イエスが弟子たちと一緒に出て行きました。
「キドロンの谷」とありますが、これはエルサレムの東側の谷のことで、そのまた東にオリーブ山があります。
向かうのはオリーブ山ですね。
ここは、エルサレムに来た時に、いつもイエスと弟子たちが夜を過ごしていた、馴染みのある場所です。
ですから、本当はここは、「キドロンの谷の向こう」とは書かずに、オリーブ山と書くべきなんですね。
あるいは、オリーブ山ではなく、ゲッセマネと書いてもいいかもしれません。
「ゲッセマネ」というのは油を絞るという意味の言葉ですが、オリーブの油を搾った場所だということですね。
それなのに、どうしてここでわざわざ「キドロンの谷の向こう」と書かれるのかと言いますと、この「キドロン」という言葉が、「暗黒」という意味なんですね。
時間としても、今は夜です。
イエスと弟子たちは、暗闇の時に、暗闇の中に出て行ったんです。
この福音書では、最初の1章で、イエスは光であり、この世は暗闇だと言われていましたけれども、これからイエスが逮捕されるわけですから、まさにこの場面というのは、暗闇が最も深くなる場面です。
ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来ました。
「一隊の兵士」というのは、ローマ帝国の兵士ですが、600人ほどの兵士だったと考えられています。
600人も兵士がいなくてはイエス一人を捕まえることができないとは思いませんが、今は大きなお祭りの時ですから、祭司長たちやファリサイ派の人たちは、例えば、治安維持のためということで、兵士たちの出動を要請したということがあったのかもしれません。
とにかく、祭司長たちやファリサイ派の人たちが兵士たちの出動を要請したというのは間違いないでしょう。
ただ、イエスを捕まえに行った人たちが、松明やともし火を手にしていたというのは、祭司長たちやファリサイ派の人たちからすると、困ったことだったかもしれません。
何百人もの人たちが暗闇の中を松明を持って移動すれば、遠くからでも分かってしまいます。
逃げようと思えばいつでも逃げられるわけです。
けれども、イエスは逃げないどころか自分から進み出て、「だれを捜しているのか」と言われました。
これは、他の福音書と違った描かれ方をしているところですね。
他の福音書でも、裏切ってイエスの居場所を知らせたのはもちろんユダですが、他の福音書では、前もってユダがイエスにキスをすることを取り決めていまして、それでイエスを捕まえたんでした。
しかし、ここではそのような話は出てきませんでして、イエスが自分から進み出たことがクローズアップされています。
ただ、いずれの福音書でも、イエスの心は同じです。
イエスは、御自分の身に起こることを何もかも知っておられました。
そして、逃げも隠れもしなかったのです。
ただ、だとしたら、「だれを捜しているのか」と聞くのではなく、「私がイエスだ」と言った方がストレートでしょう。
あるいは、何も質問せずに、こちらから先に「わたしである」と言っても良いでしょう。
いや別に、「だれを捜しているのか」と聞いてももちろん構わないんですが、とにかく、この言葉によって、考えさせられることがあるんですね。
実はこの、「誰を捜しているのか」という言葉は、以前、使われたことのある言葉です。
この福音書の最初の1章で、イエスの弟子になる人たちが現れますね。
その人たちは、黙ってイエスの後について歩いていました。
それは、この時代に、誰かの弟子になる場合のマナーだったんですが、そこでイエスが、振り向いて声をかけてくださったんですね。
「何を求めているのか」。
この、「何を求めているのか」という言葉と、今日の「誰を捜しているのか」は基本的に同じ言葉なんです。
「何を求めているのか」と聞かれた人たちはイエスの弟子になり、やがて、「わたしたちはメシアに出会った」と言うようになりました。
その一方で、今日の人たちは、イエスを殺そうとして、イエスを求めています。
人が神を求める場合には、神に従うために神を求める場合と、神を殺そうとして神を求める場合のどちらかしかないのかもしれません。
考えてみますと、聖書は、人間の罪の始まりをアダムとエバを主人公にして描いていますが、その時、蛇は、「それを食べると神のようになれる」と言って、人を唆して、食べてはいけないと言われていた木の実を食べさせたんでした。
人間の中には、神のようになりたいという思いがあるのかもしれません。
いえ、おそらく、そのような思いがどこかにあるのでしょう。
もし、自分が神になれるのなら、何も言うことはありません。
人間は、出来れば自分が神でありたい。
だとしたら、自分以外の神を認めず、探し出してでも殺そうとする、というのは不思議なことでもないのでしょう。
しかしここで、神を殺そうとする者に、神の権威が現れました。
イエスが、「だれを捜しているのか」と質問し、彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われました。
そうすると、彼らは後ずさりして、地に倒れたということですね。
この「倒れた」という言葉は「ひれ伏した」という言葉です。
そして、「ひれ伏した」という言葉は、礼拝することを意味する言葉でもあるんですね。
イエスを殺そうとした人々が、イエスを礼拝することになりました。
ここの、「わたしである」という言葉が重要な言葉です。
この言葉は、英語で言うと、「I am」というただそれだけの言葉なんですが、この言葉は、この福音書で今までにも重要な場面で何度か出てきました。
元々はこの言葉は神の名前なんですね。
「I am」というのが名前だというのはおかしな気がしますが、旧約聖書の出エジプト記の3章14節です。
モーセが神に出会って、神から、奴隷にされている人たちを救い出すようにと命じられた場面です。
その場面で、モーセは、人々が神の名を尋ねたら、どう答えればいいか、と質問しました。
この質問は、当然ありうる質問ではないかと思います。
モーセがリーダーになって、奴隷たちを救い出そうとする、その時に、奴隷たちが、あなたの神の名前は何かと聞いてくる。
当然ありそうなことです。
モーセとしては、自分がそんな大きな働きをしたくはないと思っていましたから、神が答えたらそれに難癖を付けてやろうと思っていたんでしょうが、この質問は、それ自体、神にとって困った質問でした。
名前というのは、聖書では、上の者が下の者に付けます。
神には上はいませんから、神には名前はないんですね。
ただ、神はこう答えました。
