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2024年11月05日「弟子になる、弟子にする」

弟子になる、弟子にする

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
マタイによる福音書 4章18節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。20二人はすぐに網を捨てて従った。21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。24そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。25こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 4章18節~25節

原稿のアイコンメッセージ

今日の前半はイエス様が弟子を取る場面ですね。
最初の弟子たちは漁師でした。
私は魚釣りというのはあまりしたことがありませんでして、小学生の頃、近所の池でブラックバスを釣ったりしたことはあるのですが、釣りの経験というのはそれくらいですね。
最近になって、釣り堀に行ったことはあるんです。
その釣り堀には鯉がたくさんいまして、エサをまいてから釣り糸を垂らすんですが、もう、エサをまいた時点で鯉が20匹くらい、バシャバシャ集まってきますね。
ですので、もう、魚を釣るっていう感じでもないんですよね。
釣れない方がおかしいんです。
ただ、そこの釣り堀は、釣った魚は持って帰れません。
そのまま釣り堀に戻さないといけないんですね。
ですので私は今まで一度も、自分で釣った魚を食べたことがないんです。
それに対してイエス様の弟子たちは漁師ですよね。
食べる魚を取っているんです。
取って食べるどころか、食べる以上にたくさん釣って、それを売って、生活していたんです。
ただ、釣竿で釣りをしていたわけではありませんでして、ここのところを読んでいただけると分かりますが、網を使っていたんですね。
網を使って魚を取ると聞きますと、地引網みたいな、砂浜でみんなで力を合わせて網を引き揚げると魚がたくさんかかっている、みたいな様子を想像しますけれども、それは少し違っていまして、網はスクリーンのように広げてそのまま水の中に入れるんですね。
そして、しばらく待ってから、そのまま網を真っすぐに上げる。
そうしますと、その網に魚が引っ掛かっている、という漁の仕方なんです。
魚というのは集団になって泳ぎますし、泳ぐコースが決まっているので、そのコースに網を沈めておいて、魚を捕まえる、ということなんですね。
今日の前半は、そういう、漁師であった人たちにイエス様が話しかけて弟子にした、それも、漁師たちが仕事をしている最中に弟子にした、漁師たちはイエス様に話しかけられるとすぐにすべてを捨ててついて行った、という話ですね。

それに対して、今日の後半はイエス様が病人をいやす話です。
これは別々の話が並べられているように思われるかもしれませんが、まず、聖書というのは、もともとの原文では、章とか節の区切りはありません。
全部つながって書かれているんですね。
そして、内容的にも、この二つの話は別々の話ではないと思うんです。
二つの話には共通点がありますね。
前半は、弟子たちがイエス様に従ったという話です。
そして後半は、最後まで読んでみると、大勢の群衆がイエス様に従ったという話です。
人がイエス様に従ったという話をしているんですね。

しかし、これが不思議なんです。
大勢の群衆はイエス様の力を見たんですから、従っていくというのは分かります。
けれども、弟子たちがイエス様に従ったのはどうしてでしょうか。
シモンとアンデレは仕事中だったんですよね。
ということは、イエス様の話を聞きたかったわけではないし、まして、病気を治してもらったわけでもないんです。
ヤコブとヨハネも同じですよね。
ですけれども、「すぐに」従った、その場で従ったということなんです。
まして、ペトロとアンデレは「網を捨てて」従った、ヤコブとヨハネは何と、「舟と父親とを残して」従ったということなんですね。
この、「舟と父親とを残して」という時の「残して」という言葉は、ペトロとアンデレが「網を捨てて」という時の「捨てて」という言葉と同じなんですね。
つまり、ヤコブとヨハネは、すぐにその場で「舟と父親とを捨てて」、イエス様に従ったんです。
これは一体どういうことなんでしょうか。
イエス様に従う時には、大切なものを捨てなければならないということでしょうか。
とにかく、大変なことが起こっているんですね。
ある意味、病気を治すよりも大変なことが起こっているんです。

この、漁師を弟子にした話はルカによる福音書の5章にも書かれているんですが、ルカによる福音書に書かれている話を読むと、どうして弟子たちが弟子になったのかは分かるんですね。
その日、漁師たちは、全然魚が取れなかったんです。
けれども、イエス様がそこにやってきて、言われたとおりに網を降ろすと大漁になったんですね。
それだったら、イエス様について行くのは分かります。
けれども、マタイはその出来事を書いていないんです。
では私たちは、今日のこの物語から、何を読み取るべきなんでしょうか。

