2025年01月19日「イエスの友」

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聖句のアイコン聖書の言葉

11「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 15章11節~17節

原稿のアイコンメッセージ

長いお話をしているイエスが、ここで一つのまとめのような話をしています。
「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」。
イエスが話をしてきたのは、喜びのためなんですね。
それも、ご自身の喜びのためではなく、私たちの喜びのためです。
イエスご自身も喜んでおられるわけですが、その喜びが私たちにも注がれて、私たちに満たされるためなんですね。

ではイエスはどのような喜びを感じておられるのかと言うと、このすぐ前の9節、10節ですね。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」ということですね。
一つには、神に愛される喜び。
もう一つには、私たちを愛する喜びです。
ここでちょっと気になるのは、イエスが神に愛されているということなら、イエスの方からも神を愛することになるのではないかと思いますが、それは言われていないんですね。
もちろん、イエスは神を愛していますが、10節では、「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように」と言われていました。
父の掟というのは、イエスが、私たちを救うために働いてくださるということですね。
ですので、父の愛は、イエスだけでなく、私たちにも注がれているものです。
父が私たちを愛しておられることをイエスが知っているから、イエスも私たちを愛してくださるということなんですね。

続けてイエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言います。
互いに愛し合いなさい、というのは、弟子たち同士でお互いに愛し合いなさい、ということですね。
それも、ただ単に「互いに愛し合いなさい」と言われているのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われています。
イエスはどのように弟子を愛したでしょうか。
今日の場面は13章からずっとつながっている場面ですが、その13章の最初に、イエスは弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた、とありました。
そのイエスが何をしたのかというと、突然、弟子たちの足を洗いだしたんですね。
食事の席ですから、家の中でのことです。
そして、弟子たちは皆、家の中に入る時には、自分の足を自分で洗ったはずです。
それでも、わざわざ弟子の足を洗うんですね。
足がまだ土で汚れていたということではないでしょう。
この世の道を行く中で、足元から罪が忍び寄ってくることがある。
イエスは、そのような罪を洗い清めてくださったんですね。
それにしても、人の足を洗うという仕事は、この時代には奴隷の仕事、それも、異邦人の奴隷の仕事です。
つまり、ご自分を捨ててどこまでも低くなってくださったんですね。
そして、イエスは弟子たちに、お互いに足を洗い合いなさいと言いました。
何も言わずに、僕となって相手に仕えて、相手の罪を拭ってやりなさいということです。
それが愛するということなんですね。

私たちは愛すると聞くと、お互いにとってお互いがプラスになるような関係を想像します。
でも、イエスの愛は違うんですね。
自分には何のプラスもないんです。
ただただ相手のためなんです。
それが、イエスの愛なんです。

だから続けて、こう言われています。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。
愛というのは相手のために自分を捨てることです。
そして、自分の命を捨てること以上に大きなことはありません。
だから、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」のです。

ここで「友」という言葉が出てきましたが、これを受けて、次の14節でこう言われています。
「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。
私たちには、イエスの友になるチャンスがある、ということでしょうか。
イエスの命じることを行う限りで。
しかし、相手の足を洗うということは、簡単なことではありません。
私たちは、人の罪を見つけると、何も言わずにそれを拭うよりも、罪を指摘したくなるものです。
だとしたら、私たちがイエスの友となることは難しいのでしょうか。

そうではありません。
イエスはすでに、私たちのことを友としてくださっています。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。
これは、イエスがすでに私たちのためにしてくださったことです。
イエスは私たちの罪を背負って、私たちの代わりに十字架にかかってくださいました。
人の罪を、神が、自分を捨てて、命も捨てて、肩代わりしてくださいました。
それが十字架です。
ですから、イエスにとって私たちは友です。
そして、私たちは、友のために自分の命を捨てろとは命じられていません。
それはイエスが私たちのためにしてくださったことです。
足を洗うのとは違って、これについては、そうするようにとは言われていません。
私たちは、私たちを友としてくださっている、イエスの愛、それ以上の愛がないような愛をいただいている者として、互いに愛し合っていくんですね。

私たちを友と呼んでくださるイエスは、15節でこう言います。
「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」。
僕ではなく、友と呼んでくださるんですね。
ただ、神の僕というのは悪いことではありません。
旧約聖書のモーセや新約聖書のパウロは、しばしば自分から、自分は神の僕であると言いました。
神の僕であることは、神に従う人にとって誇りでした。
けれども、私たちは僕ではないとイエスが言うんですね。
イエスはこう言っています。
「僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。
奴隷というのは主人の言う通りにするだけです。
それも、自分が割り当てられた場所で言われたことをするだけで、主人が全体としてどうしようとしているのかは、僕には知ることができません。
その意味で、私たちはイエスの友です。
私たちは、イエスが神から託された務めについて、すべて知っているからです。
主人が奴隷にどれだけのことを知らせてくれるのかは分かりませんが、すべてを知らせてくれるということはないでしょう。
けれども、イエスはご自分の務めについて、すべてを知らせてくださいます。
イエスにとって私たちは友だからです。
友だから、下に見ることもなければ、秘密にすることもないのです。
イエスは、救いの働きを完成させるに当たって、救われるべき相手に、すべてを知らせてくださいます。
救われるべき相手というのはとりもなおさず罪人であるということになりますが、罪人相手に、友として、すべてを知らせて、命を捨ててくださるのです。
このような扱いは、キリスト以前にはどんな人も受けたことがありません。
そう、私たちは神の僕ではありません。
神の友です。
キリスト以前には誰も想像もしなかったような祝福を私たちは受けているんです。

