聖書の言葉 ヨハネによる福音書 4章1節~26節 メッセージ 2022年8月7日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書4章1節~26節「命の水キリスト」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 今朝のみ言葉の4節は、注意して読まなければならないみ言葉であると思います。 「しかし、サマリアを通らなければならなかった」。「通らなければならなかった」と書かれています。つまり主イエス様一行としては、出来ればサマリアを通りたくなかった、普通ならそこにはゆかないけれども、このときは理由があって、そこを通らなければならなかったということであります。これには歴史的な背景があります。 当時ユダヤ人とサマリア人は不仲でありました。ユダヤからガリラヤに向ってイスラエルを縦断するように北上する道は、三本あります。海沿い平野の道、ヨルダン川沿いの道、そして中央山地を辿るサマリアを通る道です。距離的には、このサマリア経由の道がもっとも近いのですが、ユダヤ人は普通、この道を通りません、サマリア人を嫌っていたからです。 主イエス様は、ユダヤ人にとって気に入らないサマリア人に、さらに、そのサマリア人の中でも周囲から蔑まれていた一人の女性に心を留めて下さいました。福音をお語りになり、そして最後には、この女性を伝道者に変えてしまわれたのであります。このことは主イエス様の福音伝道は、相手を選ばないことを示していると思います。この人には福音を伝えよう、あの人にはやめておこうということはないのです。わたしたちが、この日本の地、熊本の地で福音を伝える姿勢も同じであると思います。 このあとの主イエス様とサマリアの女性との会話を理解するためには、少し歴史を学ぶ必要がります。紀元前8世紀、サマリアは滅亡する前のイスラエル北王国の都でありました。紀元前722年、北王国は、北の大国アッシリアによって滅ぼされてしまいます。アッシリアは北王国の主だった人たちを、みな本国へ連れて行きました。そして代わりに沢山のアッシリアの人々をサマリアに移住させたのです。もともと偶像礼拝の盛んな土地にアッシリア人が移り住んだので、サマリアは、ユダヤ教はユダヤ教であっても、独特のユダヤ教になったと言われます。 北に続いて南の王国ユダの方もやがてバビロンによって滅ぼされます。南王国の人々はその後も民族的な純粋性を保つのですが、サマリアには、アッシリア人との混血の人が定着して、民族的な純粋性が保てなくなります。サマリア人がエルサレムではなく、ゲリジム山に神殿を建設したということもあって、これは何百年単位の歴史に根差していますけれども、ユダヤ人たちは、サマリア人を軽蔑し、両者は互いに対立し合っていたのです。 そういう土地に主イエス様は今朝、おいでになりました。主イエス様とその一行は、ファリサイ派の人々の目を避けてガリラヤへ向かっているからでした。いわば避難行です。サマリア経由の道の方が早くガリラヤに行くことが出来ますし人通りも少ないのです。そのため、あえてサマリアを通りました。しかし、今回主イエス様は、サマリアを通らねばならない、是非通りたいと願っていました。サマリア人の一人の女と出会うためでありました。その出会いを通して、サマリアの人々全体が、まことの礼拝へと道を開かれたのです。 2、 この女性は、周囲のサマリア人とは違う、大変変わって人生を歩んでいました。17節で、主イエス様は、永遠の命に至る水を求める女性に向かって、あなたの御亭主をここに連れて来なさいと命じました。しかし彼女は、夫を連れて来ることは出来ないと言いました。主イエス様が全てお見通しになったように、彼女はこれまでに五人も夫を変えていたのです。そして、いまの夫は正式の夫ではなく、同棲中の身であったからです。サマリアでも同じであったと思いますが、ユダヤでは、このような女性は、姦淫の女とされて、石打ちの刑に処せられる存在です。 後の方で、この女性がサマリアの人々に「この人はわたしのことを全て言い当てました」とふれ回りますと、多くの人々がイエスを信じたと書かれています。町の人々は、このようなふしだらなと言いますか、いわば札付きの女性のいうことを、普通は相手にしないような気がします。けれども、ここでは人々が耳を傾けています。つまり、この人は、人々から全く軽蔑されていて、疎外され全く孤立していたのではないようです。