聖書の言葉 ヨハネによる福音書 1章6節~13節 メッセージ 2022年4月24日(日)熊本伝道所朝拝説教 ヨハネによる福音書1章6節~13節「神の子の資格」 1、 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。 この福音書の冒頭部分1章1節から18節は、特別な個所であります。ヨハネによる福音書全体のまえがき、序文、オペラで言いますなら序曲、オーバーチュア―であります。この特別な1節から18節のみ言葉を三回に分けて解き明かそうとしています。今朝は二回目であります。ちょうど、真ん中のところに当たります。 まず6節に、洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネのこと書かれています。6節をお読みします。「6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。」 この6節にあるヨハネは、この福音書の事実上の著者とされる主イエス様の12弟子の一人、使徒ヨハネのことではないのですね。そうではなく、主イエス様に先だってヨルダン川に忽然と姿を現わした洗礼者ヨハネのことであります。 6節には、「ヨハネがいた」あります。この「いた」と訳されている言葉は、その前の「初めに言葉があった」という「あった」とは全く違う言葉です。「生まれた」とか「現れた」、「起きた」と言う言葉です。別の翻訳である新改訳聖書は「ヨハネと言う人が現れた」と訳しています。洗礼者ヨハネは、「はじめから存在した」と書かれている主イエス様とは違った仕方で、この世に生まれ、いま歴史の舞台に登場してきたのです。 このあとの8節には、彼は、つまり、洗礼者ヨハネは光ではない、すなわち主イエス様のような救い主ではなかったと書いてあります。彼は光ではなく、光について証しする人でありました。真の光であるお方、主イエス様の到来を指し示すのです。洗礼者ヨハネは、主イエス様のことを指差しまして「今、救い主がやってきた、現われた、今ここにおられる」ということを告げ知らせる人なのです。 2、 洗礼者ヨハネ、別名バプテスマのヨハネのことは、四つの福音書の全てに記されています。それほどに重要な人物であります。マタイによる福音書、マルコによる福音書には、この人が現れた時の姿かたちや生活が書かれています。洗礼者ヨハネはヨルダン川のほとりにいて、ラクダの毛ごろもを身にまとい、革の帯を締め、いなごと野蜜を食べて暮らしていました。まことに荒々しい姿です。そして悔い改めと神の裁きを告げ知らせ、人々に洗礼を授けておりました。 この世一般の普通の社会生活から一線を画し、権力からも独立して神の言葉を語ったのでした。このような姿は、イザヤやエレミヤのような旧約の預言者の姿そのものであります。最後の預言者と言われたマラキ以来、数百年間、神の言葉は告げられませんでした。しかし、ついに新約時代の初めに、この洗礼者ヨハネが現れて再び神の言葉が告げられたのです。洗礼者ヨハネは、、神様が特別に語るべきこととして啓示を与え、それを携えて世に遣わされた最後の預言者です。救い主である主イエス様と顔と顔を合わせて出会うことができた特別な預言者であります。 旧約の預言者たちが語った言葉に共通していることが二つあります。 第一に、彼らは世の腐敗を裁き、悔い改めを伝え、神の裁きを告げ知らせました。このままでは、私たちは神様から裁きを受ける、生き方を変えなければならないと叫んだのです。 そして第二のことは、ただ裁きの時がくる大変だということだけではない、救いがある、神様の下さる希望があると伝えました。預言者の使命は、神が助けて下さる、希望がある、言い換えると救い主の到来を伝えることでした。歴史の進展の中で、神の子であるお方、イエス・キリストがまさにおいでになり、公に働きを始められる、まさにその直前に現れた最後の預言者が洗礼者ヨハネであります。そういう意味で、洗礼者ヨハネは、旧約と新約とをつなぐ預言者としての働きを神から託されました。 7節をお読みします。 「7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」 ヨハネは確かに神から遣わされた人です。けれども、決して代々の旧約預言者が指示していた救い主、メシア、光そのものである方ではない。そうではなくて、やはり彼も預言者の一人であったというのです。神のロゴス、神の言葉、命である方、真の光である、主イエス様を証しする人だったと言いたいのです。