聖書の言葉 ヨハネによる福音書 6章16節~44節 メッセージ 2022年10月2日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書6章22節~40節「命のパン、イエス」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 わたくしは、昨年3月まで北神戸キリスト伝道所で奉仕していました。その時、神学校の教授、南アフリカ・オランダ改革派教会のステファン・ファン・デア・ヴァット宣教師とご家族が伝道所の会員でした。ステファン先生は震災の時、幾度か熊本においでなられたと思います。ステファン先生の奥様のお父様のトビー・デベット先生は、南アフリカ・オランダ改革派教会から最初に日本に派遣された宣教師です。デべット宣教師は最初の日本宣教の時、1979年から3年6カ月、大津摂理伝道所、京都摂理伝道所、そして千里摂理教会で奉仕されました。実は、ちょうどこのとき、わたくしは信徒として千里摂理教会で信仰生活を送っていました。当時33才であったデべット宣教師のことを鮮明に覚えております。デベット先生が、日本語で説教された5つの説教が千里摂理教会小会によって一冊の本にまとめられています。 説教の準備をしながら、わたくしの心に、突然その本のことが浮かび上がってきました。その本の内容と言うよりも、その本の題名が浮かび上がってきたのであります。デベット宣教師説教集「イエスは、誰ですか」。この小さな本であります。 第6章は71節まであって、ヨハネによる福音書の中で最も長い章ですけれども、その6章の中心主題を一言で言い表すならば、まさしく「イエスは誰ですか」という単純な問いかけに尽きるのであります。 先週の1節から15節では、五つのパンと二匹の魚が主イエス様のところに捧げられました。主イエス様はその貧しい小さな捧げものを用いて、男性だけで五千人、家族も含めるならば1万人以上の人々を、もう満ち足りるほど十分に養い、彼らの空腹を十分に満たしてくださいました。 五千人の人々は、主イエス様を、この世の王にふさわしい人であると思い込ました。「イエスは王である」と信じたのです。そして、この人ならイスラエルのためにローマ帝国と戦い、そして理想の政治を行ってくださる、そう信じたのです。しかし、主イエス様はそれをきっぱりと拒否なさり、彼らから逃れて、一人で山に退いてしまわれました。 今朝は、主イエス様の水上歩行の物語を挟んで、一気に40節までのみ言葉をお読みしました。普通は21節で一旦区切るべきなのかも知れません。けれども、この物語が、マタイによる福音書では12の節、マルコによる福音書では7節なのに対して、ヨハネによる福音書ではわずか5つの節に簡略化されています。わたくしもこのヨハネによる福音書がしていることに倣って水上歩行の奇跡と、それに続くみ言葉を続けて語ることにいたしました。この6章全体は、最終的には「イエスは、誰ですか」という問いに答えるものです。今朝の説教題の通り、主イエス様は「命のパン」であります。 2、 「命」という言葉は、今日私たちの間では、幾つもの意味で使われます。単純に言えば、生命、つまり生きているということですけれども、それだけの意味でないのですね。高齢の方しか覚えていないと思いますが、その昔「君こそ我が命」という歌謡曲が流行しました。水原弘の歌です。命という言葉は、「究極的なもの、最終的なもの」という意味で用いられています。「君こそ我が命」 あるいはまた、「言葉に命がある」というようにも言います。命は、そういう何かの働きをすることが出来る力という意味があります。たとえば、良い文章とか、絵画、絵、音楽もそうですけれども、作品に「命がある」とか「ない」と言うのです。力を持っているということでしょう。 もし、わたしたちの日々の生活というものが、生きてはいるけれども、かけがえのない大切なものを失っている、あるいは力がなくなっているということならば、それは本当の意味での命が失われているのではないでしょうか。言い方はおかしいかも知れませんが「死んだ命」なのではないでしょうか。ただ生きているというだけでよいという考えも間違いではないかもしれません。しかし、私たち自身の幸せ、喜びというものを考えてみますと、やはりそうではない。せっかく生まれてきた、生まれさせていただいたのですから、やはり、わたしたちは本当の命に溢れて、この人生を生きゆきたいと思うのです。 「いのちのことば社」というキリスト教の出版社があります。この場合の「いのちのことば」というのは何を表しているかといますと、これは主イエス様について告げ知らせる聖書の言葉、福音を指しています。それと共に、このヨハネによる福音書が、その始めに「初めに言葉があった」と記しているとおり、「いのちのことば」は、主イエス様その人のことでもあります。主イエス様ご自身が「命の言葉」なのです。 今朝の御言葉の35節にこう言われています。 