年を取った夫婦に子が生まれる。
その子は、たくさんの人を神様に立ち返らせる働きをする。
つまり、たくさんの人が神様から離れてしまっているということがある。
それを、立ち返らせる働きをする子が、年取った夫婦に与えられる。
その子は、「主に先立って行く」(17節)。
「主」とは特別な言葉ではない。
普通に訳すと「主人」という言葉で、この場合、救い主を指している。
救い主イエス・キリストが現れる前に、人々を神様に立ち返らせて、救いにふさわしい人を集めるのが、この子の働きとなる。
「準備のできた民を主のために用意する」(17節)ということである。
準備ができた人は、この子に導かれて、救い主の元に集められる。
ここに分かることだが、神の働きには段階がある。
神は何でもできる。
しかし、人の心を無視して、突然にすべての出来事を完成させたりはしない。
まず、人の心を整えて、状況を整える。
まず、ヨハネが来て、人々がイエス様を受け入れることができるようにする。
神は人の心を無視して、やりたいようにやる、ということはない。
神はいつも、人の側に立って、人と共に働かれる。
それはもちろん、私たちについても同じである。
神が私たちの心をねじ曲げるということはない。
私たちが神を受け入れることができるようにしてくださる。
そして、そのために、今回、そのヨハネが生まれるために選ばれたのが、ザカリアとエリサベトであった。
この場面は、準備の準備に当たる段階。
6節「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」。
素晴らしい人たちだった。
しかし、子どもはいなかった。
子どもが欲しくなかったのではない。
また神様も、この二人には子どもは与えないというお考えだったわけではない。
神様はこの二人に特別の子どもを与えようとしておられた。
それがヨハネである。
特別な子どもが与えられる。
だから、その生まれ方も、特別な生まれ方がふさわしい。
ザカリアとエリサベトがもし若かったら、子どもが生まれても特別のことではない。
ヨハネが神様の働きをする、ということが誰にでも分かるように、生まれ方からして特別なことになった。
神様は、人が神様の働きをする時には、それが特別なことなんだと分かるようにしてくださるということ。
それくらい、神様は人と心を一つにして一緒に働きたいと願っておられる。
9節でザカリアは「主の聖所に入って香をたくことになった」。
そこに、「主の天使」が現れた。
ザカリアは不安になり、恐ろしくなった。
しかし、これは困ったことではないか。
そもそも「主の聖所」というのは、神様に出会うための場所である。
天使が現れたからと言って、恐れることはないはずである。
ここで恐れるということは、ザカリアは、もう長い間、たとえば神様に本気で祈るということをしていなかったということではないか。
神様に出会いたいという思いを長い間持たなくなっていたのではないか。
これは私たちも気をつけたい。
今私たちは神様を礼拝しているが、突然ここに主の天使が現れたらどういう気持ちになるだろうか。
本気で神様を求めていたら、恐れることはない。
ただ、恐れることがあっても構わない。
天使はザカリアに言った。
「恐れることはない」。
恐れたからと言って、神様が私たちを見放すことはない。
それどころか、「あなたの願いは聞き入れられた」。
子どもが与えられる。
ザカリアは子どもが与えられるようにと祈ってきたらしい。
しかし、今はもう自分も妻も年を取ってしまっている。
ザカリア自身、そういうふうに天使に言っている。
しかし、ザカリアは、今ではもう、熱心に祈ることはなくなっていたのではないか。
けれども、神様は神様のタイミングで実現させてくださる。
そして、それについて、分かるように説明してくださる。
これから、イエス様がお生まれになること。
イエス様がお働きを始める前に、人の心を神様に向けさせる人が必要であるということ。
ザカリアとエリサベトが正しい人であったということ。
子どもを望んでいたということ。
そういったことをすべて考え合わせて、神様の時に願いが実現されるということを分かるように説明してくださる。
たとえ、こちらが途中であきらめてしまったとしても、神様のご計画は進んでいく。
そして、私たちが神様の御心を受け入れることができるようにしてくださる。
「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。
ザカリアは証拠を求めた。
そんなことはあり得ないから、信じられるように証拠を出してくれ……。
しかし、もしエリサベトのお腹に子どもができたのなら、お腹はどんどん大きくなっていくので、それでいつかは分かるはず。
それなのに、証拠を求めた。
この人は「神の前に正しい人だ」と言われているが、それくらい、信じられなかった。
若い頃は一生懸命祈っていたのだろう。
それなのに、祈りが聞かれなかった。
でも今、天使がこういうことを言っている。
どうして、今になって……。
もしかするとザカリアは少し怒っていたのかもしれない。
神様には神様のタイミングがあるが、私たちは神様に比べるとほんの少しのことしか知らないし、少しのことしか考えない。
だから、こういうことは私たちにも起こるかもしれない。
