御心は実現する
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 22章1節~13節
1さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。2祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。3しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。4ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。5彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。6ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
7過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。8イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。9二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、10イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、11家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』12すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」13二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 22章1節~13節
今日の場面からは、いよいよクライマックスに向かって話が進んでいく感じですね。
とうとうここでユダが裏切ります。
このユダという名前は、そのまま裏切り者を指す言葉になってしまっていますね。
ただ、今でもユダという名前の人はいくらでもいるんですね。
このユダという名前、英語になるとジュードという名前になります。
ビートルズの歌に『ヘイ・ジュード』という歌がありますけれども、そのジュードというのはユダという名前を英語にしたものなんですね。
今でも、多くの人が普通にこの名前を名乗っています。
なんでわざわざ裏切り者の名前を名乗るのかと思ってしまいますが、イエス様の直接の弟子は12人いたんですが、その12人の中に、裏切り者のユダの他にもうひとりユダという名前の人がいたんです。
ですので、自分の息子にジュードという名前を付ける親としては、そのもうひとりの方のユダのつもりなんですね。
そういうことですので、今日の場面でも、裏切り者のことを単にユダというふうには書かないで、イスカリオテと呼ばれるユダだと書かれていますよね。
裏切り者のユダは、普段イスカリオテと呼ばれていたんですね。
イスカリオテというのは、大きな町の人という意味です。
わざわざこんなふうに呼ばれるというのは、よほどの大都市の出身だったのかもしれませんし、12人の弟子たちの中には漁師が何人もいましたから、漁師たちとは大分雰囲気が違う、都会的な人だったということがあるのかもしれません。
実際、このユダという人は非常にハンサムだったという言い伝えがあります。
ユダが町を歩くと、すれ違う女の子たちは振り返ってユダを見るくらいだったんだそうです。
ですので、この人が「大きな町の人」と呼ばれていたのは、他の弟子たちからすると、何かちょっと嫌な奴だな、という気持ちがあったのかもしれません。
そういう話は置いておいて、このユダがイエス様を裏切るわけです。
けれども、ユダはどうしてイエス様を裏切ったんでしょうかね。
イエス様にずっと従ってきた、直接の弟子です。
それなのにどうしてイエス様を裏切ったんでしょうか。
どういう理由があったというふうに、皆さんはお考えになるでしょうか。
太宰治という昔の小説家がユダのことを小説にしているんですね。
『駆け込み訴え』というタイトルの小説なんですけれども、ユダが祭司長たちのところに駆け込んで、イエス様を訴えた、その時にユダが何と言ってイエス様を訴えたのか、ということを小説にしているんですね。
この小説はインターネットで無料で公開されていますし、10分20分で読める短い小説ですので皆さんも一度お読みになると面白いかもしれません。
その小説の中では、ユダはイエス様を愛する気持ちもあって、でも愛しているからこそ自分が理解できない部分がよけいに気に入らないということもあって、ユダ自身の性格の尊い部分と醜い部分の対立もあって、ああ、なるほど、イエス様に出会うということはこういうことかもしれない、こんなふうに、自分の存在を丸ごと激しく揺り動かされてしまうことなのかもしれない、と思わされました。
