2024年12月23日「クリスマスの背後で」

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クリスマスの背後で

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
創世記 12章34節~56節

聖句のアイコン聖書の言葉

13占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
18「ラマで声が聞こえた。
激しく嘆き悲しむ声だ。
ラケルは子供たちのことで泣き、
慰めてもらおうともしない、
子供たちがもういないから。」
19ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、20言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」21そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。22しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、23ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
創世記 12章34節~56節

原稿のアイコンメッセージ

今日の聖書の場面ですけれども、ヘロデという王様がとんでもないことをやったわけです。
今日の場面のすぐ前の場面で、占星術の学者たちがやってきまして、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」なんて聞いてきたものですから、この王は自分の立場が危うくなるかもしれないと心配になって、こんな大変なことをしたわけです。
自分を守る。
ただそれだけのために、何十人もの小さい子どもを殺したんですね。
この出来事は歴史には記されていません。
しかし、
このヘロデという人は、王になるために自分の親せきを何人も殺したような人です。
そして、この人が死ぬ前には、町の有力者を皆殺しにしたと言われています。
そんな人ですから、20人、30人の小さい子を殺すなんていうことは何でもないことです。
この人のことを知っている人からすると、わざわざ記録するほどのことでもないようなことなんですね。
しかし、これは大変なことです。
突然、理由なく、我が子を奪われた親たちの心はどうだったでしょうか。
今日の場面は言ってみればクリスマスの場面の続きですけれども、クリスマスの裏側で、実はこんな大変なことが起こっていたと聖書は言うんですね。
マリアとヨセフは、幼子イエスの命を守るため、ヘロデの手が届かないエジプトにまで逃げていかなければなりませんでした。
今の言葉で言いますと、一家は難民になったわけです。
そして、ヘロデが死んで帰ってきても、新しい王になったアルケラオという人は父であるヘロデと同じような人でしたから、ベツレヘムに戻ることはできませんでして、ナザレというところに行かなくてはならなかったんですね。
ヘロデの考えていたことは、今の自分を守りたいということでした。
そのために、大変なことを起こしました。
しかしこれはヘロデだけでしょうか。
ヘロデの周りにいた人たちも、同じだったのではないでしょうか。
今の自分を守りたい。
だから、ヘロデに逆らわなかった。
先週の場面で、国会議員たちはヘロデから、救い主はどこに生まれることになっているかと聞かれて答えますけれども、議員たちはヘロデが何をするか分かっていたはずです。
それなのに、あっさりと答えてしまう。
誰かが犠牲になるかもしれない。
でも、とにかく、今の自分を守りたい。
それはヘロデと同じなんですね。
だから、議員たちも、救い主が生まれたと聞いて、その場所を知ったのに、そこに行こうともしない。
そんなところに行ったらヘロデを怒らせることになるに決まっているから。
それに対して、占星術の学者たちは、幼子イエスのところに行って、黄金、乳香、没薬をささげたんでした。
この、黄金、乳香、没薬というのは、占星術の大事な道具であったとも言われています。
つまり、この人たちは、それまでの自分を捨てたんですね。
これはヘロデと正反対です。
今の自分を守りたいなんていう考えはなくて、それまでの自分を捨てて、ささげた。
嫌々そうしたんじゃないですね。
救い主を救い主だと信じたから、もうこれで大丈夫だと、喜んでそうしたんですね。
それは、ヨセフも同じですね。
さらに一つ前の場面になりますが、ヨセフはマリアと縁を切ろうと決心していました。
けれども、神の言葉に従ったんですね。
自分を退けたんです。
自分の考えを捨てたんです。
しかし、ヨセフはそのためにこんな大変な目にあうことになりました。