町の人々から軽蔑され遠ざけられていた人でしたけれども、しかし細い絆であったかもしれませんが、人々とは交流があったにちがいありません。 わたしたちは、この世で尊敬されていたり、大きな影響力を持っていたりする人が教会にいれば大きな力になると考えます。それだけ多くの人に主イエス様のこと、教会の信仰のことを世に伝えることが出来ると考えていると思います。反対に、わたしのような平凡な、あるいは取るに足りないようなものにはとても伝道はできないと考えてしまうこともあるのではないでしょうか。しかしそのような考える必要は全くないのです。神様は、このサマリアの女性のように、どんな人でも、すべての人を、その機会に応じて伝道のために用いて下さいます。 このサマリアの女は、身持ちの悪い不道徳な生活を送っていました。けれども、彼女は、聖書をよく知っています。主イエス様に対して、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来ることを知っている」「その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださる」と言っています。そして終わりの方では、主イエス様に向かって、「あなたを預言者とお見受けする」とまで語っています。また、彼女は旧約聖書に出て来るイスラエル12部族の父であるヤコブを「わたしたちの父」とも呼んでいます。この井戸はヤコブが掘ってわたしたちに与えたと言います。ヤコブは、アブラハム、イサク、ヤコブと続く信仰者の系譜の三代目です。ヤコブの12人の子供たちは、北と南を合わせたイスラエル12部族の源流と言われています。つまり彼女は、ヤコブを父と呼ぶことで、サマリア人であっても、自分もまたイスラエルの子孫であると言っています。 主イエス様は、このような普通の人とは違う、いわば特別の女性を用いてサマリア伝道の器として下さったということができると思います。 3、 シカルと言う町は、このヤコブの井戸から1.5キロくらい離れています。主イエス様は、正午ごろという、まことに熱い盛りの時間にヤコブの井戸のほとりに座って休んでおられました。弟子たちは、町に食べ物を買いに行っていて、主イエス様は一人でありました。そこへサマリア人の一人の女性が水を汲みにやってくるのです。 シカルの町にも当然、水を汲む井戸があったに違いないのに、この女性は、わざわざ一キロ半の道のりを一人で水甕(みずがめ)を担いでやってきます。水汲みは女性の仕事ではありましたが、普通は気温が下がり涼しい風が吹き始める夕暮か、あるいは朝早くにするものであります。しかし、この女性は、真昼に一人で、明らかに人目を避けて水汲みに来ています。そこにはやはり特別な理由があると言わねばなりません。 多くの注解者は、彼女は人々から差別され、軽蔑されていたので、町の水汲み場を使うことが許されていなかったのではないかと考えます。あるいは、許されてはいたけれども、彼女自身が大勢の人の前に出ることが出来ず、人々を避けてここに来ていると解説します。 相手の男性を目まぐるしく変える、あるいは変えざるを得なかった人生、それでも本当の愛を見つけることが出来ない、心の渇きを覚えているこの女性を、主イエス様は今ここに腰掛けてこの女性を待っておられました。 さて女性がやってきます。彼女が水を汲もうとしますと、知らない一人のユダヤ人が話しかけました。「水を飲ませて下さい」。この女性にとってこれは驚きでした。まずユダヤ人とサマリア人の対立反目があります。両者は互いを避けていて、ユダヤ人の方からサマリア人に話しかけることも、サマリア人からユダヤ人に話しかけることも普通はありません。さらに、イスラエルの習慣では見知らぬ女性に男性の方から話しかけるということは珍しいのです。彼女は驚きを率直に言い表わします。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。9節の御言葉です。 主イエス様は、待っていたかのように、自分が話しかけた理由を答えます。それは、わたしはあなたに生きた水を与えることが出来る者だからだという自己紹介です。そして生きた水を受けるためには、二つのことが必要だと言います。ひとつは、神の賜物を知るということです。賜物と訳されている言葉は、贈りもの、ギフトという言葉です。神は私たちに贈りもの、ギフトを下さる方である、神は私たちを愛し、よいものを下さるお方である、そしてその贈物はすでに与えられている、その事を知ってほしいと言うことです。第二は、このようにあなたに話しかけているわたしが誰であるかを知ってほしいと言うことです。