2022年10月16日「永遠の命の言葉」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 6章60節~71節

メッセージ

2022年10月16日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書6章60節~71節「永遠の命の言葉」

1、離れ去るもの

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 今日、与えられました御言葉の中で、わたしたちの心に響いてくるみ言葉があります。主イエス様の弟子たちの代表であるシモン・ペトロが主イエス様への信仰を告白する言葉です。

「シモン・ペトロが答えた。『主よ、わたしたちは誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。あなたこそ、神の聖者です。わたしたちは信じまた、知っています。』」

 「主イエス様、あなたは、永遠の命の言葉を持っている」とペトロは言いました。永遠の命とは、命の時間、命がどれほど長いかと言うことを表す言葉ではありません。それは命の性質に関わることでありますし、神から賜るわたしたちの本来の命です。主イエス様こそ、その言葉を持っておられるというのです。さらにペトロは、「あなたこそ神の聖者、神の聖なる方だとわたしたちは信じます」とも言っております。

 ペトロの周りには主イエス様に従う人々が沢山いて、周りに大勢いる人々とわたしも同じです。同じように、そう信じますというのではないのです。そうではなく、周りの人たち、多くの弟子たちが今や主イエス様を離れ去ってゆくという状況の中で語られた言葉でありました。わたしたち熊本教会は、本当に小さな教会です。周囲には多く方々が住んでいますけれども、主イエス様に興味をもつということがないように思えます。けれども、わたしたちは今朝も、いつもの日曜日と変わることなく教会に集まり、主イエス様を神の御子と信じ、神様を賛美し、信仰を告白するのです。

66節にこう書かれています。主イエス様が、わたしは命のパンであり、わたしの肉を食べ血を飲む者は永遠の命を持つと語りました時のことが記されています。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」とあります。

 この6章から遡って3章を見ますと、これとは正反対のことが記されていました。洗礼者ヨハネの弟子たちはこう言いました。「あなたが証しされたあの人が、ヨルダン川の向こう側で洗礼を授けています。みんながあの人のところへ行っています」「みんながあの人のところへ行っています」

 このころから主イエス様のもとには、多くの人々が集まるようなり、6章の前半の五千人養いの奇跡のころは、それが最高潮に達した時であったと思います。しかし、パンで満足した群衆は、主イエス様の命の言葉を聞いてつぶやきはじめ、これ以上、主イエス様の言葉を聞くことは出来ないと離れ去っていったのでした。

さて、7月の参議院選挙のさなかに安部晋三前首相が銃撃されてから、世界平和家庭連合、旧統一教会の様々な話題がマスメディアで一斉に報じられるようになりました。わたくしたち伝統的なキリスト教会は、以前から、統一教会について、エホバの証人やモルモン教と並んで、キリスト教に名を借りる異端的な宗教集団であると警戒してきました。恐怖心をあおったり、それを梃子にして極端な組織への忠誠を求めたりするような、いわばカルト的な集団は、健全な社会と相容れないものであります。

ずいぶん前に、教会を訪ねてきました方とかわしました会話をご紹介します。そのかたは、キリスト教や教会についていろいろと質問をして下さったのです。キリスト教に興味があっても、なかなか入って行けない理由がある、それは、カトリックやプロテスタンとか、キリスト教がいろいろ分かれていて、どれが正しいのかわからないということで二の足を踏むのだそうです。

 それで、わたしは、そうですね、確かに教会と言っても一色ではないですねと、その方の意見を肯定して置いて、しかし、こう反論しました。

 でもキリスト教がたった一つの教団しか存在しない、一つしか認められないと言うことでも困りますよね。その中に自由が全くないということになりますから。仏教でもいろいろな宗派があるように、キリスト教にも多様な流れがあることは、かえって望ましいことではないでしょうか。こういいましたところ、確かにそれは独裁的ではないと言うことの現れですねと応じて下さいました。

例えば北朝鮮のような非常に独裁的な国家では、異なる意見、考えに対して大変厳しく望みます。国家全体が、強い絆といいますか、非常に堅い結束のもとにありますので、意見の違う者の存在が許されないわけです。それに対して、日本と言う国もそうですけれども、教会は決して独裁的ではありません。健全な教会は、異なる宗教、異なる教派の存在を認めるものであります。

