2022年10月23日「わたしの時は来ていない。」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 7章1節~13節

メッセージ

2022年10月23日(日)熊本教会朝拝説教

ヨハネによる福音書7章1節~13節「私の時はまだ来ていない」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

ヨハネによる福音書の御言葉をご一緒にお読みしています。今朝から新しい段落に入りました。今朝の個所では、主イエス様は仮庵の祭りが行われるエルサレムに上って行かれます。そして、ここから先、ヨハネによる福音書の最後まで読み進めて見ますと、19章、20章の主イエス様の十字架と復活まで、もうガリラヤの地に戻ることはありません。ヨルダン川の向こう側のベタニヤに行くことはありますが、舞台はもっぱら都エルサレムであります。主イエス様がもう一度ガリラヤの地を訪れる時は、21章、復活されたお姿で使徒ペトロにわたしの羊を飼いなさいと命じられる時であります。そういう意味で、この7章からは、主イエス様が、十字架への道を歩み始めるという意味で、新しい大きな段落に入って行きます。

わたくしは、この新共同訳聖書の区切り、小見出しを飛び越えるようにして13節までお読みしました。おやっと思われた方もおられると思います。その理由は、エルサレムでの主イエス様の新しい物語は、実際には14節から始まると考えたからです。

さて主イエス様は、まだガリラヤにおられるのですが、そこに主イエス様の兄弟たちが現れます。そして、ユダヤの祭りである仮庵祭が近づいたので、あなたはエルサレムに上って行って自分がメシア、救い主であることを、祭りに来る大勢の人たちに堂々と示すようにと主イエス様に勧めました。彼らは「自分を世にはっきり示しなさい」と強く迫っています。これに対して、主イエス様は、「わたしの時はまだ来ていない」とお答えになり、エルサレム行きを拒否なさいました。

けれども小見出しのあとの10節から13節では、主イエス様は「人目を避け、隠れるようにして」エルサレムに上って行かれるのであります。「行かない」と言われたのにもかかわらず上って行かれました。心変わりをされたのでしょうか。そうではないと思います。5節に、「兄弟たちも、イエスを信じていなかった」と記されています。ご自分を信じていない兄弟たちに対して、主イエス様もまた本心を明かすことなく、エルサレムには行かないとお答えになったのだと思います。もしエルサレムに行くと言えば、そのうわさはすぐにガリラヤやその他の地域に広まったことでしょう。

7章の初めに「イエスの兄弟たちの不信仰」と小見出しがついています。わたくしは、この小見出しに疑問を抱きました。確かに、「兄弟たちは主イエス様を信じていなかった」と書かれているのですから、「不信仰」と言う言葉が誤りとは言えないでしょう。しかし兄弟たちは、主イエス様に向かって「あなたのしている業を弟子たちに見せてやりなさい」と迫っています。主イエス様が5千人養いを始めとする力ある業を行うことができることを疑っていたのではありません。そうではなく主イエス様には、奇跡を行って人々を満足させる力があると信じていたのです。しかし、聖書は、そのような兄弟たちは、「主イエス様を信じていなかった」と明言するのです。

「兄弟たちも」と書かれています。この「も」と言う言葉が重要だと思います。もとの言葉にも明確に「もまた」と言う単語が書かれています。5千人養いの奇跡のあと、人々は、主イエス様をこの世の王にしようとして、おそらくは都エルサレムへと連れ出そうとしました。そのとき、主イエス様はどこかへ姿を隠してしまわれました。それでも人々は、なおガリラヤ湖の対岸まで追いかけて来ました。主イエス様はその人たちに言われたのです。「わたしは命のパンである、わたしの肉を食べ、血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」。この世のパンを食べても永遠の命、神の命は得られないと言われたのです。

これをきっかけに、人々はつぶやき、議論しはじめ、そしてチリジリになって去って行きました。兄弟たちもまた、その人々と同じように主イエス様の力ある業に心を向けていたのです。それは主イエス様が願っておられるような信仰ではなかったのです。

今朝、改めてわたしたちが主イエス様を救い主と信じる信仰について学びたいと思います。

2、

多くの人々が離れ去ったのちでも主イエス様はガリラヤにとどまり、この地を巡って福音を告げ知らました。7章1節をお読みいたします。

「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた」。

大勢集まっていた人々は、みな離れ去ってゆき、たった12人だけが残りました。それでもなお主イエス様と弟子たちは、これまで通りガリラヤの町々村々を巡り、しるしを行い、福音を宣べ伝えています。