二つのことは結びついています。主イエス様こそ、わたしたちへの神様からの最大の贈りものであるからです。これが主イエス様の言葉でした。そしてここから、主イエス様とこの女性との命の対話が始まってゆくのでした。 4、 10節をお読みします。 10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 よく読んでみますと、これはあまりに謎めいたことばではないでしょうか。女性は、主イエス様の言葉の意味が分かりません。「生きた水」と訳されている言葉は、流れている水という言葉です。ヤコブの井戸は30メートルくらいの深さで、そのそこに井戸水があります。これをつるべで汲み上げなければなりません。つまりそれは止まった水です。 女性は反論します。あなたは、生きた水を与えると言うけれども、どこからその生きた水を手に入れるのか。汲むもののないし、井戸は深い。あなたはこの井戸を掘ったヤコブよりも偉い方なのか。 当然の疑問かもしれません。主イエス様は、生きた水とは、この井戸の水のようなものではないと答えます。井戸の水を飲んでも、また何時間かするならば、誰でも再びのどが渇くに違いない、しかし、わたしが与える水は、そのような肉体の渇きをいやす水ではないのだと言うのです。それは私たちの魂を生き返らせる、永遠の命の水であります。 わたしたちは主イエス様が誰であるかを知っています。そして神が私たちを愛して、この方を世に遣わしてくださった、このことを信じるならば、その人の魂は決して渇くことはないことを知っています。主イエス様は、この喜ばしい知らせ、福音をその女性に語られました。主イエス様が下さる水は、そのような水です。このお方を受けいれた時、それは私たちの内で泉となります。そこから永遠の命に至る水がわき出るのです。 このサマリアの女と主イエス様の問答を通して、私たちは、改めて主イエス様を信じる者の幸いを告げ知らされるのです。14節の御言葉をお読みします。 「14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」「、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 私たちの心はすぐに渇きます。この世界にはあまりにも悲しいことやつらいことが多いのです。娯楽に興じ、おいしいものを食べて、友人たちとたわいもない話をすることは楽しいことです。でもそれが終わると、また元の空しい心に戻ります。少しでも満足が長く続くように、もっと楽しい時間をと一層、充足感を追い求めても、結局は同じです。そうするともっと強い刺激を求めて私たちの魂は一層さまよい始めます。今、与えられているものを手放なさいように、もっと叱り握ろう、もっと沢山つかもうと焦るのです。 これを解決する道はあるのでしょうか、どうすればよいのでしょうか。 このあと、主イエス様は、この女性の境遇を言い当てます。そして、あなた方は霊と真理をもって父なる神を礼拝するようになる、今がその時だと語りました。 霊とは、神の霊、聖霊です。真理とは、主イエス様が救い主であり、神の賜物であり、十字架によって罪を解決されるという福音の真理です。このようにイエス・キリストを受け入れ、信じる礼拝こそ、決して渇くことのない永遠に命に至るただ一つの道なのです。 サマリアは、偶像礼拝の地でした。そこに罪に悩む女性がいました。その女性を主イエス様は、井戸のほとりで待っていてくださいました。そして、彼女に決して渇くことない生きた水を与えました。 私どもの心が決して渇くことがなくなる道は、わたしたちの心の中心にイエス・キリストをお迎えすることです。主イエス様は、私たちの罪の赦しのための神の贈り物です。私たちの、いいようもない不安、恐れ、空しさの源である私たちの罪を解決し、覆って下さるのです。このお方は、神の子であるにもかかわらず、私たちの代わりに、十字架にかかり、神の裁きを受け、私たちが味わう全ての暗黒と苦悩をすべて引き受けて下さいました。 「14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 これは本当のことであります。主イエス様が下さる特別の水、救いの水、命を水を受ければ、その人の内からも永遠の命に至る水が湧き出るのです。その水は、「ああ湧き出ている」、「湧き出ている」というように人の目で見ることはできないものです。しかし、主イエス様を受け入れた人からは、必ず流れ出ているのです。