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2024年11月28日「さあ、立て。ここから出かけよう。」

さあ、立て。ここから出かけよう。

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章25節~31節

聖句のアイコン聖書の言葉

25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。30もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。31わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 14章25節~31節

原稿のアイコンメッセージ

まず最初に、イエスは「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した」と言っています。
この最後の晩餐の席で、今までにもイエスは色々なことを話してきましたが、特に今日、イエスが意識しているのは、今日の28節のことでしょうね。
28節で、「『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた」と言っています。
イエスがこれから、弟子たちの前からいなくなるわけです。
けれどもそれはずっといなくなるのではなくて、しばらくすると戻ってくる、とイエスは約束しておられるんですね。
そのことを、どうして今、私はそれをあなたがた弟子たちに言ったからね、と繰り返し確認しているのかというと、その理由が29節です。
「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」。
今、弟子たちに話しても、今の弟子たちには何も分かりません。
しかし、後になってから、分かるようになります。
後になってから、イエスが言っていたことは本当だった、と分かるようになります。
そうなるように、今の内に話をしているわけです。

ただ、後で分かるようになるというのは、弟子たちが自分の頭で考えて分かるようになるということではありません。
26節で、このように言われています。
「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。
弟子たちが理解できるようになるのは、聖霊の力によるんですね。
弟子たちは今、イエスの話を聞いてはいるわけです。
けれども、良く分からないでいる。
聞いたけれども良く分からなかった話というのは、後から自分で思い起こすということもあまりないでしょう。
そもそも、良く分からない話というのは、部分的にしか記憶に残らないということもあるでしょう。
けれども、聖霊がそれを全て思い起こさせてくださり、しっかり分かるように教えてくださるということですね。

実際、弟子たちは、後になってから、イエスの話を思い起こすことになります。
その場面に、必ずしも聖霊という言葉は出てきませんけれども、それが実は聖霊の働きなのだというのが今日の話なんですね。
聖霊の働きというと、良く分からないという方もおられますし、また別に、聖霊の働きというと、何か衝動的に私たちに作用するようなイメージを持っておられる方もおられるかと思いますが、今日のところで言いますと、聖霊の働きというのは、イエスの言葉を思い起こさせ、理解させてくださる働きだということなんですね。
だからここでも、聖霊のことがまず、弁護者と呼ばれているんですね。
この弁護者という言葉は原文では「そばに呼ばれた者」という言葉で、法律家としての弁護士を指す言葉でもあるのですが、要は、私たちの側に来て、私たちを助けてくれるわけです。
そしてそれは、法律家としての弁護士と同じで、言葉の面で私たちを助けてくれるということなんですね。
イエスの言葉を思い起こし、理解することができるようにしてくださるということなんですね。
そして、今まさに、この礼拝において、聖霊は私たちにおいて働いてくださっているということもできます。
私たちは今こうして、イエスの言葉を、理解できる言葉として聞いているわけです。
この言葉が語られた当時には、現場で聞いていた弟子たちも理解できなかった言葉を、私たちは理解することができる。
これが聖霊の働きなんです。
聖霊の働きがまず説教を書こうとする説教者に及んで、それから、この説教の現場で聴衆にも及んで、礼拝での説教が成立しているんですね。
それは私にとってはある意味で非常にリアルな話です。
説教を準備する時、まず最初に、聖書のその個所を読むのですが、最初に一回読んだ時の印象と、実際に書き上げた説教というのは、全く違うんですね。
そういう文章というのはあまりありません。
何度も読む本というのも他にありますけれども、何度読んでも印象は普通変わりません。
でも、聖書の場合は違うんですね。
最初に読んだ印象と、出来上がった説教はたいてい別物なんです。
また、今、私がそれをこうして説教しているわけですが、皆さんの多くはそれを普通に理解できているのでしょうが、もし、聖霊が働いていない人がいたとしたらどうでしょうか。
聖霊が働いていない人が、たまたまこのYouTubeライブ配信を見て、ずっと聞いていたとしたら、どうでしょうか。
何か不可思議な話をしているとしか思わないわけです。
ですから、まさに今ここに、聖霊の働きがある訳です。

それにしても、イエスが与えてくださるのが聖霊であるというところに、イエスが私たちをどう見ておられるのかがよく現れています。
ここでイエスが与えてくださるのは、聖霊ではなく、何か別のものでも良かったかもしれません。
例えば、大きな信仰を与えられるとか、神の力が与えられるとか、そういうものが与えられていたとしたら、それはそれで素晴らしいことですね。
けれども、イエスが与えてくださるのは聖霊だったんです。
イエスの言葉を思い起こし、理解すること。
それが基本中の基本だ、ということですね。
むしろ、それがないのなら、その人に他にどんな良い面があったとしても、イエスの弟子としては意味がないわけです。
ただ、人間というものは、神の目には、基本中の基本も、満足にはできないということなんですね。
「わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る」。
たったこれだけの言葉でも、理解して、心を静めて、イエスが戻ってくるのを待つ、ということができない。
イエスが逮捕されると、恐れに囚われてしまって、イエスの言葉も忘れてしまう。
それが人間なんですね。
考えてみますと、神や天使が人間に呼びかける時、最初の言葉は、「恐れるな」ということが多いですね。
神の目に人間は恐れが強いんですね。
それは、仕方のないことかも知れません。
人間には先のことは分かりませんし、人間の命は永遠ではないからです。
だから、イエスが与えてくださるのは聖霊なんです。
私たちが恐れなく、イエスに従うことができるようになるためです。

