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2024年12月03日「ヨセフのクリスマス」

聖句のアイコン聖書の言葉

18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 1章18節~25節

原稿のアイコンメッセージ

今日が、今年最初のクリスマスの場面を読む日ですね。
クリスマスと聞きますと、ロマンチックな気分になるかもしれません。
ただ、私たちは、聖書を通してクリスマスの出来事を知らされているんですね。
そして、聖書というのは本ですね。
文献です。
そして、聖書には、ある決まった読み方があります。
旧約聖書の言葉、ヘブライ語で、パルデスと呼ばれている読み方なんですね。
どのような読み方なのかと言いますと、掘り下げて読む、という読み方なんですね。
聖書を、四段階に掘り下げて読むんですね。
まず、最初の段階、一番表面的な段階ですね。
その第一段階では、書かれてあることを、まず、文字通りに読みます。
どんな文章でも、読解というのはそこからしか始まりませんね。
ただ、文字通りに目を通しただけでは、理解したことになりません。
ですので、ここから掘り下げていくんですね。
第二段階で、文字通りにはこういうことが書かれているんだけれども、これは何を暗示しているんだろうか、と考えます。
例えば、誰かが誰かに、「今日は寒いですね」と言ったとします。
文字通りには、「今日は寒い」ということを言っているだけなんですが、もしかするとそれは、「ヒーターをつけてくれ」ということなのかもしれないですね。
あるいは、話しかけられた人は全然寒いと思っていなかったかもしれない。
そうなると、寒いと言ったその人は、風邪をひいているのかもしれないですね。
文字通りにはこういうことなんだけれども、そこに何かが暗示されているかもしれない。
それを掘り下げて考えるのが第二段階です。
その次の、第三段階において、意味をつかみ取ることができます。
文字通りにはこういうことだけれども、それは何を暗示しているのか、そして、そのようなことを暗示しなければならないのは何故なのか、これが意味ということなんですね。
そして、礼拝での説教というものは、この第三段階においてなされるものなんですね。
掘り下げて取り出した意味を伝えるのが、説教です。
ただ、この聖書の読み方というものは、特別に珍しいものでもないと思います。
私たちが、例えば小説を読む時、まず最初に文字通り読んでいくわけですが、読みながら、色々なことを考えるわけですね。
このようなことが書かれているが、これは何を暗示しているのか。
それによって作者は何を言いたいのか。
結局、私たちが普段文章を読む時に無意識にやっていることですね。
新聞を読む時でも同じですね。
ある事柄について新聞に書かれている。
この事柄は、今がどんな時代であることを暗示しているのだろうか。
そして、この新聞社は、これを伝えることによって、何を言いたいのだろうか。
掘り下げて読むわけです。
ただ、聖書を読む場合には、最後の第四段階に、奥義という層がありまして、これは、限界のある人間が、神の御心を極めつくすことはできないということです。
そして、この読み方をヘブライ語でパルデスというのですが、文字通りというのはヘブライ語でペラシャー、暗示というのはレメズ、意味というのはデラーシュ、奥義というのはソッドで、ペラシャー、レメズ、デラーシュ、ソッドの頭文字を取ってPRDSでパルデスとなりまして、これが英語になるとパラダイス、となるんですね。

さて、クリスマスと聞きますと、ロマンチックな気分になりますが、最初のクリスマスはこの通り、ロマンチックでも何でもなかったんですね。
また、途中で天使が出てきますので、そこでいきなり現実的でなくなってしまうような気もします。
しかし、聖書を読むということは、そういうことではないんですね。
聖書は気分で読むものではありません。
掘り下げて読むものです。
今日の話は、イエス様が生まれてくるにあたって何があったのか、という話ですね。
それを、掘り下げて読んでいったところに、どんなことが見えてくるか。

