聖書の言葉 ヨハネによる福音書 3章31節~35節 メッセージ 2022年7月31日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書3章31節~36節「三位一体の神~父、子、聖霊の恵み」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 今朝のみ言葉を繰り返し読みながら心に留まったことは、「地に属する」と言う言葉が繰り返し出てくることであります。また「地から出るもの」と言う言葉も用いられています。実は、元のギリシャ語では、いずれも単純に「地から」「フロム・アース」という言葉です。地とは地上の地、つまり「天ではないところ」ということであります。「この世」と言い換えても良いかも知れません。 天は、神様のご支配が完全に成し遂げられているところです。しかし、この地上ではそうではありません。わたしたちはこの世で生きております。地に属するものとして生きております。 さて、31節の書き出しは「上から来られる方は」です。「上から来られる方」、この方は主イエス様のことであります。31節をもう一度お読みいたします。 「31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」 「地に属する者として語る」、それはここでは直接的には、洗礼者ヨハネのことでありますけれども、ヨハネだけでなく、主イエス様とは違う存在、この世に属し、この世から生まれ出ている人間、およそ人類すべてのことでもあると考えられます。人間が語ることは主イエス様が語られることとは違います。その言葉が出てくるもとになっている、わたしたち一人一人の体験や思い、それらのすべても主イエス様とは違っている、ある場合には対照的なほど違っていることを考えないわけにゆきません。わたしたちは地に属する者であります。けれども、その地に属する者が、天に属するものとなることができる道が開かれています。その道は救い主であり、天から来られた方、主イエス・キリスト以外にはないのであります。 興味深いことですけれども、31節から35節には、イエス・キリストという言葉はまったく出てきていません。しかし、実際には、ここでは初めから終わりまで、主イエス様のことが語られています。 このヨハネによる福音書の書き出しの部分、1章1節から18節は三つの部分からなるキリスト賛歌でありました。今朝のみ言葉もまたキリスト賛歌と言わなければなりません。この新共同訳聖書の翻訳では、ここは洗礼者ヨハネの言葉とされていますが、他の多くの翻訳では、そうではなく、福音書記者ヨハネの言葉として訳されています。文法的にはどちらも可能ですが、わたくしとしては、1章1節から18節までのキリスト賛歌と同じように、福音書記者ヨハネによるキリスト賛歌として読むことがふさわしいと思います。 そういうわけで、今朝の御言葉の主語はすべて主イエス様に置き換えて読まなければなりません。そのように置き換えて、31節から34節をお読みします。 「主イエス様は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属するものとして語る。主イエス様は、すべてのものの上におられる。主イエス様は、見たこと、聞いたことを証しされるが、誰もその証を受け入れない。主イエス様の証しを受けいれるものは神が真実であることを確認したことになる。主イエス様は神の言葉を話される。神が霊を限りなくお与えになるからである。」 「上から」と言う言葉が、「天から」と言い換えられていますけれども、同じことを言っておいます。主イエス様は、父なる神から、天におられる神の許から来られたのであります。もとの言葉は、今現在、来ておられる方という言葉でもあります。主イエス様は天からつまり、父なる神の身許から来られる方であり、そして洗礼者ヨハネが登場したとき、すでにおいでになっていたお方であります。そして今現在は、聖霊において、わたしたちと共にいてくださいます。 わたしたちが地上で生きてゆきますとき、わたしたちは、この世で次々と起きてくる、いろいろなことに遭遇します。それらすべてのことは、外見的には、この地上における横の関係、水平の関係の中で起きていることです。家族と一緒に生活する、あるいは地域や、また日本という国の国民として生活する、そのときにいろいろな問題にぶつかることでしょう。教会という共同体と周りのものとの摩擦や衝突もあると思います。また教会の中でも様々な問題が起きてきます。しかし、わたしたちは、そういう地上のあれやこれやと向き合う時に、まず「上と下」、「天と地」という垂直の関係に心を向けることが求められているのではないでしょうか。