カルト宗教の特色は、この世界のすべてが悪であると断定することです。自分たちだけが正しい。そうしますと、この世で健全な形で生きて行くということが出来なくなります。自由な意見を持つこと、特に、組織に批判的な意見を持つことは許されません。離れ去っていた者は、悪魔とかサタンとか呼ばれて厳しく糾弾されます。

 先ほどご一緒に聞きました今朝の御言葉には、弟子たちが、それも多くの弟子たちが主イエス様のもとを離れ去ってゆくという場面が描かれておりました。66節であります。

「66 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。」

ここで弟子たちと呼ばれておりますのは、例えば、五千人養いのときに主イエス様の手足となって仕えた12弟子たちと同じではありません。そうではなくて、もっと広い意味で呼ばれている当時、主イエス様従って来た人々のことです。このとき主イエス様に従ってゆこうとして一緒に旅をしていた人たちは、12人だけではなく、もっと沢山いたのです。けれども、そのひとたちはこの6章の終わりの場面では、多くが主イエス様のもとを離れ去ってゆきました。主イエス様は、神の全能の力をおもちのかたですけれども、彼らを止めたり、離れて行くのを決して禁止したりはなさいません。

 カルト的な教団とは違って、離れ去って行く者が強く批判されたり、あるいは脅迫のような言葉を投げかけられたりして無理に止められるということはありません。現代の健全なキリスト教会では離れ去ってゆく自由というものが与えられているわけです。何か、そのことによって罰金を払うとか、刑罰が科せられると言うこともありません。

健全なキリスト教会では、自由が与えられています。自由を有効に用いて、その人の自由な心の決心によって信仰を言いあらわし、洗礼を受けてキリストの弟子となります。そして自由にその人生について決断し主イエス様に従い続けてまいります。何か強制的に従わせるということはないのであります。このことは主イエス様自身の教えに適ったことであります。そして、主イエス様の弟子であるところの初代教会の信仰もまたそのようなものでありました。

 多くの弟子たちが離れ去って行った時、主イエス様は12人、12弟子に改めて問いかけます。「あなた方も離れて行きたいか」

これは「あなた方も離れたいなら離れて行けばよい」というような突き放した言い方ではありません。この問いかけには主イエス様の愛が込められています。離れて行きたいか、決してそうではないだろうという否定の回答を期待した疑問文なのです。フランシスコ会訳聖書は、ここを「まさかあなたがたも離れて行くつもりではあるまい」と訳しています。

信仰生活を歩んでゆきますときに、信仰が揺さぶられると言いますか、ふるいにかけられるということがあります。このとき、わたしは「必ずそうなる」「本当にそうだ」と断言してよいと思っていますが、その信仰が本当のものである限り、試練を受けることにはプラスの効果があります。試練によって、それがないときよりも、信仰はいっそう堅くされるのです。信仰は、ふるいにかけられるのです。

このとき、12弟子たちも主イエス様の言葉によって、また、多くの信仰の兄弟たちが離れ去って行くということを目の前にして、試練を受けたと思います。しかし、シモン・ペトロが12弟子を代表して答えました。「「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

彼が、主イエス様に答える前に、互いに目と目を交わすと言うこともあったかも知れません。彼らの心は一つでありました。

大きな試練の中で、むしろ試練を受ければ受けるほど、わたしたちは主イエス様に向かって答えるのです。「他の誰のところに行きましょうか、決して行くことは出来ません。主イエス様、あなたに従い続けます」。

3、

 この6章全体は、主イエス様の二つの御業と、主イエス様の幾つかの説教、教えから成っています。二つの御業といいますのは、第一に6章のはじめにある五千人養いと、第二に、これは12弟子に対してなされたものですが、その後になされた夜のガリラヤ湖の湖上歩行です。五千人もの人々が主イエス様のおられる山に上ってきたのは、なぜでしょうか、それは主イエス様が病人たちを癒された、そのしるしを見たからだと6章2節に書かれています。そして五つのパンと二匹の魚によってお腹が一杯になった人々は、主イエス様を自分たちの王にしようとして連れて行こうとしました。そこで主イエス様は、これを拒否されて、一人山の奥に退かれたのであります。