その祝福は、イエスご自身が選んだ人に与えられます。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言われています。
それは、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」ということですね。
こういうことが言われるということは、弟子たちは、自分の意思で弟子になったと思っていたのかもしれません。
そうではないのだということですね。
イエスが選んでいたんです。
ここで、「任命した」という表現が使われています。
この「任命する」という言葉は原文では、「友のために自分の命を捨てる」という時の「捨てる」という言葉と同じ言葉です。
イエスの方ではご自分の命を捨ててくださり、一方で、弟子たちは任命された、立てられたということです。
なんということか、と思わされますが、イエスの弟子というのは、イエスの命と引き換えに立てられたような者なんですね。

それは何のためか。
「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと」、イエスは弟子たちを立ててくださいました。
つまり、私たちが実を結ぶのは、私たちの力によることではありません。
もし、私たちの力で実を結ばなければならないとしたら、私たちの力が衰えると、その実もしぼんで枯れて、いつかは無くなってしまうことでしょう。
しかし、私たちはイエスというぶどうの木につなげられた枝なんです。
私たちはイエスから、日々新たに愛を注がれているんです。
ですから、私たちはますます豊かに実を結んでいくことができるし、その実はいつまでも残るんですね。
そしてそれは、私たちが出かけていった先でのことだ、と言われています。
私たちに与えられる働きの場がある訳です。
あなたはここで実を結びなさい、という場が、私たちにはそれぞれに与えられているんですね。
私たちは、イエスから使命が与えられているということです。
その使命を果たす中で、イエスの名によって神に願うものが何でも与えられるということが起こってくるんですね。
つまり、イエスから受けた使命というのは、自分の力でどうにかすることではないということです。

19世紀のドイツのルター派の牧師で、ヨハン・クリストフ・ブルームハルトという人がいます。
この人は熱心に祈る牧師でした。
このブルームハルト牧師のもとに、悪霊に苦しめられているという女性がやってきました。
ブルームハルト牧師は聖書に書いてあるように、一生懸命その女性のために祈りました。
半年以上、その女性の家に行って祈ったけれども、祈れば祈るほど、激しく暴れたのだそうです。
どうしようもなくなったこの牧師は、このように祈りました。
「神様、私は霊的なものに対して、人間がいかに無力であるかを知りました。主イエスよ、今からは、あなたご自身がお働きになる番です」。
そう言って神にお任せしたんですね。
その後もしばらく戦いは続きましたが、数か月後、その女性は「イエスは勝利者です」と叫んで、その時にすっかりいやされたのだそうです。

これは私たちの場合でも同じことでしょう。
実を結ばせてくださるのはイエスです。
そのために、イエスが私たちを選んで、立ててくださり、それぞれの場所に遣わされるのです。
そのような使命が私たちにも与えられています。
ただ、使命を果たすのは、私たちの力によることではありません。
私たちの力でできることなら、イエスが面倒を見てくださる必要はありません。
私たちにはできないことを、イエスの力がなさせてくださるのです。

私たちは、そのことを忘れないようにしたいですね。
イエスは今日、最後にもう一度、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」とおっしゃいます。
この世では、罪があるとそれを指摘します。
時には批判します。
場合によっては責任を取らせます。
しかし、私たちの主は、私たちのためにご自分自身を捨ててくださいました。
命まで捨ててくださいました。
その方が私たちを支えてくださっています。
だから、私たちは互いに愛し合うんですね。
それが私たちのアイデンティティーです。
そして、そうしている限り、私たちが使命を果たすに当たって、自分の力に頼るということはないでしょう。
何しろ、私たちは、自分の罪を、自分でどうにもできないんです。
完全に神に従うことは、イエス以外の誰にもできません。
そのような私たちのために、神ご自身が、人となられて、命を捨ててくださったんです。
その上で与えられた使命です。
ですから、自分の力ですることではないんです。
どの道、自分の力など、たかが知れています。
けれども、イエスはその私たちを神の友としてくださり、神の愛と、神の力を注いでくださっています。
そのような者として、互いに愛し合い、良い実を結ばせていただきたいと思います。

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