目の前に見ているあれやこれやのことだけに目を向けるのではなく、それと同時に、この世界全体を超えておられる方に、改めてまなざしを天に注げ、神に注ぐのです。 2 今朝のみ言葉では、主イエス様がいつも主語であり中心であると申し上げました。しかし、同時にここで明らかにされていることは、主イエス様のご存在とお働きは、ただ一人で孤独の中でなされるものではなくて、いつも父なる神と聖霊との関係、つながりの中でなされているということであります。今朝の説教題は「三位一体の神~父と子と聖霊の恵み」としました。聖書は、この神様をある時には、父なる神と呼び、またある時には御子イエス・キリストと呼び、更には、み霊、聖霊と呼びます。三つの方は一つであり、しかしまた、同時に三つの方であります。 34節には、主イエス様は「神がお遣わしになった方である」と書かれています。また「神の言葉を語り、神が霊を限りなく与える」とも記されています。この「神」は、天なる神、天地万物をお造りになったお方、父なる神です。そして、主イエス様が父から限りなく受けられる霊とは、聖霊にほかなりません。ここには父、子、聖霊の間の関係、深いつながり、交わりが記されていると思います。 神は、三つにして一人のお方であります。けれども、わたしたちのところに肉体を伴って人間として来てくださったお方は、ただお一人、主イエス様であります。 そして、御父は御子にすべてのことを委ねられたとも書かれています。わたしたちにとりまして、イエス・キリストこそ、わたしたちの主であり、救い主であるお方であります。わたしたちが今向き合っているあれやこれやのこと、そのすべてのものの上に、主イエス様のまなざしが注がれている、このお方の御手の内にあるということをわたしたちは、改めて覚えるべきなのであります。 わたくし父は大正6年、1917年生まれで、もう20年以上前に亡くなりました。父が亡くなってしばらく母は、健康にも恵まれ、近所の友達も健在で、地域の同好会に参加しておりました、また、同じように元気であった妹、わたしから見ますと叔母さんですが、その叔母さんともよく旅行に行き、一人暮らしを謳歌しておりました。 けれども、ある時、わたくしのところに近所のおばさんから電話がかかり、母が脳梗塞で倒れて救急車で運ばれたと知らされたのです。そのときは、わたくしは京都の教会で奉仕していましたので、すぐに京都から新幹線にのって夕方に東京の病院に駆けつけました。母は病院でベッドに横たわっていました。さいわいに、命に別状はなかったのですが、左半身に軽い麻痺が残りました。退院して、まず老人保健施設(ローケン)で三か月過ごしてから家に帰りました。 しかし、これまでと生活は一変しました。母はもう軽やかに歩くことが出来ませんし、煮炊きの使う火の扱いにも不安があるとケアマネジャーさんから知らされました。そこで思い切って、京都の家に引き取ることにいたしました。牧師館は教会の三階でしたので、母の年金で一軒家を借りて、それから8年間、同居して介護を致しました。8年後に母は、天に召されました。 ある時点を境に、わたしたちの人生は一変してしまいます。今でも、あの頃のことを思いますと我ながらよく頑張ったなあと思います。しかし、長い時間軸で見るなら、このようなことは、誰にでも起こることであります。思いがけないことが起きてくる、そういうことから誰も逃れることが出来ないのであります。 わたしたちには、この地上世界の中で経験する様々な問題があります。人間同士の関係も重要です。私たちが幸せに、喜びをもって生きるためには、人間同士の関係が何時も良好である、問題が解決しているということが、本当に大切なことですけれども、それがいつもうまくゆくとは限りません。私たちは地に属するものです。 しかし、主イエス様は、神の御子であり、この地上世界を超えたお方であります。天に属するお方、天から来られる方です。そして何よりも、すべてのことを御手の内にご支配なさる力のあるお方です。さらに、これが大切ですが、私たちを愛し抜いて下さるお方であります。そのすべてのものの上にいて下さるお方がおられるという真理、これが私たちを救うのであります。 わたしたちの心の影や闇を照らしだし、本当の光を下さるお方がおられます。このお方により頼むなら光が射し込み、解決の道が与えられるのです。このお方の光の中で、横の関係、人と人との関係も本当の意味で健やかになるのではないでしょうか。 3、 洗礼者ヨハネは、主イエス様がこの世界に来られて救いのお働きを始める前に現れた預言者でした。罪の悔い改めと清めの洗礼を人々に勧めました。主イエス様と何人かの弟子たちも初めは、この洗礼者ヨハネと行動を共にしていました。しかし、主イエス様はヨハネから洗礼を受けたあと、ヨハネとは分かれて、別のところで洗礼を授けるようになります。 