2022年05月15日「神の小羊、神の御子」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 1章29節~34節

メッセージ

2022年5月15日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書1章29節~34節「世の罪を取り除くキリスト」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 この朝、わたしたちがご一緒に聴いていますみ言葉は、ヨハネによる福音書1章29節から34節までであります。説教題を「神の子羊、神の御子」としましたが、今、思っていますことは、「見よ」と言う言葉を加えて「見よ、神の子羊、神の御子」とすべきであったということです。説教題の言葉は、洗礼者ヨハネの言葉ですけれども、そこにははっきりと「見よ」という言葉が記されています。

洗礼者ヨハネは、ヨハネの言葉を聞き入れて洗礼を受けるために集まってきた人々に呼びかけました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」

説教を準備するためにこのみ言葉を幾度も読みましたが、その中で気が付きましたことは、この「見よ」を含めて、今朝のみ言葉に「見る」という言葉が、合わせて5回にわたって繰り返されていることです。しかも興味深いことですが、翻訳前のギリシャ語の原文では、4種類の違った「見る」という言葉が使われています。この次の36節にも「見る」という言葉があり「見つめて」と訳されていますが、これはそれまでの四種類の見るとは別の五種類目の見るで、「見つめる」と訳されています。同じような意味がある幾つもの言葉が使われる時、必ずしもそれに何かの意図がある、思いがあるということではありません。しかし、そこに意味がある場合もあります。

最初の29節の「見よ」は、そのときヨハネがこちらに歩いてこられるイエス様を見たと書かれて「見る」とは違う言葉で、多くの場合人々や読者への呼びかけとして使われる言葉です。この日、今朝のみ言葉の主人公であります洗礼者ヨハネは、自分の方に歩いてこられる主イエス様を見ました。そして次に、おそらく主イエス様と言うご存在を指さすようにして、周りの人たちに呼びかけて言ったのです。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」。

このとき、洗礼者ヨハネと周りの人々のところに歩いて来来られたのは主イエス・キリストです。実際に子羊の姿が人々の目に見えているのではありません。しかし、ヨハネは言うのです。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」。つまり、あなたがたの見ている方は、単に一人の人間の姿にしか見えないかも知れないけれども、この方こそ、特別な方、「世の罪を取り除くお方」である。しかも「神の子羊」としてそれを行われる方であると知って欲しい、心を向けてほしい、「見よ」と言うのです。

主イエス様を指し示し、人々に向かって「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と呼びかける、これは今のわたしたちキリスト教会もまたなすべきことであります。教会は、聖書を読み、そこに記されている「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言う呼びかけに耳を傾けます。救い主であるイエス・キリストを見る、このお方に心を向けます。そしても同じ言葉を使って世の人々をイエス・キリストへの救いを受けるよう招き続けるのです。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」

 さて、合わせて5回記されています「見る」と言う言葉のうちの残る三つに注目します。ヨハネが主イエス様を見たということと、人々に「このお方を見よ、このお方こそ世の罪を取り除く神の子羊だ」と宣べ伝えたこと、この二つのことは29節の初めに「その翌日」と呼ばれている日、同じ時に行われました。

 残る三つの「見る」は、今朝のみ言葉の後半の32節、33節、そして最後の34節に記されます。実は、このことが起こったのはいずれも始めの二つの時点よりも前、過去のことです。つまり洗礼者ヨハネがこの時よりも前に体験したことです。それがいつのことであったのかは示されていません。けれども、洗礼者ヨハネは、今、こちらに向かって歩いて来ておられる方の上に、聖霊が鳩のように降って留まるという出来事を以前に見たというのです。洗礼者ヨハネはすでに主イエス・キリストを見ておりました。そして会話を交わしていました。ほかの福音書によりますと、そのときヨハネは主イエス様に洗礼を授けています。そしてその時、聖霊が鳩のように降って留まるのを見たのです。