そして、イエス様を裏切った理由としてユダが言っているのが、これは一口に言うのは難しいのですが、自分はイエス様のために一生懸命頑張ったのに、イエス様は自分を顧みてくれないし、自分もイエス様を理解できない、ということなんですね。
この小説を読んでみて、なるほど、そういう気持ちもあったかもしれないと思わされましたね。
イエス様は一般人の考えを超える考えを持っておられますから、私たちがイエス様を完全に理解することはできません。
そうなると、愛する気持ちが憎しみに変わってしまわないとも限らないですね。
太宰治は深く考えてこの小説を書いたんだなあと思わされました。
ただ、そのようなユダの心の中のことは聖書には書かれていません。
今日の場面には、何と書かれているでしょうか。
3節ですね。
「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」。
これが、ユダが裏切った理由なんですね。
「サタンが入った」。
ということは、ユダの心の中に何か理由があったんじゃないんですね。
裏切りは、悪魔の働きによって起こった。
ということは、裏切るのは別にユダでなくとも良かったんです。
他の弟子たち、ペトロでもヨハネでも良かったわけです。
ということは、こういったことは私たちにも起こるかも知れないということです。
私たちも、イエス様を裏切るようなことをしないとも限らない。
今聖書は私たちにそのことを警告しているのだと思います。
もしユダが特別悪い人間だったと聖書に書かれているんだったら、私たちとしては、自分はここまで悪い人間ではないと言えるかもしれません。
でも、そうは言えないんです。
私たちとユダには、何の違いもないんです。
ただ、サタンが入ったかどうか。
そこにしか違いはないんですね。
この場面には、前々からイエス様を殺そうと考えていた祭司長たちや律法学者たちというのも登場していますけれども、この人たちだってそうです。
この人たちも、イエス様を殺そうと考えているんですけれども、特別悪い人だったわけではないでしょう。
この人たちは社会の指導者です。
人々の見本になるべき人です。
そして、聖書をよく学んでいた人たちです。
もともと特別に悪いというような人ではないんですね。
けれども、聖書の言葉に聞いて従うよりも、自分の心に従ってしまった。
イエス様が現れて、人々がみんなイエス様の方に行ってしまうと、この人たちは自分の立場が台無しにされたと思って、自分の立場を守るためにイエス様を殺そうと考えるようになっていくんですね。
聖書の言葉に従うよりも、自分の心に従ってしまう。
それは誰にでもあることではないでしょうか。
ユダも、祭司長たちも、律法学者たちも、特別に悪い人だったわけではないんです。
この人たちの姿は、私たち自身の姿なんです。
それが、聖書が私たちに語りかけていることです。
ただ、今までは、祭司長たちや律法学者たちはイエス様を殺すことを実行することができませんでした。
2節の後半に書かれていますが、「民衆を恐れていた」からです。
イエス様は民衆に人気がありましたから、そのイエス様を殺してしまうと、自分たちの立場はますます危うくなります。
ですので、なかなか行動することができないでいたんです。
ただここで状況が変わりました。
裏切り者のユダが彼らのところにやってきたんですね。
ユダはイエス様の弟子です。
ユダはイエス様の居場所を知っているわけです。
そうなりますと、これは6節ですが、群衆のいない時を狙ってイエス様を捕まえることができます。
群衆がいたのでは群衆が大騒ぎして反対するでしょうけれども、群衆がいないのなら怖いものはありません。
イエス様が一人でいる時か、ほんのわずかの弟子たちと一緒にいる時を狙って、捕まえてしまえばいいんです。
こうして、ユダの裏切りによって、と言いますか、悪魔の働きによって、物事が急に動き始めたんですね。
何か、場面全体を悪魔が支配しているような感じです。
けれども、実はそうではないんですね。
実はイエス様がこの時に十字架につけられるというのはふさわしいことだったんですね。
今日の1節にも7節にも、お祭りの日が近づいていた、お祭りの日が来た、ということが書かれていますね。
何か、2回も繰り返して強調している感じですが、過越祭と除酵祭というお祭りのことが書かれています。
イエス様が、このお祭りの時に十字架にかかるのがふさわしいことだったんです。
この過越祭と除酵祭というのはどのようなお祭りかと言いますと、その昔、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの人たちが、エジプトから救い出された出来事を記念するお祭りです。
ただ、奴隷であったところから脱出するというのは簡単なことではありませんでして、エジプトの王様が奴隷を手放すことを簡単に認めなかったわけです。
そこで、神様の怒りがエジプト人の家の中に入っていって、エジプト人の子どもの内、最初に生まれた子どもの命を奪った。