ヨハネは、自分は天から来たものではなく、あくまで地上の人間だと答えました。しかし、天から来られた方、上から遣わされた方が、自分とは別にいる、それはあのイエスだと言うのであります。 洗礼者ヨハネは、地に属するものとして語るものでした。そしてヨハネは言いました。あの方は違う、天から来たものとして、語っている。天で知らされたこと、見たこと聞いたことを語っているのだと言います。34節では、イエス様の言葉は神の言葉と呼ばれています。 「34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。」 この霊を「限りなく」受けると言う点が、わたしたちのような単なる人間と違うところです。わたしたちにも、聖霊が与えられます。しかし、それはここにあるような「限りなく」『限度なく』ということではないのです。地上にいる間、わたしたちは未完成であり、いつも罪と戦います。その戦いにおいて聖霊が与えられます。しかし、主イエス様にはそのような罪はなく、無限に聖霊が与えられます。主イエス様は父なる神と一つであるように、聖霊の神様とも完全に一つであるからです。 31節と34節を見ますと、主イエス様のことが、三重の名で呼ばれます。「上から来られる方」、「天から来られる方」、「神がお遣わしになった方」、です。その方は、人の姿を取り、まさに人間として生まれた方でありますけれども、しかし地上の人ではない。地に属するものではないのです。天から、上から、神から来た方なのです。 そして、このお方は、この世界をただ黙って見ていると言う方ではありません。あるいは評論家のように、この世界を解説するようなお方でもないのです。そうではなくて主イエス様は、わたしたちに天の上のことを証しされるお方です。主イエス様は、神の御心を語りました。弟子たちを招き、ガリラヤからユダヤ、エルサレムまで巡って、神の大切な言葉を語られました。 しかし、32節には、「誰もその証しを受け入れない」と書かれています。 わたしたちは、地上の事をつぶさに観察し、そこに身を置き、生まれ育ち、やがて死んでゆくものです。その中で、いつもまわりのこと、横の関係の中のことを気遣っています。 その中で大切なことは主イエス様のことを知ることです。このお方に耳を傾けなければなりません。わたしたちは天上のこと、神様の世界のことを聖書の言葉によって知らされなければ、本当の意味で知ることはできません。神様はわたしたちにとって見えないお方であり、わたしたちは、自動的に神様のことが分かるということはないのです。主イエス様がおいでになって、天の言葉を語り、神様のことを知らせてくださるのです。しかし、そうであるとしても、この世界は、主イエス様の御言葉をすぐには受け入れないのです。 当時、ユダヤの人々は「皆があの人のところへ行っています」と言われるほどに、主イエス様のところへ来たと言います。しかし、その沢山集まってきた群衆は、最後には主イエス様を見捨てます。十字架につけよと叫びます。気まぐれなのです。当てにならないのです。生まれながらのわたしたちの心は、いつも自分中心なのです。 4 32節をもう一度お読みします。 「32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。」 「誰も受け入れない」とは大げさではないかと思うかもしれません。主イエス様を受け入れる人は少しはいるではないか、このように教会に少ない人数かもしれないけれども、人が集っているではないかと言うかもしれません。しかし、この言葉はわたしたちの素の心、生まれながらの心を言っているのです。 36節の後半の御言葉は、そのような人間が最終的にどうなるのか、その姿を表わしています。 「御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」 神は、聖なるお方です。勝手にふるまうものを最終的にお裁きにならないと言うことはありません。わたしたちの素の心、生まれながらの心は、人を裁き、憎みます。人を人と思いません。いろいろな人々に対して、絶えず心残りや解決しなければならないことを新しく生まれさせているような存在です。 あるいはもっと大きな目で、人類の歴史を振り返ってみましょう。一人一人の心にわき起こった怖れや不安、憎しみが、戦争に利用されます。原子爆弾、核兵器というものがどうして造られたのでしょうか。他国を脅し脅かすためです。それによって自国の力を他国よりも優勢なものとしたいからです。そして実際に原子爆弾は広島、長崎で用いられました。阪神淡路大震災どころか、あの東日本大震災を上回る多くの人々が一瞬のうちに焼け死に、さらに苦しみの中でゆっくり死んでゆきました。三ヶ月後まででも一四万人が死にました。