救い主であるわが子が生まれたということが王に知られて、王が殺しに来る。
それまでの生活をすべて捨てて、難民になって、外国にまで逃げなくてはならなくなる。
聖書は言っているんですね。
神に従うからこそ、苦しみにあうということはあるんですね。
神に従った占星術の学者は喜びにあふれていました。
それはヨセフもそうだったでしょう。
そうでなければ、家族を捨てて逃げ出したでしょう。
けれども、神に従う道は、いつも安全な道であるかというと、そうではないんですね。
神に従う道は神に守られ、用いられる道ですが、楽な道ではありません。
暗闇の世の中で、小さな灯を守るような、そういう働きなんです。
暗闇はいつだって私たちの抱いている光を消そうと働きます。
けれども、聖書は言うんですね。
そんな中でも、神様の約束は実現して行っている。
18節の、かっこの中に入っている言葉は旧約聖書の言葉なんですが、それが実現したんだ、と言うんですね。
つまり、このことも、神様の救いの計画が前進するために起こったことなんだ、と聖書は言っているんですね。
「子どもたちがもういない」、ということで、今日起こったヘロデによる虐殺の出来事を指しているわけですが、この個所を旧約聖書で見ますと、その昔起こった、国を滅ぼされて、人々が連れ去られるという出来事を記している個所になります。
ここに書かれている「ラマ」というのはエルサレムの北のあたりで、人々はここに集合させられ、外国に連れていかれたんでした。
「ラケル」には子どもがもういない、ということですけれども、このラケルというのはイスラエルの先祖で、この人とこの人の姉のレアから、イスラエルの12の部族の先祖が生まれたんですね。
つまり、国を滅ぼされて、イスラエルの子どもたち、神の民である子どもたちは皆、外国に連れていかれたということを書いているんです。
このままでは、神の民は滅んでしまう。
しかし、どうしてここの個所を、このヘロデによる虐殺の場面を語る時に引用してきたのでしょうか。
引用されたこの個所は旧約聖書のエレミヤ書なんですが、今日引用されているところのすぐ後、エレミヤ書31章16、17節には、こういうことが書かれているんですね。
「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。
苦しみの向こうに希望がある。
苦しみは苦しみでは終わらない。
これから、救いの出来事が起こる、ということなんですね。
そして、エレミヤ書31章31節からのところでは、新しい契約について語られます。
新しい契約ということは古い契約があったわけですが、人々が神様と結んだ古い契約を人々は破りました。
神の言葉に従わなかったんですね。
そのために、国が滅ぼされて外国に連れていかれるという大変な目にあいました。
しかし、それで終わりではないんですね。
これから新しい契約が与えられるんです。
暗闇の中に光が与えられるんです。
その光がすでに与えられているのが占星術の学者たちです。
喜びにあふれて、それまでの自分を捨てて、違う生き方をしはじめた。
自分で自分を守る、そのためには何だってする、という生き方ではなく、自分を神にささげて、神に用いていただく。
そのような新しい生き方にこそ、喜びがあるんだ、と聖書は言うんですね。
これ、占星術の学者たちが何か特別な人ではないんですね。
この人たちだってもともとは、今の自分を守りたい、という人ですよ。
だって、そうじゃないんだったら、占星術なんてしないですから。
むしろ、自分を守りたいという気持ちが普通の人より強い人だったかもしれない。
でも、自分をささげると、喜びにあふれる。
それが、この人たちがした礼拝だったんですね。
その礼拝を、私たちも今、しているんです。
私たちは、神に出会い、神の言葉を聞くためにここに来ました。
私たちだって、自分を退けたから、ここにいるんですね。
そうでなかったら、どこか他のところへ行って、好きなことをしていたでしょう。
私たちにも今、光が与えられているんですね。
幼子イエスが私たちのふところにいると言ってもいい。
そのために大変な目にあうということはあるわけです。
ヨセフがそうでした。
しかし、今日、聖書が語っている大事なことは、どんな大変なことがあっても、神の救いの働きは約束の通りに実現していくということなんですね。
今日の23節にも、旧約聖書の言葉が引用されています。
世の暗闇に揺さぶられているような一家ですが、しかしそれでも、予定通りに、神様の働きは前に進んでいるんですね。
暗闇は深いです。
けれども、どんな暗闇も、光を消すことはできません。
光は暗闇を消すことができますね。
でも、暗闇は光を消すことはできないんです。
それどころか、光は広がっていこうとしていますね。
占星術の学者は外国人、異邦人です。
