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2024年12月09日「魔術師たちのクリスマス」

魔術師たちのクリスマス

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
マタイによる福音書 2章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

1イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」3これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。4王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。
お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
7そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 2章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

イエス様は「ヘロデ王の時代に」お生まれになった、と聖書は伝えています。
これが最初のクリスマスだったわけですね。
しかし、クリスマスの場面として、今日の場面はどうでしょうか。
何かこう、非常に暗い雰囲気ですね。
イエス様はそのような時代にお生まれになりました。
このヘロデ王という人が実は大変な人だったんですね。
この人は、残酷な王であったということで歴史に名前を残しているような人です。
自分が王になるために何人もの人を殺しています。
自分の立場を守るためにも、自分の親せきも次々に殺したような人なんです。
ついでに申し上げると、この人は自分が死ぬ直前には、エルサレムの町の有力者を皆殺しにしたと言われています。
自分を守るためならどんなことでもする、という人だったんですね。
自分を守るためなら人を殺しても構わない、という人だったんですね。
もう、こういう人にだけは王になってほしくない、という人だったんです。
その人のところに、占星術の学者たちがやってきました。
そして、この人たちはヘロデに対してまずい言葉を言ってしまいますね。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」。
これはまずいですね。
ヘロデは自分だけが王だと思っているんですから、そんなことを言ったらヘロデはもうびっくりして、今度は誰を殺すだろうか、という話です。
「ヘロデ王は不安を抱いた」と書かれていますけれども、このヘロデという人は不安を抱えて黙っているような人ではないんです。
ですので、それを知って、エルサレムの人々も皆、不安になってしまったということですね。
4節で、ヘロデが国会を開きます。
「メシアはどこに生まれることになっているか」。
それを議員たちに聞くんですね。
メシアというのは、旧約聖書に預言されていた救い主のことです。
ヘロデは、占星術の学者たちが言っていたことは救い主のことだと気づいているんですね。
「ユダヤ人の王」と聞いただけでしたが、遠く東の外国からわざわざ占星術の学者たちが訪ねてきたので、これは旧約聖書に預言されていた救い主のことに違いないと気づいたんですね。
そのヘロデの質問に対して、議員たちは答えます。
ですけれども、これは問題ですね。
そんなことをまともに答えてしまったら、ヘロデが何をするかは分かるはずです。
実際、この後どうなったかというと、16節ですね。
ベツレヘムとその周辺にいた2歳以下の男の子を皆殺しにしたんですね。
どうして2歳以下なんだ、と思うかもしれませんが、今日の7節で、ヘロデは占星術の学者たちに、メシアが生まれたしるしの「星の現れた時期を確かめた」と書かれていますので、その星が現れたのが2年前ということだったのかもしれません。
次の8節で、ヘロデは、「わたしも行って拝もう」なんて言っていますが、もちろんそれは本心ではありません。
見つけたら殺すつもりです。
それは最初から分かっていることなんですから、議員はヘロデの質問に答えるべきではなかったんです。
第一、この議員たちは、もし救い主が生まれたというのなら、自分がそこに行くべきではないでしょうか。
行って礼拝するのが正しいことではないでしょうか。
でも、行こうとしないんですね。
ヘロデが恐ろしくて、救い主が生まれたと言っても、何もすることができない。
これは、恐れというものの恐ろしさですね。
自分のしていることが正しくない、間違っていると分かっていても、できない。
恐れに支配されてしまって、自分を守ることしか考えられない。
それはヘロデも同じだったでしょうね。
自分の立場が危うくなるかもしれないという恐れに支配されて、自分を守ることしか考えられないんです。
これは私たちも心したいですね。
恐れに支配されて、自分を守ることしか考えなくなると、もう、キリストのところに行くことはできないと聖書が言っているんです。
ヘロデも、議員たちも、町の人たちも、みんなそうだったんですね。
それに対して、占星術の学者たちはイエス様に向かっていきます。
神の民であるユダヤ人が恐れにとらわれて何もできないでいるんですが、外国の、それも占星術の学者が、イエス様に向かって進んでいくんですね。
これは大変なことです。
何しろ、学者といいましても、ここに書かれている学者という言葉は原文では「マギ」という言葉でして、魔術師を意味する言葉なんです。
神の民が自分のことしか考えていないのに、外国人の魔術師がイエス様のところに行こうとしているんです。
そこに、再び星が現れます。
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」んですね。
喜びなんです。
イエス様に向かう時には、喜びがあると聖書は言っているんです。
それに対して、イスラエルの人々は恐れですね。
自分を守ろうとする時には、人は恐れに支配される。
けれども、この魔術師たちは救い主に会えるという喜びにあふれているんです。
幼子キリストに出会った学者たちは、ささげものをします。
「黄金、乳香、没薬」ですね。
どれも高価なものですが、じつはこれらは占星術の道具だったとも言われています。
だとすると、この人たちは、自分の一番大事なものをささげたんです。
それまでの自分自身の生き方をささげたんです。
学者たちは帰っていきます。
しかし、その道は、来た時とは別の道なんですね。
これはもしかすると自分を危険にさらすことかもしれません。
何しろ、ヘロデから、「見つかったら知らせてくれ」と言われているんですから。
しかし、学者たちはもう、同じ道は歩まないんです。
考えてみると、占星術というのは、星の動きによって、普通には知ることができないいろいろなことを知ろうとすることですよね。
それは、要するに、それでもって自分を守ろうとしていたということです。
星の動きから情報を得て、自分を守ろうとする、それを仕事にしていた人たちです。
けれども、この人たちはもう、「黄金、乳香、没薬」をささげてしまいました。
救い主に全てささげたんですね。
そして、別の道を通っていくんですね。
彼らはその道を、恐れながら歩いたでしょうか。
そうではないでしょうね。
救い主が自分を守ってくださる。
その思いで、喜びにあふれて歩いて行ったはずです。
救い主に自分をささげる時にこそ、不安を抜け出せるんですね。
自分の力も、占星術の知識も、本当の意味で自分を守ってくれるものではない。
本当に守ってくれるのは救い主だ。
聖書はそう言うんですね。
私たちを恐れから救い出してくれるのは救い主キリストだということなんです。
そして、これは神様からのメッセージです。
この場面での星の動きから、これが神様からのメッセージだと分かります。
9節で再び現れたと書かれていますけれども、東の国では見えていたわけですよね。
星が消えたり現れたりしているんです。
そして、星が道案内をしてくれて、幼子キリストの家で止まったんですね。
星が動いたり止まったりしているんです。
そんな星はありません。
神は言っているんですね。
救い主の前に進み出なさい。
そうすれば、恐れはなくなる。
この占星術の学者たちに学びたいですね。
この人たちは星の専門家ですよ。
だとしたら、星がこんな動きをしたら、普通は不安になりますよね。
自分の常識がひっくり返されるような出来事なんですから。
けれどもここで、占星術の学者たちは、自分の考えを捨てて、神のメッセージを受け入れたんですね。
そこに、喜びがあふれてくるんです。
私たちも、ならいたいですね。
私たちも、自分の考えを捨てて、神様のメッセージを受け入れたいと思います。
自分の「黄金、乳香、没薬」を主にささげたいと思います。
自分を守るためのものを捨てたいんですね。
捨てると言いますか、それをキリストにささげたいですね。
そして、救い主に守っていただきたいですね。
私たちそれぞれに、自分の心に聞いてみたいですね。
何が自分の「黄金、乳香、没薬」でしょうか。
私たちみんな、きっと、何かそういうものを持っていると思うんです。
それを差し出したいですね。
何しろ、今、私たちは、礼拝をしているじゃないですか。
救い主イエス様を礼拝しているんですね。
私たちは、イエス様を礼拝した占星術の学者と同じところにいるんです。
今、「黄金、乳香、没薬」をささげましょう。
そして、別の道を通って帰りましょう。
もう、ヘロデの元には戻らない。
ヘロデに従わず、イエス様に従う道を行きましょう。
その道こそ、恐れから自由になる道、喜びにあふれる道です。