しかしこれは氷山の一角です。世界では、絶えず何万、何十万という人が殺されています。さらに今ウクライナをはじめ、世界のあちらこちらで、戦争は起きています。そして今も飢饉があり飢えがあります。そのような人間、そのような世界は、神様の前で申し開きが出来るのでしょうか。神様の怒りを受けて当然のものではないでしょうか。 「神の怒りが留まる」と書かれています。一瞬だけ怒りを受けると言うのではなく、怒りを受けているものが、これからも怒りを受け続けるのです。 しかし、神様は、この怒りを逃れる道を備えて下さいました。それは御子を信じることです。イエス・キリストを信じることです。 「36 御子を信じる人は永遠の命を得ている」と36節の前半に書かれています。 天の父なる神様は、罪のまったくない神の子を、あえて世に遣わし、その命を世に与えて下さいました。わたしたちが主イエス様と手をつなぐようにして主イエス様と結ばれるなら、主イエス様の十字架の刑罰を、その手をつないだわたしたち自身が受けたものとして下さるのです。わたしたちは、もうすでに罰を受けたものとして、もはや怒りを下されることはない、完全にないのです。そのような新しくされたものとして生きる命、これが永遠の命です。 主イエス様は、神様の愛を受け、すべてのものを委ねられています。わたしたちが、このお方を信じ受け入れることを神は喜んでくださいます。全てのものの上におられる方と和解し、その怒りを逃れる道が与えられています。わたしたちが人間同士の関係、水平方向の関係を本当に解決するためには、上と下の関係、垂直の関係を確かにする必要があります。神との和解を主イエス様の十字架の恵みによって受け、神の子となり永遠の命を受けて生きること、これこそわたしたちの歩むべき道であります。お祈りを致します。 主イエス・キリストの父なる神様、天から、神から遣わされた方、わたし達に永遠の命を下さる方、主イエス様の御名を崇めて賛美を致します。わたしたちはいつも恵みを覚え、救いの確信を確実なものとすることが出来るよう、上にあるものを見上げて歩むことが出来ますよう導いてください。神の恵み、神の真理を確かなものとして下さい。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
2022年7月31日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書3章31節~36節「三位一体の神~父、子、聖霊の恵み」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
今朝のみ言葉を繰り返し読みながら心に留まったことは、「地に属する」と言う言葉が繰り返し出てくることであります。また「地から出るもの」と言う言葉も用いられています。実は、元のギリシャ語では、いずれも単純に「地から」「フロム・アース」という言葉です。地とは地上の地、つまり「天ではないところ」ということであります。「この世」と言い換えても良いかも知れません。
天は、神様のご支配が完全に成し遂げられているところです。しかし、この地上ではそうではありません。わたしたちはこの世で生きております。地に属するものとして生きております。
さて、31節の書き出しは「上から来られる方は」です。「上から来られる方」、この方は主イエス様のことであります。31節をもう一度お読みいたします。
「31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。」
「地に属する者として語る」、それはここでは直接的には、洗礼者ヨハネのことでありますけれども、ヨハネだけでなく、主イエス様とは違う存在、この世に属し、この世から生まれ出ている人間、およそ人類すべてのことでもあると考えられます。人間が語ることは主イエス様が語られることとは違います。その言葉が出てくるもとになっている、わたしたち一人一人の体験や思い、それらのすべても主イエス様とは違っている、ある場合には対照的なほど違っていることを考えないわけにゆきません。わたしたちは地に属する者であります。けれども、その地に属する者が、天に属するものとなることができる道が開かれています。その道は救い主であり、天から来られた方、主イエス・キリスト以外にはないのであります。
興味深いことですけれども、31節から35節には、イエス・キリストという言葉はまったく出てきていません。しかし、実際には、ここでは初めから終わりまで、主イエス様のことが語られています。