神の民イスラエルのメンバーではないんです。
あるいは、今日、一家は最後にガリラヤ地方のナザレに行って住みましたが、ガリラヤは辺境の地で、異邦人の土地だとみなされることもある場所でした。
神の働きは、もう、今にもあふれ出ようとしている。
ではそこにおいて、キリストはどのような神の働きをなさるのでしょうか。
それが今日の15節ですね。
ここもカッコの中は旧約聖書の言葉です。
「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。
これは旧約聖書の前から2番目の本である、出エジプト記の出来事を指しています。
その昔、イスラエルの人々はエジプトで奴隷にされていたんですが、神様はモーセを選んで立てて、奴隷であったところから導き出したんですね。
まさにそのような働きをイエス様はすることになる、ということを暗示しているんですね。
人々が、神に従うことができず、不安と恐れの奴隷、暗闇の奴隷であるところから、光の中へと導き出すんですね。
幼い頃のイエス様と両親のことを見ているだけで、もう、イエス様がこれからどういう働きをするのかが分かる、と今日の場面は言っているんです。
そして、今こうして礼拝している私たちも、その働きに関わっていくんですね。
その中で、苦しみはあります。
ヨセフはこんなことになるだなんて想像もしなかったんじゃないですか。
想像もしないようなことが起こることというのはあるんです。
ですけれども、今日の場面は何と言っていますか。
想像もしないような大変なことが起こったとしても、神様の救いの働きは確かに前進していっているんだ、と言っているんですね。
ですから、私たちも、それを信じて、前に進みたいと思います。
大変なことは必ずあります。
もし、私たちが、神様の働きに関わっていくのなら。
ただ、イソップ童話にこのような話があります。
世界中をまわっている旅人が、ある町外れの一本道を歩いていると、一人の男が道の脇で難しい顔をしてレンガを積んでいた。
旅人はその男のそばに立ち止まって、「ここでいったい何をしているのですか?」と尋ねた。
「何って、見ればわかるだろう。
レンガ積みに決まっているだろ。
朝から晩まで、俺はここでレンガを積まなきゃいけないのさ。
あんた達にはわからないだろうけど、暑い日も寒い日も、風の強い日も、日がな一日レンガ積みさ。
腰は痛くなるし、手はこのとおり」。
男は自らのひび割れた汚れた両手を差し出して見せた。
「なんで、こんなことばかりしなければならないのか、まったくついてないね。
もっと気楽にやっている奴らがいっぱいいるというのに……」。
旅人は、その男に慰めの言葉を残して、歩き続けた。
もう少し歩くと、一生懸命レンガを積んでいる別の男に出会った。
先ほどの男のように、辛そうには見えなかった。
旅人は尋ねた。
「ここでいったい何をしているのですか?」。
「俺はね、ここで大きな壁を作っているんだよ。これが俺の仕事でね」。
「大変ですね」。
旅人はいたわりの言葉をかけた。
「なんてことはないよ。
この仕事のおかげで俺は家族を養っていけるんだ。
ここでは、家族を養っていく仕事を見つけるのが大変なんだ。
俺なんて、ここでこうやって仕事があるから家族全員が食べいくことに困らない。
大変だなんていっていたら、バチがあたるよ」。
旅人は、男に励ましの言葉を残して、歩き続けた。
また、もう少し歩くと、別の男が活き活きと楽しそうにレンガを積んでいるのに出くわした。
「ここでいったい何をしているのですか?」。
旅人は興味深く尋ねた。
「ああ、俺達のことかい?
俺たちは、歴史に残る偉大な大聖堂を造っているんだ!」。
「大変ですね」。
旅人はいたわりの言葉をかけた。
「とんでもない。
ここで多くの人が祝福を受け、悲しみを拭われるんだ。
素晴らしいだろう!」。
旅人は、その男にお礼の言葉を残して、また元気いっぱいに歩き続けた。
どの道、大変なことに変わりはありません。
いやこれは、神様の働きに関わっていなかったとしても、どの道、生きるということは大変なことです。
生きていると必ず大変な思いをすることになります。
ただ、その時私たちが、神様のご計画の一端を担っているとしたら、どうでしょうか。
手がひび割れようとも、私たちは、歴史に残る偉大な大聖堂を作っていることになるのです。
私たちはただレンガを積んでいるのではない。
大きな壁を作っているのでもない。
神の救いの御業に加わっているんです。
そして、どんな大変なことがあろうとも、幼子イエスと共にいたヨセフとマリアが守られたように、神様はイエス様と共なる私たちを必ず守り、救いの働きを前進させてくださいます。
私たちは今日、その約束の御言葉を聞いたのです。

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