神の働きをするとは何をすることか
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 使徒言行録 3章1節~11節
1ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。2すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。3彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。4ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。5その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、6ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」7そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、8躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。9民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。10彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気づき、その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 3章1節~11節
今日は、新約聖書の使徒言行録の言葉に聞いてみたいと思います。
『使徒言行録』の「使徒」という言葉ですが、これはイエス様に最も近い弟子であった十二弟子を指す言葉ですね。
その言行録ということですので、平たく言うと、直弟子たちの言葉と行いの記録ということです。
この『使徒言行録』は最初に、イエス・キリストと弟子たちとの別れをまず描いています。
これから弟子たちの歩みが始まるんだということですね。
そして、弟子たちに聖霊が降ります。
聖霊というのは神の霊ですね。
神の霊が弟子たちに与えられるということは、イエス・キリストが約束してくださっていたことでした。
つまり弟子たちは、今まではイエス様と共に歩んでいたわけです。
そして、これからは聖霊と共に歩んでいくということです。
その弟子たちの歩みはどのようなものだったかということがこの使徒言行録3章から描かれます。
その最初に挙げられているのが、今日のこの癒しの奇跡なんですね。
とても大きな働きですよね。
生まれつきの障がいを治したということなんです。
ただ、この癒しの奇跡は、ペトロとヨハネが、「今日は癒しの業を行おう」ということで行ったということではないんですね。
二人の弟子は、「午後三時の祈りの時に神殿に上って行った」と書かれています。
この時代、午前九時と午後三時に祈る習慣があったんですね。
ですので、二人の弟子は、いつも通りのことをいつも通りしようとしていたんです。
いつもの通りにしている中で、考えてもいなかったことに、神の働きをすることになったんですね。
いつもと変わらない一日の中に、神の業が現れたということなんです。
私たちで言うと、日曜日に朝十時半から礼拝がありますね。
その礼拝に向かう道の途中で、神の業が現れた、というようなことです。
ですので、今日の話は注意して聞きたいですね。
この話は、ペトロとヨハネだけの話ではないんです。
私たちにもいつ起こってもおかしくないことなんです。
さて、二人の弟子が神殿の入り口まで来たところで、生まれながら足の不自由な男が運ばれてきました。
生まれつき自分の足で立つことができない人です。
この時代にはこのような人は物乞いをして生きるしかなかったんですね。
3節でこの人はペトロとヨハネを見て、声をかけます。
まず、この人はペトロとヨハネを見たんですね。
見たと書かれていますが、見たというより、見かけたという感じでしょうか。
とにかく近くを通る人皆に、この人は声をかけていたのではないかと思うんですね。
それに対して、二人の弟子はどうだったでしょうか。
この人を「じっと見た」んですね。
おそらくは足を止めて、この人を見つめたんです。
ここから、神の業が始まっていきます。
じっと見るとはどういうことでしょうか。
単に見る、ということではありませんよね。
じっと見るということは、相手がどのような人なのか、心の奥まで見ようとする、ということでしょう。
相手の人はこんなふうに言っているが、相手の本当の必要は何か。
この人は、本当のところ、どんなふうにならなければいけないか。
相手の存在と向き合う。
これが、聖霊と共に歩む弟子の在り方だということなんですね。
聖書は、人間には罪があると言います。
罪というのは原文では的外れという言葉です。
かたよって自分を愛してしまうということです。
つまり、人間というのは自分ばかりを見つめているものだということですね。
そうではなく、人のことをじっと見るようになる。
相手のことを真心から考えるようになる。
私たちがそのように変えられるのが聖霊の働きなんです。
その次がまたすごい言葉ですね。
こんなことは普通言わないと思うんです。
二人の弟子は足の不自由な人に対して、「わたしたちを見なさい」と言ったんですね。
これは一体なんでしょうか。
この人は二人の弟子に、施しを求めたんです。
ということはもう、この人はずっと二人の弟子を見ていたはずです。
それなのに、「わたしたちを見なさい」と言ったということは、ただ見るというのとは違う意味で、自分たちを見るように言ったということになりますね。
二人の弟子がこの人をじっと見たように、この人も二人の弟子をじっと見るんです。
お互いにしっかりと見つめ合うんですね。
自分が相手を見つめるだけではありません。
相手にも自分を見つめるように求めるんです。
人間関係を結ぶということです。
そのようにしなさい、と私たちも言われているんですね。
私たちはまず、相手のことを良く見て、お互いに良く見合って、関係を結ぶようにと言われているんです。
自分を見るのではなく、相手を見る。
それも、お互いにそうする。
人間関係を結ぶ。
ただ、「わたしたちを見なさい」と言われたこの人は、「何かもらえると思って二人を見つめていた」とあります。
「何かもらえると思って」、なんですね。
この人の方では、相手との関係を結ぶなんて考えてもいなかったということです。
