2022年04月10日「はじめ言(ことば)あり」

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聖書の言葉

ヨハネによる福音書 1章1~5節

メッセージ

2022年4月10日(日)熊本伝道所朝拝説教

ヨハネによる福音書1章1節~5節「はじめに言葉があった」

1、

 父なる神と御子イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますように。主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

今朝からは、ヨハネによる福音書の連続講解をすることといたしました。なぜ、このヨハネによる福音書を選んだのかと言いますと答えは単純であります。西堀先生が熊本におられた8年間の間に聖書のどこから御言葉を語りましたかとお尋ねしましたところ、四つの福音書のうち、ヨハネはまだしていないとおっしゃられたからであります。それならば、ヨハネによる福音書から御言葉を語ろうと決めました。

 新約聖書には、福音書と呼ばれるものが四つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネであります。その中で最初の三つの福音書は大きな枠組みが同じであるので共観福音書と呼ばれています。共に観察、見ている福音書です。ヨハネによる福音書だけはそうではありません。独立しています。

 また、マタイによる福音書とルカによる福音書を書きました著者、マタイとルカは、マルコによる福音書を知っており、それを手元に置きながら、自らの経験や集めた資料、教会に伝えられてきたものを加えながら書いたといいますのが今日の聖書学の定説となっています。そうでありましてもわたしたちはそこに神の言葉を誤りなく記す聖霊の不思議な働きを信じることができる、これは変わりません。

 一方で、ヨハネによる福音書がほかの福音書を知っていたかどうかと言いますと、これはわかりません。知っていたとしてもあまり参考にはしていないんです。むしろ、著者、ここでは使徒ヨハネと考えられますが、著者自身が実際に経験したことや教会の中で伝えられてきたことをもとにして記されています。ここにも、やはり聖霊の導きがあり、わたしたちの信仰と生活のために必要十分な神の言葉が記されたと言いますのがわたしたちの信仰であります。

 ヨハネによる福音書の終わりの方には、この福音書を記しました人物について貴重な情報が残されています。それはヨハネによる福音書の最後の章である21章の24節です。こう書かれております。

「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは彼の証しが真実であることを知っている。」このみ言葉の中で『この弟子』と呼ばれている人物については、その前の20節に説明があります。「イエスの愛しておられた弟子」と呼ばれています。さらに「この弟子は、あの最後の夕食の時、イエスの胸元によりかかったまま「主よ、裏切るのは誰ですか」と言った人である。」と付け加えられております。

 最後の夕食、つまり最後の晩餐の場面は、この福音書では第13章でありますけれども、確かに、そこでもその弟子自身の名前は記されないのですが、13章23節に「主イエスのすぐ隣に座っていたイエスの愛しておられた弟子」と同じ言い方で呼ばれています。「イエスの愛しておられた弟子」。

 13章でも21章でも。この弟子は、使徒ペトロとの関係が深い人物として描かれていますので、十二弟子の中のペトロとヨハネの関係性から見まして、この主に愛されている弟子は、はやり使徒ヨハネ以外にはないのであります。教会の伝統によっても、使徒ヨハネによる福音書とされていますけれども、聖書学者たちの見解は、必ずしもそうではなく、ヨハネの系譜をつぐ特定の弟子集団ではないかという説の方が有力であります。わたくしの説教では、使徒ヨハネによる福音書と言う前提で、ご一緒に読み進めてゆきたいと思っています。

 

2、

 さて、このヨハネ福音書1章1節から18節は、この福音書全体の序文を形作っている貴重な御言葉であります。オペラなどでは、冒頭に演奏される曲を「序曲」と言いまして、いよいよこれからオペラが始まることを聴衆に伝えます。序曲は、オペラ全体の内容や雰囲気を十分に表すものでなければなりません。

ヨハネによる福音書の序文は、三つの賛歌からなっています。そしてヨハネによる福音書全体の内容と雰囲気を十分に表しています。

カトリックのフランシスコ会訳聖書は、ここに三つの歌、たたえる歌、賛歌があると読み取りまして、1節から5節に、讃歌1,少し飛んで10節から14節が讃歌2,そして、最後の16節から18節について讃歌3と小見出しをつけて訳しています。

