聖書の言葉 ヨハネによる福音書 2章23節~25節 メッセージ 2022年7月3(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書2章23節~25節「人の心の中を知るイエス」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 今朝、与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書2章23節から25節であります。わずか3節からなっている御言葉であります。この部分は、その前のところにある主イエス様の宮清めの物語と一緒に扱うことも出来ますし、あるいは、この後にありますニコデモという立法評議会、サンヘドリンの議員である地位の高い人と主イエス様との出会いの物語と一緒に扱うことも出来ると思います。しかし、わたくしは、どうしても、この短い箇所だけを、独立した一つのみ言葉、大切なまとまりを持っている箇所としてとして読むほかはありませんでした。それだけの重さを持つ御言葉であります。また特別の深さを持っている御言葉であるからです。ただ今、ご一緒にお聞きしたところですけれども、わたしたちの心にとりわけ響いてくるのは、25節の御言葉であろうと思います。 「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」 わたしたちは、「主イエス様がわたしたちのことをよく知っておられる」と言う、この言葉だけを聞きますと、何か、安心する、あるいはうれしくなる、そういった反応をするかもしれません。「あなたの心の中のことは良く分かっているよ、ちゃんと知っている」。このような言葉が語られる時、たいていそれは慰めや励ましの響きを持っているからです。しかし、ここでは、明らかにそうではない響きを持っています。つまり、わたしたちを慰めたり励ましたりするような言葉ではないのであります。 そうではなくて、むしろわたしたちの心の中に何か怖れを感じさせるような言葉だと思います。23節には、主イエス様がなされた多くのしるし、つまり奇跡的なことを見て多くの人が主イエス様を信じたとかかれています。続く24節は、そのしるしを見て信じた多くの人々について主イエス様はどう思っておられるか、主イエス様は彼らを信用されなかったというのです。 つまり多くの人々が主イエス様を信じたけれども、主イエス様の方は、その人たちを信用しなかったと明言されています。一方で「信じた」と訳され、一方では「信用されなかった」と訳されていますが、元のギリシャ語は、同じ言葉です。同じ「信じる」という言葉ですけれども、「多くの人が信じた」のほうは、動詞のあとに「エイス」という前置詞がついています。英語で言えばビリーブ・イン・○○。主イエス様の名を信じた。ここには信仰をもって信じるという意味が込められています。一方、主イエス様が人々を信用されなかったと訳してあるところは、前置詞がなく単に「彼らを信じなかった」と書かれています。ここには信仰的な意味はないので、信用されなかったと訳したのです。カトリックのフランシスコ会訳聖書も同じように訳し分けています。 25節は、その理由として書かれている御言葉であります。ここは、エルサレムで主イエス様を信じた人々だけのことではなくて、「すべての人」、また「人間」が対象となっているように思えます。エルサレムで主イエス様を信じたユダヤ人たちに限らず、主イエス様は、人間の心の中には、到底、主イエス様のことを信じることが出来ないようなものがある、それを知っているから主イエス様は、その人たちを決して信用しないのだと聖書は語っているのです。 今朝の御言葉を聞いて、わたしたちは、「人間は果たして信じるに足る、あるいは信用するに足る存在なのか」ということを改めて問われるような気が致します。もし信じることができないとしたら、わたしたちはそのことをどのように受け止め、また同時にわたしたちはどうすればよいのかということを御言葉から教えられたいと思うのであります。 2、 まずこの御言葉の前後の文脈を見てみましょう。主イエス様は、過越し祭が近づいているある日に、エルサレムに入られ、神殿に入って宮清めを行われました。そのようにして過越し祭の日を迎えられました。23節では、祭りの間、ずっとエルサレムに滞在されたと書かれています。