神様の怒りは、イスラエル人の家は過ぎ越した。
このことがあってエジプトの王はとうとうイスラエル人がエジプトを出ていくことを認めましたので、このお祭りを過越祭と呼ぶようになったんですね。
除酵祭というのは、過越祭につながるお祭りなんですが、酵母を除くと書いて除酵祭ですね。
エジプトから脱出するには、すぐに家を出ていかなければなりませんでした。
何しろ、エジプトの王様はやっぱり奴隷を失うのが嫌で、後から軍隊を送って連れ戻そうとしたんですね。
そうなることが分かっていましたので、パンを焼くときに、パンに酵母を入れて、何時間か寝かせて、発酵させてから焼くような時間はないわけです。
そこで、酵母を入れずにパンを焼いた。
それが除酵祭です。
とにかく、いずれにしても、エジプトで奴隷であったところから解放されたことを記念するお祭りなんです。
そして、今日の7節には、「過越の小羊を屠る」ということが書かれています。
エジプトから脱出する時、神様の怒りがイスラエル人の家を過ぎ越したわけですが、その時、イスラエル人は自分の家の門の門柱と鴨居に小羊の血を塗っていたんですね。
それが目印になって神の怒りが過ぎ越したんです。
ですので、過越祭では小羊を屠るんですね。
そうして、小羊の血によって自分たちが救い出されたことをお祝いするんですね。
だからこそ、イエス様が十字架につけられるのは、このお祭りの時がふさわしかったんです。
過越祭の時には、小羊の血によって、奴隷であったところから救い出されたわけです。
それに対して、十字架の時には、小羊ではなく、イエス様の血によって、私たちが罪の奴隷であるところから救い出されるんですね。
私たち人間は皆、思いと言葉と行いで神に背くことがある。
私たちはそれを自力で克服することはできない。
だから神の怒りが私たちに向けられている。
けれども、神に背く罪を、イエス様が代わりに背負ってくださって、イエス様が私たちに代わって罰を受けてくださった。
聖書は人間は皆罪人であると言いますが、イエス様が私たちに代わって十字架にかかってくださったから、私たちはもう、罪の奴隷ではない。
罪がなくなったわけではないけれども、罪の奴隷ではない。
それが十字架ですから、過越祭と十字架は似ているんですね。
奴隷であったところから、自由にされた。
それが過越祭であり、十字架なんです。
だからこそ十字架は過越祭の時期がふさわしいんですね。
ここには、言葉にならないメッセージが込められているんです。
また、言葉にならないメッセージにする必要もありました。
もしイエス様がこれから十字架にかかるということを弟子たちがきちんと理解してしまうと、弟子たちは必死で止めるでしょうね。
けれども、イエス様は十字架にかかることが務めです。
罪の奴隷であるところから、人々を導き出すのが務めです。
ですから、弟子たちが十字架の意味を知るのは後になってからでなければならなかったんです。
そのためにも、言葉にならないメッセージを隠しておく必要があったんですね。
そして、ここから、もっと大きなことを私たちは知ることができます。
今日の前半の場面は、場面全体を悪魔が支配しているような感じに見えました。
けれども、その中で、隠れたところで、救いの計画が確実に進んでいっているんですね。
神の計画は悪魔の働きを超えているんです。
マイナスの力がどのように働いても、神の計画は実現するんですね。
これは私たちは力づけられることではないかと思います。
私たちにだって、自分の身の回り全体を悪魔の力が支配していると思えてならないようなことだってないとは言えません。
けれども、たとえ私たちの目にそのように映る状況であったとしても、神の計画はそこでも見えないところで確実に前進しているんですね。
私たちはそれを信じていいということなんですね。
それが、聖書のメッセージです。
サタンの時だとしか思えないような場面でも、実は神の時なんです。
すべての時は神の時なんです。
そして、イエス様はそのために、知恵を尽くして隠れたところで準備をしてくださるんです。
今日の後半の場面ですが、何だか、普通に読んだら、イエス様が先のことまで全部お見通し、という感じに読めますね。
イエス様はペトロとヨハネに過越の食事の準備をさせるわけですが、10節からのところで、先のことを見通しておられる感じです。
ですけれどもこれ、別に、奇跡とか超能力とか、そういうことではないんです。
これはイエス様が前もって、弟子たちにも知られないところで準備をしてくださっていたということなんです。
イエス様は弟子たちに対して、「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う」と書かれています。
そんなことまでお見通しなのか、と思ってしまいそうになりますが、これ、翻訳が間違っているんです。
この書き方ですと、何か、弟子たちが都に入っていくと、偶然水がめを運んでいる男に出会う、そのことをイエス様が前もって知っている、というふうに聞こえますけれども、そうではないんですね。
