2022年05月01日「恵みの上に恵みを」

日本キリスト改革派 熊本教会のホームページへ戻る

聖書の言葉

ヨハネによる福音書 1章14 節~18節

メッセージ

2022年5月1日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書1章14節~18節「恵みの上に恵みを」

1、

 今朝ここにお集まりの皆さまの上に、父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 皆様と一緒にヨハネによる福音書を読み始めて、今朝はその三回目であります。1章1節から18節までの、この福音書全体の序文と呼ばれているみ言葉を読み進めています。

「初めに言葉があった」という何か謎めいた宣言によってはじめられました。カトリックの翻訳でありますフランシスコ会訳聖書は、ここには三つの賛歌、イエス・キリスト讃える歌があると小見出しをつけています。それによりますと、最初の14節は、実はその前の10節から始まった第二賛歌の最後の部分だと言います。そして続く15節だけは賛歌ではなく洗礼者ヨハネの証しであり、16節から18節が 最後の第三賛歌であると解釈します。もともとの聖書のギリシャ語本文には章も節もなく、もちろん小見出しもありませんから、これはあくまで翻訳者の意見に過ぎないものですが、しかし、この1節から18節の序文は、キリスト賛歌と洗礼者ヨハネのことが記されていることは確かなことだと思います。

まず1節から5節を振り返りますと、「言」「kotoba」は、「神と共にあった」、「言葉は神であった」「万物は言によって成った」、「成ったもので言葉によらずに成ったものは何一つなかった」「ことばの内に命があった」と畳みかけるように「言」「kotoba」について語られました。「言」と訳されている原文の単語は「ロゴス」であります。言葉、計画、理性といった広い意味があります。ここでは、神ご自身がご自分のことを語る、表現する、現わされているもの、神の言葉という意味が込められています。そして「言」「kotoba」の内には命があり、この命こそ人間を照らす光、暗闇の中で輝く光だと宣言します。

次の6節から9節は、洗礼者ヨハネのことが語られました。そしてヨハネは光について証しし、預言したと語りだします。9節には「光は、まことの光で世に来てすべての人を照らす」と記されます。再びキリスト賛歌が始まります。初めに登場した「言」、「ロゴス」は「光」に置き換えられています。主イエス様は、世の光であります。この第二のキリスト賛歌は13節まで続きます。

そして今朝は、14節から18節までのみ言葉を聴いています。ようやくと言いますか、やっといいますか、17節で、初めてイエス・キリストというお名前が示されたのであります。「言」も「光」も初めからこの主イエス様のことでありました。けれども、イエス・キリストという名前、ご存在が明言されたのは、この17節が初めてです。

あえて言葉、光と言う言葉から語り始め、読む人の心を惹きつけるようにして、やっとイエス・キリストと言う名前を明言しました。

最後の18節には、このお方、イエス・キリストは、「父のふところにいる独り子なる神」と言い換えられています。すなわち、主イエス様の真実のお姿が明かされます。「父のふところにいる独り子なる神」。そして「この方が神を示されたのである」という宣言で序文全体が閉じられているのです。

ここは、別の聖書翻訳は、「父のふところにいる独り子である神、この方が、神を啓示されたのである」と訳しています。「示す」「啓示する」と訳されている元の言葉は「詳しく説明する、明らかにする、示す」という意味の言葉です。主イエス様ご自身が神であられますから、このお方ご自身が天の父なる神様がどのようなお方であるのかを身をもって示された、あらわにされたという意味で、「啓示された」と訳しているのです。

わたしたちが告白するウエストミンスター信仰告白の第一章には、旧新約66巻の聖書こそ神の啓示の書であると記されています。けれども、その聖書が啓示するイエス・キリストと言うお方そのものが、神さまがご自身を明らかに表してくださったという意味で神の言葉、神ご自身の自己啓示であるということが出来ます。

 ヨハネによる福音書の最後に近い第20章31節には次のように書かれています。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであることを信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」

 イエスは神の子、であり、またメシアであることを信じて命を受けるために福音書全体が書かれと最後に言います。この1章の初めに置かれた序文においても既に、そのことが明言されているのです。

20章31節に、メシアと言う言葉が記されています。メシアは、ヘブライ語で、「油注がれた者」、つまり神に任命された救い主のことです。ギリシャ語では「キリスト」です。イエスが、神の子であり、救い主である、キリストであることを知らせる、このことがヨハネによる福音書の目的にほかなりません。

