2025年02月16日「心の貧しい者は幸い」

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聖句のアイコン聖書の言葉

心の貧しい人々は、幸いである、
天の国はその人たちのものである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 5章3

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本屋さんに行きますと、幸せになるためのハウツー本がたくさん置いてありますね。
まあ、人間誰だって幸せになりたい、幸せになるための法則を知りたい、身に着けたいということなんでしょうね。
今、イエス様も、そこにいたたくさんの人たちに対して、「幸い」ということを語っておられます。
今日の場面はイエス様の最初の説教の、その一番最初の場面ですけれども、一番最初に「幸い」ということがテーマになるんですね。
イエス様は人々が幸せになることを何よりも願っておられるんですね。
まして、12節まで来ますと、「喜びなさい。大いに喜びなさい」なんて言われています。
喜び、幸い、それが何より大事なんだということですよね。
しかし、今日の話は、幸いを得るための方法ではないですよね。
ハウツー本に書かれているような、どうすれば幸いになれる、という話ではないんです。
イエス様は言いますね。
「心の貧しい人々は、幸いである」。
これは原文では、「幸いだ。心の貧しい人は」という感じの表現です。
つまり、イエス様が心の貧しい人々に対して、「あなたがたは幸いなのだ」と宣言してくださったという感じです。
心が貧しければ、その人は幸いなんだ、と。
ですのでこれはどうすればいいのか、というような話ではないんです。
しかし、そう言われても、それだったら、「心の貧しい人」になる方法はないかと思ってしまいますよね。
ただ、この、「心が貧しい」というのはどういうことなんでしょうか。
「心が貧しい」と言われたとしたら、いい気分にはなりませんよね。
「心が貧しい」と聞くと、寂しい人、つまらない人、そんな感じがします。
ただ、ここで、「貧しい」というところにつかわれている言葉は原文では、何も持っていないことを表す言葉なんですね。
ですのでこの言葉は、お金を少ししか持っていないというような、貧乏というような言葉ではないんですね。
たとえ貧乏だったとしても、少しはお金を持っていますよね。
でも、この「貧しい」という言葉はそういう言葉ではないんです。
何も持っていないという言葉なんです。
それも、「心の貧しい人」ということですね。
心において、何も持っていない。
心の中には何もない。
空っぽ。
そういう感じのことなんですね。
この、「心が貧しい」という言葉を、「謙遜」のことだという人がいますけれども、そうではないんですね。
謙遜というのは、本当は力のある人がそのことを周りに自慢しないことですよね。
言ってみればそれは、本当は持っているけれども、持っていないふりをするということです。
けれどもそれは、ここで言う「貧しい」というのとは違うんです。
ここで言われていることは、心の中が空っぽということなんです。
しかし、そう言われると困りますよね。
私たちは誰も、心の中に何もないわけではありません。
と言いますか、自分の心は豊かだと思いたいですし、心を豊かにしたいですよね。
たいていの人はそうだと思います。
ですけれども、そんな私たちに対してイエス様は開口一番、「心の貧しい人々は、幸いである」なんて言うんですね。
そんな話を聞いたら、私たちの心は乱されてしまいます。
自分は、そんな者ではない。
心の中に何もないわけではない。
だったら私は幸いではないのか。
何かこう、悲しい気持ちになってしまいます。
もしかすると、こんなことを言われたら、腹を立てる人もいるかもしれませんね。
おかしいじゃないか。
そんなことはないはずだ。
こんな話を聞いても、悲しい気持ちになるか、起こってしまうか、とにかく、受け入れることはできません。
しかしそれこそが、「心の貧しさ」ということではないのかなと思うんですね。
私たちは自分の心の中に何もないとは思っていない。
むしろ、心が豊かだと思いたい。
けれども、受け入れられないような話を聞くと、悲しくなったり怒ったりしてしまう。
心の豊かさが失われてしまう。
それって、結局、心が豊かではなかったということなんじゃないですか。
状況が良い時は心が豊かだと思っていても、受け入れられないような話を聞いてしまったとかで状況が悪くなると心の状態も悪くなる。
ということは、私たちの心は結局、状況で決まっているんであって、心そのものは貧しいんですね。
心は空っぽなんです。
状況が満たされている時は心も豊かに思えますが、悪い状況になると心も悪くなる、というのでは、これはもう、心としては貧しい、何もなかったんだということですよね。
ですので、「心の貧しさ」というのは私たち皆の現実なんです。
私たちは認めたくないですけれども、実際のところ、私たちの心は貧しいんですね。
けれども、イエス様は言うんですね。
「心の貧しい人々は、幸いである」。
どうしてそんなことが言えるんでしょうか。
心の貧しさは、それ自体が幸いなのではないですね。
しかし、続けて言うんです。
「天の国はその人たちのものである」。
だから、「幸い」なんですね。
「天の国はその人たちのものである」というのは、一口に言うと、あなたがたは救われるっていうことですよね。
救われるということは、逆に言って、救われないようなひどい状態にあったということです。
それが心の貧しさですよね。
でも、そこから救い出してもらえるんです。
神様が、そんなどうしようもない人間を救ってくださるんです。
つまり、ここで言われていることは、神様というのはどんな人でも救う神様なんだよということなんです。
これって本当に幸いですよね。
これ以上の幸いはありません。
だから、神様の御心を現しておられるイエス様は、人々の心の貧しさを受け入れてくださるんですよね。
どんなに心の貧しい人でも、イエス様は受け入れてくださるんです。
今、話を聞いている弟子たちなんて、後になるとイエス様を裏切るんですよ。
状況がいい時は「あなたのためなら命を捨てます」なんて言っていたのに、状況が悪くなるとイエス様を見捨てて逃げ出してしまうんですね。
弟子たちこそ、心の貧しい人々です。
でも、裏切るような弟子であっても、見捨てるような弟子であっても、イエス様はその人を見捨てないんですね。
「あなたの心がどうしようもなく貧しかったとしても、私はあなたをどこまでも愛しつづけるよ」。
これがイエス様なんです。
ですので、今日の話も、幸せになるためのハウツー本に書かれているようなこととは全然違うんです。
今日の話は、こういうふうにすれば幸せになれるよ、という話ではありません。
今日の話は、幸せになれないあなたたちを幸せにしてあげるよ、という話なんですね。
もうこれって、喜んでいいですよね。
大喜びしていいところです。
宗教改革者であったルターは、天に召される二日前に書いたことがあります。
現代ではつかわれない言葉を含む表現ですが、そのまま読ませていただきます。
「われわれは乞食だ。それが本当だ」。
私たちは、何も持っていないんです。
空っぽなんです。
でも、神様は、そんな私たちを天の国に招き入れてくださるんです。
ルターはその言葉を、喜びながら書いたんじゃないですか。
私たちも喜んでいいですね。
何もない私たちを、自分のことを自分でどうすることもできない私たちを、神様は救ってくださる。
だから、心の貧しい者は幸いなのです。

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