35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。 今日は、このあと聖餐式をいたしますけれども、この35節の言葉は、わたしたちが聖餐式を行う度ごとに、いつも読んでいる式文の一節であります。「イエスは誰ですか」。主イエス様はお答えになりました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 3、 さて16節に「夕方になった」とあり、それに続いて、その夜遅くまでの出来事が記されます。最後には、弟子たちと群衆を逃れた主イエス様は対岸のカファルナウムに到着します。そのとき弟子たちが驚くことが起きたのであります。弟子たちは主イエス様抜きで、ガリラヤ湖に漕ぎ出します。ほかの福音書によるとそれは主イエス様ご自身の指示でありました。途中で暗くなり、湖が荒れはじめ、弟子たちが不安に満たされたとき、主イエス様がガリラヤ湖の水の上を歩いて舟のほうにおいでになったのです。主イエス様はおっしゃいました。「わたしだ。恐れることはない」、そして一行は目指す地に着きました。 実は、ここで主イエス様がおっしゃった「わたしだ」と言う言葉には深い意味が込められています。ヨハネによる福音書では、きわめて重要な言葉です。元の言葉はこうであります。「エゴー・エイミー」「わたしである」 エゴ―と言うのは、エゴイズムと言う言葉もありますけれども、「わたし」という言葉です。「エイミー」は、「何何である」という「ある」、英語で言いますと「is」に当たる言葉です。ヨハネによる福音書には7つの「エゴー・エイミー」、「わたしは何々である」があると言われます。「イエスは誰ですか」と言う問いかけに対して、7つのエゴー・エイミーで答えるのです。 この水上歩行の主イエス様が語られた「わたしだ」「わたしである」、「エゴー・エイミー」は、旧約聖書では決定的な言葉となっています。出エジプト記3章は、モーセという、後にイスラエルの指導者となる人物が、神様からその役目に召される場面です。モーセは、遠くの柴がいつまでも火で燃えているのを見つけて近づきます。その時、柴の間から神様の御声を聞くのです。「あなたは、民をエジプトから連れ出す働きをしなさい。」モーセは初め抵抗しますが、やがて、あなたの名を教えてほしいと願います。その時に、神様はこうお答えになりました。「わたしはある」「わたしはあるというものだ」。ギリシャ語訳旧約聖書には、この神様のお答えは「ホ・オーン」「エゴー・エイミー・ホ・オーン」と訳されています。新約聖書の時代には、「エゴー・エイミー」という言葉は、神様ご自身の名乗りとしての意味を持つ言葉となりました。そのことを決定的に明らかにするのが、主イエス様がユダヤ人たちに捕らえられる場面を記しているヨハネによる福音書18章6節であります。裏切り者のユダを先頭にして、祭司長、兵士、ファリサイ派の人々が武器や松明を手にして主イエス様に迫ります。主イエス様は、「誰を捜しているのか」と問いかけます。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、こう言われるのです。「わたしである」「エゴー・エイミー」。その時何が起こったのかと言いますと、こう書かれています。「イエスがわたしであると言われた時、彼らは後ずさりして地に倒れた。」エゴー・エイミーという神様ご自身の名乗りの言葉が彼らを恐れさせたのであります。 今朝の個所では、主イエス様は「わたしは命のパンである」(6章35節/51節)と自己紹介なさいました。そして、これ以降、ヨハネによる福音書では、次々と別の言葉で主イエス様は自己紹介なさいまして、その数は合計7つであります。 「わたしは世の光である」(8章12節/9章5節)。 「わたしは羊の門である」(10章7節/9節)。 「わたしはよい羊飼いである」(10章11節/14節)。 「わたしはよみがえりであり命である」(11章25節)。 「わたしは真のぶどうの樹である」(15章1節/同5節)。 「わたしは道であり真理であり命である」(14章6節)。 これらの最初に挙げられるのが、今朝の「わたしは命のパンである」というエゴー・エイミーであります。そしてそれに先立って、バリラヤ湖の水の上を歩かれる主イエス様は「エゴー・エイミー」「わたしである」「わたしはある」と名乗り、ご自分が生ける神であることを明らかになさったのであります。 4、 25節から、主イエス様と群衆との対話、問答が記されます。第一の問答は25節から27節の「永遠の命に至る業、はたらき」についてです。 ガリラヤ湖の向こう岸からカファルナウムまで、主イエス様を追いかけてきた群衆は言いました「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」主イエス様は答えられます。 