2025年02月10日「攻撃する人は知らない人」

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攻撃する人は知らない人

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 15章25節~16章4節

聖句のアイコン聖書の言葉

26わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。1これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。2人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。3彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。4しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 15章25節~16章4節

原稿のアイコンメッセージ

先週、イエスは迫害にあった時の心構えを弟子たちに教えてくださったんですが、今週もその話が続いています。
ただ、今週のお話では、26節と27節で、証しについても語られています。
迫害の話の間に証しの話が挟まれているんですね。
迫害と証しというのは関係のない話ではないですね。
証しするから迫害されるわけです。
証ししなければ迫害もされないんですね。

この後、実際に弟子たちは迫害されることになります。
どのような迫害かと言いますと、今日の16章2節です。
「人々はあなたがたを会堂から追放するだろう」ということですね。
会堂というのは原文では「集会」という言葉で、集会所を意味したんですが、公民館のようなところでした。
つまり、会堂から追放されるというのは、共同体から追放されるということです。
仲間ではなく、敵だと見なされるわけです。
ですから、16章2節の続きのところで、「あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と言われているんですね。
ユダヤ人は自分たちは神に選ばれた神の民であるということを誇りに思っているわけです。
だからこそ、ユダヤ人たちの会堂から追放されるというのは、大変なことです。
神の民の一員でなくなるというです。
弟子たちは元々ユダヤ人です。
元々、神の民の一員だったんです。
自分でもそう思っていたことでしょう。
それが、会堂から追放されてしまうと、神の民の一員でなくなる。
神の民であったのに神の民でなくなる。
あの人にはあまりにも大きな罪があるので、神にふさわしくない。
そのように見なされる。
そうなりますと、自分が神の民だということを誇っている人たちが、そういう人を殺したとしても、何もおかしくはないわけです。
むしろ、神の民だからこそ、神の民でなくなったような悪者を迫害するわけです。

では一体どうして弟子たちがそこまで悪者扱いされることになるのかということですが、ユダヤ人たちは、神の民として、神の言葉を与えられていました。
それが聖書ですね。
ユダヤ人は、神の民として、聖書の言葉の通りに生きることを心がけていました。
そうすることによって神が救ってくださると考えたからです。
それに対して、イエスの弟子たちは、人間はそもそも罪人であって、神の言葉の通りに生きることが自分の力ではできない者で、けれども、そのような者でも、神が救ってくださる、それが十字架なんだ、キリストが人の罪を肩代わりして、代わりに罰を受けてくださったんだ、と言うんですね。
ただそれは、救われるために一生懸命、聖書の言葉の通りに生きようとしている人たちからすると、自分のやっていることが無駄なことだと言われているのと同じことですね。
ユダヤ人ではない人からそう言われたのなら無視することもできるのかもしれませんが、弟子たちは元々ユダヤ人です。
同じユダヤ人からそう言われますと、「おい、お前、それは違うだろ」という話になるわけです。
そのようにして、実際に、この後、迫害が起こってくるようになったんですね。

ただそれは先の先の話です。
弟子たちはまだ、イエスがこれから逮捕されることも知りません。
ではどうしてイエスは前もってそんな話をしてくださったのかというと、今日の16章1節です。
「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」ということですね。
つまづくというのは、信仰を無くしてしまうという意味ですが、迫害にあっても信仰を無くさないでいられるように、今の内から先の先のことまで話してくださっているわけです。
16章の3節、4節も同じですね。
「彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」。
迫害するのは神も神の子イエスも知らない人たちなんですね。
だから、迫害してしまう。
逆に言うと、イエスが神の子で、イエスの父は神だ、と知っていたら迫害しない訳なんですが、人々はそれを知らなかった。
イエスはそれを知らせたと言えるんですが、人々は認めなかったんですね。
ただ、今この時はまだそうではありません。
イエスがエルサレムに入る時には、エルサレムの人々はイエスを大歓迎しました。
イエスが旧約聖書に預言されている救い主かも知れないと期待して、大喜びして迎えたんですね。
けれども、イエスが逮捕されると、人々は、イエスを十字架につけろと叫ぶようになります。
神の元から来られた救い主が罪人の罪を肩代わりして人を救うというようなことは、誰にも想像することもできないようなことでした。
人々が考えていたのは、聖書の通りに生きていれば、神が救ってくださるということです。
神の元から来られた救い主が逮捕されて十字架につけられるということは、全く想像もしないことです。
ですから、イエスが救い主だと認めることは絶対にないわけです。
そして、だからこそ、弟子たちが迫害されることは避けられません。

けれども、イエスについて証ししなければ、迫害されることはありません。
ただ、イエスはここで、証ししないようにとは言いませんでした。
15章の26節で、こう言われています。
「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」。
聖霊が証しするんですね。
ここでは聖霊のことが「真理の霊」と言われていますが、「真理」というのは神について使われる言葉で、この言葉の反対語が、「不正な」という言葉なんですが、この「不正な」というのはこの世について使われる言葉なんですね。
そういうことですから、「真理の霊」があなたがたのところに来る、と言われているということは、あなたがたはもうこの世の側ではない、神の側なんだ、と言われていることにもなるでしょう。
そして、その聖霊のことが「弁護者」とも言われています。
この言葉は、「そばに呼ばれた者」という言葉なんですが、弁護士が被告のそばに呼ばれて弁護するように、聖霊は弟子たちのそばに立ってくださるんですね。
そして、弟子を通してイエスのことを証ししてくださるんです。
別のイエスの言葉に、「語るべきことは聖霊が教えてくださる」という言葉がありますが、聖霊が弟子たちに語らせてくださるんですね。
そして、私たちも、同じ聖霊をいただいていますから、証しするんです。
語るべきことは聖霊が教えてくださいます。

