「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」という話が続いています。
これはイエスが十字架にかかることを言っています。
それは、弟子たちにとっても大変なことですね。
それで、イエスは、これからの弟子たちのことを思いやって、これからのことを前もって言っているんですね。
イエスは弟子たちに、事が起こった後に、今の言葉を思い出してもらって、立ち直ってもらいたい。
だから、「またしばらくすると、わたしを見るようになる」とイエスは言ってくれています。
ただそれは、まだ何も起こっていない今の時点では、弟子たちには分かりませんでした。
弟子たち同士の間で、こんなことが語られました。
「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
この中で一番わかりやすい言葉は、「父のもとに行く」ということですが、それすらも、弟子たちには分かりませんでした。
イエスは、弟子たちが尋ねたがっているのを感じ取りました。
ということは、弟子たちは、小声で話をしていたのでしょう。
そして、「分からない、分からない」と言いながら、質問することができないでいます。
どうして質問もできないんでしょうか。
これは最後の夜ですから、イエスの話し方がいつもと違っていたということがあるのかもしれません。
とにかく、弟子たちには、軽々しく質問することはできないように思われた。
話は分からないながらも、ある意味、深刻に受け止めていたということでしょう。
それで、イエスの方から、もう少しはっきりと希望を持って良いという話をしてくださいます。
最初はちょっと厳しいですね。
「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」と言われています。
イエスが逮捕され、十字架に付けられると、弟子たちは当然悲しみますが、十字架を取り囲む群衆は、「十字架に付けろ」と叫ぶことになります。
ただ、その後、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」ということなんですね。
そして、そのたとえとして、子どもを生む時のことが言われます。
「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」。
この21節の「苦しむ」と20節の「悲しむ」は原文では同じ言葉になっています。
ですから、20節は、「あなたがたは苦しむが、その苦しみは喜びに変わる」と訳すこともできるわけです。
その方が話がつながりやすいですね。
弟子たちは苦しみますが、その苦しみは意味のない苦しみではなくて、生みの苦しみなんです。
単に苦しみが過ぎ去って喜びに変わるというだけのことではなくて、苦しみ自体に、新しいものを生み出そうとする価値がある。
だから、イエスとしては、苦しみがいつかは過ぎ去るから、とにかく過ぎ去るのを待ちなさいと言いたいのではなくて、苦しみのただ中にあっても希望を見い出して良いんだと言いたいんですね。
生みの苦しみとは言っても、弟子たちが苦しんだからイエスが復活できるということではないですが、弟子たちが苦しむのはイエスが死んだからであって、だからこそ、その後で会うイエスは復活のイエスです。
もし、イエスが死ななかったとしたら、復活のイエスには会うことができません。
復活のイエスは弟子たちの苦しみの後にしか現れない。
その意味で、生みの苦しみにたとえられているんでしょう。
それにしても、イエスがここで、生みの苦しみというものを意味のあること、希望があることとして取り上げたことは驚くべきことです。
聖書では、そもそも、生みの苦しみというものはどのようなものだったでしょうか。
アダムとエバが、食べてはいけないと言われていた木の実を食べた。
しかも、アダムはエバのせいにした。
エバは自分を騙した蛇のせいにした。
それで、エバに与えられた罰が、生みの苦しみなんですね。
生みの苦しみは人の罪に対する神の罰なんです。
イエスはそれを、意味のあること、希望があることとして取り上げたんですね。
どうしてそんなことができるのか。
イエスが、罪に対する罰を代わりに引き受けてくださる方だからです。
ですから、私たちは信じていいんですね。
アダムとエバに対して与えられた罰は、生みの苦しみだけではなくて、人が人を支配するということ、また、労働の苦しみというものもありました。
けれども、私たちは、この世に生きる上での様々な苦しみの中でも、そこに意味を見い出し、希望を抱いていいんです。
罪に対する罰を代わりに引き受けてくださったイエスが、そこにもここにも、意味を与え、希望を実現してくださるからです。
私たちの苦しみの現実の中に、イエスは来てくださるのです。
そして、もちろん苦しむのは弟子たちだけではないですね。
一番苦しまれるのはイエスです。
だからこそ、旧約聖書では、救い主が救いを実現するに当たっては、救い主の生みの苦しみ、ということが言われることがあります。
そして、新約聖書の中の、福音書よりも後になりますと、今度はまた弟子たち自身が生みの苦しみを体験していくことになります。
パウロは、フィレモンへの手紙の中で、自分が伝道してクリスチャンにした人のことを、自分が生んだ自分の子どもであると言っています。
また、パウロは、弟子のテモテのことを、自分の愛する子どもであると言っています。
一人の人をクリスチャンにすることは簡単なことではありません。
パウロは生みの苦しみを味わって、人に救いを伝えたんですね。
これは人に対してだけではありませんでして、自分が建てた教会についても、キリスト・イエスにおいて、私があなたがたを生んだと言っています。
また、ガラテヤの教会が罪に陥った時には、「わたしはもう一度あなたがたを生もうと苦しんでいます」と言っているんですね。
