2022年09月11日「命の書、聖書」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 5章31節~40節

メッセージ

2022年9月11日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書5章31節~47節「命の書、聖書」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 ヨハネによる福音書の第5章31節から47節をお読みしました。先週申しましたけれども、主イエス様ご自身がお語りになっている言葉、言い換えると説教のようなみ言葉が、このところでも依然として続いています。「説教のようなみ言葉」と言いましたけれども、これは正確ではないと思います。

このとき主イエス様がお語りになっている相手は、ユダヤ人であります。そして今や彼らは、主イエス様に明確に敵対する人々でありました。

「イエスと言う人は、自分自身を神と等しいものとするもの、神を冒涜するものである、とんでもないやからである、旧約聖書のモーセ律法に従って、死刑にされるべきである」と考えていたのです。そのような人たちに向かって語られた主イエス様の言葉でありますから、説教と言うよりも裁判の場における反論、弁論のようなものであるということができると思います。

今朝のみ言葉の前の19節から30節では、「子」「神の子」と言う言葉が強調されました。「自分を神と等しいものとしている」という起訴状に対して、そうではないという反論するのではなく、「まさしくそうだ」、神と等しいもの、それどころか、「神の子である」とご自身のことを言い表されたのであります。

しかしまた、主イエス様は、40節でこのような言葉も語られています。「それなのに、あなたがたは命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」。これは、単に相手を非難する、批判する言葉ではなくて、「それではいけない、わたしのところに来なさい」と招く言葉であるということもできると思います。裁判における反駁、弁論でありますけれども、主イエス様を神の子であると信じられない人々を説得する言葉でもあると言って良いと思います。そういう意味では、広い意味で説教と呼ぶことができるのだと思います。

 今朝の御言葉には「証しをする」、あるいは「証し」という言葉が沢山出ていることに気が付きました。調べてみますと、新約聖書全体の中でこの言葉は76回、ヨハネによる福音書では33回使われているといるのですけれど、そのうち今朝の31節から40節の間に、10回も出てきています。聖書の中でこれほどまで「証し」という言葉が集中しているのはここしかありません。

 証しという日本語は、日常生活であまり使う言葉ではありません。教会で「証しをする」と言いますと、自分自身の体験や意見をもって主イエス様の恵みを言いあらわすことです。けれども証しは、一般的には、証拠、あるいは証言によって何かを証明することです。「身の証しを立てる」というように使います。明らかに裁判の用語です。主イエス様は、裁判の用語として、この言葉を使っています。ここでは、主イエス様が、神と一体の存在であり、さらにメシア、神から遣わされた救い主であると言うことを証言し、証拠を申し宣べているのであります。

主イエス様を殺さなければならないというユダヤ人たちに向かって主イエス様は語っています。ことがらが是か非か、生きるか死ぬかということが究極的に明らかになるような場所で、命がけで「証し」をしておられます。

 39節と40節にこう書かれています。

「39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」

「40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

わたしたちは、聖書は神様の霊感によって書かれた「神の言葉」であると信じています。そして、その「神の言葉」の内容は、まさしく、主イエス様について証をするものだというのです。これは、わたしたちが聖書を読むうえでとても大切なみ言葉であると思います。注意しなければならないことは、ここでは、聖書、つまり元の言葉では、定冠詞付きの「あの書かれたもの」ですが、それは旧約聖書のことであるということです。この時はまだ新約聖書は書かれていないのです。けれども、主イエス様の昇天後、ペンテコステの聖霊降臨の後、教会を建て上げた使徒たちは、自分たちが生きている間に、それぞれが聖霊に導かれて主イエス様についての証しの書を書きました。それらが、教会の中で特別の書物として残され、新約聖書としてわたしたちに伝えられてきました。新約聖書は、主イエス様を証しする書物であり、旧約聖書もまた主イエス様を証しする書物なのです。

主イエス様の時代には、聖書、つまり旧約聖書は、は今よりもずっと真剣に読まれていたと言って良いと思います。ユダヤ人たちは、子供の時から旧約聖書に親しみ、今と違って、皆の手元に聖書が一冊一冊あると言う訳に行きませんから、皆小さいころから、聖書の言葉、そのヘブライ語の一説一節をすべて暗記したと言われています。また、聖書の御言葉の一つ一つについて過去の解釈を整理し、取りまとめる学者、律法学者と呼ばれる人々までおりました。「あなたたちは聖書を研究している」と主イエス様は語ります。それはまさしく、その通りのことでありました。けれども、その研究の仕方が間違っていると言うのです。聖書は読まなければなりません。さらに、これをどう読むか、これもまた大切なことなのです。聖書の目的を知って読むと言うことです。「聖書は私について証しする」こう主イエス様は断定しておられます。主イエス様のことを知らせるために聖書は書かれているというのです。