『宇宙からの帰還』という本があります。
この本は、立花隆という人が書いた本ですが、宇宙飛行士12人に取材して書いた本です。
占星術師ではなく、宇宙飛行士なんですが、占星術も聖書の時代には最先端の科学でした。
宇宙飛行士もそうですね。
この本の中で立花隆が取材した一人に、ジム・アーウィンという人がいます。
アメリカの宇宙飛行士で、1971年にアポロ15号での月面着陸に参加しました。
そして、この人は退役後に牧師になったんですね。
ジム・アーウィンはこのようなことを言っています。
「宇宙飛行まで、私の信仰は人なみ程度の信仰だった。
人なみの信仰と同時に、人なみ程度の懐疑も持っていた。
神の存在そのものを疑うこともしばしばあった。
しかし、宇宙から地球を見ることを通して得られた洞察の前にはあらゆる懐疑が吹き飛んでしまった。
神がそこにいますということが如実にわかるのだ。
このような精神的内的変化が宇宙で自分に起きようとは夢にも思っていなかったので、正直いって、私は自分で驚いていた」。
「宇宙船の窓から小さくなっていく地球を眺める……。
そして、宇宙と地球と自分を見くらべてそこに神の恩寵を感じ取る。
そういう洞察と、月にいるときに得た神がそこにいるという実感とはまた別のものなのだ。
その臨在感は、知的認識を媒介にしたものではない。
もっと直接的な実感そのものなのだ。
私がここにいて、きみがそこにいる。
そのときお互いに相手がそこにいるという感じを持つだろう。
それと同じなんだ。
わかるかな」。
「すぐそこにいるから、語りかければ、すぐ答えてくれる。
きみと私がこうして語り合えるように、神と語り合える。
人はみな神に祈る。
さまざまのことを祈る。
しかし、神に祈ったときに、神が直接的に答えてくれたという経験を持つ人がどれだけいるかね……。
すぐには何も答えない。
それが普通だ。
神と人間の関係はそうしたものだと私も思っていた。
しかし、月ではちがった。
『祈りに神が直接的に即座に答えてくれるのだ。』」
この、ジム・アーウィンさんの体験は、誰もができるものではありません。
ですので、私たちが聞いても、実感を持って理解することが難しい話ではあります。
また、宇宙飛行士の中に、同じようなことをいう人はたくさんいますが、自分は何も感じなかったという人もいます。
ただ、今日の話で、占星術の学者たちが、彼らの道において、神に出会ったように、宇宙飛行士が宇宙で神に出会うということもあるということなんです。
そして、牧師になるということもあるということなんですね。
何も牧師になることが偉いわけではありません。
ただ、この人は、今日の魔術師たちと同じように、喜んで生き方を変えた。
大事なことは、私たちが、どのような道を歩んでいたとしても、ある面で私たちが、神様と全く関わりのない道を歩んでいるように思える面があるとしても、その道において神様が出会ってくださり、私たちが恐れの道から喜びの道に移し替えられるということはあるということなんです。
占星術の学者が占星術をやっている中でも神は出会ってくださいます。
宇宙飛行士が宇宙に出て行ったところでも神は出会ってくださいます。
神が私たちに出会ってくださらないということはないんです。
私たちも、私たちの黄金、乳香、没薬をささげて、喜びの道を歩ませていただきたいと思います。

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