このヨハネによる福音書の書き出しの部分、1章1節から18節は三つの部分からなるキリスト賛歌でありました。今朝のみ言葉もまたキリスト賛歌と言わなければなりません。この新共同訳聖書の翻訳では、ここは洗礼者ヨハネの言葉とされていますが、他の多くの翻訳では、そうではなく、福音書記者ヨハネの言葉として訳されています。文法的にはどちらも可能ですが、わたくしとしては、1章1節から18節までのキリスト賛歌と同じように、福音書記者ヨハネによるキリスト賛歌として読むことがふさわしいと思います。
そういうわけで、今朝の御言葉の主語はすべて主イエス様に置き換えて読まなければなりません。そのように置き換えて、31節から34節をお読みします。
「主イエス様は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属するものとして語る。主イエス様は、すべてのものの上におられる。主イエス様は、見たこと、聞いたことを証しされるが、誰もその証を受け入れない。主イエス様の証しを受けいれるものは神が真実であることを確認したことになる。主イエス様は神の言葉を話される。神が霊を限りなくお与えになるからである。」
「上から」と言う言葉が、「天から」と言い換えられていますけれども、同じことを言っておいます。主イエス様は、父なる神から、天におられる神の許から来られたのであります。もとの言葉は、今現在、来ておられる方という言葉でもあります。主イエス様は天からつまり、父なる神の身許から来られる方であり、そして洗礼者ヨハネが登場したとき、すでにおいでになっていたお方であります。そして今現在は、聖霊において、わたしたちと共にいてくださいます。
わたしたちが地上で生きてゆきますとき、わたしたちは、この世で次々と起きてくる、いろいろなことに遭遇します。それらすべてのことは、外見的には、この地上における横の関係、水平の関係の中で起きていることです。家族と一緒に生活する、あるいは地域や、また日本という国の国民として生活する、そのときにいろいろな問題にぶつかることでしょう。教会という共同体と周りのものとの摩擦や衝突もあると思います。また教会の中でも様々な問題が起きてきます。しかし、わたしたちは、そういう地上のあれやこれやと向き合う時に、まず「上と下」、「天と地」という垂直の関係に心を向けることが求められているのではないでしょうか。目の前に見ているあれやこれやのことだけに目を向けるのではなく、それと同時に、この世界全体を超えておられる方に、改めてまなざしを天に注げ、神に注ぐのです。
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今朝のみ言葉では、主イエス様がいつも主語であり中心であると申し上げました。しかし、同時にここで明らかにされていることは、主イエス様のご存在とお働きは、ただ一人で孤独の中でなされるものではなくて、いつも父なる神と聖霊との関係、つながりの中でなされているということであります。今朝の説教題は「三位一体の神~父と子と聖霊の恵み」としました。聖書は、この神様をある時には、父なる神と呼び、またある時には御子イエス・キリストと呼び、更には、み霊、聖霊と呼びます。三つの方は一つであり、しかしまた、同時に三つの方であります。
34節には、主イエス様は「神がお遣わしになった方である」と書かれています。また「神の言葉を語り、神が霊を限りなく与える」とも記されています。この「神」は、天なる神、天地万物をお造りになったお方、父なる神です。そして、主イエス様が父から限りなく受けられる霊とは、聖霊にほかなりません。ここには父、子、聖霊の間の関係、深いつながり、交わりが記されていると思います。
神は、三つにして一人のお方であります。けれども、わたしたちのところに肉体を伴って人間として来てくださったお方は、ただお一人、主イエス様であります。
そして、御父は御子にすべてのことを委ねられたとも書かれています。わたしたちにとりまして、イエス・キリストこそ、わたしたちの主であり、救い主であるお方であります。わたしたちが今向き合っているあれやこれやのこと、そのすべてのものの上に、主イエス様のまなざしが注がれている、このお方の御手の内にあるということをわたしたちは、改めて覚えるべきなのであります。
わたくし父は大正6年、1917年生まれで、もう20年以上前に亡くなりました。父が亡くなってしばらく母は、健康にも恵まれ、近所の友達も健在で、地域の同好会に参加しておりました、また、同じように元気であった妹、わたしから見ますと叔母さんですが、その叔母さんともよく旅行に行き、一人暮らしを謳歌しておりました。
けれども、ある時、わたくしのところに近所のおばさんから電話がかかり、母が脳梗塞で倒れて救急車で運ばれたと知らされたのです。そのときは、わたくしは京都の教会で奉仕していましたので、すぐに京都から新幹線にのって夕方に東京の病院に駆けつけました。母は病院でベッドに横たわっていました。さいわいに、命に別状はなかったのですが、左半身に軽い麻痺が残りました。退院して、まず老人保健施設(ローケン)で三か月過ごしてから家に帰りました。