「わたしはある。わたしはあるという者だ」。
「I am」なんですね。
いわゆる名前らしい言葉ではお答えになりませんでした。
考えてみますと、モーセはなぜ、名前を尋ねたのか。
名前が無いものは位置付けることができませんね。
相手が何者であったとしても、自分に理解できる存在としてとらえたいんですね。
それで、名前を聞くんです。
それに対して、神は、「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになられました。
そんな答えで良いのなら、私は造り主だ、とか、私は生きて働く神だ、とか、他にもいくらでも答えようがありそうですが、「I am」と答えたんですね。
これは、人間が神を自分なりに理解しようとするのを拒否しておられるということにもなるでしょう。
「わたしはある。わたしはあるという者だ」というこの言葉ですが、原文でも、「ある」という言葉が2回使われていまして、昔の聖書では、「わたしは在りて在る者」と訳されていました。
そう考えますならこれは、あなたがた人間を超えたところに、私は確かに存在している、という神の宣言です。
だから、この言葉で、イエスを捕まえに来た人たちも、礼拝するより他なくなったのです。
人間の思いを超えた神の在りように触れて、ひれ伏すしかなかったのです。
イエスは「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになりました。
彼らは「ナザレのイエスだ」と答えました。
すると、イエスは言われました。
「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」。
先ほどと同じやり取りになりましたが、今度は誰も倒れません。
今度の「わたしである」は、弟子たちを逃がすために言ったことです。
イエスは、ご自分から進んで捕まえられることによって、弟子たちを助けたのです。
ただ、そうだとしたら、例えば、ご自分から敵のところに乗り込んでも良いのではないかと思います。
むしろ、その方が確実に弟子たちは守られます。
ただ、ある時、気づくと、イエスがいなくなっていて、逮捕されたと聞いたら、弟子たちは捨てられた思いになることでしょう。
ペトロはイエスに対して、「あなたのためなら命を捨てます」とまで言っていました。
イエスが突然いなくなったら、どう思うでしょうか。
そう考えますと、このようにして捕まえられることも、ご配慮だったのでしょう。
また、弟子の見ている前で捕まえられるからこそ、弟子たちはその時のことを証しすることができます。
イエスが弟子に対してお求めになる働きは証しすることですね。
実際に、弟子たちが後になってしていった働きも、証しすることです。
その意味でも、この一番大事な場面を、その目で見ていることは大切なことです。
ただここで、シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としました。
この手下の名はマルコスであったということですが、おそらくこの人が、イエスを捕らえようと進み出てきたのでしょう。
それに対してペトロが剣を振り降ろした。
ただ、相手は600人の軍隊です。
ペトロは、恐怖でパニックになって剣を振り回したということでしょう。
ここで、イエスはペトロに言われました。
「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」。
杯という言葉は、聖書では、神が与える苦難を意味します。
この場面で、イエスだけが、御心のままに歩もうとしておられます。
他の福音書には、この時、イエスがマルコスの耳をいやしたことが記されていますが、それはそうなんでしょうね。
イエスは、弟子たちは守って自分一人で捕まるつもりでした。
けれども、ここでペトロがしたことは犯罪になります。
このままでは、ペトロも捕まってしまいます。
他の福音書には耳をいやしたと書かれていますが、血を止めたというだけではなくて、耳をくっつけたはずですね。
耳を元通りにくっつければ、証拠は何もありませんから、ペトロは逮捕されません。
人間というのは神の手を煩わせることぐらいしかできないということなんでしょうね。
ペトロはパニックになっていたんでしょうけれども、それでも、イエスを助けたいという気持ちはあったはずです。
ですけれども、結局、イエスの仕事を増やしただけだった。
それどころか、この後、ペトロは逃げ出すんですね。
そして、イエスのことを自分から、「知らない」と三度も繰り返して言ってしまうんです。
人間という者は神に従うことができなくなっているんでしょうね。
しかし、この今日の場面で、イエスは、どのような暗闇の力もひれ伏すしかない存在であることをお示しになられました。
その上で、神から与えられた杯を飲み干して、暗闇の力にご自分を委ねられました。
それは、神の子イエスが、暗闇の力に苦しめられている私たちのところにいらしてくださり、私たちと同じ苦しみを負ってくださったということでもあります。
私たちは私たちの力で、暗闇に打ち勝つことはできません。
私たちにできることがあるとしたら、神からそれぞれに与えられている杯を飲むことでしょうか。
いえ、それすらもできなかったというのが今日のペトロです。
けれども、イエスは杯を飲んでくださいます。
そして、ペトロの杯も飲んでくださいました。
そこに、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」という御言葉が実現したのです。
弟子たちも、後になって、それぞれの杯を飲んで、暗闇に光を灯していきました。
そこにはもちろん大きな苦しみもありましたが、苦しみにあってもあきらめることなく救い主イエスキリストを宣べ伝えて、そこに、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」という御言葉を体験していったんです。
私たちも、イエスと弟子たちと同じ体験をさせていただきたいと思います。
そのために、今日、この御言葉が私たちに与えられたのです。
「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」。
イエスの言葉であり、私たちに信仰を伝えてくれた信仰の先輩たちも代々にわたって体験してきたこの御言葉を、私たちも体験させていただきましょう。
神の御心は、救われるべき人が一人も失われずに、暗闇から救われることです。