大事なことは、神様の時を待つこと。
神様は私たちの祈りを無視したりはなさらない。
今日の場面を見ても分かる通り、神様はとにかく、私たちと一緒にいて、一緒に歩んでいきたいと強く願っておられる。
だからこの場面でも、神様は別にザカリアにこんな説明をしなくてもヨハネを生まれさせることができるのに、こんな話をしてくださっている。
神様は人を思いやってくださる方。
その神様の時を待ちたい。
神様が私の何倍も考えてくださって、ご計画を立てておられる。
そこに心を向けたい。
証拠を出してくれと言ったザカリアに対して、天使はザカリアの口を利けなくした。
ザカリアは時が来るまでしゃべれなくなった。
少し後の、ヨハネが生まれた場面を見ると、ザカリアは耳も聞こえなくなったらしい。
話すことができない。
聞くこともできない。
これは、信じなかった罰が与えられたのではない。
話すことができない、聞くことができない。
自分の言葉を話せない、人の言葉を聞けない。
ザカリアは、神の言葉に心を向けるしかない。
そのような時間をいただいた。
そして、神の計画を受け入れることができるようにされていった。
実際、ヨハネが生まれた場面になると、ザカリアは天使に言われた通りにその子にヨハネという名前を付けた。
神様は信じない人を無理やり信じさせたいのではない。
無理やり信じさせるなら、例えばここで、天使がいきなり赤ちゃんを出現させる、ということをやっても良い。
しかし、神様は人の心を大事になさる方、そして、人と心を一つにしたいと思ってくださる方。
だから、神に心を向ける時間が与えられる。
ただ、ザカリアと同じようなことをマリアも言った。
このすぐ後の場面で、天使がマリアに現れて、まだ結婚していないのにマリアが救い主を生むということを伝えた時、マリアは言った。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
ザカリアの言葉と本当によく似た言葉。
それなのに、天使はマリアの口を利けなくするというようなことはなく、マリアには続けて説明して、しかも、年取ったエリサベトが身ごもっているということを証拠として示して、マリアが納得したところで去って行った。
この違いは何なのか。
マリアの言葉、「どうして、そのようなことがありえましょうか」は反発してそう言っているような言葉ではない。
これは、「どのようにして、それは可能となるのでしょうか」という言葉。
つまり、実現することが前提で、実現へのプロセスを質問している。
それに対してザカリアは、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」と言った。
明確な証拠を求めた。
だから、天使の態度が違ってくる。
プロセスを質問したマリアにはプロセスを答えて、しかも、年取ったエリサベトが身ごもっているということを証拠として示した。
証拠を求める場面は聖書の中にしばしば出てくるが、証拠を求めても与えられない。
証拠があったら信じてやる、というのは、自分の方が立場が上になってしまっている。
マリアは証拠を求めなかった。
立場をわきまえている。
だから、マリアの天使に対する最後の言葉、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」という言葉が出てきたのだし、証拠を求めないマリアには、証拠が与えられた。
証拠を求めたザカリアには、沈黙の時が与えられた。
そして、数か月をかけて、神の言葉に心を向ける訓練が与えられた。
その結果、ザカリアも神に従う者とされていった。
そのような時間は、私たちは自分の意志で持つことができる。
自分の言葉を話すのを止めて、人の言葉を聞くのも止めて、神様の言葉を思いめぐらす。
そういう時間を持ちたい。
私たちの頭の中にも、私たちの周りにも、神の言葉以外の言葉があふれている。
現代人が一日で受け取る情報量は、江戸時代の人の一年分、平安時代の人の一生分だという。
まして、聖書の時代は平安時代よりももっと昔。
それでも、ザカリアに、沈黙の時が与えられた。
私たちは心して、沈黙の時を持つようにしたい。
神の言葉に向けて、心を整えたい。
神様は、そういう私たちと一緒に働きたいと思っておられる。
静かに神様の言葉を思う時、神様の時がやってきて、神様の言葉が実現する。
祈りはそのようにして聞かれる。
ザカリアの祈りは確かに聞かれた。
子どもが与えられた。
そして、それどころか、その子が神様のために大きな働きをするようになると言われた。
祈ったこと以上のことが、これから実現していく。
私たちも、そのように祈りが聞かれることがあるだろう。
自分のことを祈ったはずだった。
その祈りが聞かれた。
祈ったことが実現した。
それだけでなく、祈ったこと以上のことが実現した。
そしてそれによって、自分が神様の大きな御心の中に置かれていることを知った。
しかしこれは、当たり前のことかもしれない。
神様はいつも私たちと共にいたいと思っておられる。
ということは、私たちはいつも、神様の大きな御心の中にある。
どんな時も、私たちは、神様の大きな御心の中に置かれている。
その神様に祈りたい。
自分の言葉も人の言葉も退けて、神様の御心に心を向けたい。