、ラビ何とかはこう言っていると言って語ったからです。今でいえば、わたしは神戸改革派神学校で学びましたとか、有名な神学校に留学しましたと言うようなことです。当時は、聖書を学ぶということは、必ず、誰かの弟子になることを意味していたのです。ところが主イエス様は違うのです。そして、「わたしの教えは、自分の教えでもなければ、有名な○○先生の教えでもない、わたしは神からの教え、わたしを遣わされた方の教えを直接語っている」とはっきりと言われました。これは当時の人々にとって驚くべきことでした。それでいて、その教えは素晴らしい、次々と主イエス様はご自分から出る言葉で、人々を教えられたのです。

わたしたちは、聖書というものは「神の言葉」であると信じています。もちろん、神さまが直接書いたと言うことではなく、そこには人が用いられました。モーセが用いられ、ダビデが用いられ、イザヤやエレミヤと言った預言者が用いられました。そのようにして書かれた聖書をユダヤ教の歴史の中では、有名な先生達が解釈し、教え相互の関係や生活への適用を教えていました。この働きをするのはあくまで人間であります。しかし、主イエス様は、神の御子として、神ご自身としてここでは直接人々を教えられたのです。

そして、神ご自身が主イエス様によって語られているということが、人々に必ず分かる、人々が神の御心を行おうと願う人なら、そのことが分かるはずだと言うのです。17節にこう書かれています。

「17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」

どうしてわかるのでしょうか。わたしたちは、ここには、神様の御心を行おうとするものに働く聖霊のお働きというものがあるのです。御霊に導かれて、神に従う思いを与えられた人が、主イエス様の言葉を聞くなら、これが神の言葉であると分かる、そのような聖霊のお働きです。それは私たちが聖霊に導かれて、信仰を与えられて聖書を読むならば、これは神様の言葉と確信させられるということと重なることであります。

3、

説教準備をしながら痛感することは、ヨハネによる福音書の奥深さであります。神学的であると同時に神秘的です。暗い影を投げかけているそのただ中で、一層主イエス様の光が輝きだす、それがヨハネによる福音書の特質です。一筋縄では行かない福音書だなあという思いを抱くのです。

 14節から24節まで、イエス様の言葉と群衆の言葉とが二度にわたって交互に記されます。ところがこれらのやり取りが、わかりにくいのですね。特に、19節の主イエスからの群衆への問いかけは、ここではいかにも唐突になされているような印象を与えます。「あなたたちは誰も律法を守らない、そしてなぜわたしを殺そうとするのか」

イエス様の言葉を聞いて、このような素晴らしい聖書の説き証しはどこから来るのかと驚嘆した群衆に向かって主イエス様は問うのです。「なぜわたしをなぜ殺そうとするのか」。それに対して群衆が「あなたは悪霊に取りつかれている」と反応する。しかし、主イエス様はそれにもひるむことなく、「わたしが安息日を守らないといって腹を立てる、それはなぜか」と問いつづけています。そして「正しい裁きをしなさい」と命じて、ここでのやり取りは終わっています。

主イエス様の教えは、素晴らしい、この人は学問もないのに、どうしてこんなことが出来るのかと称賛する群衆をつきはなすようにして主イエス様は厳しい言葉を語っておられます。実際に群衆の中には、主イエス様を殺そうとする者もいたかも知れません。しかし、ここで主イエス様は、今自分を称賛している群衆の姿を見ながら、彼らが最後には自分に刃を向け、十字架につけよと叫ぶその姿を先取りして見ておられるのではないでしょうか。「なぜ、わたしを殺そうとするのか」。エルサレムのユダヤ人たちは、指導者たちであっても、そうではない一般の群衆であっても、どちらもうわべをみて、結局は、主イエス様の本質を見ることが出来ていない、その姿が、主イエス様にははっきりと見えておりました。

 エルサレムの指導者達が主イエス様を憎むようになる要因は一つではありませんでした。しかし、明らかにきっかけになった出来事は、5章に記されている事件です。主イエス様が十戒の第四戒に定められた安息日の規定を破り、安息日に37年間寝たきりであった人を立ち上がらせ、自分の寝台ベッドを担いで歩くようにさせたことです。そして、天の神をわたしの父とお呼びなって、自分を神と同じとしたことでありました。