続けてイエスは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と弟子たちに言います。
イエスはこれから、弟子たちの元から去っていくことになります。
そして、ヘブライ語では、挨拶の言葉は「シャローム」というんですね。
日本語で言う「こんにちは」も「さようなら」も「シャローム」です。
今、イエスは、弟子たちと最後の時を過ごしています。
これから、お別れの「シャローム」になるんですね。
そして、「シャローム」というのは平和という意味の言葉です。
それは、ただ争いがない状態というだけではなくて、完全に満ち足りている状態を表す言葉です。
ですから、この「シャローム」という言葉は、神の救いと結び付けて用いられることがあります。
その「シャローム」をイエスは弟子たちに与えてくださるんですね。
つまり、イエスはこれから弟子たちのもとを去って、十字架にかけられるわけですが、そこに、罪人の救いが実現するわけです。
罪人に対する罰を、イエスが代わりに受けてくださり、私たちが神の元に取り戻される。
それこそ、シャロームですね。
そうなったら、何があっても結局は平和です。
そして、イエスはそれを、「世が与えるように与えるのではない」と言われています。
「世が与えるように」とはどういうことでしょうか。
誰でも、「あなたに平和がありますように」という言葉で、挨拶はします。
しかし、その言葉に、どれだけ、心がこもっているでしょうか。
挨拶の言葉というのは形だけになりやすいものです。
そもそも、本当に心を込めていたとしても、その通りになるかどうかは分かりません。
けれども、イエスは、本当に平和を与えてくださる、そのために、実際に、ご自分が十字架にかかってくださるのだ、ということなんですね。
だから、「心を騒がせるな、おびえるな」と言われているんです。
これから弟子たちにとっても大変なことになりますが、そこで実現するのはシャロームだ、だから、心を騒がせるな、おびえるな。

イエスはこれから、去っていきます。
しかし、また戻ってくることもここで確認しています。
それでも、弟子たちの意識は、イエスが自分たちの前からいなくなるということで一杯だったでしょう。
その弟子たちに、イエスは言います。
「わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである」。
いやいや、弟子たちは、イエスを愛しているからこそ、喜べないのです。
ただ、ここで、イエスは、ご自分が命を落とすという言い方はしていません。
父のもとに行くと言っているんですね。
そして、父はイエスよりも偉大である、これはつまり、イエスを遣わしたのが父なる神だからですね。
父のもとから遣わされて、働きを全うして、父のもとに戻る。
当然のことと言えば当然のことですし、良いことと言えば良いことです。

ただ、刻一刻と、その時が近づいています。
30節でイエスは言います。
「もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである」。
ここの、「世の支配者」という言葉は単数形です。
つまり、イエスを十字架に付けた人々を指しているのではありません。
これは、イエスを殺そうとしている人々の背後にいるサタンのことを指しているのでしょう。
けれども、イエスはここで、「だが、彼はわたしをどうすることもできない」と言います。
イエスは確かに死にますが、神はイエスを復活させ、ご自分のもとにイエスを引き上げてくださるのです。
しかも、十字架で死ぬことも、人を救うためのイエスの働きなのです。

ここでイエスは、「世の支配者」を否定していますが、「世」については完全には否定していません。
31節でこう言っています。
「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである」。
この世の人々はサタンに支配されているわけですが、世はそれを知るべきである、ということは、世はそれを知ることができる、と言っているんです。
しかしそれは、今はまだ、弟子たちも知ることができないことです。
けれども、弟子たちは後から、聖霊に教えられます。
つまり、世も、後から、聖霊に教えられる可能性があるということになります。
実際、後になって、弟子たちが多くの人に説教をしますと、聞いていた人たちは自分の罪を悔い改めて、洗礼を受けたんですね。
イエスを十字架に付けたのはあなたがただ、とまで言われて、言ったらその人たちはサタンに支配されていた人たちだということになるはずなのに、それでも悔い改めて、イエスを救い主と信じたんですね。
その時、弟子たちは聖霊に満たされていたと聖書にあります。
聖霊の力はその時、説教を聞いていた人たちにも及んだことでしょう。
つまり、サタンに支配されたとしても、救いからは漏れていないんですね。
ですから、私たちが救いを人に伝えるというのは決定的に大事なことですね。
私たち自身は、洗礼を受けて、聖霊をいただいているんです。
ですから、私たちが様々な形で救いを伝えようとする時、そこに、聖霊が働く。
言ってみれば、私たち自身、他の誰かに与えられた聖霊の力が、私たちにも及んで、私たちも洗礼を受けたわけです。
今度は私たちがそれをするんですね。
いや、今度は聖霊が私たちにおいて、そうしてくださるということです。
そうやって教会は世界中に広がってきたんですね。

