2022年05月29日「天への梯子、イエス」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 1章34節~51節

メッセージ

2022年5月29日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書1章43節~51節「天への梯子、イエス」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 今朝与えられました御言葉は1章43節から51節であります。ヨハネによる福音書の第1章の御言葉を聞き続けてきました。今朝で1章の御言葉を終えることになります。説教題を「天への梯子、イエス」といたしました。

今朝は5月の最終の主の日であります。わたくしが、神戸から熊本に赴任してまいりましてちょうど二か月がたちました。3月の最終の主の日、礼拝を終えてから神戸を出発し、その日は福岡のインターチェンジ近くのホテルに泊まりました。翌朝、いよいよ熊本に向かうというとき、薄曇りの空の隙間から一筋、二筋の光が放射状に射し込んでくるのが見えました。心の中で「ああ、天使の梯子だ」と思いながら高速道路を走っていたことを思い出します。

「天使の梯子」、「ヤコブの梯子」とも言いますが、それは旧約聖書、創世記28章のヤコブの夢に由来する名前です。ヤコブは、兄のエサウと父のイサクを騙して、長子の特権、後継ぎの権利を騙し取ります。そのため、兄の怒りを買い、母リベカの故郷であるハランに逃げて行かざるを得なくなりました。旧約聖書創世記28章10節から13節をお読みしますのでお聞きください。

「ヤコブは、ベエルシェバを立って、ハランに向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神のみ使いたちが、それを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたが今横たわっているこの土地をあなたとあなたの子孫に与える。(一部省略)、地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る』」

ヤコブは、大いに励まされ、枕にしていた石でこの場所に記念碑を立て、ここは神の家、天の門だ」といい、ベテルと名付けたのです。ベテルとはベイト、エル、ヘブライ語で神の家であります。それ以来、ベテルという名前は教会の中で大切な言葉になりました。

今朝のみ言葉の最後のところ、51節には、主イエス様の次のよう言葉が記されています「はっきり言っておく。あなたがたは、天が開け、神の天使たちが人の子の上に上ったり下ったりするのを見ることになる」。この主イエス様の弟子たちへの約束は、今、読みました創世記28章のヤコブの夢に由来することは言うまでもありません。今朝の説教題は、「天への梯子、イエス」です。しかし主イエス様は、「天からの梯子」でもあります。ヤコブの梯子は、天から地上に降ろされていたからですし、主イエス様ご自身が、天から私たちの許に遣わされ救い主であるからです。

2,

第1章では、これまでに「その翌日」という言葉が二度出てきました。今朝の御言葉もまた、「その翌日」と言う言葉で始まっています。つまり最初の日から数えると、この日は四日目ということになります。この日、主イエス様は、ガリラヤへ向かわれます。それまでは、洗礼者ヨハネという主イエス様の先駆者、道備えをするものだ、と言われている人のそばに、つまりエルサレムに近いヨルダン川のあたりにおられました。けれども、この日主イエス様は、そこを離れて、ご自身の故郷であるガリラヤへ行こうとされるのです。今朝のみ言葉は、洗礼者ヨハネが活動していたヨルダン川のほとりにおける最後の場面になります。

 今朝の御言葉では、フィリポとナタナエルの二人が、主イエス様の弟子として主イエス様から見出されますが、はじめにフィリポが主イエス様に従うものになりました。

 フィリポが、主イエス様の弟子になったいきさつは実に単純です。主イエス様が、フィリポに出会い、そして言うのです。「わたしに従いなさい」。「わたしに従いなさい」。この主イエス様のお言葉は、マタイによる福音書の著者とされている徴税人マタイが主イエス様から受けた言葉と同じです。主イエス様は徴税の事務所に座っているマタイに言われました。「わたしに従いなさい」

 この「従う」と言う言葉には、日本語でもそうですけれども、二つの意味があります。ひとつは、物理的な体の移動のことです。後をついてゆくという意味です。もう一つは、もっと深い心のあり事に関係することです。親に従うとか、上司の命令に従うと言うように、ある人の言うことを聞く、権威を認めてそれに従うことです。先週の御言葉に出ていましたアンデレともう一人のヨハネの弟子は、主イエス様から「来なさい」と言われてその泊っている場所に行きました。これは空間的な移動のことを言っています。それから主イエスさまと親しく接して主イエスがただの人ではない、神の人、救い主であると確信しました。そして主イエス様に従う人になりました。

フィリポの場合には少し違っています。徴税人マタイは主イエス様から「わたしに従いなさい」と言われますと、すぐにその税金とりたての事務所の椅子から立ちあがって、主イエス様に従うようになります。これは空間的場所的な移動が、心の向きの変化と一致していることを示しています。主イエス様がフィリポに言われた言葉も同じです。主イエス様は、これからわたしの行くところに来なさい、そしてわたしの弟子になりなさいと言っておられるのです。

