2022年06月26日「神の御秩序に従って生きる者の人生」

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神の御秩序に従って生きる者の人生

日付
説教
チャン・ジェガン宣教師
聖書
民数記 2章1/2節、32~34節

聖書の言葉

民数記 2章1/2節、32~34節

メッセージ

神ご秩序に従って生きる者の人生   2022.6.26.熊本教会(講壇交換)

民数記2章1-34節(1-2,32-34節)

 

[聖書本文]

1 主はモーセとアロンに仰せになった。2 イスラエルの人々は、それぞれ家系の印を描いた旗を掲げて宿営する。臨在の幕屋の周りに、距離を置いて宿営する。……32 以上が家系に従って登録されたイスラエルの人々であり、部隊ごとに登録された宿営に属する者の総勢は六十万三千五百五十人である。33 しかしレビ人は、主がモーセに命じられたように、イスラエルの人々と共に登録されなかった。34 イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗の下に宿営し、またそれぞれ氏族ごとに、家系に従って行進した。

[説教原稿]

民数記のイスラエルの状況は、荒れ野での旅路の状況です。イスラエルの民にとって、荒れ野での旅路とは神のご目的地、カナンの土地に向かって行く信仰の歩みなのです。そのような神の民の旅路は、民が自分なりに熱情によって旅する歩みではなく、主なる神が定められた秩序によってできる旅路なのです。それで、神はまず人口調査を行われた後、イスラエルの民がカナンの土地に向かって行く時、彼らが神のご秩序に従って行けるようにご準備をなさいました。神のご準備は、2章に記されている内容、つまり12部族の行進位置と順序を定められ、イスラエルの民が行進する時に、そのような配置によって行くように命じられたことなのです。

第1章の内容ですが、神が人口調査を通して、イスラエルの民の中で兵役ができる20歳以上の男子の数を把握されました。その兵役の規模は六十万三千五百五十人でした。その人口調査で確認された兵役の数から推し測りますと、カナンの土地に移動するイスラエルの全人口数は、少なくとも200万人を超える人口であることが推測できるのです。この巨大な共同体がどのようにして荒れ野を通過し、神の約束の地、カナンの土地に達するかという問題は、イスラエルの民にとって、現実的に大きな課題だったはずです。2章の「全軍の配置」について記されている物語は、この問題に対する神の対策として表し示しているものです。すなわち、イスラエルの民の荒れ野での旅路は神が定められたご秩序によって行けば、その巨大な共同体の旅路は世間の歩みではなく、信仰の歩みとしてカナンへ行く旅路になるということです。

さて、本日の箇所のイスラエルの各部族の陣営の配置で、私たちがまず考えるのは、各部族の行進の配置が、神の臨在の幕屋を中心にして配列されているということです。これはイスラエルの荒れ野の旅路において、何よりも臨在の幕屋が彼らの旅路の中心になるという意味なのです。その掟の幕屋は、神の臨在を表す聖所なので、イスラエルは神の聖所を中心にして存在する共同体になるべきです。だから、イスラエルの各部族の配置は、神の幕屋中心として、四角形の陣営になるように命じられました。神は、臨在の幕屋を、イスラエルの陣営の中央に置き、祭司長とレビ人が臨在の幕屋を囲み、12部族で3つの部族ずつが一つの部隊となって、臨在の幕屋を中心にした四つの方向である、東、西、南、北に位置するように命じられました。

イスラエルの12部族の陣営の配列を並べて見ますと、行進の先頭の位置である東側に配置された三つの部族は、ユダを中心にして、ユダの宿営の旗の下にユダの両方にイサカル族とゼブルン族が1つの部隊として位置するようにし、南側にはルベンを中心にして、ルベンの宿営の旗の下にその両側にシメオン族とガド族がそれぞれ配置され、西側にはエフライムを中心にして、エフライムの宿営の旗の下にその両側にマナセ族とベニヤミン族が配置されるようにし、北側にはダンを中心にしてダンの宿営の旗の下にその両側にアシェル族とナフタリ族がそれぞれ配置されるようにしました(民数記2章3-31節)。