原文では、水がめを運んでいる人が弟子たちに会う、と書かれているんです。
つまり、水がめを運んでいる人は弟子たちのことを知っているんです。
知っていて、弟子たちを見つけて、弟子たちに声をかけてくれる、ということなんですね。
そしてその水がめを運んでいる人はどこかの家で働いている人のようなんですが、イエス様は、その家の主人に、先生が、つまりイエス様が、これこれこういうことをあなたに言っています、と伝えるようにと弟子たちに指示を出しています。
ということは、先生、と言ったらイエス様のことだ、とすぐに相手に分かってもらえる関係なんだということですよね。
その家の主人もイエス様のことを知っているということです。
というか、その人にとってイエス様は先生なんですから、その人もイエス様の弟子なんですね。
そして、その家の2階に食事の席が準備されている、ということなんですから、これはもう、イエス様が前もって隠れたところで連絡を入れて準備してくださっていたということですね。
前もって家の主人に話をしておいて、その家で働いている人にも、その日の何時頃、ペトロとヨハネが行くから、家まで案内してやってくれ、と言っておいたんでしょうね。
しかし、そうなりますと、どうしてイエス様は弟子たちにも隠れて、食事の席をこっそり準備しなくてはならなかったのか、ということになります。
それは、この過越の食事というのは、家族だけで食事をするというお祭りの決まりがあったからなんですね。
イエス様にとっては、弟子たちというのは、今までずっと何年も一緒に暮らしてきた家族ですので、イエス様は実際にこのあと、この12人の弟子たちとだけ、食事をすることになります。
とにかく、イエス様と弟子たちだけで、他に人がいない状況になるんですね。
そうなりますと大変ですね。
祭司長たちは、「群衆のいないときに」、イエス様を捕まえようと狙っているんです。
群衆のいないとき、他に誰もいない時、それはこの、過越の食事の時です。
ですから、もしイエス様が過越の食事をする場所を前もって弟子たちに言ってしまったら、ユダもそれを聞くことになりますから、食事の場所が祭司長たちに伝わってしまって、たくさんの人たちが食事をしている場所になだれ込んできて、もう過越の食事はできなくなってしまいます。
ですので、過越の食事をしようとするなら、弟子たちに隠れて準備をするしかなかったんですね。
ということは、イエス様は、ユダが裏切ることをもう知っておられるんですね。
けれども、知っておられた上で、それでもなお、弟子たちと一緒に食事をしたいと願っておられるんです。
問題があるのはユダだけではないですね。
他の弟子たちも皆ある意味ユダと同じです。
他の弟子たちも皆、イエス様が逮捕されると逃げ出してしまうんですね。
その時が、もうほんの数時間後に迫っているのが今の場面です。
それなのに、そのこともお分かりのはずなのに、それでもなお、この弟子たちと一緒に過越の食事をすることを願っておられるんですね。
神の怒りが過ぎ越して、奴隷であったところから救い出されたことを記念する食事を、イエス様はどうしたってこの弟子たちと一緒にしたかったんです。
そして今、私たちはこの会堂で、このように聖餐卓を囲んでいます。
私たちは月に一度、聖餐式を行っていますけれども、聖餐式はこのイエス様の最後の食事、最後の晩餐を記念するものですね。
この聖餐卓は、イエス様がなさった最後の食事のテーブルなんです。
イエス様が私たちと一緒に食事をすることを望んでおられる、それも、過越の食事をすることを望んでおられる。
それを何よりも願っておられる。
教会というのは、イエス様が用意してくださる過ぎ越しの食事をいただきながら生きていく場所なんですね。
今日見てきたとおり、この世には、人間のいろいろな考えがあふれています。
それこそ、サタンが支配しているようにしか思えないような時も、私たちの身の回りに確かにあります。
けれども、どんな人間の考えも、どんなマイナスの力も、この食卓にイエス様の用意してくださる過ぎ越しの食事を押しとどめることはできないんですね。
そのような食卓にイエス様は私たちを招いてくださるんですね。
もうこの食卓だけは、この世もサタンの力も、全く超えた所にあるんです。
そして、イエス様は、何としてでもこの食事を弟子たちと一緒にしたかったんですね。
イエス様がどうしても最後の最後に弟子たちと一緒にしたかったことが、過ぎ越しの食事だったんです。
神の怒りが過ぎ越して弟子たちが救われることを何よりも願っておられたんですね。
そのイエス様の強い思いは、この私たちの教会にも及んでいるんです。
だから私たちは礼拝の度にこのように聖餐卓を囲んで、月に一度は聖餐式を行うんですね。
これからも、どんな人間の考えもどんなマイナスの力も超えた、イエス様の用意してくださる聖餐式にあずかりながら生きていきましょう。
そこに、イエス様が与えてくださる本当の命があるのです。