43節に「イエスは、フィリポに出会って」と書かれています。ここを新改訳聖書とフランシスコ会訳聖書は「イエスは、フィリポを見つけて」と訳しています。その方が、元の言葉の意味に近いのです。決して偶然に出会ったのではなく、主イエス様は、すでにフィリポと言う人の事を知っており、弟子として召しだそうとしておられました。そして、この日フィリポを見出し、フィリポもそれに応えました。44節に、このフィリポは、先に弟子となっていたアンデレとペトロと同じ町の出身だったと書かれています。三人はすでに知り合いでありました。

わたしたちが神様を信じ、主イエス様を信じる時には、それに先だって神様ご自身の選びがあり、召しがあります。そのような人々を主イエスはご自身のもとへ呼ばれます。「わたしに従ってきなさい」。わたしたちが主イエス様を信じ従って行く時、わたしたちはいつもこの御声を聞いているのです。

フィリポが、この主イエス様のお言葉に対して、一体どうしたのか、なんと答えたのか、ここには記されません。当然のようにして、すでにフィリポは、友人のナタナエルに会って言うのです。「わたしたちは、旧約聖書が示している方、救い主に出会った」。すぐに彼は伝道を開始しています。主御自身が、招いてくださったので、わたしたちもまた人々を主イエス様のもとに招きます。主イエス様は、今も、ご自身を信じる人々を捜しておられるし、招いておられます。わたしたちを求めておられ、捜しておられ、招いておられるのです。「わたしに従いなさい」。この主イエス様の招きこそが大切なことなのです。わたしたちは、それを単に受ければよいのです。

45節から50節は、フィリポの友人のナタナエルが主イエス様の弟子となったいきさつを記します。ナタナエルは、ヨハネによる福音書21章で、12弟子の一人であると紹介されているのですが、他の福音書には全くその名が出ないことが一つの謎になっています。一方、他の福音書には登場しながら、ヨハネによる福音書には登場しない弟子がいます。バルトロマイという弟子ですが、多くの研究者は、この二人は同一人物ではないかと考えています。バルトロマイとは、ヘブライ語、アラム語でトロマイの子と言う意味ですから、別に本名があってもおかしくはないのです。そしてバルトロマイは、他の福音書ではいつもフィリポと対になって出て来る弟子でもあるので、ナタナエルは、このバルトロマイに違いないとされています。フィリポは、単純に、ほんとうに素直に主イエス様の召しに応えて弟子となったのですが、ナタナエルの方は、複雑であり、乗り越えるべきことがありました。

ヨハネによる福音書の終わりごろですが、20章にトマスと言う人の話が出ています。彼は、12弟子の一人でしたが、主イエス様の復活について、これを疑った人です。復活された主イエス様が、他の弟子たちに姿を現わしました時に、たまたまいなかったということがあり、トマスは他の弟子たちが、わたしたちは復活した主イエス様に会ったと言ったとき、決して信じなかったのです。自分自身で、あのお方の釘のあとを見、指を釘跡に入れて見なければ信じないと言い張りました。そう議論しているところに復活の主イエス様ご自身が来て下さったと言う物語です。

 今朝の御言葉の主人公の一人ナタナエルと言う人も、主イエス様がメシアであることを疑って受けいれませんでした。これまで、一緒に聖書の言葉を学び、イスラエルの救い、自分たちの救いのことをいつも思いめぐらしていた友人のフィリポから、主イエス様のことを聞いた時にこう言っています。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」

ヨハネによる福音書のはじめと終わりに、このような疑い深い弟子について語られていることは興味深いことです。それは、わたしたちが福音を聞いても信じない、むしろ疑うようなものであるからです。45節でフィリポは、こう言って主イエス様をナタナエルに紹介しています。

「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

ナタナエルは、フィリポの言葉のナザレのイエスというところに反応しました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」

ある人が旧約聖書のメシア預言、救い主についての預言をすべて研究してそこにナザレと言う言葉が出ていないか調べましたが、ナザレと言う言葉は一回も出ていないことが分かったそうです。ナザレは忘れられている町でした。むしろ、人々の間では、旧約聖書のミカ書5章1節にでるベツレヘムと言う町に関心が向いていました。5章1節には、「エフラタのベツレヘムからイスラエル治めるものが出る、彼の出生は永遠の昔にさかのぼる」と書かれているからです。

 ここで二人の間になにがしかの論争、議論があったに違いないのですが、聖書はそれを記しません。結局、フィリポは、ナタナエルにこういうのです。「来て、見なさい」。あなた自身が主イエスに会って、直接、その方を見ればよいと言うのです。百聞は一見に如かずという言葉がありますが、まさにそのとおりです。わたしたちにも、福音を信じない、受け入れない、疑う、そういう人が身の周りにいるかもしれません。その時は、フィリポに見習えばよいのではないでしょうか、こう言うのです。「来て、見なさい」。あなたは、来もしない、見もしないで批判してもだめだ、とにかく信仰の世界に入ってきて見なければわからないと言えばいいのです。