ユダヤ人の過越しの祭りは、イスラエルの暦でニサンの月と呼ばれる第一の月、イスラエルの正月に当たる月の14日に行われます。これは月の満ち欠けによって暦を作る陰暦によっています。そのため太陽暦では移動祝日で毎年日が違いますが、大体3月中下旬から4月の中旬に行われます。今のイースターのシーズンです。この過越し祭から七日間、除酵祭、種入れぬパンの祭りが続きます。これはイースト菌をいれずに焼いたパンを食べる祭りです。かつて、出エジプトの奇蹟が起きたとき、種を入れる暇も無く慌ただしくパンを焼いて荒れ野へ旅立ったことを想い起こす祭りなのです。 主イエス様は、この間ずっとエルサレムにおられて、さまざまなしるし、驚くようなしるしを行われました。祭りの間、つまり7日間、毎日宮清めを行っていたのではありません。宮清めは一日だけのいわば象徴的な行動でした。主イエス様は、祭りの間に、どのようなしるしをなされたのか、ここには明らかにはされません。ただ、23節除後半に「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」と書かれているだけであります。おそらく、病の癒しが中心であったことでしょう。ヨハネによる福音書のこの後のところを見て行きますと、主イエス様は、死にかかっている人を元気にしたり、目の不自由な人の目を見えるようにされたりといった奇蹟を行われたことが次々と記されています。また、4章のサマリアの女のところで明らかですが、何の情報もない中でその人のことを言い当てると言うことも「しるし」として書かれています。 主イエス様のしるし、奇蹟の業は、ただ人々を驚かすことが目的ではありません。それは、これを見た人々が、主イエス様が普通の人ではなく神の子であることを知らされ、その人々を信仰へと導くために行われます。そのしるしを見て、このエルサレムの町で多くの人が信じた、主イエス様を信じたというのです。 しるしを見ることは、確かに信仰のきっかけです。けれどもしるしを見ることによって、完全な信仰が与えられるのでないということも確かなことなのです。これはすごい、この人はただならぬ人だ、神の人だと一度信じたらもういい、卒業ですという訳にはゆかないのです。信仰は深められ、成長し、長い年月の間に一層完全なものへと変わってゆかなければなりません。 エルサレムで、しるしを見た多くの人々は、主イエス様を信じたけれども、主イエス様ご自身は、その人たちを信用しなかったと24節に書かれています。言い換えると、主イエス様は、そのような信仰は不完全なものであり、不安定であり、すぐに心変わりしてしまうようなものであると知っていたということです。そして、このことは、単にしるしを見て信じたユダヤ人たちについてだけ言えることではない、わたしたちの信仰もまた不完全であり、貧しいとい言うことを思うのです。 3、 24節の後半から25節に、どうして、主イエス様はしるしを見て信じた人々を信用しなかったのか、その理由、根拠の説明が記されます。 お読み致します。 「それは、すべての人のことを知っておられ、25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」 ここには、主イエス様の人間に対する考え方、思いというものが明らかにされています。この箇所について、カルヴァンという宗教改革の指導者が書いているものを見ました。それによりますと、この御言葉は、全ての人間に対して主イエス様が持っている考えではないと書いてあります。そうではなく特に、この時のエルサレムで信じた人々、しるしによって信じたエルサレムのユダヤ人について言っているのだと書いています。だからこそ、わたしたちは主イエス様に信用して頂けるような確かな信仰を目指さなければならない、そういう考え方がそこにはにじみ出ています。この個所は、新改訳聖書は、24節をこう訳しています。「しかしイエスご自身は彼らに自分をお任せにならなかった。」。この翻訳の、この後のエルサレムのユダヤ人たちの信仰をあり方、最後には主イエス様を十字架につけよと叫ぶに至った彼らの信仰、いや不信仰を前提にしていますから、今紹介しましたカルヴァンのような理解があるように思います。 一方、同じ宗教改革の指導者ですけれどもカルヴァンよりも古い人でもっと有名なマルチン・ルターという人がおります。今日のルーテル教会、ルター派の教会はこの人の信仰を大切にしています。