2022年09月04日「イエス、最後の審判を予告する」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 5章19節~30節

メッセージ

2022年9月4日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書5章19節~30節「主イエス、最後の審判を予告する」

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

今日、与えられました御言葉は、19節のはじめの「そこで、イエスは彼らに言われた」というところ以外は、すべて主イエス様ご自身がお語りになった御言葉、いうなれば説教のような御言葉であると言うところに特徴があります。

言い換えますと、主イエス様と弟子たち、あるいはニコデモ、あるいはサマリヤの女との対話、そういう物語性を持った御言葉ではなくて、すべてが主イエス様の説教であります。ヨハネによる福音書としては、初めて主イエス様の本格的な説教がここで出てきている、そのような箇所であります。この説教は5章の終りまで続いています。その長い説教の第一部とでもいうべきものが、今朝の御言葉であります。

 この説教の分類をするとしますと、この説教は、大変神学的な説教と言うことが出来ると思います。ここには私たちの生活に密着したわかりやすいたとえばなしであるとか、あるいは実践的な勧めというものも一切ないのですね。ですから、これをただ一回通して聴いただけでは、なかなか頭に入らないのではないでしょうか。どうかしますと右から左へと抜けてしまって、何も残らないと言うような聴き方をしてしまう恐れさえあります。

 けれども、実はここで語られている主イエス様の説教は、私たちの信仰の土台となるような重要なものであります。レオン・モリスというオーストラリアの新約学者がおります。この人は、日本語訳で三巻に亘るようなヨハネ福音書の注解をかいていますが、その本の中で、これまた有名なライルという聖書学者の次の言葉を引用しています。

「福音書の中の他のどこにも、私たちの主が、これほど整った形で、系統的に、秩序正しく、きちっと主イエスと御父との一体性を、神から委託されている任務と権威を、主イエスがメシアであるという証拠、をこの証しの中におけるほどはっきりと述べている箇所はほかにない。」

父なる神と主イエス様との一体性、また主イエス様が神であると言う信仰は、これはユダヤ教とキリスト教の根本的な対立点になるような大切な御言葉であります。いわばキリスト教会の信仰の根本問題、基本の基がここでは、主イエスご自身の言葉によって解き明かされているのであります。

 はじめに「イエスは、彼らに言われた」とあります。新改訳聖書は「答えて言われた」、フランシスコ会訳聖書は、「答えて仰せになった」と訳しています。もとの言葉に付け加えられている「答えて」という言葉が省かれずに訳されています。今朝のみ言葉の直前の18節にはこう記されていました。「18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。」

そのように主イエス様を非難し攻撃するユダヤ人たちへの答えとして、主イエス様ははっきりとお語りになったのであります。

これまで主イエス様は、安息日にベトザタの池のほとりで、癒しの奇蹟を行われました。38年間歩くことが出来ずベッドに横たわったままだった病人を癒されたのであります。それだけでなく、この病人に「あなたが寝ていた床を担いで歩け」と言われました。ユダヤ教では、安息日には働いてはならず、床を担いで歩くと言うことは、当時、安息日にしてはならない労働として禁止されていたのです。さらに主なる神のことを「わたしの父」と呼び、ご自身を神と等しいものとしました。そこで、ユダヤ人たちは主イエス様をつけ狙い、殺そうとするようになりました。

 ギリシャ・ローマの多神教では神さまが沢山出て来ます。また日本のような汎神論世界、つまりキツネや蛇に始まり、山や川、歴史上の有名人に至るまで全てが神様になってしまいます。また、人間が神と等しくされると言うことも頻繁に起こります。

しかし当時のユダヤ人、あるいはユダヤ教の宗教指導者たちにとっては、そういうことは決してあってはならないこと、けがらわしいことでありました。被造物を神とすること、人間が自分を神と等しいものとすること、これ以上の罪はなかったのです。

主イエス様は、今朝のみ言葉から始まっている長い説教を「はっきり言っておく」という言葉で始めておられます。

元の言葉を直訳しますと、「アーメン、アーメン、わたしはあなた方に言う」、こういう言葉であります。「アーメン」とは私たちが祈りの最後に語る言葉ですね。ヘブライ語の「確かです、本当です、真実です」という意味の言葉です。ここでは言葉の初めに、アーメンが二度繰り返されています。新改訳聖書は、もっと直訳的に訳しています。「まことに、まことにあなた方に告げます」。この方が本来の言葉の力を感じさせます。また明治時代、大正時代の文語訳聖書はこう訳しています。「まことに、まことに汝らに告ぐ」。新改訳聖書は、この文語訳の流れにあると言って良いと思います。

さて、主イエス様は、ここから始まる長い説教において、ユダヤ教指導者たちの疑惑に真っ向から挑みかかるような言葉を語ります。あなた方の言うとおりだ、わたしは自分自身を神である父と同じ存在、つまり神としてはばからない、これは取り消されない確かなことだ、アーメン、アーメン、あなた方に告げます。このさいはっきり言っておく、わたしは、確かなこと間違いないこととして語るのだと主イエス様は、ここで前置きしてお語りになったのであります。