イエス様が生まれてくるのは最後の25節なんですが、そこに行きつくまでにいろいろなことがありました。
何しろ、神の子が人間として生まれてくる、というのがクリスマスです。
ですけれども、普通の両親から普通に生まれてきたと言うんだったら、その子はごく普通のただの人間なんですよね。
ごく普通のただの人間に、人を罪から救うなんていうことができるでしょうか。
今日の21節に書かれていますが、人を罪から救うのがイエス様の役割です。
ただの人にそんなことはできません。
そもそも、聖書で救うと言ったらそれは神の働きです。
ですから、イエス様は普通の生まれ方で普通の人間に生まれてくるわけにはいかないんです。
しかしここで逆に考えまして、神様はどんなことでもできるわけですから、お父さんもお母さんもなしに、いきなりイエス様をポンと地上に置いても良いわけですよね。
これはイエス様も言っていることなんですが、神は石ころからでも人を作ることができる。
でもそれもまずいんですね。
今日の場面の直前に、イエス・キリストの系図が出てきていまして、カタカナで名前がずらーっと並んでいますけれども、旧約聖書の昔から、救い主というのはダビデという王様の家系に生まれてくることになっていました。
ですから、ちゃんと親がいなくてはならないんですね。
そしてその親は、ダビデという王様の子孫でなければならないんです。
こうなると問題がややこしくなってきましたね。
イエス様は人間の親から生まれてこなくてはならないんですが、でも、普通の生まれ方ではいけないんです。
では、神様はその問題にどういう答えを出したか。
それが今日の場面です。
今日の場面ですが、主人公はヨセフですね。
イエス様の父親にあたる人です。
けれども、結婚前に大変なことが明らかになりました。
18節の後半にこう書かれていますね。
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。
ヨセフにとってこれほど大変なことはありません。
自分の婚約者が、自分以外の何者かによって身ごもったんですね。
皆さんがヨセフだったとしたら、どうなさるでしょうか。
これは、当時のイスラエルでは、本当に大変なことだったんです。
このことが起こったのはヨセフとマリアが婚約していた時だったわけですが、当時のイスラエルでは、婚約というのはほとんど結婚と同じことだったんです。
婚約と結婚の違いは、一緒に住んでいるか、まだ一緒に住んでいないかの違いだけで、法律的には同じように扱われました。
だから今日の場面でも、まで結婚していないのに、ヨセフのことが夫と言われていて、マリアのことが妻だと言われています。
婚約と結婚は同じことだったんですね。
ですので、こういうことが起こると、裁きを受けることになります。
そして、このような罪の場合、判決は死刑になります。
マリアは、石で打たれて殺されることになります。
そこで、もう一度質問なんですが、皆さんがヨセフだったとしたら、どうなさるでしょうか。
まず怒るでしょうか。
それとも何も考えることもできなくなってしまうでしょうか。
そしてその後、どうするでしょうか。
ここで、マリアの側に立って考えてみると、「自分は聖霊によって身ごもったんだ、神の力によって自分のおなかに子どもが宿ったんだ」と言うこともできます。
ルカによる福音書の1章には、マリアの前に天使が現れて、聖霊によって身ごもるということが予告される場面があります。
マリアは自分がどうして身ごもったのかということを知っているんですね。
マリアはそれを正直にヨセフに伝えることもできます。
けれども、そう言ったところでヨセフは信じるでしょうか。
普通に考えれば、マリアがヨセフを裏切ったとしか考えられない状況です。
ここでもし仮にマリアが「わたしは罪を犯しました。ゆるしてください」と言えば、ヨセフはマリアをゆるしたかもしれません。
しかし、それは事実ではありません。
マリアは罪を犯してはいません。
「わたしは罪を犯しました。ゆるしてください」、そんなことを言ってしまえば、それこそ、マリアは神の御心に背いたことになります。
ですから、マリアとしては何も言えません。
こういうことですから、事情が分からないヨセフは本当に苦しんだと思いますね。
そして、ヨセフは一つの決心をします。