それはその人を遠くから見ればすぐにわかります。なぜなら、神様を信じている人は、この世界をしっかりとみると同時に、目に見えない神様の恵みをいつも見ているし見ようとするからです。神様の前に生きている人、神様の恵みの中に生きているのです。 そういう人を見れば、必ず普通の人とは違います。わたしたちもまたすでに変えられているのです。イエス・キリストの神を信じているからです。何かが燃えているはずです。水をかけようが消火器を使おうが決して消えない生きた聖霊の炎です。これは自己啓発や心理学の話ではありません。聖霊の下さる恵みの話です。 主イエスさまは、わたしたちに決して渇くことのない命の水を与えてくださいます。ここで主イエス様が語られたのは礼拝のことでした。霊と真理をもって捧げる礼拝、その中心に生きた水である主イエス様ご自身がおられると言われたのです。 霊と真理をもって捧げる礼拝、その中心に生きた水である主イエス様ご自身がおられます。わたしたちも、今日のこの礼拝で、生きた水を再び新しく受けようではありませんか。 神の言葉を聞き、私たちが、その真理を受け入れること、そして主イエス様が下さる聖霊に与ること、この二つのことは一つのことです。それは分離することがありません。教会の礼拝の中心は、生きておられる主イエス・キリストです。礼拝においてこそ、わたしたちは主イエス様において、父と子から出る聖霊の臨在に与かります。そして今朝は、聖餐式にもあずかります。 21節、主イエス様は言われました。「婦人よ、わたしを信じなさい」。サマリアの女性に向かって、主イエス様ご自身の言葉を信じ、また主イエス様ご自身を信じなさいと言われたのです。主イエス様は、魂の渇きをいやし、決して枯れることのない命の水、永遠の命の泉へとわたしたちを招きます。わたしたちは、今朝もまた生きた水にあずかりたいと願います。祈りを致します。 祈り 天の父なる神様、あなたは御子をわたしたちに賜り、罪の赦しと悔い改め、そして変わることのない永遠の命をわたしたちに与えてくださいます。決して渇くことない生きた水、主イエス様ご自身を心に受けながらこの週も、この月も歩むことができるようにしてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
2022年8月7日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書4章1節~26節「命の水キリスト」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
今朝のみ言葉の4節は、注意して読まなければならないみ言葉であると思います。
「しかし、サマリアを通らなければならなかった」。「通らなければならなかった」と書かれています。つまり主イエス様一行としては、出来ればサマリアを通りたくなかった、普通ならそこにはゆかないけれども、このときは理由があって、そこを通らなければならなかったということであります。これには歴史的な背景があります。
当時ユダヤ人とサマリア人は不仲でありました。ユダヤからガリラヤに向ってイスラエルを縦断するように北上する道は、三本あります。海沿い平野の道、ヨルダン川沿いの道、そして中央山地を辿るサマリアを通る道です。距離的には、このサマリア経由の道がもっとも近いのですが、ユダヤ人は普通、この道を通りません、サマリア人を嫌っていたからです。
主イエス様は、ユダヤ人にとって気に入らないサマリア人に、さらに、そのサマリア人の中でも周囲から蔑まれていた一人の女性に心を留めて下さいました。福音をお語りになり、そして最後には、この女性を伝道者に変えてしまわれたのであります。このことは主イエス様の福音伝道は、相手を選ばないことを示していると思います。この人には福音を伝えよう、あの人にはやめておこうということはないのです。わたしたちが、この日本の地、熊本の地で福音を伝える姿勢も同じであると思います。
このあとの主イエス様とサマリアの女性との会話を理解するためには、少し歴史を学ぶ必要がります。紀元前8世紀、サマリアは滅亡する前のイスラエル北王国の都でありました。紀元前722年、北王国は、北の大国アッシリアによって滅ぼされてしまいます。アッシリアは北王国の主だった人たちを、みな本国へ連れて行きました。そして代わりに沢山のアッシリアの人々をサマリアに移住させたのです。もともと偶像礼拝の盛んな土地にアッシリア人が移り住んだので、サマリアは、ユダヤ教はユダヤ教であっても、独特のユダヤ教になったと言われます。