わたしたちキリストの教会は、主イエス様を宣べ伝える使命を神様から頂いています。人数が多くなっても少なくなっても、その使命は変わることはありません。折が良くてもわるくても宣べ伝えるのです。千人の教会もわたしたちのような小さな教会も同じ使命に生きます。

さて、主イエス様の兄弟たちは、主イエス様の力ある業を知って、祭りのときに人々にそれを示すように迫りましたが、主イエス様は、「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃって、はっきりと拒否なさいます。しかし、その後、エルサレムに上って行かれます。

10節をお読みします。

「10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。」

主イエス様はエルサレムに上って行かれました。しかしユダヤ人たちからの迫害を避けるために、はじめは人目を避け、隠れるようにして上って行かれました。エルサレムに入ってからも、人々があの男はどこにいるのかと言われほど、目につくことがないようにしておられます。しかしある時から、これは、ある意味では大胆なことですけれども、神殿の中に入り、その姿を現わし、祭りに集まった人々に福音を宣べ伝えるのであります。その詳しい有様は、8章の終わりまでに記されています。

主イエス様がそのようにエルサレム神殿で教えていることが、神殿当局者であるユダヤ人たちにはっきり知られますと、ついに彼らは、主イエス様を殺そうといたします。8章の終りの59節にはこう書かれています。

「59 すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。」

 主イエス様は、ここで死んでしまってはならなかったのです。直ちに姿を消された、逃げ出されました。主イエス様は、兄弟たちからエルサレム行きを勧められたとき、「わたしのときはまだ来ていない」と明言されました。その姿勢を十字架の時まで貫かれたのであります。

3、

今朝の御言葉の4節に「公に知られようとしながら」という言葉があります。この「公に知られる」と訳されている言葉は、実は、13節で「公然と語る」、「公然と」と訳されている言葉と同じ言葉であります。「パレーシア」という言葉です。これは聖書では大切な御言葉です。「大胆に」とか「確信をもって」、あるいは、「はっきりと」とも訳されます。わたしたちは、わたしたち自身の信仰を周囲の人々にはっきりと知らせているでしょうか。

パレーシアの語源は「すべてを語る」です。新約聖書全体で31回使われます。この言葉はヨハネが好んだ御言葉であります。福音書では10回出ますが、その内の9回がヨハネによる福音書に集中しています。

 また新約聖書の中に多くの手紙を遺した初代教会の伝道者、使徒パウロも、エフェソの信徒への手紙3章12節で、こう語ります。「12 わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。」

ここで「大胆に」と訳されている言葉がパレ―シアです。信仰を言い表わす、あるいはそれを行動で表現するときに隠さずにそれをすることです。わたしたちは自信を持って堂々と神様に近づくことが出来る、それがキリスト者の姿であると言うのです。

 しかし、このヨハネ福音書7章では、主イエス様はパレ―シアにおいてではなく、密かに、身を隠しておられました。それは、まだ主イエス様の時が来ていなかったからであります。

私たちの信仰は、決して密かなものではありません。隠れてではなく、世の人々に公然と語るべきものです。また大胆に確信をもって実践するものです。しかし、同時に、どんなときでもそのようにしなければならないということはないと思わされます。「とき」があるのです。主イエス様が、その兄弟たちには、本心を公然と語られなかったように知恵を絞らなければならない時があります。

今朝の7章の時点では、主イエス様は、「公然と」ではなく、「密かに」行動しておられます。まだ主イエス様の時が来ていなかったからであります。けれども、その時が近づいたときには、人々の前に姿を現わされました。この後、主イエス様は10章の神殿奉献祭、冬の祭りのときに再びエルサレム神殿の中に入られます。そしてこのあとも、ガリラヤには帰らず、ベタニヤで過ごされます。そして最後のエルサレム行きは、18章、十字架の場面となります。

4、

6章で、五千人養いの奇蹟に与った群衆が、主イエス様をローマ帝国に対抗するための自分たちの王としようとしました時、主イエス様は人々から身を隠されました。しかしなおも追いかけて来た人々に言われました。あなたがたにまことの命を与えるものは、この世のパンではなく、わたしの肉と血である。しかし彼らの多くは主イエス様から離れ去って行きました。

主イエス様の兄弟たちは、主イエス様に、あなたは都エルサレムに上って行き、一度は離れて行ったあなたの弟子たちに、また世の多くの人々にも、力ある業を示せと勧めました。ローマ帝国の役人や彼らと一緒になっているユダヤの王たち、神殿の指導者たちの目の前で、それらの業を行い、公然とご自身の神の力を見せよと言ったのであります。