イスラエルの各部族が配置された陣営についてですが、その陣営の仕組みは、理由もなく勝手な様子に配置されたものではないのが分かります。臨在の幕屋を中心にして、十二部族の中で相対的に信仰心によって、信仰心深い部族を重要な位置に配置したと思います。この事実を、レビ人の場合を挙げて言いますと、ビ人がイスラエルの荒れ野の旅路の行進で、臨在の幕屋に囲まれて全宿営の中央を行進するのは神の幕屋の守り手の役割として配置されているということです。レビ人にこの位置として配列されたのは、シナイ山でイスラエルの人々が金の子牛として神を背教する際に、彼らが自発的にモーセと共にし、モーセに従った状況(出32:25、29)に関連して配置されたものだと言えます。このような理由から、レビ人は臨在の幕屋に関連する役割を任せられ、臨在の幕屋の周囲に配置されたと考えられます。そのようなレビ人の歴史的現実が、本日の箇所にある臨在の幕屋を保護することに関連して、神に仕える特別な役割が彼らに反映されていると思います。

他の十二部族の陣営の配置から見ますと、ルベン族、シメオン族 、ユダ族、そしてエフライム族は他の部族より相対的に重要な地位として配置されています。こうした調和の配列には、イスラエルの実際的な歴史の中にあった、彼らの信仰の現実を反映している仕組みなのです。イスラエルはアブラハム以後、アブラハムの氏族として出発して、諸部族となり、出エジプトを経て、シナイ山に達しました。彼らがアブラハムから始まり、イスラエルの十二部族となって、シナイ山に至るまでの彼らの歴史の中で、各部族の行為とそれによる彼らの運命とがこの行進の配列に反映されているのです。このような各部族の配置と順序は、究極的には十二部族の配置の意味が十二部族とも同等なレベルで、カナンの土地へと進む行進に加わっていることを示しているのですが、地理的には相対的な配置を意味することなのです。

イスラエルの部隊行列における先頭は、十二部族の第一番目の地位であったルベン族ではありません。ルベン族のその地位に、ユダ族の部隊が長子ルベン族の地位に代え、ユダ族中心の部族が先頭のところを占めるようになります。イスラエルの全軍の配置について記されている本日の箇所では、長子ルベン族は第一の地位を持たず、ユダ族が第一の位置に挙げられています。神のご約束の地への旅路において、ユダ族が伝統的により聖なるところに考えてきた陣営の東側に位置するということです。東は臨在の幕屋の扉を開けると正面に見える方向であり、モーセ、アロン、他の祭司長たちが位置したところです。

それでは、十二部族の長子であるルベン族は、イスラエルの行進の配列から、なぜ格下げされたのでしょうか。そして他の部族の相対的な配置が持つ重要性は何でしょうか。陣営の配置において、ユダが優れた位置を占めることは、ユダがイスラエルの歴史を通して持っていた、歴史的優位性によることだと考えられます。その点は、創世記におけるヤコブの祝福を反映したものです。創世記49章8-12節を見ますと、ユダはヤコブの12人の息子の中で、最も豊かな、そして長い祝福を受けます。これと対照的に、長子のルベンは、ヤコブのそばめと同寝することで、父の寝床を汚したことに対して厳しい叱責を受けました(創49:3-4、35:22)。このように、イスラエルの荒れ野の旅路で、行進の陣営の配列は彼らの歴史的現実を反映した配置だと言えます。

それでは、本日の箇所のイスラエルの行進の陣営の配置を通して、民数記の記者は我々に何を語り伝えているのでしょうか。そのような配置は彼らの歴史的現実を反映した神のご意図ですが、民数記の記者が我々に語り伝えているのは、何よりも主なる神が秩序の神であるから、神の民の荒れ野での旅路は神のご秩序によって歩みになるべきだということです。