ヨハネが来た目的は、すべての人がこのヨハネの証しを通して、光を信じる、つまりイエス・キリストその人を神として信じることでした。 このヨハネによる福音書には、洗礼者ヨハネの教え自体はあまり触れられていません。洗礼者ヨハネについては、光を証しする人だったと強調されています。 このことは、この福音書を書いた人、あるいは初めに読んだ人々にとっては、洗礼者ヨハネ自身の教えそのものは、よく知られていたことを示しています。彼の教え自体は記されないで、ヨハネは光でない、そうではなく「光について証しをする人」だったと強調されています。なぜでしょうか。この時代に、このヨハネその人が、もしかしたら救い主、神からのまことの光ではないかと信じた人がいたからであったと思います。 ノートルダム清心大学の元学長であり、2016年に89歳で亡くなられました渡辺和子というシスターがおられます。学生達から慕われ多くの書物や講話集DVDなども出された方です。「置かれた場所で咲きなさい」と言う本はベストセラーになりました。この方の洗礼名がバプテスマのヨハネだと伺いました。 あの荒々しい姿を持つ洗礼者ヨハネは、女性の洗礼名としては珍しいそうです。けれども渡辺和子先生は、これを本当に気に入っておられると言うことでした。それは、ヨハネは歴史の舞台に一見華々しく登場しますけれども、しかし最後まで自分は主イエスを証しするものにすぎないと強調しているからだと言うのです。主イエス様について「わたしは水で洗礼を授けるが、あの方は霊を注ぐ方であり、火と聖霊によって世をお裁きになる」と語り続けたのです。ヨハネによる福音書3章29節と30節にこうあります。 「29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」 この最後の「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉は、16世紀にマチウス・グリューネヴァルトという人によって書かれた有名な絵であります「イーゼンハイム祭壇画」の中で、十字架上のイエス・キリストを指さしながら語る洗礼者ヨハネの像にも記されています。 渡辺和子シスターは、たぐいまれな賜物を与えられた方ですけれども、神さまの前にこのように謙遜に生きたいと願っておられることを聴いてわたくしは感銘を受けました。 「8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」これが洗礼者ヨハネの姿であります。 3、 神は主イエス様に先だって、洗礼者ヨハネを起して、まことの光について告げさせました。9節から14節では、書き出し部分の1節から5節に続いて、もう一度、この光であるお方、主イエス様について語り始めます。9節をもう一度お読みします。 「9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」 光は闇を照らします。そして、すべてのことを白日のもとに晒します。光は闇に勝つことは出来ません。ところが、光を受ける、光によって明るくなる、自らの姿が一度は明らかになると言うことと、光を受けたものが、その光のところに来るようになると言うことは別のことなのであります。主イエス様の光は、全世界を救ってあまりあるほどの強い光です。しかし、この世は、この光を認めない、受け入れないと10節以降に書かれています。 世界は、光あれと言う神様の御言葉によって造られました。六日目に人間も造られ、その世界が完成した時に、神さまは改めて言われました。「見よ、それは極めて良かった」。このように神の祝福の内に造られ、光に溢れていた世界ですけれども、たちまち人間の背きによって暗転してしまいます。聖書は、このことをアダムとエバが神に背き、神の言葉ではなく自分の心に従って禁断のこの実を食べる物語としてわたしたちに語ります。罪がこの世界に入り込んだのです。人間とその世界は神様から離れて歩きはじめるのです。 この世に光は差し込み続けますが、人間の心はまっすぐではなく、歪んでしまいました。ただ歪んでいると言うのではなく、神を求めず知ろうともしないという心になってしまうのです。神ではなく自分が中心という心です。心が逆立ちしてしまいます。このことを神学の言葉で「堕落」と言います。この堕落した人間、堕落した世界に主イエス様がお生まれになりました。再び真の光が差し込むのです。このお方は神の子であり、神ご自身でありました。