わたくしはルターのその書物を持っていないのですが、この個所についてのルターの注解がある方によって引用されているのを見ました。ルターは、ここはまさしく全ての人間の実相が暴かれていると言うのです。どんな人間も、主イエス様が決して信用しないような、信じることが出来ないような、移り気で不安定で、不確かな心を持っている、そのことがここには書かれているというのです。ルターが、この御言葉の説教をしたときに引用しましたのは旧約聖書エレミヤ書第17章9節の御言葉であったということです。そのエレミヤ書の箇所をお読みしますのでお聞きください。 「9 人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。10 心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。」 特別に悪い不信仰な人間だけではない、どんな人間の心も決して健康でない、病んでいる、神さまはそれを知っていると言うのです。ルターは、カトリック教会を厳しく批判した人であります。彼は、中世以来のカトリック教会を批判する同じ目で、自分のまわりのさまざまなキリスト者、信仰者を見ています。人間とは何か、旧約預言者のエレミヤは、この後の12節でこう言っています。「13 イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。」 ルターがはっきりと考えていたことは、教会もまた過ちを犯すと言うことでした。主イエス様を信じている、信仰がある、それでもなお、心の深いところでは信じていないところがある、むしろ神ではなく自分を信じていると言うのです。そしてルターが最も叫びたかったことは、そのような人間、そのようなわたしたちのためにキリストは十字架にお掛かりになったということです。そのようなわたしたちを神は、なおも愛して下さると言うことだったのです。 ヨハネによる福音書2章に戻ります。24節で「彼らを信用されなかった」「信用されなかった」と訳されているギリシャ語が同じ動詞の言葉であることはすでに話しました。同じ動詞ですけれども、それに続く前置詞に違いがありました。実は、更に違いがあります。「人々が主イエス様の名を信じた」と訳されている方の「信じた」は、第二アオリスト形といい、最も多く出る普通の過去形であります。その時の人々の行動を表現しています。一方、「主イエス様は信用されなかった、信じなかった」と訳されているのは未完了形という別の形なのです。つまり主イエス様は人々を信じなかった、信用しなかったし、いまも信用していない、信じていないという意味があります。 つまり、ここでは、主イエス様がすべての人間の心というものをどう見ておられるかという広い範囲の人間に対する判断があります。それゆえに、今度は特定の人々である、エルサレムで主イエス様を信じた人々も同じだというのです。つまり全ての人間と同様に、彼らについても信用しなかったという意味になります。ここではカルヴァン説よりもルター説の方がふさわしいのです。 わたしたちは、誰かから信用されること、認めてもらうことを大切にします。それがなければ生きて行くことは出来ないといっても良いほどです。ところが、24節には、主イエス様と言うお方は誰からも信用されなくてもいい、その必要はないと書いてあります。誰からも証ししてもらう必要がないというのです。人々がしるしを見て信じようとあるいは信じなかったとしても、そのことは主イエス様にとっては大切なことではないというのです。考えてみますと、神様は、人々が信じるから神様であるのではなく、そのことを必要とすることはありません。主イエス様と言うお方も同じように、ただご自身のみにおいて権威をお持ちになり、人間によって左右されることはないのであります。 4、 東日本大震災以降でしょうか、絆と言う言葉が以前よりも多く使われるようになったと思います。人間同士の助け合い、結びつき、それを絆と呼びますけれども、それは社会にとってなくてはならないものであり、大切なものだと思います。しかし、人々が互いに結びつく、その結びつきは、やはり限界を持っているとわたくしは思うのです。 家族の絆、地域の絆、あるいは教会において信じる同士の絆があります。先週も改革派教会の定期大会があり、全国から150人近い牧師や長老が集まりました。互いに挨拶を交わし、安否を尋ねながら絆を確かめ合うことが出来ました。 