しかし、これまでと生活は一変しました。母はもう軽やかに歩くことが出来ませんし、煮炊きの使う火の扱いにも不安があるとケアマネジャーさんから知らされました。そこで思い切って、京都の家に引き取ることにいたしました。牧師館は教会の三階でしたので、母の年金で一軒家を借りて、それから8年間、同居して介護を致しました。8年後に母は、天に召されました。
ある時点を境に、わたしたちの人生は一変してしまいます。今でも、あの頃のことを思いますと我ながらよく頑張ったなあと思います。しかし、長い時間軸で見るなら、このようなことは、誰にでも起こることであります。思いがけないことが起きてくる、そういうことから誰も逃れることが出来ないのであります。
わたしたちには、この地上世界の中で経験する様々な問題があります。人間同士の関係も重要です。私たちが幸せに、喜びをもって生きるためには、人間同士の関係が何時も良好である、問題が解決しているということが、本当に大切なことですけれども、それがいつもうまくゆくとは限りません。私たちは地に属するものです。
しかし、主イエス様は、神の御子であり、この地上世界を超えたお方であります。天に属するお方、天から来られる方です。そして何よりも、すべてのことを御手の内にご支配なさる力のあるお方です。さらに、これが大切ですが、私たちを愛し抜いて下さるお方であります。そのすべてのものの上にいて下さるお方がおられるという真理、これが私たちを救うのであります。
わたしたちの心の影や闇を照らしだし、本当の光を下さるお方がおられます。このお方により頼むなら光が射し込み、解決の道が与えられるのです。このお方の光の中で、横の関係、人と人との関係も本当の意味で健やかになるのではないでしょうか。
3、
洗礼者ヨハネは、主イエス様がこの世界に来られて救いのお働きを始める前に現れた預言者でした。罪の悔い改めと清めの洗礼を人々に勧めました。主イエス様と何人かの弟子たちも初めは、この洗礼者ヨハネと行動を共にしていました。しかし、主イエス様はヨハネから洗礼を受けたあと、ヨハネとは分かれて、別のところで洗礼を授けるようになります。
ヨハネは、自分は天から来たものではなく、あくまで地上の人間だと答えました。しかし、天から来られた方、上から遣わされた方が、自分とは別にいる、それはあのイエスだと言うのであります。
洗礼者ヨハネは、地に属するものとして語るものでした。そしてヨハネは言いました。あの方は違う、天から来たものとして、語っている。天で知らされたこと、見たこと聞いたことを語っているのだと言います。34節では、イエス様の言葉は神の言葉と呼ばれています。
「34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。」
この霊を「限りなく」受けると言う点が、わたしたちのような単なる人間と違うところです。わたしたちにも、聖霊が与えられます。しかし、それはここにあるような「限りなく」『限度なく』ということではないのです。地上にいる間、わたしたちは未完成であり、いつも罪と戦います。その戦いにおいて聖霊が与えられます。しかし、主イエス様にはそのような罪はなく、無限に聖霊が与えられます。主イエス様は父なる神と一つであるように、聖霊の神様とも完全に一つであるからです。
31節と34節を見ますと、主イエス様のことが、三重の名で呼ばれます。「上から来られる方」、「天から来られる方」、「神がお遣わしになった方」、です。その方は、人の姿を取り、まさに人間として生まれた方でありますけれども、しかし地上の人ではない。地に属するものではないのです。天から、上から、神から来た方なのです。
そして、このお方は、この世界をただ黙って見ていると言う方ではありません。あるいは評論家のように、この世界を解説するようなお方でもないのです。そうではなくて主イエス様は、わたしたちに天の上のことを証しされるお方です。主イエス様は、神の御心を語りました。弟子たちを招き、ガリラヤからユダヤ、エルサレムまで巡って、神の大切な言葉を語られました。
しかし、32節には、「誰もその証しを受け入れない」と書かれています。
わたしたちは、地上の事をつぶさに観察し、そこに身を置き、生まれ育ち、やがて死んでゆくものです。その中で、いつもまわりのこと、横の関係の中のことを気遣っています。