神ご自身が人の肉体をもって、世に来られたのです。それは神の御心、御言葉を明確にし、罪の贖いを成し遂げるためでした。 主イエス・キリストは光と呼ばれています。しかしそれは、この世界にある物理的な光ではありません。光になぞらえられますが、現実の光ではないのです。そうではなく人間存在の根本にかかわる霊の光、魂の光です。 神様がお造りなった世界に主イエス様はおいでになりました。しかし、この世界は、このお方を受け入れないのです。主イエス様がおいでになる新約聖書の時代までに神様はその準備期間をそなえて下さいました。それが旧約聖書に記されている神の民の出来事です。アブラハムを選び、そこから神の民を導きだして、イスラエルの民としました。そしてこのイスラエル、新約時代ではユダや人ですが、ユダヤ人として主イエス様はお生まれになりました。ご自分の特別な民としてユダや人のところへ主イエス様は来られたのです。けれども、ユダヤ人の多くは、主イエス様を受け入れず、挙句の果てに十字架にかけてしまうのです。 ところが、小数でありましたがこの神の言葉である主イエス様を受け入れた人々がいました。それは12人の弟子たちであり、そこから始まるエルサレム教会、また地中海各地のユダヤ人の教会、異邦人とユダヤ人の教会でした。 4、 光であるお方、主イエス様を信じた人は、どうなるのでしょうか、それは神の子となる資格を与えられると12節に書かれています。「神の子になる」とはどういうことでしょうか。神様が、その人を他の人とは違う存在、わが子として扱って下さると言うことです。 親は自分の子供を叱りますが、他の人の子供はなかなか叱りません。どうしてでしょうか。自分の子を気にかけ愛しているからです。親は自分の子供には財産を与えます。毎日、宿と食事を無償で与え、着るものも買ってあげます。他の人の子供にはそうしませんし、するとしても優先順位を付けます。 子供は、親の名を呼びます。お母さん、お父さん、願いがある時、うれしい時、苦しい時、助けが必要な時そう呼びます。神の子もまた同じです。「天にまします我らの父よ。」こう呼びます。主イエス様は私たちに見本を示して、「アッバ父よ、お父ちゃん」というように親しく呼びかけて祈りをされました。主イエス様を知り、主イエス様を信じる人は皆、この神の子となる資格を与えられると言うのです。これは驚くべきことであると思います。 「資格を与える」と訳されているところを、以前の口語訳は「神の子となる力を与えた」と訳しています。また新改訳は「神の子供とされる特権を与える」と訳されています。元の言葉は、そのいずれの意味もある言葉です。もともとは「権威」と訳されることが多いのです。権威と言う言葉、あるいは「資格」「特権」ということばには共通点があります。それは自分自身で勝手に得ることができない点です。他から、外から与えられるということです。 真の光、根本の光としての主イエス様を信じるなら、神が恵みによって、つまりわたしたち自身の行いや言葉によって自分で得ると言うのではなく、外から、上から、ただ恵みによってこの資格を下さると言うことです。 この世の資格や特権は、普通は、ただ待っていても決して与えられません。学校へ行き、学び、努力し、対価代償を払って勝ち取るものがこの世の資格、特権です。また、ある人々は生まれた時から特権を持っているということもあります。しかし、主イエス様は神の子となる資格を、その資格のない者に、ただ恵みによって信じる者に与えてくださるのです。 主イエス様が下さる神の子の資格、特権を頂くことは、3章では「新しく生まれる」と言う言葉で言い換えられています。主イエス様を信じる人々は、この世の民族の血筋とか、あるいは人間的な仕方で人為的に生まれて来るのではないと断言されています。 「13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」 13節の御言葉です。主イエス様を信じる人々、受け入れる人々は神によって生まれます。そして神の子となる資格、力、権威を与えられるのです。資格や特権のあるところには責任もまた伴います。神の子は神の子らしく歩みたいのです。 今、ここに集い、主イエス様の光を受け、恵みを受けているわたしたちもまた、そのように歩みたい。あらためて強く願います。祈りを捧げます。 天の父なる神様、イースターの祝いの礼拝を終え、一週の歩みを歩みました。光であるお方、主イエス・キリストの恵みの光、真理の光の中を歩むことが出来ますよう、導いてください。主のb名によって祈ります。アーメン。