新約聖書が、主イエス様について語っている、それだけでなく、主イエス様を証しするという目的のために書かれたということはよく分かります。しかし、ここで主イエス様が言っておられるのは旧約聖書のことです。旧約聖書もまた、主イエス様を知らせるための書物だと言うのであります。

恐らく当時ユダヤ人たちがそうであったように、単に旧約聖書だけを読んでも、このことは分からないと思います。イエス・キリストというお方が、この世界においでになった、その御業と御言葉を知って旧約聖書を読むならば、その解釈は全く変わってしまうのです。弟子たちは、主イエス様を知っています。主イエス様の御言葉を聴き、そのみ業をこの目で見ました。そして弟子たちも主イエスさまも、これを隠してはおきませんでした。主イエス様によって癒され、たち直り、元気を得た人たちもまた、主イエス様のことを人々の一所懸命に伝えました。当時のイスラエルに住むユダヤ人の多くは主イエス様の名前を聞いたことがあるのです。名前だけでなく、御言葉を聴き、み業に与った人も沢山いたのです。そのことは多くの人に知られたのです。その主イエス様のことを念頭に置きながら旧約聖書を読むならば、その解釈は違ってくる、聖書を読むユダヤ人たちはその解釈を変えて欲しい、こう願っているのです。

「39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」

こう語った後、主イエス様はこういいます。

「5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

命を得るために聖書を読み、そして聖書によって導かれて、私のところに来るようにと主イエス様は招いて下さるのです。

3、

 31節では「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。」

と語りだします。これは、旧約聖書そのものが教え、ユダヤ人たちも証しの前提として知っていたことです。裁判における証言は、裁かれる人本人ではない人、それも二人以上の証言が必要でした。そうでなければ証言として価値がないとされていました。新改訳聖書は、ここのところを、「もしわたし自身について証しをするのがわたしだけならば、わたしの証言は真実でありません」と訳しています。

 主イエス様は、この説教の前半では、ご自分と父なる神との一体性を語られました。しかし、このことは、単に自分だけが証ししても、これは真実とは認められないであろうと言っているのです。それでは、主イエス様自身以外に、証言する人、証しをする人が誰かほかにいるのかといいますと、それは確かにいると言います。

「:32 わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている」

32節の御言葉です。わたし以外の証し人がいると言うのです。

 このあと、すぐ、主イエス様はバプテスマのヨハネ、洗礼者ヨハネについて語りだします。洗礼者ヨハネという人は、新約聖書の四つの福音書の全てで語られている預言者のような人です。ヨルダン川のほとりで、悔い改めの説教をしました。多くの人が洗礼者ヨハネのもとに来て洗礼を受けたのでした。35節で

「35 ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。

と言っているのは、そのことを表しています。洗礼者ヨハネは当時のパレスチナ、エルサレムにおいて一世を風靡したのです。

33節に「彼は真理について証しをした」とあります。道であり真理であり命である方について預言しました。そして主イエス様を見て、「神の子羊」と呼んだのです。罪の赦しのために捧げられる贖罪のための羊、その羊であり、しかも神の子羊と言ったのです。

しかし、主イエス様は言うのです。36節「36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。」

 ヨハネに勝る、もっと優れた証しがあると言うのです。そしてそれは「人間による証し」ではなく、父なる神ご自身が、主イエス様のなさる全ての行いと教えによってなさる神の証しなのであります。

 主イエスさまという存在そのものが、主イエス様のことを明らかにしていると言うことが第一のことです。

さらに、37節では、父なる神様は、もう一つの証しをして下さると言います。37節をお読みします。「37 また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。」

 この神ご自身の証しとは、人間の心の中に働く聖霊の証しに他なりません。神ご自身が、主イエス様の言葉を聴き、御業を知る一人一人の心に聖霊の神様のお働きという仕方で、主イエスを信じさせて下さるのです。聖霊が私たちの心を照らしてくださるのです。

4、

 人が、神様を信じる、救い主としての主イエス様を信じると言うことは一体どういう過程をたどって起こることなのでしょうか。

38節は、どうしてユダヤ人たちが、とりわけ律法学者、祭司長、ファリサイ派という聖書を熱心に研究する人々が、主イエス様を信じないのかということを明らかにします。聖書を研究し、神様について知っていると自称していても、実はあなたがたは神様のことを本当には知らないというのです。なぜか、それは、神の声を聴いていないし、神の姿をみていないからだと言います。昔、イスラエルはエジプトを脱出して荒れ野を旅した、神様のご臨在に与りました。それはヘブライ語でシェキーナと呼ばれる光を放つ雲、柱によって知ることが出来たのですが、神ご自身の声を聴いたのはモーセでありました。モーセが神の言葉を伝えました。しかし、今は、そうではない、あなた方自身も神のご臨在に与っていないし、モーセのような人も与えられていないのです。