北に続いて南の王国ユダの方もやがてバビロンによって滅ぼされます。南王国の人々はその後も民族的な純粋性を保つのですが、サマリアには、アッシリア人との混血の人が定着して、民族的な純粋性が保てなくなります。サマリア人がエルサレムではなく、ゲリジム山に神殿を建設したということもあって、これは何百年単位の歴史に根差していますけれども、ユダヤ人たちは、サマリア人を軽蔑し、両者は互いに対立し合っていたのです。
そういう土地に主イエス様は今朝、おいでになりました。主イエス様とその一行は、ファリサイ派の人々の目を避けてガリラヤへ向かっているからでした。いわば避難行です。サマリア経由の道の方が早くガリラヤに行くことが出来ますし人通りも少ないのです。そのため、あえてサマリアを通りました。しかし、今回主イエス様は、サマリアを通らねばならない、是非通りたいと願っていました。サマリア人の一人の女と出会うためでありました。その出会いを通して、サマリアの人々全体が、まことの礼拝へと道を開かれたのです。
2、
この女性は、周囲のサマリア人とは違う、大変変わって人生を歩んでいました。17節で、主イエス様は、永遠の命に至る水を求める女性に向かって、あなたの御亭主をここに連れて来なさいと命じました。しかし彼女は、夫を連れて来ることは出来ないと言いました。主イエス様が全てお見通しになったように、彼女はこれまでに五人も夫を変えていたのです。そして、いまの夫は正式の夫ではなく、同棲中の身であったからです。サマリアでも同じであったと思いますが、ユダヤでは、このような女性は、姦淫の女とされて、石打ちの刑に処せられる存在です。
後の方で、この女性がサマリアの人々に「この人はわたしのことを全て言い当てました」とふれ回りますと、多くの人々がイエスを信じたと書かれています。町の人々は、このようなふしだらなと言いますか、いわば札付きの女性のいうことを、普通は相手にしないような気がします。けれども、ここでは人々が耳を傾けています。つまり、この人は、人々から全く軽蔑されていて、疎外され全く孤立していたのではないようです。町の人々から軽蔑され遠ざけられていた人でしたけれども、しかし細い絆であったかもしれませんが、人々とは交流があったにちがいありません。
わたしたちは、この世で尊敬されていたり、大きな影響力を持っていたりする人が教会にいれば大きな力になると考えます。それだけ多くの人に主イエス様のこと、教会の信仰のことを世に伝えることが出来ると考えていると思います。反対に、わたしのような平凡な、あるいは取るに足りないようなものにはとても伝道はできないと考えてしまうこともあるのではないでしょうか。しかしそのような考える必要は全くないのです。神様は、このサマリアの女性のように、どんな人でも、すべての人を、その機会に応じて伝道のために用いて下さいます。
このサマリアの女は、身持ちの悪い不道徳な生活を送っていました。けれども、彼女は、聖書をよく知っています。主イエス様に対して、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来ることを知っている」「その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださる」と言っています。そして終わりの方では、主イエス様に向かって、「あなたを預言者とお見受けする」とまで語っています。また、彼女は旧約聖書に出て来るイスラエル12部族の父であるヤコブを「わたしたちの父」とも呼んでいます。この井戸はヤコブが掘ってわたしたちに与えたと言います。ヤコブは、アブラハム、イサク、ヤコブと続く信仰者の系譜の三代目です。ヤコブの12人の子供たちは、北と南を合わせたイスラエル12部族の源流と言われています。つまり彼女は、ヤコブを父と呼ぶことで、サマリア人であっても、自分もまたイスラエルの子孫であると言っています。
主イエス様は、このような普通の人とは違う、いわば特別の女性を用いてサマリア伝道の器として下さったということができると思います。
3、
シカルと言う町は、このヤコブの井戸から1.5キロくらい離れています。主イエス様は、正午ごろという、まことに熱い盛りの時間にヤコブの井戸のほとりに座って休んでおられました。弟子たちは、町に食べ物を買いに行っていて、主イエス様は一人でありました。そこへサマリア人の一人の女性が水を汲みにやってくるのです。