2022年4月24日(日)熊本伝道所朝拝説教
ヨハネによる福音書1章6節~13節「神の子の資格」
1、
父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。
この福音書の冒頭部分1章1節から18節は、特別な個所であります。ヨハネによる福音書全体のまえがき、序文、オペラで言いますなら序曲、オーバーチュア―であります。この特別な1節から18節のみ言葉を三回に分けて解き明かそうとしています。今朝は二回目であります。ちょうど、真ん中のところに当たります。
まず6節に、洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネのこと書かれています。6節をお読みします。「6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。」
この6節にあるヨハネは、この福音書の事実上の著者とされる主イエス様の12弟子の一人、使徒ヨハネのことではないのですね。そうではなく、主イエス様に先だってヨルダン川に忽然と姿を現わした洗礼者ヨハネのことであります。
6節には、「ヨハネがいた」あります。この「いた」と訳されている言葉は、その前の「初めに言葉があった」という「あった」とは全く違う言葉です。「生まれた」とか「現れた」、「起きた」と言う言葉です。別の翻訳である新改訳聖書は「ヨハネと言う人が現れた」と訳しています。洗礼者ヨハネは、「はじめから存在した」と書かれている主イエス様とは違った仕方で、この世に生まれ、いま歴史の舞台に登場してきたのです。
このあとの8節には、彼は、つまり、洗礼者ヨハネは光ではない、すなわち主イエス様のような救い主ではなかったと書いてあります。彼は光ではなく、光について証しする人でありました。真の光であるお方、主イエス様の到来を指し示すのです。洗礼者ヨハネは、主イエス様のことを指差しまして「今、救い主がやってきた、現われた、今ここにおられる」ということを告げ知らせる人なのです。
2、
洗礼者ヨハネ、別名バプテスマのヨハネのことは、四つの福音書の全てに記されています。それほどに重要な人物であります。マタイによる福音書、マルコによる福音書には、この人が現れた時の姿かたちや生活が書かれています。洗礼者ヨハネはヨルダン川のほとりにいて、ラクダの毛ごろもを身にまとい、革の帯を締め、いなごと野蜜を食べて暮らしていました。まことに荒々しい姿です。そして悔い改めと神の裁きを告げ知らせ、人々に洗礼を授けておりました。
この世一般の普通の社会生活から一線を画し、権力からも独立して神の言葉を語ったのでした。このような姿は、イザヤやエレミヤのような旧約の預言者の姿そのものであります。最後の預言者と言われたマラキ以来、数百年間、神の言葉は告げられませんでした。しかし、ついに新約時代の初めに、この洗礼者ヨハネが現れて再び神の言葉が告げられたのです。洗礼者ヨハネは、、神様が特別に語るべきこととして啓示を与え、それを携えて世に遣わされた最後の預言者です。救い主である主イエス様と顔と顔を合わせて出会うことができた特別な預言者であります。
旧約の預言者たちが語った言葉に共通していることが二つあります。
第一に、彼らは世の腐敗を裁き、悔い改めを伝え、神の裁きを告げ知らせました。このままでは、私たちは神様から裁きを受ける、生き方を変えなければならないと叫んだのです。
そして第二のことは、ただ裁きの時がくる大変だということだけではない、救いがある、神様の下さる希望があると伝えました。預言者の使命は、神が助けて下さる、希望がある、言い換えると救い主の到来を伝えることでした。歴史の進展の中で、神の子であるお方、イエス・キリストがまさにおいでになり、公に働きを始められる、まさにその直前に現れた最後の預言者が洗礼者ヨハネであります。そういう意味で、洗礼者ヨハネは、旧約と新約とをつなぐ預言者としての働きを神から託されました。
7節をお読みします。
「7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」
ヨハネは確かに神から遣わされた人です。けれども、決して代々の旧約預言者が指示していた救い主、メシア、光そのものである方ではない。そうではなくて、やはり彼も預言者の一人であったというのです。神のロゴス、神の言葉、命である方、真の光である、主イエス様を証しする人だったと言いたいのです。ヨハネが来た目的は、すべての人がこのヨハネの証しを通して、光を信じる、つまりイエス・キリストその人を神として信じることでした。