今,讃歌、たたえる歌、と言いましたけれども、どんな讃歌かと言えば、それはキリスト讃歌であります。主イエス・キリストのお生まれ、またそのご生涯の本質を短い言葉で語りなおし、主イエス様を讃美し、礼拝している、そう言う讃歌、御言葉であります。

フランシスコ会訳聖書の分け方は、18節までを、三つの賛歌と洗礼者ヨハネの使命と証しの二つ、合わせて五つに分けています。レオン・モリスというオーストラリアの先生も、5つにわけることができると言っています。これからの説教では、そこまで細かくは分けないで、三つに分けて語ることといたします。

1節から5節、6節から13節、そして14節から18節です。今朝は第一の部分の御言葉を学びます。次週はイースターですので、その次の主日は第二の部分である6節から13節まで、そして最後に、14節から18節の「言葉は肉となってわたしたちの間に宿られた」という御言葉から始まるところ、つまり第三の部分の御言葉をご一緒に聞きたいと思います。

2,

今朝の説教題は「はじめに言(ことば)あり」であります。普通の「言の葉」、と綴る「ことば」ではなく、「言」と言う一事で「ことば」と読ませます。これは日本語訳聖書の伝統と言って良い訳し方です。

「はじめに言があった」。言の葉の「葉」という字がなくて言、言うという字だけで「ことば」と読ませる、これがこれは教会に行っていない人でも知る人ぞ知るという有名な言葉です。「はじめに言があった。」

1節から5節をもう一度、読みなおしてみます。

「1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。1:2 この言は、初めに神と共にあった。1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。

1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

ここに、いくつかの言葉、キーワードが繰り返されていることが分かります。一つは、「ことば」です。次に、「命」であります。そして最後は「光」であります。そのどれもが、主イエス様のことを言っているのであります。

ヨハネによる福音書の全体には光と言う言葉があわせて25回出てきます。マタイ福音書には7回、マルコ福音書1回、ルカ福音書7回ですから、それらに比べて突出して光と言う言葉が多いのです。そしてヨハネ福音書はその光と言う語の大部分が、主イエス様に関わることについてのことです。ヨハネによる福音書は主イエス様を光だと書き記している福音書であると言ってよいのです。ヨハネによる福音書は光の福音書であります。

光と言う語は、4節になって初めて出てきます。「4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

「初めにあったもの」が言葉だと1節で言いながら、その言葉の内に命があり、命は光だったと4節で言い換えています。そして光は暗闇の中で輝いている。

わたくしが初めて教会を訪ねたとき、わたくしの心は、まさに暗闇と言っても良い状態でした。この世界には地図がない、どこがどうなっているのか、どう生きればよいのかわからない、暗い大海原に放り投げられたように思いました。教会に行って、光をみました。光が心の暗闇を照らしたのです。

わたしたちが命と光と言う組み合わせを聞いて、思い浮かべるのは、このヨハネによる福音書8章12節の御言葉です。姦通の罪が裁かれそうになった女性の命を助けてくださった主イエス様が、人々にご自身はだれであるのかということを宣言された箇所です。「12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

「わたしは世の光である」と主イエス様は宣言しておられます。そして、わたしに従うものは「命の光」を持つと宣言されました。主イエス様はまた、9章で生まれつきの盲人を癒されましたときにもこう言っておられます。9章5節です。「5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

このとき主イエス様は、生まれつきの盲人について、この人が盲人であるのは誰の罪でもない、それは神の業が現れるためであるという素晴らしい御言葉を語られて、この人の目を見えるようにして下さいました。

さらに12章35節ではご自身を光と呼んでこう言われています。

「:35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。12:36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

このように、見てきますと、1節の「初めに言があった」という御言葉に文字通り光が差し込んでくるように思われます。

この「言」というのは、結局、主イエス様のことを言っているということです。

「はじめに」とはいつのことでしょうか。3節に「万物は言葉によって成った」とありますことから、わたしたちは旧約聖書の天地創造の御言葉を思い出さなければなりません。3節は、この世界や歴史や人間を含めてのあらゆるいきとしいけるもの営みの前に、まさに「はじめに」、言があったと言っています。すべてのものが存在する前の「はじめ」です。時間的な意味での「はじめ」であると同時に、あらゆるものの起源、そもそもの始まりとしての「はじめ」です。そこには言葉があったというのです。すべてのものが出来る時、造られる前に、言葉がありました。

「:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」

これはまさしく聖書の持っている世界観の根本にあるものです。旧約聖書のはじまりのところ、創世記1章1節から3節には、こう書かれています。

「1 初めに、神は天地を創造された。2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。」

この後七日間にわたって、神さまは「言葉」を発せられ、言葉によって、太陽や月や天の万象、海や陸、そして生き物をおつくりになります。神の言葉によって世界は造られ、そして今も保たれているのです。神さまは言葉を発して、アブラハムを召しだし、モーセを召し出し、そして私たちを御言葉によって導いて下さるのです。そしてこの神の言葉こそが主イエス様であるというのです。

言葉は、その人の思っていること、考えていることを表わすものです。同じように神様の御心、御旨が言葉によって露わにされて、世界が造られました。神様が、人をお救いになるときも言葉を用いられます。主イエス様は、その神のことばとしてお生まれになったのです。

初めに言葉があったという、その言葉は主イエス様ご自身であります。神ご自身の自己表現、言葉です。またその言葉、主イエス様は神であり、世を救い、人を救う光であります。

言(ことば)と訳されている元のギリシャ語はロゴスであります。ロゴスと言う語は、どこかで聴いたことがあるのではないかと思います。「言葉」と言う意味の他に、出来事、計算、理論、理性という意味もあります。英語のロジックと言う言葉のもとになっています。

神のロゴスです。つまり主イエス様というお方こそは、神様が、ご自身のお考え、ご存在そのものをわたしたちが見えるように、わかるように表にお出しなられたという、まさにその出来事です。神の出来事、神の言葉、神の論理、それが神の子であるイエス・キリストに他ならないのです。

この世界の始まる前に、主イエス様は、神と共におられました。神学の言葉では、キリストの先在です。イエス・キリストが、三位一体の神の第二のお方として見える世界に先だって存在されたという意味になります。主イエス様は、天地創造のときも、すでに父なる神と共におられました。そしてこのお方が、とき満ちて、人間の存在をもってお生まれになった、それがクリスマスの出来事であります。クリスマスには、キャンドルサービスをはじめ、光のシンボルであるともしびが必ず登場します。

4、

 主イエス様は、世の光です。わたしたちの命の光です。救い主です。光は、暗い、悲しい、せつないことが沢山ある、暗やみのようなこの世界を照らします。なによりも、人間を照らします。人間の内には闇があるからです。そのわたしたちの闇を主イエス・キリストの十字架の救いが照らしてくれます。

 5節の終わりに「暗闇は光を理解しなかった。」

とあります。以前の口語訳聖書では、「闇はこれに勝たなかった」と訳します。新改訳聖書は「打ち勝たなかった」と訳しています。元のギリシャ語は、捕らえる、捉まえる、悟る、理解すると言う意味のある言葉ですので、どちらも文法的には可能です。この世は、主イエス様を捕らえることができない、理解しない、自分のものとして同化してしまったり飲み込んでしまったりすることができなかったというのです。だからこそ、主イエス様は、信じる者の光となり命となることがお出来になりました。主イエス様は暗やみに輝く光であるお方なのです。

 苦しいことやしんどいことが次々と起こって、もう礼拝どころではありませんというような言葉がわたしたちの口から出て来ることはないでしょうか。弱気になって、自分自身の暗やみばかりに心が行くと言うことはないでしょうか。わたしたちは、心が暗ければ暗いほど、光を受けようではありませんか。汚れや醜さに打ちのめされそうな時ほど、神の御言葉を聞き、命である方、愛であるお方から恵みを受けようではありませんか。世の光であるお方は、わたしたちを照らしてくださいます。

 

お祈りを致します。

 わたくしたちの愛する主イエスキリストの父なる神、御名を崇めます。あなたは、暗い世界に輝く光を遣わしてくださいました。光であるお方、命の言葉であるお方、生ける神ご自身であるイエスさまが、今日もわたしたちと共にいてくださることを感謝致します。御名が崇められ、主のご栄光を表わすこと出来ますように、世の光である主イエス様のご栄光をわたしたちが表わしてゆくことができますようお願いしたします。主の御名によって祈ります。アーメン。