しかし一方で、そのような絆は本当のものかどうかと言うこともわたくしは考えます。ここでいう「本当の」という意味は神様の前で、つまり神様の評価、判断に耐えるものかという意味です。決してニセモノとか偽りということではなないのです。確かなものか、心底から信じることが出来るものかという意味です。つまりそこには細いきずなも太いきずなもある、途切れそうなきずなもあると言うことです。そして主イエス様は、人間の心を知っておられるがゆえに、彼らを信じないと言われるのです。つまり、太い絆と見えているものでもその背後にある危うさ、本当でないものを見ておられると思うのです。主イエス様が信じることができないと言われているものをわたしたちもまた信じることはできないのだと思います。 人間が人間を愛する、信じる、そこには絆というものがあります。たとえば、家族のきずなということがあります。赤ん坊の時から助け助けられ、何十年も共に暮らした絆です。しかし、これ以上はないという、その太い絆も時に千切れてしまいます。家族の間で心が通じていると思っていたのに、そうでなかったということがしばしば起こります。他人なら初めから期待しないのですが、家族だからと信じていた故に思うようにゆかないと余計にがっかり致します。家族のきずなもまた永遠ではありません。結婚して独立すれば、もう子供のようなわけにはゆきません。子離れということも求められます。これまでの自分との絆よりももっと太い絆で結ばれている人が現れたからです。 絆は変わってゆくのです。相手があり、こちらもまた多くの関係の中で生きているからです。 しかし、決して変わらない絆があります。それは主イエス様がわたしたちと結んで下さる絆です。この後の3章にニコデモという人が主イエス様と出会った物語が記されています。その3章16節にこのように書かれています。 「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 独り子とは、神の一人子、イエス・キリストです。罪を犯して祝福を受けられない、そんなこの世界を愛して、父なる神は主イエス様をお遣わしになられました。そしてその命を私たちに与えて下さいました。 この「世」というのは、この世界です。この世界、この世は神から離れた世です。神を信じていない世であります。その世から恵みによって分かたれたキリストの教会、その一人一人がわたしたちです。しかし、わたしたちの信仰もまた実に頼りないものです。主イエス様によって救われながら、心のそこの底には誰にも見てもらいたくないと思っている醜いものを宿しているのです。しかし、それでもなお、主イエス様はわたしたちを愛し抜かれるのです。これこそ本当の愛、神の愛ではないでしょうか。テモテの手紙2の2章にパウロという初代教会の伝道者がこう書いています。 「13 わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。」 主イエス様が罪の赦しの贖いとなって下さり、十字架に掛けられたこと、また、死んで三日目におよみがえりになられたのは、わたしたちのためでした。わたしたちがあやふやで、時に神を憎んだり、疎んじたり、疑ったりするとしても、主イエス様においてわたしたちと共にいて下さる神は、決して、わたしたちを裏切ることはありません。全てを知って、その上でわたしたちを愛されたからです。この愛にわたしたちの心を委ねましょう。そしてカルヴァンが勧めているように、救いを受けたいるわたしたちは一層謙遜になり、一歩でも二歩でも、ここから前に進み、神さまに喜んで頂けるような生活を送りたい、送ろうではありませんか。信じることが出来ない人間、自分自身もまたそのようなものであります。しかし、そのようなものを決して変わらない愛で愛してくださる方がおられる。その愛を知り、また愛を受けたわたしたちは、どんなときでも見返りを期待せずに、他の人を隣人を、家族を愛してゆきたいと思うのです。 祈り 天の父なる神様、あなたはわたしたちを愛し、愛し抜いてくださいます。わたしたちの心は人の絆が断ち切られそうになればなるほど悲しくなり力を失ってしまいます。教会員同士の絆は、この世にはないほどの特別な絆です。けれども、しかし、それであってもなお、この世の絆と同じように、完全なものではないことを知り、主イエス様がわたしたちと結んでくださる絆こそ、確かなものであると信じさせてください。主の名によって祈ります。アーメン。