このヨハネによる福音書には、洗礼者ヨハネの教え自体はあまり触れられていません。洗礼者ヨハネについては、光を証しする人だったと強調されています。
このことは、この福音書を書いた人、あるいは初めに読んだ人々にとっては、洗礼者ヨハネ自身の教えそのものは、よく知られていたことを示しています。彼の教え自体は記されないで、ヨハネは光でない、そうではなく「光について証しをする人」だったと強調されています。なぜでしょうか。この時代に、このヨハネその人が、もしかしたら救い主、神からのまことの光ではないかと信じた人がいたからであったと思います。
ノートルダム清心大学の元学長であり、2016年に89歳で亡くなられました渡辺和子というシスターがおられます。学生達から慕われ多くの書物や講話集DVDなども出された方です。「置かれた場所で咲きなさい」と言う本はベストセラーになりました。この方の洗礼名がバプテスマのヨハネだと伺いました。
あの荒々しい姿を持つ洗礼者ヨハネは、女性の洗礼名としては珍しいそうです。けれども渡辺和子先生は、これを本当に気に入っておられると言うことでした。それは、ヨハネは歴史の舞台に一見華々しく登場しますけれども、しかし最後まで自分は主イエスを証しするものにすぎないと強調しているからだと言うのです。主イエス様について「わたしは水で洗礼を授けるが、あの方は霊を注ぐ方であり、火と聖霊によって世をお裁きになる」と語り続けたのです。ヨハネによる福音書3章29節と30節にこうあります。
「29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
この最後の「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」という言葉は、16世紀にマチウス・グリューネヴァルトという人によって書かれた有名な絵であります「イーゼンハイム祭壇画」の中で、十字架上のイエス・キリストを指さしながら語る洗礼者ヨハネの像にも記されています。
渡辺和子シスターは、たぐいまれな賜物を与えられた方ですけれども、神さまの前にこのように謙遜に生きたいと願っておられることを聴いてわたくしは感銘を受けました。
「8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」これが洗礼者ヨハネの姿であります。
3、
神は主イエス様に先だって、洗礼者ヨハネを起して、まことの光について告げさせました。9節から14節では、書き出し部分の1節から5節に続いて、もう一度、この光であるお方、主イエス様について語り始めます。9節をもう一度お読みします。
「9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
光は闇を照らします。そして、すべてのことを白日のもとに晒します。光は闇に勝つことは出来ません。ところが、光を受ける、光によって明るくなる、自らの姿が一度は明らかになると言うことと、光を受けたものが、その光のところに来るようになると言うことは別のことなのであります。主イエス様の光は、全世界を救ってあまりあるほどの強い光です。しかし、この世は、この光を認めない、受け入れないと10節以降に書かれています。
世界は、光あれと言う神様の御言葉によって造られました。六日目に人間も造られ、その世界が完成した時に、神さまは改めて言われました。「見よ、それは極めて良かった」。このように神の祝福の内に造られ、光に溢れていた世界ですけれども、たちまち人間の背きによって暗転してしまいます。聖書は、このことをアダムとエバが神に背き、神の言葉ではなく自分の心に従って禁断のこの実を食べる物語としてわたしたちに語ります。罪がこの世界に入り込んだのです。人間とその世界は神様から離れて歩きはじめるのです。
この世に光は差し込み続けますが、人間の心はまっすぐではなく、歪んでしまいました。ただ歪んでいると言うのではなく、神を求めず知ろうともしないという心になってしまうのです。神ではなく自分が中心という心です。心が逆立ちしてしまいます。このことを神学の言葉で「堕落」と言います。この堕落した人間、堕落した世界に主イエス様がお生まれになりました。再び真の光が差し込むのです。このお方は神の子であり、神ご自身でありました。神ご自身が人の肉体をもって、世に来られたのです。それは神の御心、御言葉を明確にし、罪の贖いを成し遂げるためでした。