19節です。
「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。
ヨセフは正しい人だったんですね。
だから、間違ったことを見過ごすことはできない。
けれども、そこですべてを表ざたにして、マリアを訴えるということはしなかったんですね。
マリアを訴えれば、ヨセフとしては、自分の名誉を守ることができます。
自分中心に考えれば、それだって正しいことです。
けれども、そうはしなかった。
ヨセフは、マリアの命とお腹の子どもの命を守ろうとしたんです。
自分の名誉を犠牲にして、命を守ろうとしたんです。
しかし、そのために、ヨセフは大きな苦しみを受け入れなければなりませんでした。
ただ、考えてみますと、ヨセフがマリアと離婚したとしても、その後、どういうことになるでしょうか。
もしかしたらマリアは、離婚した後、自分一人で子どもを産むかもしれません。
そうなると、周りの人たちはヨセフのことをどんなふうに見るでしょうか。
「あのヨセフという男は、子どもを身ごもらせておいて、結婚しなかった。責任を取らなかった」。
周りの人たちはそういうふうに言うに違いありません。
もうそうなると、もうヨセフの名誉はまるっきり傷つけられてしまうことになります。
私たちにとってクリスマスというのは喜びの季節ですが、ヨセフにとっては喜びなんかではないんですね。
ヨセフは想像もできないほど苦しんだと思います。
そして、耐えられないようなことを受け入れなければならなかったんですね。
この時ヨセフはマリアに裏切られたと思っていたことでしょう。
深く傷ついたでしょうし、激しい怒りを感じることもあったでしょう。
その怒りのままにマリアを訴えて死刑にしたとしても不思議ではありません。
何しろ、夫を裏切ったら死刑だというのは、旧約聖書に書かれていることなんです。
そして、そのようにするなら、自分の気持ちも少しは楽になるでしょう。
けれども、ヨセフはそうしなかったんですね。
自分を犠牲にしてでも命を守りたい。
それは苦しい決断でした。
クリスマスの裏側には、こんな大きな苦しみがあったんです。
その苦しみは、決心した後にも、夢にまで見るほどの苦しみでした。
私たちも苦しみの果てにその夢を見るということがありますけれども、ヨセフもそこまで苦しんだんですね。
けれども、今日の御言葉は私たちに教えてくれています。
私たちが誠実であるために苦しみ、その苦しみを受け入れる時、神様が私たちに出会ってくださるんですね。
私たちがヨセフのように苦しみを受け入れる時、その時神様は私たちに出会ってくださるんです。
ヨセフの夢の中に天使が現れます。
そして、ヨセフにとって到底受け入れられないようなことが言われます。
受け入れられないようなことを決心していたヨセフに、受け入れられないようなことが言われるんですね。
「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。
夢の中でこれを聞いた時、ヨセフは最初、どんなふうに反応したでしょうか。
自分を裏切ったとしか思えないマリアを迎え入れる、そんなことはできません。
しかも、その子をイエスと名付けなさいと言われています。
名前を付けるというのは自分の子どもであると認知するということです。
それは事実ではありません。
その子はヨセフの子どもではないんです。
そんなことはできません。
普通に考えれば、こんな話を受け入れる必要はありません。
けれども、ヨセフは、すべて、言われたとおりにするんですね。
苦しみぬいた上での自分の決心をすべてひっくり返して、すべて、言われたとおりにしたんです。
この人は自分の考えにこだわらなかった。
夢なんだということで無視してもいいのに、そうはしなかった。
それが神の御心だと受け止めて、自分の考えを捨てて、神の御心を受け入れた。
ヨセフがそのような人だったからこそ、イエス様はヨセフの子どもとして生まれてくることができました。
それによって一つのことが実現しました。
今日の場面の直前にはキリストの系図が記されています。
この系図、これはヨセフの系図なんです。
つまり、ヨセフがイエス様を自分の子どもであると認めてくれたから、イエス様はそこに名前を連ねることができたのです。