2022年7月3(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書2章23節~25節「人の心の中を知るイエス」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
今朝、与えられました御言葉は、ヨハネによる福音書2章23節から25節であります。わずか3節からなっている御言葉であります。この部分は、その前のところにある主イエス様の宮清めの物語と一緒に扱うことも出来ますし、あるいは、この後にありますニコデモという立法評議会、サンヘドリンの議員である地位の高い人と主イエス様との出会いの物語と一緒に扱うことも出来ると思います。しかし、わたくしは、どうしても、この短い箇所だけを、独立した一つのみ言葉、大切なまとまりを持っている箇所としてとして読むほかはありませんでした。それだけの重さを持つ御言葉であります。また特別の深さを持っている御言葉であるからです。ただ今、ご一緒にお聞きしたところですけれども、わたしたちの心にとりわけ響いてくるのは、25節の御言葉であろうと思います。
「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」
わたしたちは、「主イエス様がわたしたちのことをよく知っておられる」と言う、この言葉だけを聞きますと、何か、安心する、あるいはうれしくなる、そういった反応をするかもしれません。「あなたの心の中のことは良く分かっているよ、ちゃんと知っている」。このような言葉が語られる時、たいていそれは慰めや励ましの響きを持っているからです。しかし、ここでは、明らかにそうではない響きを持っています。つまり、わたしたちを慰めたり励ましたりするような言葉ではないのであります。
そうではなくて、むしろわたしたちの心の中に何か怖れを感じさせるような言葉だと思います。23節には、主イエス様がなされた多くのしるし、つまり奇跡的なことを見て多くの人が主イエス様を信じたとかかれています。続く24節は、そのしるしを見て信じた多くの人々について主イエス様はどう思っておられるか、主イエス様は彼らを信用されなかったというのです。
つまり多くの人々が主イエス様を信じたけれども、主イエス様の方は、その人たちを信用しなかったと明言されています。一方で「信じた」と訳され、一方では「信用されなかった」と訳されていますが、元のギリシャ語は、同じ言葉です。同じ「信じる」という言葉ですけれども、「多くの人が信じた」のほうは、動詞のあとに「エイス」という前置詞がついています。英語で言えばビリーブ・イン・○○。主イエス様の名を信じた。ここには信仰をもって信じるという意味が込められています。一方、主イエス様が人々を信用されなかったと訳してあるところは、前置詞がなく単に「彼らを信じなかった」と書かれています。ここには信仰的な意味はないので、信用されなかったと訳したのです。カトリックのフランシスコ会訳聖書も同じように訳し分けています。
25節は、その理由として書かれている御言葉であります。ここは、エルサレムで主イエス様を信じた人々だけのことではなくて、「すべての人」、また「人間」が対象となっているように思えます。エルサレムで主イエス様を信じたユダヤ人たちに限らず、主イエス様は、人間の心の中には、到底、主イエス様のことを信じることが出来ないようなものがある、それを知っているから主イエス様は、その人たちを決して信用しないのだと聖書は語っているのです。
今朝の御言葉を聞いて、わたしたちは、「人間は果たして信じるに足る、あるいは信用するに足る存在なのか」ということを改めて問われるような気が致します。もし信じることができないとしたら、わたしたちはそのことをどのように受け止め、また同時にわたしたちはどうすればよいのかということを御言葉から教えられたいと思うのであります。
2、
まずこの御言葉の前後の文脈を見てみましょう。主イエス様は、過越し祭が近づいているある日に、エルサレムに入られ、神殿に入って宮清めを行われました。そのようにして過越し祭の日を迎えられました。23節では、祭りの間、ずっとエルサレムに滞在されたと書かれています。ユダヤ人の過越しの祭りは、イスラエルの暦でニサンの月と呼ばれる第一の月、イスラエルの正月に当たる月の14日に行われます。これは月の満ち欠けによって暦を作る陰暦によっています。そのため太陽暦では移動祝日で毎年日が違いますが、大体3月中下旬から4月の中旬に行われます。今のイースターのシーズンです。この過越し祭から七日間、除酵祭、種入れぬパンの祭りが続きます。これはイースト菌をいれずに焼いたパンを食べる祭りです。かつて、出エジプトの奇蹟が起きたとき、種を入れる暇も無く慌ただしくパンを焼いて荒れ野へ旅立ったことを想い起こす祭りなのです。