2、

 今朝の御言葉の中で、新共同訳の翻訳では「はっきり言っておく」、直訳では「アーメン、アーメン、あなた方に言います」という主イエス様の独特の言葉が三度繰り返されていることがお分かりでしょうか。初めの19節と、中ほどの24節と25節の初めです。この三度の前置きに導かれて、三つのことが語られていると言うことも出来ますけれども、良く読んでみますと、二回目のアーメン、アーメンは、19節からの御言葉のまとめ、結論のようにも思えます。そこで、今朝は、この御言葉を19節から24節までの前半と25節から30節までの後半部分の二つに分けて読み解いてみたいと思います。

 初めに主イエス様は、このように語り始められます。「「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。」

 子と言っておりますのは、主イエス様が自分自身のことをおっしゃっているわけです。父と申しますのは、父なる神であります。

 通常、主イエス様は、「人の子」という言葉でご自分のことを表現することが多いのですが、ここでは単に子といい、また父と言っております。ここでは、主イエス様が語られること、行いとして実践されること、すべてのことは、主イエス様が単独でなさることではなくて、それは父なる神様の御心によると言うこと、それ以外にはないということを証言しております。「子は自分からは何事も出来ない」と19節の真ん中にありますけれども、これとほとんど同じ言葉が、今朝の御言葉の最後の30節にも再び語られています。「わたしは自分では何もできない」全てが父なる神によっていると言うのです。

 それと同時に、父がなさることの全てを、自分もするのだとおっしゃっています。そしてこのことは最後の30節でも言われています。

「わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

ここで告げられていることは、主イエス様と父なる神の一体性であります。これまで主イエス様がなされた奇蹟、しるし、また、教え、すべてのことは、父なる神ご自身の御業であり、教えでありました。今朝のみ言葉には「子」と言う言葉が11回繰り返されます。すべてが、父なる神の「子」という意味で用いられ、またそれは、ご自分のこととして語られています。主イエス様は、ご自身が神の子であり、父なる神と一つの存在であり、その思いと行いは一致していることを主張なさっているのです。

 さらに、主イエス様は、これからご自分が、もっと大きな業を行うと宣言なさいます。それは人間の生き死に関わることであります。「死ななければならない人間が命に移される」ということであります。さきほど、「子」という言葉が11回繰り返されていると言いましたが、もう一つ繰り返し用いられている言葉があります。それは「命」という言葉です。名詞形で6回、動詞形「生きる」という形で1回、合わせて7回繰り返されています。3回目に出てきている24節では、この命の性質について、それは「永遠の命」であると告げ知らされています。

命には、二つの意味があります。一つは、肉体的、生物的に生きている、息をしているという命のことです。それとは違うもう一つの命があります。つまり霊的な意味で生きているか死んでいるかという命であります。霊的な命。生物として生きているとしても、神様とのゆるぎない、確かな関係の中で生きているか。そうではなくて神様から離れて、神さまの愛を知らず、自分勝手に生きているかと言う違いであります。人間の心の問題、心の向きのことであります。主イエス様が、ニコデモというユダヤ人に対して、人は新しく生まれなければ、神の国を見ることが出来ないと言われたのもこのことであります。

わたくしが、は以前に奉仕していました京都の男山教会で、前任の牧師から引き継いだことの一つは、会員に誕生日カードを送るということでした。誕生日カードと言いましても、普通の誕生日ではなくて、霊的な誕生日をお祝いする誕生日カードです。受洗記念日、信仰告白記念日にカードを送るのです。「何何兄弟、或いは姉妹、あなたは何年何月何日に洗礼を受けられました、信仰告白をなさいました。霊的な誕生日を迎えられまことにおめでとうございます。」こういうカードです。そして、そのカードに、洗礼や信仰告白の際の誓約事項を改めて記します。

わたしたちには、自分がこの世に生まれた日、生物としての誕生日と、主イエス様を信じて新しい命、霊の命、永遠の命を頂いた霊的な誕生日とがあるのです。わたしたちの霊は、肉体によって生きるのであり、また肉体は霊によって生きるという相互関係があります。霊が新しくされて生まれるならば、この世界で体を持って生きる生き方もまたはっきりと違ってくることになります。主イエス様から命を頂くことは、新しく生まれることであり、新しい生き方を始めることであります。それは、救いを受けるということでもあります。

今朝の御言葉の急所は、主イエスがそのように人を救う力、権威を父なる神から完全に授けられていると言うことです。信じるものに命を与え、あるいは信じないものを裁く、そのすべての権能が主イエス様にゆだねられているということです。私たちが、主イエス様と父なる神様は一体である、一つであると言うときには、そこまで行かなければ本当ではありません。裁きと救いにおいても、主イエス様と父なる神さまは一体であり、一つなのです。