ここでの「見る」は、原文では、しばしば「注意深く見る、観察して確かなことと知る」という意味で使われる「見る」であります。ヨハネは、聖霊が主イエスの上に降るのを確かに見た、間違いないこととして見たのです。そして、それに先立って、天の父なる神は洗礼者ヨハネにこう言われていたというのです。「霊が降って、ある人の上にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」。このように神が言われていたとおりに、今こちらに歩いてこられる人の上にわたしは聖霊が降って留まるのを以前に見た、こういうのです。

これは最後の34節にもう一度繰り返されています。「わたしはそれを見た」。この最後の「見る」は、「見よ、神の子羊だ」の「見る」のもとになっている言葉で、聖書では最も普通に使われている「目で見る」という言葉です。確かに見た、観察したと同時に、それは、実際に目で見たことであるというのです。ヨハネは、言いました。「わたしは聖霊が留まるのを見た、それゆえ、この方こそ、神の子であると証ししたのだ。」

3、

 29節をもう一度、お読みしましょう。「29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 主イエス様は、ヨルダン川で悔い改めの説教を語り、洗礼を授け、そうして沢山の弟子たちと一緒にいる洗礼者ヨハネのところへとやって来られました。この時が、主イエス様とヨハネとの最初の出会いではなかったことは、今お話しした通りです。この日に先立って主イエス様は、すでに洗礼者ヨハネのもとに来ていて、彼の教えを聴き、また洗礼を受けていたのです。32節は、その時にこういうことが起きたのだというヨハネの証しです。

「32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。」

そのことが、起こる前に、洗礼者ヨハネは、父なる神からお告げを受けておりました。それが、その後にある33節です。お聞きください。

「33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。」

 自分は、メシア、キリスト、救い主ではない。その方のために道を備える先ぶれの声であるというのが、エルサレムから来た調査団に対する洗礼者ヨハネの回答でありました。旧約聖書のイザヤ書40章2節「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主の道をまっすぐにせよ」と」この預言者イザヤの預言が実現したのだと語りました。

 そのためにわたしは道備えをした、その本来の方がついに来られた、わたしはその方を見た、聖霊が神の御言葉どおりに鳩のように降り、この方の上に留まりましたというのです。

 ヨハネは、人々に向かってこう言います。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」。このとき、ヨハネは荒れ野で遠くを見ながら叫ぶ声ではありません。そうではなく、主イエス様はもう目の前にきておられるのです。ヨハネは、今、そのすぐ目の前においでになったお方を「見よ」と指差す指になっています。

 わたくしたちが、洗礼を受け、教会に通っていますのは何のためでしょうか、それは主イエス様の罪の赦しと永遠の命の恵みにあずかるためです。主イエス様を信じて受ける洗礼は、水による洗であり、同時に聖霊による洗礼です。

 洗礼者ヨハネは、叫びました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」

 洗礼者ヨハネが、ここで「見よ」と語りかけているのは、ヨハネのところに来て、神様の前に悔い改めているユダヤ人たちです。ユダヤ人たちは、旧約聖書を幼いころからよく知っています。彼らは「世の罪を取り除く神の子羊だ」という言葉を聴いて、エルサレム神殿で捧げられている犠牲の羊のことを思いだしたに違いありません。

特に、「過越し祭り」と言う行事の時に捧げられる子羊が、この犠牲の代表的なものです。ユダヤ人の先祖たちが昔、エジプトの国に寄留して暮らしていたときに、エジプトの王ファロの虐待に苦しみ、モーセをリーダーにしてエジプトを脱出します。神さまは彼らをエジプトからなかなか逃さなかったファロへの警告として、エジプト中の初子、を殺すという苦難をエジプト全土に与えました。その時に、ユダヤ人の家で捧げられのが「過越しの子羊」です。神様が、子羊を殺しその血を家の鴨居と柱に塗るようにと命じられたからです。そしてエジプト中の初子が死ぬと言う災いの時が来ました。しかし、子羊の血が塗られた家だけは神様は過越してゆかれ、災いが下されなかったのです。このことを覚えるために、「過越しの祭り」が神様によって定められました。