「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」 お腹が一杯になる、そのことに代表される物質的な満足、必要のためにわたしを求めても、わたしはそれに応ずることはないと答えたのです。 五千人養いの奇跡は素晴らしい恵みの御業でありました。しかしそれはあくまで「しるし」でした。人々を肉体的な飢えから救われた主イエス様は、同じように、わたしたちの霊的な必要、わたしたちの心、人格を満たすお方なのです。その力のしるしであったのです。しかし、群衆は、そのしるしを、身を持って味わいながら、そのことを悟りませんでした。 主イエス様から、あなたがたは永遠の命に至る業をしなさい、そのために働きなさいと勧められた群衆は、さらに尋ねます。28節「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」 先生、もっと具体的におっしゃってください、永遠の命のための働き、業というのは何ですかと言うわけです。どうすれば神様からそれが与えられるのですか。 主イエス様はお答えになります。29節です。 29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 神がお遣わしなった者とは、主イエス様のご自身のことです。しかし、ここではまだそうはっきりとは言わずに、神があなた方の救いのために遣わす者がいる、そのものを信じることだとお答えになります。 ユダヤ人たちは、これを聞いて、これはイエスご自身のことを指しているのだなあということは何となく分かったに違いありません。ここにいる人々の多くは、五千人養いの奇蹟を体験した人であります。それにも関わらず彼らは更に言います。「それなら、あなたが救い主であるという証拠、しるしを見せて下さい」、「モーセが行ったマナの奇蹟をあなたがして見せて下さい」。そうすれば信じるというのです。 主イエス様は、わたしは五つのパンと二匹の魚という乏しいもので、五千人を養ったではないか、こうはお答えになりません。そうではなく、主イエス様はこれからご自身がなさることに人々の心を向けさせます。この後に、わたしは人々のためのまことのマナ、まことの命のパンとなる。 昔イスラエルが荒れ野をさまよっていたとき、人々にマナを与えたのは、実はモーセではなく、天の父なる神でありました。マナは、天から降ってきたのです。同じように、父なる神、わたしの父は、天から命のパンをあなた方にこの後に必ず与える、こう約束するのです。 この後、主イエス様は、何をなさったでしょうか。イエス様は、ユダヤ人たちに捕らえられ、十字架にお掛かりになります。罪のない神の御子が、罪人として裁かれ、十字架刑という最も残酷な刑罰を受けます。その目的は、主イエス様を信じるものが、罪の赦しを受けるためです。神の子である主イエス様が、信じる者の罪を負われるのです。そして主イエス様は三日目に復活されて、すべてのことが神の御心に適ったことであることが明確になりました。永遠の命を得るためにわたしたちがなすべき具体的な業とは、この十字架と復活の主イエス様を信じ受け入れることです。 ヨハネによる福音書3章で、主イエス様はニコデモというファリサイ派の教師にこう言われました。 「14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 わたしたちが生まれながらに持っている命は、アダムの罪を背負って生まれてきた命です。この命は、思いと言葉と行いにおいて、この世で罪を犯し続ける、神さまの御心に適わないことをする、そう言う命です。神の怒り、神からの裁き、滅びを受けても申し開きの出来ない命でありました。それは永遠の命であると言えない命です。もし、わたしたちのその罪が赦され、解決するならば、神の怒りは全く消し去られます。罪のマイナスは打ち消されてしまいます。それだけではなく、主イエスの持っておられる完全な命という最大限のプラスもまたわたしたちのものです。わたしたちは、主イエス様によって永遠の命を得るのです。 永遠という言葉は、確かに、時間において限りがないという命の長さ、寿命にわたしたちの関心を向けさせます。しかし、聖書が言う「永遠の命」は、命の長さではないのです。そうではなく、命の性質のことです。生まれながらのこれまでの命とは違う命を得ること、これが永遠の命です。35節をもう一度お読みします。 「35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 祈ります。 祈り 主イエス・キリストの父なる神、御名を崇めます。主イエス・キリストは、永遠の命を与える命のパンであり、また、7つのエゴー・エイミーに現わされる恵みのすべてをくださるお方であることを覚えて感謝を致します。こののち、聖餐の恵みに与ります。どうかあなたの命に生きる者とならせてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