主イエス様は、この間ずっとエルサレムにおられて、さまざまなしるし、驚くようなしるしを行われました。祭りの間、つまり7日間、毎日宮清めを行っていたのではありません。宮清めは一日だけのいわば象徴的な行動でした。主イエス様は、祭りの間に、どのようなしるしをなされたのか、ここには明らかにはされません。ただ、23節除後半に「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」と書かれているだけであります。おそらく、病の癒しが中心であったことでしょう。ヨハネによる福音書のこの後のところを見て行きますと、主イエス様は、死にかかっている人を元気にしたり、目の不自由な人の目を見えるようにされたりといった奇蹟を行われたことが次々と記されています。また、4章のサマリアの女のところで明らかですが、何の情報もない中でその人のことを言い当てると言うことも「しるし」として書かれています。
主イエス様のしるし、奇蹟の業は、ただ人々を驚かすことが目的ではありません。それは、これを見た人々が、主イエス様が普通の人ではなく神の子であることを知らされ、その人々を信仰へと導くために行われます。そのしるしを見て、このエルサレムの町で多くの人が信じた、主イエス様を信じたというのです。
しるしを見ることは、確かに信仰のきっかけです。けれどもしるしを見ることによって、完全な信仰が与えられるのでないということも確かなことなのです。これはすごい、この人はただならぬ人だ、神の人だと一度信じたらもういい、卒業ですという訳にはゆかないのです。信仰は深められ、成長し、長い年月の間に一層完全なものへと変わってゆかなければなりません。
エルサレムで、しるしを見た多くの人々は、主イエス様を信じたけれども、主イエス様ご自身は、その人たちを信用しなかったと24節に書かれています。言い換えると、主イエス様は、そのような信仰は不完全なものであり、不安定であり、すぐに心変わりしてしまうようなものであると知っていたということです。そして、このことは、単にしるしを見て信じたユダヤ人たちについてだけ言えることではない、わたしたちの信仰もまた不完全であり、貧しいとい言うことを思うのです。
3、
24節の後半から25節に、どうして、主イエス様はしるしを見て信じた人々を信用しなかったのか、その理由、根拠の説明が記されます。
お読み致します。
「それは、すべての人のことを知っておられ、25 人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」
ここには、主イエス様の人間に対する考え方、思いというものが明らかにされています。この箇所について、カルヴァンという宗教改革の指導者が書いているものを見ました。それによりますと、この御言葉は、全ての人間に対して主イエス様が持っている考えではないと書いてあります。そうではなく特に、この時のエルサレムで信じた人々、しるしによって信じたエルサレムのユダヤ人について言っているのだと書いています。だからこそ、わたしたちは主イエス様に信用して頂けるような確かな信仰を目指さなければならない、そういう考え方がそこにはにじみ出ています。この個所は、新改訳聖書は、24節をこう訳しています。「しかしイエスご自身は彼らに自分をお任せにならなかった。」。この翻訳の、この後のエルサレムのユダヤ人たちの信仰をあり方、最後には主イエス様を十字架につけよと叫ぶに至った彼らの信仰、いや不信仰を前提にしていますから、今紹介しましたカルヴァンのような理解があるように思います。
一方、同じ宗教改革の指導者ですけれどもカルヴァンよりも古い人でもっと有名なマルチン・ルターという人がおります。今日のルーテル教会、ルター派の教会はこの人の信仰を大切にしています。わたくしはルターのその書物を持っていないのですが、この個所についてのルターの注解がある方によって引用されているのを見ました。ルターは、ここはまさしく全ての人間の実相が暴かれていると言うのです。どんな人間も、主イエス様が決して信用しないような、信じることが出来ないような、移り気で不安定で、不確かな心を持っている、そのことがここには書かれているというのです。ルターが、この御言葉の説教をしたときに引用しましたのは旧約聖書エレミヤ書第17章9節の御言葉であったということです。そのエレミヤ書の箇所をお読みしますのでお聞きください。