21節の御言葉は、このことを指しています。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。」

 その奇蹟を見て、ユダヤ教の指導者たちは、腹を立てました。しかし、主イエス様は、そのさばき、判断はうわべだけによるものだと言います。正しい裁きをしなさいと勧めた主イエス様の御言葉に、結局彼らは最後まで従いません。彼らは主イエス様を有罪とし、死刑に、それも当時の最高刑、十字架刑につけてしまうのです。

4、

主イエス様は、22節と23節で、当時のユダヤの人々が安息日に割礼をしていることを指摘しています。安息日は、モーセの律法、十戒の第四戒に規定されます。週の終わりの土曜日は、何の仕事もせずに休まなければなりませんでした。ところが、当時割礼だけは別とされていました。割礼は生まれて八日目にイスラエルの男の子に施せと命じられていました。しかし子供が生まれて来る日は安息日の八日前を避けて生まれると言うことはないので、八日目が安息日、土曜日になる子供がいたということです。しからば、一日延ばして九日目に割礼を施せばよいと私たちは思いますけれども、当時の律法学者の一致した見解は、八日目の割礼が優先するというものでした。

割礼は、族長達から始まったと主イエス様が言われた様に、実は割礼は、モーセ律法の制定以前に人々の間に広く行われていました。アブラハムの時代から神様との契約しるしとしてなされていました。その割礼が、大切な安息日であっても赦されるなら、主イエス様が37年間寝ていた人を癒して、起き上がらせることは決して違法ではないと言われたのです。違法ではないどころか、むしろ人間に安息を与える安息日にふさわしいことなのです。

ここでは主イエス様は、聖書を四角四面には読んでおられません。聖書の文言の一つ一つの言葉の背後に神の愛を見ながら読んでいます。聖書を愛の手紙として読んでいるのです。

私たちが、聖書を読むときに、聖書の最終的な著者である神、また神の御子イエス様が、このような仕方で聖書を解釈されておられることを忘れてはならないと思うのです。聖書の文言の背後にある本質、根本的な考え方に心を向ける読み方をするということです。何よりも、主イエス様というお方を通して聖書を読まなければなりません。聖書の言葉の一つ一つは、私たちに主イエス様を指し示し、神さまの愛を悟らせること、これ以外ではないからであります。

正しい判断をするということは確かに難しいことです。間違いばかりしているのがわたし達かもしれません。特にここで問題になっているのは、主イエス様というお方をどう見て、判断するのかということです。これは間違ってはならないことです。主イエス様はどんなお方なのか、これは今の時代の人々にも、投げかえられている大切な問いです。聖書を通して言われているように、私たちは主イエス様というお方を判断すべきです。そしてそこには聖霊の導きがあります。神様の愛がそこに働かれるのです。日常生活の上のさまざまな判断においては、正解が一つでないこともたくさんあります。顧みますと、実にたくさんの間違った判断をしてきたなあとも思います。けれども、私たちにとっては、神様を信じるのか信じないのか、主イエス様を信じるのか信じないのか、これが決定的に重要なことです。神様との関係、主イエス様との関係が明確であるならば、私たちが出会う多くの問題もまた、あっちへ行ったりこっちへ行ったりするかしれませんが、最終的には良いものへと変えられるのです。感謝があり、悔い改めがあり、主イエス様の愛におゆだねする信仰の判断がなされるなら、すべては益となります。神様は愛のお方であるからです。

御祈りをささげます。

祈り

天におられる父なる神、御子イエス・キリストの父なる神、御名を讃美します。主イエス様は、祭りの時、命の危険を覚えながらも、神の御心に従って神殿に入り、その祭りの半ばのとき立ち上がって、大胆に人々教え始められました。それは律法の教えではなく、神の愛の教えであったに違いありません。わたしたちは、主イエス様についてうわべだけによって判断することなく、御言葉全体が指し示すお姿に従って、主イエス様を正しく知り、信じることが出来ますようお願いいたします。主の御名によって祈ります。アーメン。