2022年10月2日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書6章22節~40節「命のパン、イエス」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
わたくしは、昨年3月まで北神戸キリスト伝道所で奉仕していました。その時、神学校の教授、南アフリカ・オランダ改革派教会のステファン・ファン・デア・ヴァット宣教師とご家族が伝道所の会員でした。ステファン先生は震災の時、幾度か熊本においでなられたと思います。ステファン先生の奥様のお父様のトビー・デベット先生は、南アフリカ・オランダ改革派教会から最初に日本に派遣された宣教師です。デべット宣教師は最初の日本宣教の時、1979年から3年6カ月、大津摂理伝道所、京都摂理伝道所、そして千里摂理教会で奉仕されました。実は、ちょうどこのとき、わたくしは信徒として千里摂理教会で信仰生活を送っていました。当時33才であったデべット宣教師のことを鮮明に覚えております。デベット先生が、日本語で説教された5つの説教が千里摂理教会小会によって一冊の本にまとめられています。
説教の準備をしながら、わたくしの心に、突然その本のことが浮かび上がってきました。その本の内容と言うよりも、その本の題名が浮かび上がってきたのであります。デベット宣教師説教集「イエスは、誰ですか」。この小さな本であります。
第6章は71節まであって、ヨハネによる福音書の中で最も長い章ですけれども、その6章の中心主題を一言で言い表すならば、まさしく「イエスは誰ですか」という単純な問いかけに尽きるのであります。
先週の1節から15節では、五つのパンと二匹の魚が主イエス様のところに捧げられました。主イエス様はその貧しい小さな捧げものを用いて、男性だけで五千人、家族も含めるならば1万人以上の人々を、もう満ち足りるほど十分に養い、彼らの空腹を十分に満たしてくださいました。
五千人の人々は、主イエス様を、この世の王にふさわしい人であると思い込ました。「イエスは王である」と信じたのです。そして、この人ならイスラエルのためにローマ帝国と戦い、そして理想の政治を行ってくださる、そう信じたのです。しかし、主イエス様はそれをきっぱりと拒否なさり、彼らから逃れて、一人で山に退いてしまわれました。
今朝は、主イエス様の水上歩行の物語を挟んで、一気に40節までのみ言葉をお読みしました。普通は21節で一旦区切るべきなのかも知れません。けれども、この物語が、マタイによる福音書では12の節、マルコによる福音書では7節なのに対して、ヨハネによる福音書ではわずか5つの節に簡略化されています。わたくしもこのヨハネによる福音書がしていることに倣って水上歩行の奇跡と、それに続くみ言葉を続けて語ることにいたしました。この6章全体は、最終的には「イエスは、誰ですか」という問いに答えるものです。今朝の説教題の通り、主イエス様は「命のパン」であります。
2、
「命」という言葉は、今日私たちの間では、幾つもの意味で使われます。単純に言えば、生命、つまり生きているということですけれども、それだけの意味でないのですね。高齢の方しか覚えていないと思いますが、その昔「君こそ我が命」という歌謡曲が流行しました。水原弘の歌です。命という言葉は、「究極的なもの、最終的なもの」という意味で用いられています。「君こそ我が命」
あるいはまた、「言葉に命がある」というようにも言います。命は、そういう何かの働きをすることが出来る力という意味があります。たとえば、良い文章とか、絵画、絵、音楽もそうですけれども、作品に「命がある」とか「ない」と言うのです。力を持っているということでしょう。
もし、わたしたちの日々の生活というものが、生きてはいるけれども、かけがえのない大切なものを失っている、あるいは力がなくなっているということならば、それは本当の意味での命が失われているのではないでしょうか。言い方はおかしいかも知れませんが「死んだ命」なのではないでしょうか。ただ生きているというだけでよいという考えも間違いではないかもしれません。しかし、私たち自身の幸せ、喜びというものを考えてみますと、やはりそうではない。せっかく生まれてきた、生まれさせていただいたのですから、やはり、わたしたちは本当の命に溢れて、この人生を生きゆきたいと思うのです。
「いのちのことば社」というキリスト教の出版社があります。この場合の「いのちのことば」というのは何を表しているかといますと、これは主イエス様について告げ知らせる聖書の言葉、福音を指しています。それと共に、このヨハネによる福音書が、その始めに「初めに言葉があった」と記しているとおり、「いのちのことば」は、主イエス様その人のことでもあります。主イエス様ご自身が「命の言葉」なのです。
今朝の御言葉の35節にこう言われています。