そういうことというのは当然起こってくることです。
私たちが相手のことを良く見て、相手の状態を良く知って、相手の本当の必要を考えたとしても、相手が自分のことをどういう思いで見ているかは分かりません。
相手は自分のことを、その人の都合でしか見ていない、ということは当然あることです。
というよりも、人間が罪人だというのなら、それが普通ですよね。
ただ、今日の話は、それでもいいんだ、という話です。
二人の弟子は言います。
二人の弟子は、相手の人が物欲しそうに自分を見ているということが分かっていました。
そこで、言います。
「わたしには金や銀はない」。
しかし続けて、「持っているものをあげよう」。
物欲しそうに自分を見るこの人に言ったんですね。
「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。
イエス・キリストによって、この人の本当の必要が満たされるということです。
私たちは、どこかの誰かと人間関係を結ぼうとしても、相手は自分のことをその人の都合でしか考えないということはありえます。
そして、その時、相手の希望にいつも応えることができるかと言われると、そうではないですね。
「わたしには金や銀はない」ということはいろいろな場合にあることです。
しかし、キリストの弟子である私たちは、相手が希望することとは違っても、それ以上の、本当の希望を与えることができるんです。
それが、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」ということなんですね。
そもそも、この時代には障がいは罪の力によって起こると考えられていました。
現代では、障がいを罪だと考える人はまずいないでしょう。
しかし、本当のところ、罪ではないと言えるでしょうか。
重い障がいを抱えた子どもを持つ親御さんは、世間から、自分の子どもに罪があるかのように感じさせられることがあるそうです。
これは30年近く前の話ですが、こういう話を聞いたことがあります。
その人のお子さんは私と同じ世代だったんですが、その子はダウン症だったんですね。
その人は自分の子どもが3歳くらいの時に、自分の子どもに障がいがある、それも、ダウン症としても重い症状であるという診断を受けました。
その時、その人は、「子どもを殺して自分の死のうと思った」と言うんですね。
その話を聞いた時、私は思わず顔を伏せてしまいましたが、どうしてそんなことを考えるのか。
障がいは罪だ。
自分にとっても子どもにとっても。
そういう感覚があったのではないでしょうか。
自分も子どもも世間一般から完全に外れてしまっている。
神から見捨てられたかのような状態。
だから、そんなことを考えてしまったのだろうと、今になって思うんです。
そういう話はめったに聞かないかもしれません。
しかし、神はいない、と思って絶望している人が現実にどれだけたくさんいるだろうかと思うのです。
弟子たちはキリストの名によって障がいに打ち勝つように励ましました。
罪の力に打ち勝つように励ましたということです。
キリストの力によって罪の力に打ち勝たせたんですね。
結局のところ、すべての不幸というものは罪の力によって起こると言えますが、罪の力に勝利したイエス・キリストの救いの力を宣言したということなんです。
それがいつだって私たちのするべきことだということですね。
体が治ったということが大事なのではないんです。
イエス様も体を治すということをしばしばなさいましたが、それは、病気や障がいは罪の力によって起こると考えられていたからです。
イエス様がなさったことは、罪の支配からの解放ですね。
そのためのいやしです。
病気や障がいをいやすことが目的ではないんですね。
罪の支配から人を解放してくださったんです。
私たちもするべきことは同じなんです。
罪が支配している現実はいつでも、どこにでもあります。
その場所で、私たちは、解放の宣言をしていくんですね。
罪の力より神の力の方が強いということを宣言していくんですね。
場合によっては、言葉ではなく行いで宣言するということもあるでしょう。
場合によっては、ただ一言、「大丈夫ですよ」と言うだけのこともあるかもしれません。
場合によっては、ただ相手と共にいるということもあるかもしれません。
とにかく、罪の力よりも強い神の力が、自分を通して相手に及ぶことを信じるんです。
そのためには、私たちがまず、イエス・キリストの救いの力を信じていなくてはなりませんね。
イエス・キリストはどんな罪の力よりも強い。
そのことを信じて、感じて、毎日を生きることです。
そのようにして生きていたからこそ、この場面で、弟子たちはこのように対応することができたのです。
そうすると、何が起こるか。
癒された人は踊り上がって立ち、歩きだしたと書かれています。
それだけではないですね。
この人は、「神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」。
礼拝するようになったということです。
キリストの力はこのように人を変えるんですね。
今日癒されたこの人は、生まれた時から、人からお金をもらって生きるしかなかった人です。
絶望というより、もうあきらめてしまっていたかもしれません。
でも、神はあきらめてないということなんです。
人が神をあきらめても、神は人をあきらめないんです。
これと同じことは私たちにも起こります。
日曜に、教会に向かって歩いている中ででも起こりうることなんです。
どうぞ、皆さん、その時を待ち構えていてください。
信じて行動する時、キリストの力が現れます。
救いが起こります。
心配しないでください。
自分の力で人をいやしなさいと言われているのではありません。
二人の弟子は何と言ったでしょうか。
「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。
キリストの力なんです。
キリストが人を救ってくださるんです。
弟子たちは、知恵を絞ってアドバイスをしたわけではありません。
イエス様のことを説明したわけでもありません。
お金をあげたわけでもないんです。
弟子たちの力ではありません。
神の力が働いたんです。
これについて、ある牧師の話を聞いたことがあります。
苦しんでいる人がいたら、祈ってあげなさい。
そして、「もう大丈夫だ」と言ってあげなさい。
何も起こらなかったらどうしよう、と心配しなくていい。
自分の力じゃないんだから。
神様の力なんだから。
だから、自分に責任はない。
神様が責任を持って、それを実現させてくださいます。