主イエス・キリストは光と呼ばれています。しかしそれは、この世界にある物理的な光ではありません。光になぞらえられますが、現実の光ではないのです。そうではなく人間存在の根本にかかわる霊の光、魂の光です。
神様がお造りなった世界に主イエス様はおいでになりました。しかし、この世界は、このお方を受け入れないのです。主イエス様がおいでになる新約聖書の時代までに神様はその準備期間をそなえて下さいました。それが旧約聖書に記されている神の民の出来事です。アブラハムを選び、そこから神の民を導きだして、イスラエルの民としました。そしてこのイスラエル、新約時代ではユダや人ですが、ユダヤ人として主イエス様はお生まれになりました。ご自分の特別な民としてユダや人のところへ主イエス様は来られたのです。けれども、ユダヤ人の多くは、主イエス様を受け入れず、挙句の果てに十字架にかけてしまうのです。
ところが、小数でありましたがこの神の言葉である主イエス様を受け入れた人々がいました。それは12人の弟子たちであり、そこから始まるエルサレム教会、また地中海各地のユダヤ人の教会、異邦人とユダヤ人の教会でした。
4、
光であるお方、主イエス様を信じた人は、どうなるのでしょうか、それは神の子となる資格を与えられると12節に書かれています。「神の子になる」とはどういうことでしょうか。神様が、その人を他の人とは違う存在、わが子として扱って下さると言うことです。
親は自分の子供を叱りますが、他の人の子供はなかなか叱りません。どうしてでしょうか。自分の子を気にかけ愛しているからです。親は自分の子供には財産を与えます。毎日、宿と食事を無償で与え、着るものも買ってあげます。他の人の子供にはそうしませんし、するとしても優先順位を付けます。
子供は、親の名を呼びます。お母さん、お父さん、願いがある時、うれしい時、苦しい時、助けが必要な時そう呼びます。神の子もまた同じです。「天にまします我らの父よ。」こう呼びます。主イエス様は私たちに見本を示して、「アッバ父よ、お父ちゃん」というように親しく呼びかけて祈りをされました。主イエス様を知り、主イエス様を信じる人は皆、この神の子となる資格を与えられると言うのです。これは驚くべきことであると思います。
「資格を与える」と訳されているところを、以前の口語訳は「神の子となる力を与えた」と訳しています。また新改訳は「神の子供とされる特権を与える」と訳されています。元の言葉は、そのいずれの意味もある言葉です。もともとは「権威」と訳されることが多いのです。権威と言う言葉、あるいは「資格」「特権」ということばには共通点があります。それは自分自身で勝手に得ることができない点です。他から、外から与えられるということです。
真の光、根本の光としての主イエス様を信じるなら、神が恵みによって、つまりわたしたち自身の行いや言葉によって自分で得ると言うのではなく、外から、上から、ただ恵みによってこの資格を下さると言うことです。
この世の資格や特権は、普通は、ただ待っていても決して与えられません。学校へ行き、学び、努力し、対価代償を払って勝ち取るものがこの世の資格、特権です。また、ある人々は生まれた時から特権を持っているということもあります。しかし、主イエス様は神の子となる資格を、その資格のない者に、ただ恵みによって信じる者に与えてくださるのです。
主イエス様が下さる神の子の資格、特権を頂くことは、3章では「新しく生まれる」と言う言葉で言い換えられています。主イエス様を信じる人々は、この世の民族の血筋とか、あるいは人間的な仕方で人為的に生まれて来るのではないと断言されています。
「13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」
13節の御言葉です。主イエス様を信じる人々、受け入れる人々は神によって生まれます。そして神の子となる資格、力、権威を与えられるのです。資格や特権のあるところには責任もまた伴います。神の子は神の子らしく歩みたいのです。
今、ここに集い、主イエス様の光を受け、恵みを受けているわたしたちもまた、そのように歩みたい。あらためて強く願います。祈りを捧げます。
天の父なる神様、イースターの祝いの礼拝を終え、一週の歩みを歩みました。光であるお方、主イエス・キリストの恵みの光、真理の光の中を歩むことが出来ますよう、導いてください。主のb名によって祈ります。アーメン。