本日の箇所を通して、我々は神の民として、我々の荒れ野での旅路、自分たちの人生において、考えることがあるわけです。第一に、我々が信じている主なる神はご自分の御業を、ご秩序によって行われるということです。それは、主なる神は秩序の神だからです。我々の人生において、主なる神は秩序の神であるのを知ることが大切です。造り主であり、救い主である神は秩序の神なのです。神の最初の御業は何でしょうか。それは創世記1章1節の 「初めに、神は天地を創造された」という御言葉通り、神の最初の御業は「天地の創造」のことです。神の行われた「天地の創造」の最初の御業は、秩序なしの天地を、秩序ある天地として造られたということです。創世記1章2節の天地の創造前の状況について記されている「地は混沌であって」と描写している「混沌」という言葉は「秩序」に反対の概念の言葉です。

創世記1章の「天地の創造」の御業は、神が宇宙空間に神の秩序を立てられたことです。それで人々は、創造後、神の天地の運行を自然秩序と言っているのです。秩序を、ただ「順序」として理解することに慣れていると思いますが、秩序に関する重要な概念は、状態の概念なのです。すでに定められたその状態まま維持になっている状況を、「秩序」と言います。宇宙に対するいろんな表現がありますが(cosmos、universe、space、interstellar、galaxyなど)、とても重要な表現は、「コスモス(cosmos)」という言葉です。コスモスという言葉は宇宙を秩序あるシステムとして言うときに表現するものです。それで宗教的に宇宙について言うときに「コスモス」という言葉が用いられるのです。このように、神の御業において、重要な属性の一つは「神のご秩序」なのです。「神のご秩序」は、天地の創造の御業だけでなく、すべての御業において反映されている神の基本的なお働きの方式なのです。

このような神のお働きの秩序がカナンの土地に向かっているイスラエルの行進の配置に反映されているのです。それで我々は神の約束が成し遂げられることにおいても、神が定められた秩序が大切なことであるのを深く考えるべきです。我々には神から各自責任が与えられています。キリスト者という責任、詳しく言えば、熊本教会の信徒としての責任、あるいは執事や長老、また教師としての責任があるわけです。本日の箇所の御言葉から学べるのは、その各自責任遂行において、神のご秩序が整わなければならず、その責任を明らかにすることが必要だということです。本日の箇所の御言葉から言えば、神の民として構成された信仰共同体が荒れ野を通過して、約束された目標に導かれていくことにおいて、神が決められたご秩序によるその責任と役割を疎かにしては、決してカナンの土地に向かって行く旅路がまっすぐ行く歩みではなく、荒れ野で迷っている歩みになるということを教えられるのです。

キリスト者たちは、教会や家庭は平等主義的な共同体であっても、必ず神が定められたご秩序と順序がきちんと整えられた信仰共同体になっていなければなりません。平等は、価値の同等を言うことを、イスラエルの行進の配置や順序から学べますが、同等な価値の中での役割の差であり、責任上の区別であるのです。神のご秩序を認識できない時に、こうした分別力が弱まり、問題が起きるのです。教会であれ家庭であれ、その信仰の内容として、各自に与えられた役割と責任が神のご秩序に従って果たす姿の中で、教会が持つ御国の理想が世の中に現れるのです。

本日の箇所の、イスラエルの荒れ野での旅路において、彼らの陣営の配置と行進の順序を決める内容から考えるべきもう一つの教えは、イスラエルの十二部族の部隊は、神のご命令に対する細やかな従順の雰囲気づくりに努力したという事実にあったということです。行進の配置と順番において、各部族の間で、相対的地位をめぐって命をかけて戦うこともありませんでした。イスラエルの各部族のこのような姿について、2章34節ではこのように記されています。「イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗の下に宿営し、またそれぞれ氏族ごとに、家系に従って行進した。」という御言葉で要約して述べているのです。34節を通して感じられる強い印象は、情熱的に準備する民が神のご約束の地に向かって行くために、組織的に協力するということです。本日の箇所で登場する各部族の「旗」は、古代社会において、その群れに属する人々が、心の中に義務を想起させ、過去にあった神の御業、あるいは神のご意思という根本的な事柄を想起させる記憶の道具として使われることもあります(創9:12;17:1、出31:13,17)。その点で、旗は、神が決められた行進に徹底的に従順して行こうとする彼らの意志の表すものなのです。