 しかし、それでもなお主イエス様のもとから離れたくないと思う人々が、対岸のカファルナウムまで追いかけてきて、弟子と呼ばれるようになりました。ところがカファルナウムで主イエス様から命のパンについての教えを聞いたときに、それが彼らの躓きとなったのです。

 彼らは、互いにつぶやき合い、また議論したと書かれています。主イエス様は、最初に彼らを驚かせるような宣言をなさいました。「わたしは命のパンである。わたしを食べ、飲むことなしに命はない」。これは宣言でだり、同時に、信仰への招きでありました。主イエス様は、それを決して取り消したり、意味をあいまいにしたりすることはなかったのであります。「決してぶれなかった」ということです。初めのことばを貫かれたのであります。

 

人々は、主イエス様の話を聞きながら、このような話を聞いていられようか、聞いていられないとささやきだしたのです。60節にこうあります。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」

日本語でもギリシャ語でも、あるいは英語もおなじですけれども、「聞く」と言う言葉には二重の意味があります。何か言葉、音声が聞こえて来る、それを受けると言う意味と、聞こえている内容について理解し、それに従うと言う意味です。親の言うことをよく聞きなさいというような時には、後の方の意味になります。「ひどい話」と訳されている言葉は、「乾いている」という言葉から派生したと言われるのですけれども、「硬い」「柔らかい」の「硬い」という言葉です。歯が立たないと訳している聖書もあります。

 確かに、22節から58節まで延々と続いていますところの、主イエス様の命のパンの説教は、分かりやすいというものではないように思われます。

 この主イエス様の説教には「はっきり言っておく」という言葉が三度出てきます。第一は、26節です。ここで主イエス様は「パンを食べて満腹するためでなく、つまり必ず滅びるこの世の命ではなく、決して消えない永遠の命を求めなさい」と人々に教えます。第二は47節で、ここでは「わたしは天から降ってきた命のパンである」と言います。そして53節、第三の「はっきり言っておく」の後では、こう言われました。「人の子の、つまり主イエス様自身の、肉を食べ、血を飲まなければあなたたちのうちに命はない」

ここでは三度にわたって、まことの信仰への招きがあります。主イエス様を救い主、わたしたちに永遠の命を与える方として受け入れる、信じるように落ちう招きです。このことが一貫して求められています。そして今朝の御言葉においては、さらに重要なことが付けくわえられています。それは62節の御言葉であります。

61節からお読みします。

「61 イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。:62 それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。」

62節の「それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……」点点点々。

これは不思議な言葉です。点点点々はもとのギリシャ語には無く、単なる疑問文のしるしが付いているだけですが、文章自体が不完全で終わっているのでこのように点点点々で補っています。これはカトリックのフランシスコ会訳も同じです。口語訳、新改訳では敢えて、「もとのところに上るのを見たらどうなるのか」と、「どうなるのか」という言葉を付け加えています。

 主イエス様が、もといたところはどこでしょうか、それは天の父なる神のもとです。つまりこれは、主イエス様がこの世を去る時のことであります。この後、主イエス様が死ぬ、その死ぬありさまを見たならば、どうなるのか、今のわたしの言葉に躓くようであれば、あなたがたは、ますます躓くだろうという意味になります。

「もといたところに上る」ということのもう一つの意味は、主イエス様がよみがえり、天に上ってゆく昇天のことです。

このヨハネによる福音書では、主イエス様が十字架にお掛かりなること自体を「上る」「上げられる」と呼んでおります。

 「主イエス様の肉を食べる、血を飲むこと」、それは、十字架上でわたしたちの罪の身代わりに死なれ、そしておよみがえりになられた、その十字架と復活の主イエス様自身を、本当に深い仕方で信じ受け入れることです。まさにその十字架と復活の主イエス様をわたしたちが食べてしまうまでの深い絆を主イエス様と結ぶのです。その主イエス様は、復活して天に昇られるお方でもあります。だから、この後あなたがたは、それを見たときに、どうなるのか、その時には、すべての躓きはなくなって、あなたがたは今、わたしが言う意味を悟るだろうと言っているようにみえます。しかし、主イエス様が求めておられることは、弟子たちが、今、主イエス様の言葉を受け入れて、主イエス様に従うことです。