 今朝18節までで、序文を読み終えまして、次週からいよいよ本文に入って行きます。わたしたちは、これから読んで行きます御言葉を通して主イエス様を益々信じ、信仰を確かにし、ますます救いを受け、恵みを頂くことを期待しながら読んでゆきたいと思います。

2,

 17節で始めてイエス・キリストのお名前が記されていると、先ほどお話ししました。今朝の個所ではもう一つの初めて登場している言葉があります。それは「わたしたち」という言葉です。14節「言葉は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 この「わたしたち」とは誰かという問いが湧き上がってくるでしょう。「わたしたち」とはこの福音書を記しました使徒ヨハネ、そしてヨハネと共にいる教会の導き手たちのことでしょうか。それとも、この手紙の宛先とみなされている人々、つまりまだ主イエス様を信じていない、受け入れていない人々と区別された「わたしたち」でしょうか。つまり、当時の教会に属しているすべての人々の証しの言葉であるという意味を込めて「わたしたち」と言っているのでしょうか。

16節にはもう一度「わたしたち」と言う言葉が使われます。

「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に恵みを受けた」

この16節が明らかにしていることは、「わたしたち」は、教会の中のある特別の人のことではないということです。そうではなく主イエス様を信じることによって、主イエス様から恵みを受けた「わたしたち」であります。それも「恵みの上に恵みを受けた」、つまりこれ以上ないほどの恵みを受けた人であることが分かります。

それは生まれながらの自分自身が持っていたものではないのです。この方、つまり主イエス様の満ちあふれる豊かさから頂いた恵みであります。別の言葉で言えば、今ここで、主イエス様の名によって集い、主イエス様のみ言葉に耳を傾けているわたしたちもまた、そこに含まれているのではないでしょうか。わたしたちは肉の目で主エス様を見たことはないのですけれども、しかし、信仰の目で確かに主イエス様の恵みと真理とを見ています。恵みと真理に満ちている栄光の主イエス様を見ている、信じているのです。

今朝の聖書個所は、14節に「言(kotoba)は肉となってわたしたちの間に宿られた」と書かれています。「宿られた」と訳されている元の言葉は、テントを張るという言葉です。旧約聖書の時代、モーセが率いた神の選びの民イスラエルがシナイ半島の荒れ野や砂漠を旅していた時、見えないはずの神様が、「幕屋」、つまり礼拝のための天幕にご臨在下さって。昼は雲の柱、夜は火の柱となって民を導かれました。この同じ神が、新約時代には、神の独り子であるお方、神の子として、「わたしたち」、つまり信じる人々の間に来てくださったのです。

そしてこの方は、雲の柱、火の柱ではなく、ヨセフとマリアの子、ベツレヘムの家畜小屋で、生まれたばかりの幼子の姿で来てくださいました。「肉となって」、つまり「人間となって」ご臨在下さったのです。

マタイによる福音書とルカによる福音書には主イエス・キリストの誕生の次第が記されています。クリスマス物語です。毎年クリスマス礼拝では、その御言葉が読まれます。このヨハネによる福音書1章14節から18節もまたクリスマスのことを語っています。わたくしも、過去二回ほど、クリスマスの説教で、このヨハネによる福音14節から18節を語ったことがあります。「言(kotoba)は肉となってわたしたちの間に宿られた」。まさしくクリスマスのことであります。

3,

 15節をお読みします。「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『わたしの後から来られる方は、わたしよりも優れている。わたしよりも先におられたからである』と私が言ったのはこの方のことである」

この洗礼者ヨハネの証しの言葉については、この後の19節から28節でさらに詳しく語られます。それで、今朝はこれ以上語ることは致しません。すでに6節から8節に記されていましたように、洗礼者ヨハネは、これから来られる方として主イエス様を人々に紹介し、このイエス・キリストこそ、救い主であると証しをする人でありましいた。彼は光そのものではなく、光を証しするために遣わされたのです。

ここに洗礼者ヨハネによるものとして記されている「わたしよりも優れた方が、わたしの後から来られる」という言葉ですけれども、マタイ、マルコ、ルカの他のすべての福音書にも記録されています。それらに更に共通していることは、主イエス様が、洗礼者ヨハネのもとを訪れてヨハネから水の洗礼をお受けになったときに、天から「これは私の愛する子、これに聴け」という神のみ声が聞こえてきたことであります。イエス・キリストは、天の父の愛する子、神の子であることを天の神様ご自身が宣言してくださったのです。