苦しみが無くなるわけではありません。
しかし、苦しみは、キリストにあって、ただただ過ぎ去ることだけを願うような、意味のない苦しみではなくなります。
生みの苦しみとなるのです。
苦しみの中にも希望があるんです。
弟子たちは皆、その思いで働きつづけたのです。
それは、頑張って自分自身を戒めて、自分で自分を整えなくてはならないということとは違います。
聖霊の働きがあるんですね。
「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」とあります。
もう、質問しなくていい。
確信することができるようにさせていただける。
これは聖霊の働きです。
すぐ前の22節の最後に、「その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」と言われていますが、これは、イエスと会えた喜びは決して失われないということです。
しかし、イエスは復活して、弟子たちに会いに来てくれますが、その後、天に昇っていきます。
普通に考えたら、喜びは失われてしまうんです。
ただ、今日の個所のすぐ前の個所でのお話を思い出しますなら、聖霊が与えられ、弟子たちにずっと伴ってくださるということでした。
そして、父なる神とキリストと聖霊は一体なんですね。
聖霊を通してイエスとつながり続けることができるので、イエスがいてくださる喜びは、イエスが復活した後、天に昇って行った後も、決して失われないということです。
そして、それだけでなく、聖霊は、いつも人を諭し、教え、理解させてくださるんですね。
だから、質問することもなくなる。
聖霊が私たちを確信させてくださるんです。
新約聖書の、福音書よりも後のところ、弟子たちに聖霊が与えられてから後のところを読みますと、弟子たちがイエスに質問するようなことは無くなっているんですね。
イエスが逮捕されると逃げ出した弟子たちが、確信できるようになったということです。
もっと言いますと、地上におられた時のイエスのことを伝えているのが福音書ですが、福音書にあるイエスの話の多くはたとえ話です。
これはイエスに限らず、当時の先生たちが教える時にはたとえ話で教えるのが普通だったんですが、イエスの話というのは、ストレートにものを言うのではなくて、イメージや感覚で伝えるような面があるんですね。
それに対して、弟子たちが書いた手紙は論理的で明確です。
弟子たちの手紙は論文です。
イメージ聞いた話から論文を書くのに、どれくらいの能力が必要でしょうか。
弟子たちのほとんどは、学問ということはしたことのない人たちです。
それなのに、福音書と手紙では、恐ろしいほどの飛躍があるんですね。
福音書と手紙は完全に別の種類の文書です。
これは、論理的でなければいけないということではなくて、弟子たちは、もう質問する必要がないほど、知るべきことを知っている。
だから、論理的に書くことができる。
要は、確信を持っているんです。
それが聖霊の働きだということなんです。
イエスと一緒にいても確信を持てなかった、色々と質問して答えてもらっても分からなかった者に、確かな理解を与えてくださる。
それが確信になる。
神について、救い主について、救いについて、聖霊についても、それまで漠然として分からなかったことを、確信させてくださる。
それが聖霊です。
私たちにも確信していることがあるでしょうか。
あるとしたら、それが、聖霊の働きなんですね。
そして、最後にイエスは言います。
「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」。
イエスの名によって祈るということですね。
イエスの名によって、つまり、イエスの名義で祈る。
私はただの罪人に過ぎませんが、この祈りを、神の子イエスの名義で祈りますから、神様、私の祈りを神の子の祈りとして聞いてください、ということです。
聖霊だけでなく、イエスは名義も与えてくださったんです。
それは何のためか。
「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」ということですね。
私たちが喜びに満たされるためです。
イエスは知っておられるんですね。
私たちの生きる現実は苦しみなんです。
信仰があろうとなかろうと、この世に生きる現実には苦しみが伴います。
聖書はそれを、人が罪を犯して、罰を受けているのだと言います。
けれども、その私たちに、何ということでしょうか、聖霊が与えられ、神の子の名義が与えられるのです。
私たちが苦しみの現実の中にあっても、喜びに満たされるためです。
苦しみという罰を、生みの苦しみにするためです。
苦しみはあろうとも、確信を持って、希望の中を生きるようにするためです。
その道を、神の子が命がけで切り開いてくださいました。
私たちはどれだけ愛され、どれだけ顧みられているのでしょうか。
もうそれだけで、十分に喜ぶべきことです。
私たちには希望があります。
その希望は、神の子が与えてくださった希望です。
ですからこれが、私たちから奪い去られることはありません。
そうなるように、願い求めましょう。
そうすれば、与えられます。
それが、イエスの約束です。
私たちが生きる現実から、苦しみが去ることはないでしょう。
けれども、私たちは、聖霊と祈りによって、生みの苦しみを生きるようにされる。
罰の中を生きるのではありません。
生みの苦しみです。
希望があるのです。
そこから希望が実現していくんです。
私たちの教会は、東日本大震災とリフォーム工事の遅延によって大きな苦しみを味わいました。
しかし、私たちは証しすることができる。
神はそこからでも、希望を実現してくださる。
確信を持って、祈っていきましょう。
主が私たちを喜びで満たしてくださいます。