イエス様は弟子になる人に、「わたしについて来なさい」と声をかけます。
そうすると、そう言われた人が「すぐに従う」ということが起こってきます。
これ、考えてみると、後半の話の群衆も同じなんじゃないでしょうか。
23節に、イエス様がなさったことが書かれていますね。
イエス様は病気をいやしただけではないんですよね。
「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え」ていたと書かれています。
「福音」というのは、原文では、「良い知らせ」という言葉です。
では何が良い知らせなのかというと、今日の直前の17節に、こういう言葉がありました。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」。
これ、良い知らせですよね。
天の国が近づいている。
だから、病気が治っていくんです。
「天の国」の「天」という言葉は聖書では「神」と同じ言葉です。
そして、「天の国」の「国」という言葉は「支配」という意味にもなる言葉です。
「天の国」というのは「神の支配」ということなんですね。
その神の支配が近づいているから、人々が病気の支配から解放されていくんです。
ですから、言ってみれば、病気のいやしは結果としてそういうことが起こったということで、おまけみたいなものなんですね。
大事なのは天の国が近づいたことです。
大勢の群衆は、イエス様のなさる奇跡を見て、天の国が近づいたことを信じたわけです。
イエス様の言葉を受け入れた。
だから、従ったんですよ。
考えてみれば、そもそも、病気が治ったんなら、もうイエス様について行く必要なんてないはずですよね。
私たちだって、病気になったら病院に行きます。
でも、病気が治ったらもう行かないじゃないですか。
病院の先生について行こうだなんて、誰も思いませんよね。
先生だって、そんなことされたら迷惑ですよ。
人々がイエス様について行ったのは、イエス様の言葉を受け入れたからなんです。
だいたい、たとえ奇跡を見ても、それで信じるとは限らないですよね。
この福音書の11章20節から、多くの町が奇跡を見ても悔い改めなかったことをイエス様は叱ります。
奇跡を見ても悔い改めない、神のしるしを見てもイエス様に従わないということは、普通のことなんですね。
奇跡なんてことがあると目を引かれますが、それと、イエス様に従うかどうかというのは別の話です。
大事なのはイエス様の言葉を受け入れることです。
そして、そのイエス様の言葉というのは、「福音」、「良い知らせ」ですね。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉なんです。
「悔い改めよ」って言われていますけれども、「悔い改める」という言葉は原文では神に「立ち返る」ことですね。
今日の場面を見るとそれは、具体的には、イエス様に従うことです。
「わたしについて来なさい」というイエス様に従うことなんです。

しかし、どうして弟子たちはいきなり声をかけられてイエス様に従うことができたんでしょうか。
それは、「悔い改めたから」だと言うことができますね。
不思議と言えば不思議な話ですよ。
ですけれども、悔い改めて神に立ち返ったから、神の言葉を語るイエス様について行ったんだ、ということは言えますね。
マタイは、そのことに気付いてほしくて、今日の場面でこういう書き方をしたんだと思うんですね。
「舟と父親とを残して」従ったなんて言われますと、驚いてしまいますが、これは要するに、イエス様と自分との関係というのは、親であったとしても立ち入れないような、非常に個人的な事柄なんだということですね。
イエス様とこの私だけの間で、弟子になるということが起こるんだということです。
こういう関係というのは、深い関係ではありますよね。
例えば、若い人が恋愛をする時に、いちいち親のところに行って、「お父さん、この人を好きになってもいいですか」なんて言ったりはしませんよね。
イエスに従うことも同じことだということです。
例え親であっても、イエス様とこの私との間には入り込めないということなんです。
そのことをマタイは書いたんですね。
しかし、私たちも大切なものを捨てなければならなくなるとしたら、どうでしょうか。
そもそも、どうして捨てなければならないんでしょうか。
それは、私たちが、それに頼っているからなんです。
舟とか、父親とか。
生活の糧を得るための手段とか、自分に仕事を割り振ってくれる人とか。
そういうものに頼るよりも、イエス様に頼りなさいということなんです。
この世の支配の中では、私たちは人や物に頼るしかないんです。
けれども、天の国、神の支配が近づいているんです。
だから、神の子イエスに頼りなさいということなんですね。
そして、この「捨てる」ということは、文字通り捨てることではないんです。
この後の8章14節では、イエス様がペトロの家に行って、ペトロの家族の病気をいやしているんですね。
ペトロは家を捨てたわけではありません。
あるいは、ヨハネによる福音書では、イエス様が十字架につけられた後、弟子たちは漁をしているんです。
やっぱり、文字通り舟を捨てたわけではないんです。
大事なのは、人や物に頼るよりも、イエス様に頼るようになった、人や物に頼る心を捨てた、ということなんです。

そして、イエス様に従うところに教会が生まれていくんだということなんです。
今日の21節で、ヤコブとヨハネに対してイエス様は、「彼らをお呼びになった」と書かれていますけれども、この「呼ぶ」という言葉が元になって、「教会」という言葉ができてくるんですね。
教会という言葉は、原文に忠実に訳すなら、「呼び出された集まり」というくらいの言葉です。
「わたしについて来なさい」という呼びかけに応えた集まりが、教会なんです。
そして、次からは、自分が人を呼んでくるんだということですね。
だって、イエス様は今日、呼びかけた人に対して、「人間をとる漁師にしよう」と言っておられますよね。
これ、私たちにも言われていることなんです。
これが教会に与えられた使命です。
これがイエス様の最初の言葉にして、最後の言葉です。
イエス様は最後にも、同じことをおっしゃいましたよね。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。
これって、「人間をとる漁師にしよう」っていうことじゃないですか。
何かそう言われると、大変そうだなと思ってしまいますけれども、大事なことは、ここで、イエス様が「そうする」と言っているんだ、ということですね。
「人間をとる漁師にしよう」っていうのは、イエス様がその人をそのようにする、っていうことですよね。
弟子たちはその言葉を信じて従ったんです。
私たちもイエス様の呼びかけに応えて、改めて、イエス様に頼る新しい生き方をしていきたいんですね。
もしかしたら、イエス様から呼びかけられるのは、仕事中かもしれません。
仕事中というのは、ある意味、自分にとって一番大事な時ですよね。
イエス様は私たちにとって一番大事な時に切り込んでくるんです。
それは、イエス様が、「本当に大事なこと」を私たちに知ってほしいからなんですね。
ですので、どんな時にその呼びかけがあるのかは分かりませんけれども、どうぞ、今の内から準備をしておいてください。
大丈夫です。
イエス様が責任を持ってくださると言われているんです。
それを信じて、その時、すぐに、イエス様に従ってください。

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