 18節に主イエス様について「神のふところにいる独り子である神」とあります。ふところと訳される言葉は、地形図で「湾」、あるいは「港」を表す言葉で、それが、奥まった場所、ポケット、胸元という意味になりました。父なる神様の心臓の鼓動が響いているような場所におられる方、あらゆる存在の中で、もっとも父なる神に近いお方、ただ一人の子、このお方こそイエス・キリストであります。

 16節をお読みします。

「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」

ある説教者は、この16節は、ここまでのヨハネによる福音書に書かれてきたキリスト賛歌の中で最も慰めに満ちた忘れることができない言葉だと言っております。わたくしもそう思います。神の恵みを頂いたのです。しかし、その上になおもまた恵みが増し加えられます。神様は、わたしたちに「もう十分です」と言わせることはないのです。

 「この方の満ちあふれる豊かさ」と訳されている言葉は、原文を直訳するならば「彼の充満」と言う言葉です。「彼」とは、ここでは尊敬を込めて「この方」ですが、神の独り子という栄光を持つお方、主イエス・キリストです。「満ちあふれる豊かさ」、別の翻訳では、「満ち満ちた豊かさ」ですが、これは例えばコップに水が注がれてゆく、コップの淵まで達してこれ以上注ぐと溢れてしまうまで注がれるという場面を思い浮かべてください。神が定めた時、あるいはご計画が満ちることに対してもこの言葉が用いられます。ここではキリストの恵みがそのように成し遂げられて最大に達している、そのイエス・キリストの救いの確かさ豊かさからわたしたちは、恵みの上に恵みを受けたというのです。溢れるほどに受けたのです。

4、

 17節には、モーセという人物の名前が出てきています。「律法はモーセを通して与えられた」とあります。当時のユダヤ教の考え方は、旧約聖書の中心にモーセの律法があり、これを生活に活かすための解き明かしが預言書であり、詩編などの文学書であるというものですから、旧約聖書全体を律法と呼ぶことが出来ました。

初代教会の人々は、旧約聖書を救いの書として読み、そこに啓示されている救い主こそ主イエスであると信じましたけれども、旧約聖書の教えは意味がなくなったとは考えていません。旧約聖書の救いの約束が主イエスキリストによって成し遂げられたことによって恵みの上に恵みを受けたと言っているのです

 新共同訳は、「律法はモーセを通して与えられたが」と訳していて、「が」と言う言葉があり、これによって何か、律法とキリスト、キリストによる恵みと真理とが対立するかのように読まれることがあるのですけれども、原文には、「しかし」とか「なになにだが」という接続詞は一切ありません。「律法はモーセにより」、「恵みと真理はイエス・キリストにより」、と並べるようにして書かれ、そして最後に「現れた、出来た」というただ一つの動詞で結ばれています。けれども、旧約聖書の教え、特にその中心であるモーセ律法を超えるもの、これを完成させるお方こそ主イエス・キリストだと宣言していることにおいて、当時のユダヤ教に対しては十分挑戦的であったことは間違いありません。

 当時のユダヤ教はファリサイ派に代表されるように、神に対する人間の側の忠実さ、行いの功績として救いがあると信じていました。しかし、そのような人間の行い、功績ではなく、反対に神の子である主イエス様の光が、人間の罪深さ、暗闇を、照らしだし、恵みの上に恵みを注いで救ってくださるのです。

 今朝のみ言葉の初めの14節に、「ことばは肉となってわたしたちの間に宿られた」とあります。わたしたちは、この肉を取っておいでなったお方、イエス・キリストの満ちあふれる豊かさによって救いを頂き、恵みを受けています。今朝は、聖餐に与かります。主イエス様の肉と血とを頂くように、ご一緒にパンと杯とを受けようではありませんか。祈りを致します。

主イエス・キリストの父なる神、御名を崇めます。新しい月、5月の最初の主の日、あなたの満ちあふれる豊かさに今朝も与って、恵みと力とを頂きますことを感謝いたします。この尊い福音に生きることが出来ますように、また福音を伝えて行くことが出来ますように導いてください。主の名によって祈ります。アーメン。