その中で大切なことは主イエス様のことを知ることです。このお方に耳を傾けなければなりません。わたしたちは天上のこと、神様の世界のことを聖書の言葉によって知らされなければ、本当の意味で知ることはできません。神様はわたしたちにとって見えないお方であり、わたしたちは、自動的に神様のことが分かるということはないのです。主イエス様がおいでになって、天の言葉を語り、神様のことを知らせてくださるのです。しかし、そうであるとしても、この世界は、主イエス様の御言葉をすぐには受け入れないのです。
当時、ユダヤの人々は「皆があの人のところへ行っています」と言われるほどに、主イエス様のところへ来たと言います。しかし、その沢山集まってきた群衆は、最後には主イエス様を見捨てます。十字架につけよと叫びます。気まぐれなのです。当てにならないのです。生まれながらのわたしたちの心は、いつも自分中心なのです。
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32節をもう一度お読みします。
「32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。」
「誰も受け入れない」とは大げさではないかと思うかもしれません。主イエス様を受け入れる人は少しはいるではないか、このように教会に少ない人数かもしれないけれども、人が集っているではないかと言うかもしれません。しかし、この言葉はわたしたちの素の心、生まれながらの心を言っているのです。
36節の後半の御言葉は、そのような人間が最終的にどうなるのか、その姿を表わしています。
「御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」
神は、聖なるお方です。勝手にふるまうものを最終的にお裁きにならないと言うことはありません。わたしたちの素の心、生まれながらの心は、人を裁き、憎みます。人を人と思いません。いろいろな人々に対して、絶えず心残りや解決しなければならないことを新しく生まれさせているような存在です。
あるいはもっと大きな目で、人類の歴史を振り返ってみましょう。一人一人の心にわき起こった怖れや不安、憎しみが、戦争に利用されます。原子爆弾、核兵器というものがどうして造られたのでしょうか。他国を脅し脅かすためです。それによって自国の力を他国よりも優勢なものとしたいからです。そして実際に原子爆弾は広島、長崎で用いられました。阪神淡路大震災どころか、あの東日本大震災を上回る多くの人々が一瞬のうちに焼け死に、さらに苦しみの中でゆっくり死んでゆきました。三ヶ月後まででも一四万人が死にました。しかしこれは氷山の一角です。世界では、絶えず何万、何十万という人が殺されています。さらに今ウクライナをはじめ、世界のあちらこちらで、戦争は起きています。そして今も飢饉があり飢えがあります。そのような人間、そのような世界は、神様の前で申し開きが出来るのでしょうか。神様の怒りを受けて当然のものではないでしょうか。
「神の怒りが留まる」と書かれています。一瞬だけ怒りを受けると言うのではなく、怒りを受けているものが、これからも怒りを受け続けるのです。
しかし、神様は、この怒りを逃れる道を備えて下さいました。それは御子を信じることです。イエス・キリストを信じることです。
「36 御子を信じる人は永遠の命を得ている」と36節の前半に書かれています。
天の父なる神様は、罪のまったくない神の子を、あえて世に遣わし、その命を世に与えて下さいました。わたしたちが主イエス様と手をつなぐようにして主イエス様と結ばれるなら、主イエス様の十字架の刑罰を、その手をつないだわたしたち自身が受けたものとして下さるのです。わたしたちは、もうすでに罰を受けたものとして、もはや怒りを下されることはない、完全にないのです。そのような新しくされたものとして生きる命、これが永遠の命です。
主イエス様は、神様の愛を受け、すべてのものを委ねられています。わたしたちが、このお方を信じ受け入れることを神は喜んでくださいます。全てのものの上におられる方と和解し、その怒りを逃れる道が与えられています。わたしたちが人間同士の関係、水平方向の関係を本当に解決するためには、上と下の関係、垂直の関係を確かにする必要があります。神との和解を主イエス様の十字架の恵みによって受け、神の子となり永遠の命を受けて生きること、これこそわたしたちの歩むべき道であります。お祈りを致します。
主イエス・キリストの父なる神様、天から、神から遣わされた方、わたし達に永遠の命を下さる方、主イエス様の御名を崇めて賛美を致します。わたしたちはいつも恵みを覚え、救いの確信を確実なものとすることが出来るよう、上にあるものを見上げて歩むことが出来ますよう導いてください。神の恵み、神の真理を確かなものとして下さい。主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。