これは、イスラエルの人々が、神の軍事陣営であることを知っているということであり、彼らの陣営の配置に参加したすべての部族は、陣営の中にある臨在の幕屋を、神の臨在の可視的な象徴として、自分たちの中心にあることを直面しているということなのです。彼らにおいて、この事実が非常に重要なことでした。彼らが荒れ野の旅に出る勇気も、神の聖なる臨在が彼らにあったからです。彼らが干からびた荒れ野の旅路を乗り越えることができるとしたら、彼らの軍事力ではなく、神の臨在の幕屋が彼らの中で、一緒にあったという事実にあるわけです。イスラエルは、荒れ野の行進を通して、臨在の幕屋を通して、神が臨在されることを知り、その神の臨在の中で、前進していく限り、彼らの荒れ野の旅路は、神の御姿に似ていく時間になるでしょう。それで、荒れ野は、現実には干からびた土地ですが、信仰としては神が学べる神の学校になるでしょう。その神の荒れ野の学校を通して、神のご約束の地に入るための熱情は真面目に準備になって行きますし、手強い期待の中で、神を望みながら自分たちの行進は世の中の歩みではないのです。我々が通る荒れ野、すなわち世の中での生き方には神の御国を行く信仰の足跡になって残っているでしょう。

だから、我々は、自分たちの責任を遂行することにおいて、私たち、自分がその責任を遂行する時間を通して、その過ぎた時間ほど、前よりもさらによりよくキリスト者になるべきです。我々が与えられた各自責任が何でも、その責任を果たすことよりも、さらに大切なことは、その役割遂行の過程を通して、前より今、 神に対して自分自身が真面目なキリスト者になっていることなのです。キリスト者の生き方は、自分たちがキリスト者として「すること」を通して、「キリスト者になること」にならないと、その生き方は世間の時間にすぎないのです。キリスト者の生き方は神が共におられる時間だからです。

自分たちに与えられた責任を果たすことは大切な姿です。ところが、問題は、その責任を果たした人はいざよりよくキリスト者にならないことなのです。例えば、母と父が情熱で仕事によってお金を儲けて、子供が豊かな状況で育てることになっても、その情熱的な仕事の時間を通して、過ぎてきた年月ほど、キリスト者として真面目な母と父にならないと、クリスト者の父母としてのその生き方は御前でどのような意味があるのでしょうか。責任感、情熱、献身など、それらは重要な姿ですが、神のご秩序に従わないなら、その生き方、その仕事、その責任遂行は、信仰の歩みではなく、自己の働きにすぎないのです。

本日の箇所から、主なる神はご自分の秩序によって、御業を行われるというお教えが学べ、神の民である我々は、そのような御業の属性に従って、神から与えられた自分たちの責任としての生き方を、何よりも神が立てられたご秩序によって生きるべきだというお教えが学べます。この意味で、私たちが生きているこの世は、荒れ野での神の学校なのです。この世の中で、私たちは神を学んで神に似て生きるように生きなければならないのです。私たちにとって、世の中は神を学ぶ神の荒れ野の学校だからです。神の荒れ野の学校で、私たちはどのような神の民でしょうか。この問いに責任を持って、世の中という荒れ野で暮している歳月が信仰の痕跡になるように、その生き方の年月によって、前より今、さらに真面目なキリスト者になりますように願い、自分たちの人生の歩みを、神のご秩序によって旅することになりますように、お願いします。