最初に申し上げましたが、これは意味のあることなんですね。
救い主はダビデという王様の家系に生まれると旧約聖書に預言されていたからです。
だからこの系図の1章の6節に、ダビデの名前が出てきています。
夢の中でも天使はヨセフに「ダビデの子」と呼びかけていました。
ヨセフ自身は普通の町の人で、仕事は大工さんなんですが、ダビデの子孫の一人なんですね。
逆に言って、イエス様からすれば、ダビデの子孫であれば誰でも良いわけです。
けれども、ここでヨセフが選ばれたのは良く分かりますよね。
誰か他に、このようなことを受け入れることができる人がいるでしょうか。
このヨセフという人が「正しい人であった」と言われるのは、そういうことでしょうね。
自分の思いを捨てて神の言葉に従う人だったということなんですね。
だからこそ、神様はヨセフを選んで、神の子イエス様をこの人にゆだねたんです。
これがクリスマスの出来事です。
神様が人間にゆだねたんです。
神の独り子をたくしたんです。
その時、その人は大きな苦しみに突き落とされました。
どう考えても良い解決は有り得ないような状況に突き落とされました。
しかし、その状況で、誠実に苦しみぬいて、苦しみを受け入れて、最後には自分の思いを捨てて、御心に従った。
そして、そこから、神様の救いの業が始まっていったということなんです。
そうして、今日の23節の言葉、これは旧約聖書のイザヤ書7章14節の言葉ですが、旧約聖書の預言が実現していくんですね。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。
インマヌエルというのは、「神は我々と共におられる」という意味です。
神様が私たちと共にいて下さる、神様が高いところから私たちを見下ろしておられるのではなくて、この地上に来てくださる、私たちの中に、私たちの間にいてくださるということが実現したんです。
「神は我々と共におられる」。
この言葉の意味は、単に、神様が共にいて私たちを守ってくださる、助けてくださるというだけのことではありません。
神様は私たちに、ご自分の業をゆだねてくださるんです。
その結果、「神は我々と共におられる」ということになっていくんですね。
つまり神様は私たちに賭けているんです。
私たちが苦しみを受け入れて御心に従うはずだと、私たちに賭けておられるんです。
ご自分の業を、ご自分の命までも、私たちにたくしておられるんです。
私たちは、御心を受け入れることができるでしょうか。
私たちには皆それぞれに苦しみがあります。
そういう時ほど、私たちは自分の考えにこだわります。
けれどもその時、自分の考えを捨てて、自分の側ではなく神様の側につくことができるでしょうか。
神様はそのことを私たちに願っておられるんです。
私たちが思い悩む時、苦しむ時、神様は、私たちに、神様の業を共に担ってほしいと願っておられるんですね。
そして、そこから、神の業が始まっていくんです。
そしてその神の救いの御業の中に私たちは入れられているんです。
その私たちに、今日、言われているんです。
神の業を共に担ってほしい。
一緒に働いてほしい。
その御心を受け入れる時、今日見た通り、本当の意味でインマヌエル、「神は我々と共におられる」ということが実現するんだと思います。
信仰の旅路というのは時として楽なものではありません。
信仰があるからこそ、苦しむこともあります。
けれども私たちが苦しむ時、神様は私たちに神の業をゆだねておられるんですね。
神様の側に付きましょう。
実際、もう、私たちは神様の側に付いているじゃないですか。
ここに集まって、クリスマスを祝っているじゃないですか。
私たちは、もうすでに神様の側にいる。
今日、天使がヨセフに言っていました。
私たちは恐れることはないんですね。
私たちがどんな苦しみを経験するにしても、インマヌエルの神様が私たちと共におられる。
そのために神様は命がけでご自分を人間にゆだねて、私たちのところに来てくださったんです。
だから私たちは、信じることができる。
私たちが苦しみを受け入れる時、神様は私たちと共におられる。
恐れずに、歩み出しましょう。
その私たちを、神様は必ず守り、助けてくださいます。

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