「9 人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。10 心を探り、そのはらわたを究めるのは/主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。」
特別に悪い不信仰な人間だけではない、どんな人間の心も決して健康でない、病んでいる、神さまはそれを知っていると言うのです。ルターは、カトリック教会を厳しく批判した人であります。彼は、中世以来のカトリック教会を批判する同じ目で、自分のまわりのさまざまなキリスト者、信仰者を見ています。人間とは何か、旧約預言者のエレミヤは、この後の12節でこう言っています。「13 イスラエルの希望である主よ。あなたを捨てる者は皆、辱めを受ける。あなたを離れ去る者は/地下に行く者として記される。生ける水の源である主を捨てたからだ。」
ルターがはっきりと考えていたことは、教会もまた過ちを犯すと言うことでした。主イエス様を信じている、信仰がある、それでもなお、心の深いところでは信じていないところがある、むしろ神ではなく自分を信じていると言うのです。そしてルターが最も叫びたかったことは、そのような人間、そのようなわたしたちのためにキリストは十字架にお掛かりになったということです。そのようなわたしたちを神は、なおも愛して下さると言うことだったのです。
ヨハネによる福音書2章に戻ります。24節で「彼らを信用されなかった」「信用されなかった」と訳されているギリシャ語が同じ動詞の言葉であることはすでに話しました。同じ動詞ですけれども、それに続く前置詞に違いがありました。実は、更に違いがあります。「人々が主イエス様の名を信じた」と訳されている方の「信じた」は、第二アオリスト形といい、最も多く出る普通の過去形であります。その時の人々の行動を表現しています。一方、「主イエス様は信用されなかった、信じなかった」と訳されているのは未完了形という別の形なのです。つまり主イエス様は人々を信じなかった、信用しなかったし、いまも信用していない、信じていないという意味があります。
つまり、ここでは、主イエス様がすべての人間の心というものをどう見ておられるかという広い範囲の人間に対する判断があります。それゆえに、今度は特定の人々である、エルサレムで主イエス様を信じた人々も同じだというのです。つまり全ての人間と同様に、彼らについても信用しなかったという意味になります。ここではカルヴァン説よりもルター説の方がふさわしいのです。
わたしたちは、誰かから信用されること、認めてもらうことを大切にします。それがなければ生きて行くことは出来ないといっても良いほどです。ところが、24節には、主イエス様と言うお方は誰からも信用されなくてもいい、その必要はないと書いてあります。誰からも証ししてもらう必要がないというのです。人々がしるしを見て信じようとあるいは信じなかったとしても、そのことは主イエス様にとっては大切なことではないというのです。考えてみますと、神様は、人々が信じるから神様であるのではなく、そのことを必要とすることはありません。主イエス様と言うお方も同じように、ただご自身のみにおいて権威をお持ちになり、人間によって左右されることはないのであります。
4、
東日本大震災以降でしょうか、絆と言う言葉が以前よりも多く使われるようになったと思います。人間同士の助け合い、結びつき、それを絆と呼びますけれども、それは社会にとってなくてはならないものであり、大切なものだと思います。しかし、人々が互いに結びつく、その結びつきは、やはり限界を持っているとわたくしは思うのです。
家族の絆、地域の絆、あるいは教会において信じる同士の絆があります。先週も改革派教会の定期大会があり、全国から150人近い牧師や長老が集まりました。互いに挨拶を交わし、安否を尋ねながら絆を確かめ合うことが出来ました。