シカルの町にも当然、水を汲む井戸があったに違いないのに、この女性は、わざわざ一キロ半の道のりを一人で水甕(みずがめ)を担いでやってきます。水汲みは女性の仕事ではありましたが、普通は気温が下がり涼しい風が吹き始める夕暮か、あるいは朝早くにするものであります。しかし、この女性は、真昼に一人で、明らかに人目を避けて水汲みに来ています。そこにはやはり特別な理由があると言わねばなりません。
多くの注解者は、彼女は人々から差別され、軽蔑されていたので、町の水汲み場を使うことが許されていなかったのではないかと考えます。あるいは、許されてはいたけれども、彼女自身が大勢の人の前に出ることが出来ず、人々を避けてここに来ていると解説します。
相手の男性を目まぐるしく変える、あるいは変えざるを得なかった人生、それでも本当の愛を見つけることが出来ない、心の渇きを覚えているこの女性を、主イエス様は今ここに腰掛けてこの女性を待っておられました。
さて女性がやってきます。彼女が水を汲もうとしますと、知らない一人のユダヤ人が話しかけました。「水を飲ませて下さい」。この女性にとってこれは驚きでした。まずユダヤ人とサマリア人の対立反目があります。両者は互いを避けていて、ユダヤ人の方からサマリア人に話しかけることも、サマリア人からユダヤ人に話しかけることも普通はありません。さらに、イスラエルの習慣では見知らぬ女性に男性の方から話しかけるということは珍しいのです。彼女は驚きを率直に言い表わします。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。9節の御言葉です。
主イエス様は、待っていたかのように、自分が話しかけた理由を答えます。それは、わたしはあなたに生きた水を与えることが出来る者だからだという自己紹介です。そして生きた水を受けるためには、二つのことが必要だと言います。ひとつは、神の賜物を知るということです。賜物と訳されている言葉は、贈りもの、ギフトという言葉です。神は私たちに贈りもの、ギフトを下さる方である、神は私たちを愛し、よいものを下さるお方である、そしてその贈物はすでに与えられている、その事を知ってほしいと言うことです。第二は、このようにあなたに話しかけているわたしが誰であるかを知ってほしいと言うことです。二つのことは結びついています。主イエス様こそ、わたしたちへの神様からの最大の贈りものであるからです。これが主イエス様の言葉でした。そしてここから、主イエス様とこの女性との命の対話が始まってゆくのでした。
4、
10節をお読みします。
10 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
よく読んでみますと、これはあまりに謎めいたことばではないでしょうか。女性は、主イエス様の言葉の意味が分かりません。「生きた水」と訳されている言葉は、流れている水という言葉です。ヤコブの井戸は30メートルくらいの深さで、そのそこに井戸水があります。これをつるべで汲み上げなければなりません。つまりそれは止まった水です。
女性は反論します。あなたは、生きた水を与えると言うけれども、どこからその生きた水を手に入れるのか。汲むもののないし、井戸は深い。あなたはこの井戸を掘ったヤコブよりも偉い方なのか。
当然の疑問かもしれません。主イエス様は、生きた水とは、この井戸の水のようなものではないと答えます。井戸の水を飲んでも、また何時間かするならば、誰でも再びのどが渇くに違いない、しかし、わたしが与える水は、そのような肉体の渇きをいやす水ではないのだと言うのです。それは私たちの魂を生き返らせる、永遠の命の水であります。
わたしたちは主イエス様が誰であるかを知っています。そして神が私たちを愛して、この方を世に遣わしてくださった、このことを信じるならば、その人の魂は決して渇くことはないことを知っています。主イエス様は、この喜ばしい知らせ、福音をその女性に語られました。主イエス様が下さる水は、そのような水です。このお方を受けいれた時、それは私たちの内で泉となります。そこから永遠の命に至る水がわき出るのです。
このサマリアの女と主イエス様の問答を通して、私たちは、改めて主イエス様を信じる者の幸いを告げ知らされるのです。14節の御言葉をお読みします。
「14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」「、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