35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
今日は、このあと聖餐式をいたしますけれども、この35節の言葉は、わたしたちが聖餐式を行う度ごとに、いつも読んでいる式文の一節であります。「イエスは誰ですか」。主イエス様はお答えになりました。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
3、
さて16節に「夕方になった」とあり、それに続いて、その夜遅くまでの出来事が記されます。最後には、弟子たちと群衆を逃れた主イエス様は対岸のカファルナウムに到着します。そのとき弟子たちが驚くことが起きたのであります。弟子たちは主イエス様抜きで、ガリラヤ湖に漕ぎ出します。ほかの福音書によるとそれは主イエス様ご自身の指示でありました。途中で暗くなり、湖が荒れはじめ、弟子たちが不安に満たされたとき、主イエス様がガリラヤ湖の水の上を歩いて舟のほうにおいでになったのです。主イエス様はおっしゃいました。「わたしだ。恐れることはない」、そして一行は目指す地に着きました。
実は、ここで主イエス様がおっしゃった「わたしだ」と言う言葉には深い意味が込められています。ヨハネによる福音書では、きわめて重要な言葉です。元の言葉はこうであります。「エゴー・エイミー」「わたしである」
エゴ―と言うのは、エゴイズムと言う言葉もありますけれども、「わたし」という言葉です。「エイミー」は、「何何である」という「ある」、英語で言いますと「is」に当たる言葉です。ヨハネによる福音書には7つの「エゴー・エイミー」、「わたしは何々である」があると言われます。「イエスは誰ですか」と言う問いかけに対して、7つのエゴー・エイミーで答えるのです。
この水上歩行の主イエス様が語られた「わたしだ」「わたしである」、「エゴー・エイミー」は、旧約聖書では決定的な言葉となっています。出エジプト記3章は、モーセという、後にイスラエルの指導者となる人物が、神様からその役目に召される場面です。モーセは、遠くの柴がいつまでも火で燃えているのを見つけて近づきます。その時、柴の間から神様の御声を聞くのです。「あなたは、民をエジプトから連れ出す働きをしなさい。」モーセは初め抵抗しますが、やがて、あなたの名を教えてほしいと願います。その時に、神様はこうお答えになりました。「わたしはある」「わたしはあるというものだ」。ギリシャ語訳旧約聖書には、この神様のお答えは「ホ・オーン」「エゴー・エイミー・ホ・オーン」と訳されています。新約聖書の時代には、「エゴー・エイミー」という言葉は、神様ご自身の名乗りとしての意味を持つ言葉となりました。そのことを決定的に明らかにするのが、主イエス様がユダヤ人たちに捕らえられる場面を記しているヨハネによる福音書18章6節であります。裏切り者のユダを先頭にして、祭司長、兵士、ファリサイ派の人々が武器や松明を手にして主イエス様に迫ります。主イエス様は、「誰を捜しているのか」と問いかけます。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、こう言われるのです。「わたしである」「エゴー・エイミー」。その時何が起こったのかと言いますと、こう書かれています。「イエスがわたしであると言われた時、彼らは後ずさりして地に倒れた。」エゴー・エイミーという神様ご自身の名乗りの言葉が彼らを恐れさせたのであります。
今朝の個所では、主イエス様は「わたしは命のパンである」(6章35節/51節)と自己紹介なさいました。そして、これ以降、ヨハネによる福音書では、次々と別の言葉で主イエス様は自己紹介なさいまして、その数は合計7つであります。
「わたしは世の光である」(8章12節/9章5節)。
「わたしは羊の門である」(10章7節/9節)。
「わたしはよい羊飼いである」(10章11節/14節)。
「わたしはよみがえりであり命である」(11章25節)。
「わたしは真のぶどうの樹である」(15章1節/同5節)。
「わたしは道であり真理であり命である」(14章6節)。
これらの最初に挙げられるのが、今朝の「わたしは命のパンである」というエゴー・エイミーであります。そしてそれに先立って、バリラヤ湖の水の上を歩かれる主イエス様は「エゴー・エイミー」「わたしである」「わたしはある」と名乗り、ご自分が生ける神であることを明らかになさったのであります。
4、
25節から、主イエス様と群衆との対話、問答が記されます。第一の問答は25節から27節の「永遠の命に至る業、はたらき」についてです。
ガリラヤ湖の向こう岸からカファルナウムまで、主イエス様を追いかけてきた群衆は言いました「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」主イエス様は答えられます。
「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」