4、

 ナザレの人、ヨセフの子と言う言葉に反応し、主イエスを疑ったナタナエルは主イエス様のところにやってきます。主イエス様は、彼を見るなりこう言いました。

「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」

この後の会話を見ますと、主イエス様は、フィリポと同様に、ナタナエルについても、以前からご自身の弟子となるべく、かれのことを心にかけておられたことが分かります。フィリポが、主イエス様のことをナタナエルに紹介する前に、すでに主イエス様はナタナエルを知っておられたということです。主イエス様は、ナタナエルが以前からイチジクの木の下にいるのを見ていたと言っています。イチジクの木は、枝ぶりが良く、夏の日照りにも強いので、人々はユダヤ教の巡回教師を招いて、この木の下に座って聖書の勉強をするということがあったそうです。いつの間に見ていたのかと考える必要はありません。このとき、主イエス様は、自分は弟子となる人をあらかじめ知っているし、その人を必ず招く、そしてその人は必ず主イエスに従うと言いたいのです。

まことのイスラエル人とは、どういう意味でしょうか。それは当時、偽りのイスラエル人がいたということを示します。イスラエルは旧約聖書において救いを約束されている神の民です。そして神の民は神に従い、神を崇め、真実の道を歩みます。イスラエルと言う名前はアブラハムの子イサクの子であるヤコブと言う人に与えられた名前です。ヤコブからイスラエル12部族が生まれたと書かれています。

ヤコブは、エサウと双子でしたが、父イサクは兄のエサウを愛し、母リベカは弟ヤコブを愛しました。ヤコブはずるい性格で、空腹のエサウに付け込んで、兄から長子の特権を手に入れたり、兄になり済まして父イサクから長子の祝福をだまし取ったりする人でした。創世記28章から35章はこのヤコブの物語です。

先ほどお話ししたように、結局、逃亡する身となったヤコブがまだパレスチナにいるとき、一つの夢を見ます。それは、天から梯子が降りてきて天使がそこを上り下りしているという夢です。ヤコブは、目を覚まして、ここは特別な場所だ、神の家だと言って、枕にしていた石を記念碑としてその場所を神の家=べトエール、縮めてベテルと名つけました。このあと、ヤコブは親戚のラバンの家に入って生活し苦しい労働をします。神さまはヤコブを祝福して沢山の羊や牛を授けて下さいました。ヤコブは、多くの財産を手にして父や兄と和解し故郷へ帰ろうとします。その帰りの道で、ヤコブにイスラエルと言う名が与えられたのです。夜なかにヤコブと相撲を取る人が現れ、ヤコブは夜通しその人と戦います。ヤコブは腿(もも)の関節を外されてしまうのですが、最後まであきらめずに戦いました。その人は自分が神の使いであることを証しして、お前は神と戦って勝った、それでこれからはイスラエルと呼ばれると言って去ってゆきました。イスラエルとは、神と戦うと言う意味です。

 主イエス様は、ナタナエルを見て、この人には偽りがないと言いました。偽りと言う言葉は、聖書では、ずるがしこいと言う意味で、ヤコブのような人のことを言うと解説している学者がいました。しかし、そのずるがしこいヤコブも神と相撲を取るという経験の中で整えられて、イスラエルと言う名を与えられ、神の民の継承者とされました。キリスト教会の伝統では、この夜通しの格闘は、わたしたちが捧げる祈りの例えであると解釈されています。まことのイスラエルは神の民であり神から整えられるのです。

ナタナエルは、主イエス様とお目にかかり、会話をする中で信仰を与えられました。ナタナエルはこう言います。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

旧約聖書が証ししている神の子、神と同じ方、救い主であると告白したのです。これに対して主イエス様は、言われました。

「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」

そしてナタナエルだけでなく、その場にいた弟子全員にこう言われたのです。51節です。

1:51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

これまで、「あなた」と単数形で呼ばれたイエス様が、ここでは、「あなた方」という、複数形でお語りになります。そこには、こののちの主イエス様を信じる者のすべてが含まれていることは間違いありません。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

ヤコブの見た天の梯子の夢は、神が人のいる地上へと降り、神との交わりを許してくださることを示します。主イエス様は、ここでは自分自身が、その梯子の働きをすると言われるのです。

一人の人が、主イエス様を信じる、主イエス様の弟子となる道は一つではありません。ある時は、アンデレに導かれたペトロのように、ある時には、主イエス様ご自身が見つけてくださったフィリポのように、あるいは疑いを乗り越えさせていただいたナタナエルのように、それぞれに主イエス様を信じます。しかし、それは全て、主ご自身があらかじめ知っておられることであり、ご計画の中に入れられていたことなのです。そしてどんな人も主イエス様を通して天の恵みを受け取ります。主イエス様の弟子になるということは、天の恵み、天の祝福を主イエス様と言う「天の梯子」を通して地上のわたしたちが頂くと言うことです。

主イエス様は、わたしたちに呼びかけます。「わたしに従いなさい」、そしてまた、一度従ったわたしたちにも続けて呼び掛けて下さいます。「これからも従い続けなさい」わたしたちは、この主イエス様の言葉にお答えしようではありませんか。祈ります。

祈り

天の父なる神様、天からの梯子であり、また天への梯子でもある救い主イエス・キリストの御名を崇めます。絶えず神と共にいる恵み、天の国、神の国の恵みを受け続ける幸いを感謝いたします。こののちも、主イエス様と共にいることが出来ますよう導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。