主イエス様の言葉を聴き、主イエス様を信じることは、とりもなおさず、天地を造り治めておられる父なる神を信じることと一つのことであります。新しい、霊の命を得ており、それゆえに肉体の命が滅びても命を持ち続けるし、やがては復活の体をいただいて、永遠に主イエスキリストの神様を賛美し、お仕えするのです。

3、

さて、25節からは、二つ目の主題に移ります。「はっきり言っておく」「アーメン、アーメンあなたたちに告げます。」、もう一度こう前置きして主イエス様はこう続けられました。「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」

 主イエス様のもとには、人々に分け与える命がありますので、霊的に死んでいるものが、主イエス様の御声を聴き、教えを受け入れ、主イエス様を信じることによって命に入ることが出来る、そのときが今来たと言われるのです。

 その上で28節以下に、書かれていることは、いわゆる最後の審判のことに他ならないのであります。

 最後の審判の日というものが、やがて来ると言うことは私たちの信仰であります。それはいつ起きるのか、そのときに何が起こるのかということについては聖書のごくわずかな箇所で教えられているに過ぎません。それは人間の好奇心の餌食にされないようにという主イエス様のご配慮であると思います。ここで確かなことは、その最後の審判の責任者は、主イエス様であるということです。

 ここでは、善を行ったものと悪を行ったものとの区別が言われています。この善と悪ということは、いわば救われているものとそうでないものとを見分ける標識のようなものです。善悪の基準は、もちろん、神さまの戒めに従うか背くかということです。その戒めの中心は十戒でありますし、この十戒を解釈された主イエス様の愛の教えであります。

 主イエス様を信じる人は主イエス様の教えに従おうとするので、完全には出来ないとしても、あるいは今すぐには出来ないとしても、心の向きの問題として、愛に励みます。神様を愛し、その御心に適うように、神さまと人への愛を実践しようとします。

 それに対して主イエス様を知らず、神様を信じない人は、方向感覚が定まりません。ある人は、この世の法律に背くことなく、人に迷惑をかけないことが大切だと言います。では積極的にするべきことは何かと問われると答えが出来ません。人生の目的、生きる目的がはっきりしないのです。最終的には目の前にある「あれやこれやの必要」や、その背後にある「人間の欲望の充足」のために生きて行かざるを得ません。

人間として、本当に人間らしく生きる道は、どんな生き方でしょうか。それは造り主の御心に適って生きることです。それ以外にはありません。悪を行ったものとは、何もこの世的な意味で罪を犯した人、犯罪人という意味ではありません。そうではなく、神様に従わないで生きた人という意味です。その人は、最後の審判の時に命を受けることは出来ないのです。

4、

 主イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を授けられてから、いよいよご自身の救い主の使命をはっきりと自覚なさり、ご自分の弟子を造り、神の国について、また新しい命について教え始められました。そして、ガリラヤのカナでなされた水をぶどう酒に変えてしまう奇蹟から始まって、病の癒しや死にそうな人に命を与えると言ったさまざまな奇蹟を行ってこられました。さらに、エルサレム神殿の境内で商売している人を追い出したり、神殿を破壊せよと命じたりしました。さらには当時のユダヤ教の安息日の教えに挑戦して、人の子は、つまり主イエス様自身こそが、安息日の主であると宣言されました。

エルサレムにいるユダヤ教の指導者たちは、この主イエスという人に注目しはじめました。そしてついに、彼は危険分子だ、主イエス様を捉えなければならない、殺さなければならないという結論を抱くに至りました。

 そんな中で、今朝の御言葉が主イエス様ご自身によって語られました。それはユダヤ人たちの非難や攻撃を和らげるようなものではなく、あるいは、彼らの思っていることは誤解だと言って弁明するようなものでもありませんでした。そうではなく、むしろ、自分はあなたがたユダヤ人たちのいう通りのものであると証しされたのです。自分は父なる神と一体である、一つであると断言なさいました。「はっきり言っておく」、「アーメンアーメン,あなたがたに告げます」といって、神の子の宣言をなさったのであります。

キリスト教会は「主イエス様において」神を礼拝し、「主イエス様において」神を崇めるところです。これこそが、同じように旧約聖書をもっているユダヤ教とも違う、イスラム教でもない、キリストの教会の根本なのであります。なぜなら、主イエス様、子なる神と父なる神は完全に一体であり、一つであるからです。父、子、聖霊の三位一体の神様に感謝いたします。祈りをささげます。

祈り

天にいます父なる神、御子イエス・キリストをわたくしたちに下さり、この方を神の子、救い主として信じる信仰をくださって感謝いたします。あなたの恵みの中でこの週も、この月も歩むことが出来ますよう導いてください。主の御名によって祈ります。アーメン。