63節に「63 命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」とあります。この霊は聖霊であります。肉は、人間が生まれながらにもっている本能や理解力や力のことです。聖霊が働いて下さり、わたしたちの霊が変えられ、わたしたちが元来持っている智恵や知識や信仰によってではなく、神さまの霊によって、悔い改めが与えられそして主イエス様を信じるのです。

 わたしたちが、このように主イエス様を信じ、受け入れることは、わたしたちの心、わたしたちの霊において何らかの変化なしに起こることではないと言うことが分かります。わたしたちは神様の力によって、それを担っておられる聖霊の力によって新しく生まれるのです。

4、

 70節では、12弟子が、主イエス様から離れずにしっかり留まったことの背後に、主イエス様自身の選びがあったと言われています。しかし、その中に、存在してはならないものがいたのです。主イエス様は言われました。

「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」

主イエス様が選んだ、選んでくださいました。いいかえれば、わたしたちは神さまの恵み、恩寵によって信仰をいただきました。しかし、この選びがあるのだから、わたしたちは信仰生活をどれほど呑気に続けていても大丈夫だとは言えない、そうはゆかないと思います。12人の中の一人は悪魔だと主イエス様は言います。これは悪魔そのものということではなく、悪魔の誘いに付け込まれて悪しき働き、悪魔の働きをするようになると言う意味です。

 マタイによる福音書16章には、このヨハネによる福音書6章と同じように、シモン・ペトロが弟子たちを代表して、まことの信仰を告白する場面が記録されています。

 「あなた方はわたしを誰だと思うか」この主イエス様の問いかけにペトロが答えました。「「あなたはメシア、生ける神の子です」

 その直後、主イエス様はご自身の十字架の死を予告します。その時、ペトロは主イエス様に十字架にかかってはならない、死んではならないと迫るのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

 このとき、主イエス様はペトロにこう言いました。23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

 十字架を否定するペトロは、ここでは主イエス様から、サタン、悪魔と呼ばれています。イスカリオテのユダもまた、悪魔に誘われました。12弟子の中に悪魔がいると主イエス様がいわれたのは、誰でも、サタンに付け込まれる可能性があると言うことにほかならないのです。神さまに主イエス様に選ばれているから絶対大丈夫ということはあり得ないのです。それゆえに、わたしたちは絶えず主イエス様に従い続けなくてはなりません。

 イスカリオテのユダは、最後の最後まで悔い改める機会がありました。しかし、彼は、最終的に主イエス様をユダヤ人たちに引き渡す役割をしました。それは彼自身の責任です。

 わたしたちは、自由をどのように用いて、この人生を歩んでゆくのでしょうか。互いに別々の人生を歩んでいたわたしたちですけれども、今朝、このように、導かれて、礼拝に出席し、同じ時間、同じ場所に集い、神の御言葉を聞いています。考えてみると不思議なことです。それは、わたしたちは、すでに主イエス様から選ばれて、このように導かれたことを表わしています。わたしたちは強制ではなく、自ら進んでここへ来ました。けれども、その背後には神様の選びがあり、神様の恵みと愛があります。

 健全な教会では、入ってくる自由もあり、また離れて行く自由も保証されます。別の教会に代わる手続きも用意されています。しかし、わたしたちは与えられている自由を最もふさわしい仕方で用いたいものです。

「「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

 わたしたちは自由に、こう告白するのです。主イエス様は、永遠の命を持つ神の聖者、わたしたちの救い主です。わたしたちは他の誰のところへゆきましょうか。決して行くことはできません。あなたに従って行きます。

祈りを致します。

愛する神、主イエス・キリストの父なる神、御名を崇めます。あなたは、多くの人々の中からわたしたちを選び、召しだし、神様の救いという恵みを与えてくださいました。どうかこれからも、生ける命のパン、永遠の命の言葉であるあなたに従って行くことが出来ますよう、聖霊によって導いてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。