次の27節では、「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」とあります。
ここに「あなたがたも」とありますが、聖霊と同じく、弟子たちも、ということですね。
「初めからわたしと一緒にいた」とありますが、イエスは神の働きを始めるに当たって、洗礼を受けていました。
そして、イエスが洗礼を受けた時、聖霊が降ってきたんですね。
そうして、イエスは神の働きを始めました。
弟子たちも、イエスが神の働きを始めた、その最初に、弟子になった人たちです。
聖霊も弟子たちも、初めからイエスと一緒にいたことになります。
私たちはそうではありませんね。
けれども、私たちにも、同じ聖霊が与えられているんですね。
そして、聖霊の働きというのは第一に、語り伝える働きです。
今日のところで言いますと、イエスを証しする働き。
ですので、私たちも、証しすることができるわけです。
何より、イエスは、弟子たちに対して、最後の最後に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。
イエスは、今も、私たちと共におられます。
私たちは、イエスが私たちと共にいて、何をしてくださっているか、それを証しするんですね。
たとえ迫害の中にあっても、恐れずに、証しする。

私たちは迫害されているわけではありませんが、恐れがないということはないでしょう。
世間の目が気になる、家族の目が気になるということはどこのどんな人にでもあることで、それも恐れです。
そして、実際に、それがために、今日の1節の言葉で言うと、つまづいてしまう、信仰を無くしてしまうという人がいます。
信仰をもって生きるということが、向かい風に向かって歩くようなことであるというのは、アメリカやヨーロッパでも場面によってはそうでしょう。
これは何も不思議なことではありません。
この世というのは罪人である人間が作り上げているものだからです。

けれども今日、イエスは、先の先まで考えて、弟子たちのことを顧みてくださいました。
迫害を無くしてくださるわけではありません。
迫害を無くすには、罪人を消滅させるしかありません。
それでは誰も救われないでしょう。
ですから、私たちに向かって吹いてくる向かい風も、なくなることはありません。
人間が罪人である限り、そういうことはないでしょう。
ということは、世の終わりまで、そういうことはないでしょう。
けれども、イエスは、先の先まで考えて、弟子たちのことを顧みてくださる方であり、その方が私たちと共におられるんです。

ただここでイエスは、先のことを言っただけなんですね。
逆に言うと、イエスが言っておられたことを思い出せば、もうそれだけで、つまづくことはないということです。
イエスが言っておられたことを思い出すということは、イエスは、先の先まで考えて、弟子たちのことを顧みてくださる方であることを思い起こし、その方が私たちと共におられるということを思い起こすことだからです。
私たちも、先の先まで考えて、人にアドバイスをすることがあるかもしれませんが、私たちは、その人とずっと一緒にいられるわけではありませんし、ずっと一緒にいたところで、何かが起きた時、私たちの力で対処できるかどうかは分かりません。
しかし、イエスは神の子です。
神の子が先の先まで考えて私たちのことを顧みてくださり、それだけでなく、今もこれからも共にいてくださっているのです。

実際、弟子たちは、この時のことをしばしば思い起こしていたのでしょう。
この話を聞いていた弟子たちがつまづくことはありませんでした。
今、この話を聞いている弟子たちは、ユダを除く十一人ですが、その弟子たちは全員、激しい迫害を受け、一人を除いて全員が殉教したと伝えられています。
命を奪われるような激しい迫害の中でも、つまづくことはなかったんです。
むしろ、自分の命をかけて証しし、その結果、ますます弟子の数が増えていったんですね。

殉教もまた、証しになります。
殉教というのは結果として命を失うことですから、それ自体は良いことではないんですが、ぎりぎりまで追い詰められた時には人間の本質が出ます。
そこにおいて、何を語るか、どのような態度を取るか。
それが証しになるんですね。
実際、聖書に証人という言葉が出てきますけれども、その証人という言葉は殉教とも訳される言葉なんですね。
殉教は命を懸けて証しすることで、死ぬことに価値があるのではなく、証しに価値があるんですね。

2世紀の神学者で、ユスティノスという人がいます。
この人は、クリスチャンが殉教する様子を見て、クリスチャンになったんですね。
この人はこう書いています。
「死や、恐怖を起こすあらゆるものに直面しても、キリスト者が少しも恐れを示さないのを見て、わたしは、彼らが非難されているような邪悪で快楽を愛する者ではあり得ないということに、思い至った」。
殉教者たちはまさに、命をもって証ししたんですね。
そして、クリスチャンになったユスティノス自身、最後には殉教します。
そして、殉教する時のユスティノスの様子は、ユスティノス自身が見た殉教者たちの様子と同じだったんですね。
恐れることがなかった。

言ってみれば今日、イエスがした話も、「恐れるな」ということだと言えますが、人間というのは恐れが強いものなんでしょうね。
考えてみると、聖書の中で神や天使が人に語りかける時、その最初の言葉というのはたいてい、「恐れるな」です。
しかし、私たちは恐れなくて良いというのが今日の話です。
キリストは先の先まで考えて、私たちのことを顧みてくださる方で、その方が、いつも今も、私たちと共にいてくださっているからです。
どんな時でもこのことに心を留めて、身をもって証ししたいと思います。
代々の聖徒たちを力付けてくださったように、聖霊が私たちを力付けてくださいます。

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