エルサレム神殿がまだ幕屋と言いまして、荒れ野を旅してゆく天幕であったときから、祭壇には定期的に穀物や動物が捧げられ、あるものは焼き尽くす捧げもの、あるものは神様と共に食べる捧げものとして捧げられました。そして「過ぎ越し祭の子羊」は、神の民の罪の赦しのために、また神の民が神を崇め礼拝するためにささげられます。

 主イエス様が、子羊であるということは何を意味するのでしょうか。主イエス様は、この犠牲の子羊のように神様のご計画によって、この後命をとられる、神に捧げられてしまうことを表わします。そして神の子羊と言うことは、神が供えられたということだけでなく、「神である子羊」「神の御子」です。イスラエルの民、ユダヤ人たちが捧げてきたあらゆる犠牲の集大成、完成形であることを示しています。

4、

 さて洗礼者ヨハネは沢山の人々に洗礼を授けました。罪を清めるための洗礼です。神が清めてくださることのしるしとして洗礼を授けました。しかし、わたしたちキリスト教会が授ける洗礼は、このヨハネの洗礼とは違います。教会が授ける洗礼、わたしたちが受け、あるいは受ける洗礼は、「父と子と聖霊の御名によって」授けられます。それは、水の洗いとして清めのしるしでもありますけれども、それ以上に大切なことは、十字架にかかってくださった犠牲の子羊、イエス・キリストの血によって罪が赦されることです。洗礼は、水をくぐってもう一度生まれることです。死んでよみがえられたこのお方と一つになる印です。洗礼は、主イエス様を信じ、このお方に望みを置き、このお方に従う決心をした人が受けるものです。また信者の子も、同じ恵みを約束されているしるしとして幼児洗礼を受けます。洗礼は主イエス様ご自身が定めた恵みの儀式、礼典です。聖霊によって主イエス様としっかりと結びあわされたことを意味しています。

 主イエス様が十字架で命を捨てられた、その命の贖いが、洗礼を受ける人に転じて与えられます。主イエス様の神の子の身分、神のこの清さ、神の子の正しさが、洗礼を受ける人に確かに与えられるのです。この洗礼の効力は、真実の信仰と共に働きます。信じないで受けても何の意味もありません。しかし、ひとたび主イエス様を信じて洗礼を受けるならば、どんな人でも、たとえ、この世で罪人と言われる人でも救われるということが約束されているのです。

たとえ人間世界の法律的の上では、そうでなくても、人は皆、神の前に罪人であり汚れた存在です。しかしどんな人でも、信仰を告白し洗礼を受けるならば、その罪は赦されます。そして主イエス様の恵み、祝福、清さ、正しさ、すべてを頂くことになります。人は死ぬまで、完全な存在になることは出来ませんけれども、信じて洗礼を受けた人は、義なる人、正しい人とみなされます。さらに主イエス様の恵みによって、死の時に完全に清められて天に引き上げられます。このことは神様の約束であります。

 洗礼者ヨハネは、叫びました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」。その指の先に、おられるお方は、イエス・キリストでありました。

 この世界に入り込んだ全ての罪と悪、悲惨と呪い、この全てが、主イエス様の命と共に贖われます。わたしの罪、それぞれの罪も主イエス様の十字架によって赦され、取り除かれます。回復され、新しくされます。主イエス様を信じて洗礼を受けた人は、誰でもこの約束に入れられるのです。どうか、このことを信じていただきたいと思います。すでに洗礼を受けている方も、改めて、自分は洗礼を受けている、神の子羊の全ての恵みにあずかっている、その中に入れられていることを覚えていただきたいと思います。

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」、洗礼者ヨハネは、このように救い主を指し示しました。わたしたちもまた、救い主を指さし、人々に呼びかけます。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」

お祈りを致します。

天の父なる神様、わたしたちに御子イエス・キリスト遣わして下さり感謝いたします。また、そのために道を準備するものとして洗礼者ヨハネを遣わしてくださって感謝いたします。教会は、洗礼者ヨハネのように、救い主を人々に示して「見よ」と呼びかける存在であることも覚えます。どうか、わたしたち熊本教会の伝道を導き、支えてくださいますようお願いいたします。すべてのことを感謝して、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。