 それだけではない、あなたがたは「自分の内に父のお言葉を留めていない」と主イエス様は付けくわえます。旧約聖書を熱心に読み、研究し、暗記さえしている、しかしそれでもなお、あなたがたの心の内には、神の言葉が本当の意味で留まっていないと言うのです。それはなぜか、その答えは38節後半で明らかになります。

「父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。」

父が遣わしたもの、つまり主イエス様を信じない、そのことが聖書を読むための根本的な目的であるのに、聖書の中に主イエス様を見ようとしない、だから、あなた方は神の言葉を本当には聴いていないのだと言うのです。

 わたしたちの聖書の読み方についても同じことが、ここでは告げられていると思います。わたしたちは聖書を読み、何を知るのかということです。人が正しく生きる道を知るのか、この世界の将来のことを知るのか、神がどれほど感謝すべきお方であるのかを知るのか、どれも正しいのです。問題は、そのすべてが主イエス様を知るということに結びついているのか、それが根本的なキ―ポイント、ドアを開けるための鍵穴であると言うことですなのではないでしょうか。

今朝の説教題を「命の書、聖書」といたしました。「命」とは、単に生物として生きているということではなく、わたしたちが新しく生きる、生まれる、イエス様を知って生きる命のことです。聖書を読んで、単に知的に理性の働きとしてイエス・キリストについての知識を持つと言うことではなく、わたしたちの心の動き、わたしたちの人格に関わることとして主イエス様を知るのです。

 主イエス様を信じるなら、聖書が分かると言います。しかし主イエス様を信じるためには聖書を読まなければならず、それも単に読むだけで足りない、信じて読まなければならないとするなら、それは、入り口も出口もなく、ぐるぐる回っている論理、いわゆる循環論法になります。循環論法は哲学、とくに論理学では通用しません。

 わたくしが神学生の頃に、今は東京におられる野島邦夫先生はドイツに留学される前で、千里山教会の牧師をしておられました。野島先生という方は阪大の大学院で物理学、特に原子物理学を専攻した秀才です。その後ドイツに行かれて、10年かけてブッパータル神学大学で博士号を授与されたことでも分かる通り、知的な能力においてずば抜けた方でした。その先生が、当時神学生であったわたくしにこう言われました。

 神さまがおられるということ、御子イエス・イエスが救い主であるということを知ることは、この世界について論理的に考えることによってその結論に到達することができる真理であり、決して間違ったことではない。けれども。それを知っただけでは信じることは出来ない、こういうのです。知識があるとしても、とにかく、えいやっと川を飛び越える、向こう側にゆく、その決心、決断がなければ、信じると言うことは出来ないとおっしゃられたのです。

 えいやっと川を飛び越える決心、それには博士号も物理学もあまり関係がない。もちろん信仰の知識が必要です。「イワシの頭も信心で有難い」ということでは断じてありません。けれども知識だけでは信仰には至らないのです。

決心すること、「信じます」、「とにかく神様にお委ねします」。その心がなくてはならないのです。聖書をよみ、人間のあるいは「わたし自身」の今の姿を鏡を映すように見て、このまま、何も信じることがないまま死ぬわけにはゆかないという気持ちになる。そしてえいやっと、川を渡るのです。川を渡るときには、浅いところを探りながら、人間の知識や知恵で見通せるところだけをへっぴり腰で進んで川を渡ることは出来ません。えいやっと、飛ばなければなりません。飛んでみて分かります。なんて狭い川だったのか。これは私自身の経験でもあります。阪大大学院、ドイツの神学大学博士号のもつ野島先生の経験も同じだったのです。

 40節で主イエス様はユダヤ人たちにこういいます。

「40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

主イエス様は招いておられます。主イエス様を信じない状態に留まっていないで「わたしのところへ来なさい」と言われるのです。主イエス様は今わたしたちを招いておられます。聖書を読んでわたしのところへ来なさい。そうすれば命を得ます。

 お祈りを致します。

神さま、あなたはわたしたちを今朝も導いて、この主の日の礼拝に集うことを赦して下さり感謝いたします。次週は、特別集会です。一人でも二人でも、新しい方が主イエス様のもとへ招かれますようお願いいたします。主の御名によって祈ります。アーメン。