お腹が一杯になる、そのことに代表される物質的な満足、必要のためにわたしを求めても、わたしはそれに応ずることはないと答えたのです。
五千人養いの奇跡は素晴らしい恵みの御業でありました。しかしそれはあくまで「しるし」でした。人々を肉体的な飢えから救われた主イエス様は、同じように、わたしたちの霊的な必要、わたしたちの心、人格を満たすお方なのです。その力のしるしであったのです。しかし、群衆は、そのしるしを、身を持って味わいながら、そのことを悟りませんでした。
主イエス様から、あなたがたは永遠の命に至る業をしなさい、そのために働きなさいと勧められた群衆は、さらに尋ねます。28節「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」
先生、もっと具体的におっしゃってください、永遠の命のための働き、業というのは何ですかと言うわけです。どうすれば神様からそれが与えられるのですか。
主イエス様はお答えになります。29節です。
29 イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
神がお遣わしなった者とは、主イエス様のご自身のことです。しかし、ここではまだそうはっきりとは言わずに、神があなた方の救いのために遣わす者がいる、そのものを信じることだとお答えになります。
ユダヤ人たちは、これを聞いて、これはイエスご自身のことを指しているのだなあということは何となく分かったに違いありません。ここにいる人々の多くは、五千人養いの奇蹟を体験した人であります。それにも関わらず彼らは更に言います。「それなら、あなたが救い主であるという証拠、しるしを見せて下さい」、「モーセが行ったマナの奇蹟をあなたがして見せて下さい」。そうすれば信じるというのです。
主イエス様は、わたしは五つのパンと二匹の魚という乏しいもので、五千人を養ったではないか、こうはお答えになりません。そうではなく、主イエス様はこれからご自身がなさることに人々の心を向けさせます。この後に、わたしは人々のためのまことのマナ、まことの命のパンとなる。
昔イスラエルが荒れ野をさまよっていたとき、人々にマナを与えたのは、実はモーセではなく、天の父なる神でありました。マナは、天から降ってきたのです。同じように、父なる神、わたしの父は、天から命のパンをあなた方にこの後に必ず与える、こう約束するのです。
この後、主イエス様は、何をなさったでしょうか。イエス様は、ユダヤ人たちに捕らえられ、十字架にお掛かりになります。罪のない神の御子が、罪人として裁かれ、十字架刑という最も残酷な刑罰を受けます。その目的は、主イエス様を信じるものが、罪の赦しを受けるためです。神の子である主イエス様が、信じる者の罪を負われるのです。そして主イエス様は三日目に復活されて、すべてのことが神の御心に適ったことであることが明確になりました。永遠の命を得るためにわたしたちがなすべき具体的な業とは、この十字架と復活の主イエス様を信じ受け入れることです。
ヨハネによる福音書3章で、主イエス様はニコデモというファリサイ派の教師にこう言われました。
「14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
わたしたちが生まれながらに持っている命は、アダムの罪を背負って生まれてきた命です。この命は、思いと言葉と行いにおいて、この世で罪を犯し続ける、神さまの御心に適わないことをする、そう言う命です。神の怒り、神からの裁き、滅びを受けても申し開きの出来ない命でありました。それは永遠の命であると言えない命です。もし、わたしたちのその罪が赦され、解決するならば、神の怒りは全く消し去られます。罪のマイナスは打ち消されてしまいます。それだけではなく、主イエスの持っておられる完全な命という最大限のプラスもまたわたしたちのものです。わたしたちは、主イエス様によって永遠の命を得るのです。
永遠という言葉は、確かに、時間において限りがないという命の長さ、寿命にわたしたちの関心を向けさせます。しかし、聖書が言う「永遠の命」は、命の長さではないのです。そうではなく、命の性質のことです。生まれながらのこれまでの命とは違う命を得ること、これが永遠の命です。35節をもう一度お読みします。
「35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
祈ります。
祈り
主イエス・キリストの父なる神、御名を崇めます。主イエス・キリストは、永遠の命を与える命のパンであり、また、7つのエゴー・エイミーに現わされる恵みのすべてをくださるお方であることを覚えて感謝を致します。こののち、聖餐の恵みに与ります。どうかあなたの命に生きる者とならせてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。