私たちの心はすぐに渇きます。この世界にはあまりにも悲しいことやつらいことが多いのです。娯楽に興じ、おいしいものを食べて、友人たちとたわいもない話をすることは楽しいことです。でもそれが終わると、また元の空しい心に戻ります。少しでも満足が長く続くように、もっと楽しい時間をと一層、充足感を追い求めても、結局は同じです。そうするともっと強い刺激を求めて私たちの魂は一層さまよい始めます。今、与えられているものを手放なさいように、もっと叱り握ろう、もっと沢山つかもうと焦るのです。
これを解決する道はあるのでしょうか、どうすればよいのでしょうか。
このあと、主イエス様は、この女性の境遇を言い当てます。そして、あなた方は霊と真理をもって父なる神を礼拝するようになる、今がその時だと語りました。
霊とは、神の霊、聖霊です。真理とは、主イエス様が救い主であり、神の賜物であり、十字架によって罪を解決されるという福音の真理です。このようにイエス・キリストを受け入れ、信じる礼拝こそ、決して渇くことのない永遠に命に至るただ一つの道なのです。
サマリアは、偶像礼拝の地でした。そこに罪に悩む女性がいました。その女性を主イエス様は、井戸のほとりで待っていてくださいました。そして、彼女に決して渇くことない生きた水を与えました。
私どもの心が決して渇くことがなくなる道は、わたしたちの心の中心にイエス・キリストをお迎えすることです。主イエス様は、私たちの罪の赦しのための神の贈り物です。私たちの、いいようもない不安、恐れ、空しさの源である私たちの罪を解決し、覆って下さるのです。このお方は、神の子であるにもかかわらず、私たちの代わりに、十字架にかかり、神の裁きを受け、私たちが味わう全ての暗黒と苦悩をすべて引き受けて下さいました。
「14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
これは本当のことであります。主イエス様が下さる特別の水、救いの水、命を水を受ければ、その人の内からも永遠の命に至る水が湧き出るのです。その水は、「ああ湧き出ている」、「湧き出ている」というように人の目で見ることはできないものです。しかし、主イエス様を受け入れた人からは、必ず流れ出ているのです。それはその人を遠くから見ればすぐにわかります。なぜなら、神様を信じている人は、この世界をしっかりとみると同時に、目に見えない神様の恵みをいつも見ているし見ようとするからです。神様の前に生きている人、神様の恵みの中に生きているのです。
そういう人を見れば、必ず普通の人とは違います。わたしたちもまたすでに変えられているのです。イエス・キリストの神を信じているからです。何かが燃えているはずです。水をかけようが消火器を使おうが決して消えない生きた聖霊の炎です。これは自己啓発や心理学の話ではありません。聖霊の下さる恵みの話です。
主イエスさまは、わたしたちに決して渇くことのない命の水を与えてくださいます。ここで主イエス様が語られたのは礼拝のことでした。霊と真理をもって捧げる礼拝、その中心に生きた水である主イエス様ご自身がおられると言われたのです。
霊と真理をもって捧げる礼拝、その中心に生きた水である主イエス様ご自身がおられます。わたしたちも、今日のこの礼拝で、生きた水を再び新しく受けようではありませんか。
神の言葉を聞き、私たちが、その真理を受け入れること、そして主イエス様が下さる聖霊に与ること、この二つのことは一つのことです。それは分離することがありません。教会の礼拝の中心は、生きておられる主イエス・キリストです。礼拝においてこそ、わたしたちは主イエス様において、父と子から出る聖霊の臨在に与かります。そして今朝は、聖餐式にもあずかります。
21節、主イエス様は言われました。「婦人よ、わたしを信じなさい」。サマリアの女性に向かって、主イエス様ご自身の言葉を信じ、また主イエス様ご自身を信じなさいと言われたのです。主イエス様は、魂の渇きをいやし、決して枯れることのない命の水、永遠の命の泉へとわたしたちを招きます。わたしたちは、今朝もまた生きた水にあずかりたいと願います。祈りを致します。
祈り
天の父なる神様、あなたは御子をわたしたちに賜り、罪の赦しと悔い改め、そして変わることのない永遠の命をわたしたちに与えてくださいます。決して渇くことない生きた水、主イエス様ご自身を心に受けながらこの週も、この月も歩むことができるようにしてください。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。