しかし一方で、そのような絆は本当のものかどうかと言うこともわたくしは考えます。ここでいう「本当の」という意味は神様の前で、つまり神様の評価、判断に耐えるものかという意味です。決してニセモノとか偽りということではなないのです。確かなものか、心底から信じることが出来るものかという意味です。つまりそこには細いきずなも太いきずなもある、途切れそうなきずなもあると言うことです。そして主イエス様は、人間の心を知っておられるがゆえに、彼らを信じないと言われるのです。つまり、太い絆と見えているものでもその背後にある危うさ、本当でないものを見ておられると思うのです。主イエス様が信じることができないと言われているものをわたしたちもまた信じることはできないのだと思います。
人間が人間を愛する、信じる、そこには絆というものがあります。たとえば、家族のきずなということがあります。赤ん坊の時から助け助けられ、何十年も共に暮らした絆です。しかし、これ以上はないという、その太い絆も時に千切れてしまいます。家族の間で心が通じていると思っていたのに、そうでなかったということがしばしば起こります。他人なら初めから期待しないのですが、家族だからと信じていた故に思うようにゆかないと余計にがっかり致します。家族のきずなもまた永遠ではありません。結婚して独立すれば、もう子供のようなわけにはゆきません。子離れということも求められます。これまでの自分との絆よりももっと太い絆で結ばれている人が現れたからです。
絆は変わってゆくのです。相手があり、こちらもまた多くの関係の中で生きているからです。
しかし、決して変わらない絆があります。それは主イエス様がわたしたちと結んで下さる絆です。この後の3章にニコデモという人が主イエス様と出会った物語が記されています。その3章16節にこのように書かれています。
「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
「16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
独り子とは、神の一人子、イエス・キリストです。罪を犯して祝福を受けられない、そんなこの世界を愛して、父なる神は主イエス様をお遣わしになられました。そしてその命を私たちに与えて下さいました。
この「世」というのは、この世界です。この世界、この世は神から離れた世です。神を信じていない世であります。その世から恵みによって分かたれたキリストの教会、その一人一人がわたしたちです。しかし、わたしたちの信仰もまた実に頼りないものです。主イエス様によって救われながら、心のそこの底には誰にも見てもらいたくないと思っている醜いものを宿しているのです。しかし、それでもなお、主イエス様はわたしたちを愛し抜かれるのです。これこそ本当の愛、神の愛ではないでしょうか。テモテの手紙2の2章にパウロという初代教会の伝道者がこう書いています。
「13 わたしたちが誠実でなくても、/キリストは常に真実であられる。」
主イエス様が罪の赦しの贖いとなって下さり、十字架に掛けられたこと、また、死んで三日目におよみがえりになられたのは、わたしたちのためでした。わたしたちがあやふやで、時に神を憎んだり、疎んじたり、疑ったりするとしても、主イエス様においてわたしたちと共にいて下さる神は、決して、わたしたちを裏切ることはありません。全てを知って、その上でわたしたちを愛されたからです。この愛にわたしたちの心を委ねましょう。そしてカルヴァンが勧めているように、救いを受けたいるわたしたちは一層謙遜になり、一歩でも二歩でも、ここから前に進み、神さまに喜んで頂けるような生活を送りたい、送ろうではありませんか。信じることが出来ない人間、自分自身もまたそのようなものであります。しかし、そのようなものを決して変わらない愛で愛してくださる方がおられる。その愛を知り、また愛を受けたわたしたちは、どんなときでも見返りを期待せずに、他の人を隣人を、家族を愛してゆきたいと思うのです。
祈り
天の父なる神様、あなたはわたしたちを愛し、愛し抜いてくださいます。わたしたちの心は人の絆が断ち切られそうになればなるほど悲しくなり力を失ってしまいます。教会員同士の絆は、この世にはないほどの特別な絆です。けれども、しかし、それであってもなお、この世の絆と同じように、完全なものではないことを知り、主イエス様がわたしたちと結んでくださる絆こそ、確かなものであると信じさせてください。主の名によって祈ります。アーメン。