最後の最後にイエスは、「さあ、立て。ここから出かけよう」と言っています。
しかし、まだ、イエスの話はここからも続きます。
実際にここから出かけるのは、もう少し後のことです。
この、「ここから出かけよう」という言葉は、これとは違う訳し方もできる言葉です。
「さあ、立て。彼に立ち向かおう」。
彼というのはサタンのことです。
ただ、恐れる必要はありません。
イエスの前でも、聖霊の前でもサタンには何の力もありません。
イエスだけでなく、弟子たちも、サタンに立ち向かうことができるんです。
弟子たちはイエスから平和をいただくわけですから、平和の内に、サタンにでも立ち向かうことができます。
ただ、そうは言っても、現実に、大変なことがあって、私たちが平和を失ってしまうことというのはあるわけです。
けれども、私たちが、今日の話をしっかりと心に収めておけば、どんな時でも平和を失うことはないはずです。

『アンクル・トムの小屋』という小説があります。
今から150年ほど前にアメリカで書かれた本です。
ベストセラーになりまして、奴隷解放をめぐって、アメリカの南北戦争を引き起こしたとまで言われている小説です。
初老の黒人奴隷のアンクル・トム、トムおじさんが主人公なんですが、親切で、力持ちで、我慢強くて、そして信仰深いクリスチャンなんですね。
アンクル・トムが売られていった先で、ある時、奴隷たちが集団で逃亡します。
その時に、奴隷の主人が、逃亡の手引きをしたのはアンクル・トムだろうということで、残った屈強な二人の奴隷にアンクル・トムを殴らせるんですね。
アンクル・トムはそれがもとで死ぬんですね。
しかし、息を引き取る前に、主人の命令で殴りつけた二人の奴隷が、トムに許しを請うんですね。
トムは何と答えたか。
「何とも思ってないよ」。
この二人がトムに、あなたにそんなふうに言わせるイエス・キリストとはいったい何者なんだと問いかけます。
アンクル・トムは答えます。
イエス・キリストが十字架に架かって私たちの身代わりに死んでくださったということ。
自分は奴隷として見下されているけど、イエス自身は奴隷のようにこの世界に来てくださったということ。
そして、トムは自分を殺した二人の奴隷の救いを祈って死んでいくんですね。
キリストを救い主と信じているからこその、平和がトムにはあったんですね。

そして、そのアンクル・トム自身がイエス・キリストと重なるんですね。
アンクル・トムは、逃げようと思ったらいつでも逃げることが出来るけれど、もし自分が逃げてしまったら主人の借金が消えない。
だから、主人を助けるために自ら進んで売られていったということがありました。
その生き方はお人好しを通り越して愚かです。
同じことはキリストにも言えます。
逃げることもできたのに、どうしようもない人々のために自ら死んだ。
神を否定して、自己中心に生きる人間のために、イエス・キリストは命を投げだして、罪から解き放ってくださった。
アンクル・トムが最後に話した二人の奴隷がイエスを信じたのは当然だと思います。
自分が殴った相手が、もう死のうとしている。
でもその相手は、自分を赦している。
こうなったら信じないのがおかしいですね。
まともな人なら信じるだろうと思います。
ただ、人生の中でそのような状況に直面する人は少ないでしょうね。
しかしそれは、イエス・キリストが私たちと関わりがないということにはなりません。
キリストは、神を信じ、神に従う人のために死んでくださったのではないんです。
神を信じず、神に従わない者のために死んでくださったんです。
つまり、これと無関係な人はいないんです。
誰か一人でも、完全に神を信じることができる人がいるでしょうか。
誰か一人でも、完全に神に従うことのできる人がいるでしょうか。
キリストは、そのような人間のために死んでくださったんです。
それによって、私たちは罪を赦されました。
その意味で、私たちは皆、アンクル・トムを殴った奴隷なんです。
だから、私たちは皆、イエス・キリストを救い主と信じるのが当然のことなんです。
私たち自身に、私たちの身の回りに、色々なことが起こります。
しかし、どんなことが起こったとしても、キリストが私たちを救ってくださったことに変わりはありません。
私たちも、どんな時でも、平和であるのが当然なんです。
だから、アンクル・トムは言うんですね。
「クリスチャンとは、なんとすばらしいもんか」。
イエスは私たちに、平和を与えてくださいました。

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