しかし、主イエス様はそれを明確に拒絶なさいました。そのような業自体に対する信仰は、まことの信仰ではないからです。それは突き詰めれば、神の力によってわたしたち人間が物資的に満足すること、また、この世の生活や政治において勝利することを求めることです。この世的な願望に主イエス様を利用しようとするのです。人間のための神です。人間が神ご自身の御心に従うものではないのです。

主イエス様は、実の兄弟たちに「あなたがの時はいつも備えられている」と言われます。人間のこの世の願望に仕えてくれるような神を求める世界にあなた方はいつも生きている、今もそうだというのです。

だいぶ前のことですが、日曜日の礼拝に来られた方が、「ここの教会では奇跡が起きていますか」とわたくしに質問しました。病が癒されますか、人間関係がたちどころに良くなりますか、借金が解消しますか、事業が成功しますかと問うたのです。もしそうならば、信者になるというのです。しかし、ここでよく考えて欲しいと思うのです。奇蹟を行われる神を信じると言うことだけで、それはまことの信仰なのでしょうか。

そしてその人は、○○先生に祈ってもらうとそのような祝福が与えられるとおっしゃいました。まるで人間を教祖化するような信仰です。そうではなく、人間が神様に従うのです。

主イエス様は「わたしの時はまだ来ていない」と言われました。しかし、その主イエス様の時は必ず来ます。それは主イエス様の十字架、そして復活のときです。本来わたしたちが受けなければならない神様への罪の償いのすべてを、主イエス様が、わたしに代わってその神様の命によって成し遂げてくださいました。わたしたちは主イエス様によって贖われたのです。

主イエス様が「わたしの時」と言われた、その時は、主イエス様がご自分の肉と血を人々にお与えになる十字架の時です。わたしたちの命をくださる復活のときです。それは大いなる神、主であるお方が、わたしたちの罪の赦しのために、最低のところ、底の底まで身を落としてくださる神様の愛のときです。主が願われることは、わたしたちが、この世の名誉を受け自分を富み栄えさせることではなく、主イエス様の愛を受けること、その愛に生きることです。

この世のパンに望みをおいて、主イエス様の十字架の恵みを信ぜず受け入れない信仰は、却って災いなのです。

聖書には、時、時間を表わすためのいくつかの言葉があります。大きくいえば、二つです。ひとつは、クロノス、毎日毎日流れて行く時間です。クロック、時計という言葉の語源になっています。もうひとつは、ある出来事が起こされる、決定的な機会、時であって、これはカイロスと呼ばれます。流れて行く時間に対して点としての時間と言ってよいのです。

 主イエス様が、過越しの祭りにエルサレムにお入りになり、十字架におかかりになること、そして三日後にお甦りになるとき、これが、主イエス様にとっての、また世界の歴史にとってのカイロスの時であります。

 わたしたちは、その主イエス様のカイロス以後の時代に生きています。そしておよみがえりになられた主イエス様は、天から聖霊を送られ、その働きによって、わたしたちは信仰をいただきました。

 わたしたちはもはや、密かに、隠れて語り、また行動するときに生きているのではありません。コリントの信徒への手紙第二、6章2節でパウロはこう言っています。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」

またコロサイの信徒への手紙1章ではこう言います。「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。」

 わたしたちは、この日本という国、主イエス様の恵みの福音を信じ受け入れる人々の少ない国に生まれ、そして今、不思議なことですけれども、毎週、教会に集い、主イエス様の恵みの言葉、神の言葉を聞き続けています。誰にも隠れず、公然とそうしています。

ヘブライ人への手紙の著者は、わたしたちに勧めます。

「14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」

 誰にでも、決定的な時、カイロスのときは備えられています。主イエス様は、兄弟たちが、その不信仰を露わにしたときに、「あなたがたの時はいつも備えられている。」と言われました。

この世の願望や欲望に振り回されているものにとって、その不信仰を表わすときはいつも備えられている、いつでもあなたたちは、その中にいるという意味であります。しかし、このあと主の兄弟たちもその母マリアもやがて主イエス様を本当の意味で信じるように変えられてゆきます。

 わたしたちもまた、公然と、臆することなく、信仰を表現し、主イエス様によっていつも備えられている、カイロスの時に、生きようではありませんか。主イエス様のときはすでに備えられています。祈ります。

天の父なる神、主イエス・キリストの父なる神、今日も感謝を致します。あなたの命によって、わたしたちは真実の命を頂きました。どうか、この命にこれからも生きて行くことが出来ますよう導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アー