ぶどう園と農夫
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 ルカによる福音書 20章9節~19節
9イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。10収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。11そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。12更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。13そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』14農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』15そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。16戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。17イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。
『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。』
18その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」19そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 20章9節~19節
今日の話ですが、たとえ話ですけれども、このたとえ話は一体なんなのか、という感じですね。
ぶどう園の主人が、収穫を納めさせようとして人を送ったけれども、何度人を送っても、その度に、農夫たちに袋だたきにされて追い返されてしまう。
三人もの人が、農夫に袋だたきにされたと言うんですね。
これ、この時点で主人は警察に相談しなくちゃいけないですよね。
というか、一人目が袋だたきにされて追い返された時点で、もう普通じゃないわけですから、この状況を何とかするために考えなくてはいけなかったんじゃないでしょうか。
それでも主人は二人目、三人目を送ります。
二人目、三人目も袋だたきにされて追い返されました。
そこでやっと主人は考えます。
でもこの主人の結論、どうですか。
主人は、最後には自分の愛する息子を送ったんですね。
この子なら農夫たちも敬ってくれるだろう、という考えです。
しかし、そんなことが期待できるような状況でしょうか。
農夫たちは今まで、三人もの人を袋だたきにして追い返しているんです。
もうこの農夫たちは、主人に従うつもりなんて全くないんです。
そんな人たちが、主人の息子を敬ってくれるでしょうか。
そんなはずはありません。
愛する息子は殺されてしまいました。
当たり前と言えば当たり前です。
この主人は間違っていたと言うしかありません。
ただ、主人の息子を殺した農夫たち、この人たちも明らかに間違っていますよね。
いや、間違っているのは最初からですけれども、この農夫たちも大変な勘違いをしています。
この人たち、14節でこんなことを言っています。
「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」。
こんなことを言っています。
でもこれ、どうでしょうか。
跡取り息子を殺したら、財産は自分たちのものになるんでしょうか。
そんなはずはありませんよね。
ですから、主人だけじゃなくて、この農夫たちも完全に間違っているんです。
これは一体なんのたとえなんだと言いたくなるくらい、完全に間違った話なんです。
でもイエス様はそれについては説明をしないで、話を続けます。
もしこんなことになったとしたら、主人は農夫たちを殺して、ぶどう園をほかの人たちに与えるだろうという話ですね。
これに対して、イエス様の話を聞いていた民衆は答えました。
「そんなことがあってはなりません」。
民衆はそう答えたんでした。
まあ確かに、あってはならないことですよね。
これは暴力事件が起こって、その後に殺人事件が起こって、最後には犯人たちも殺されてしまうという話です。
こんなこと、無い方がいいに決まっています。
けれども、イエス様はここで、話を続けるんですね。
今度はイエス様は聖書からお話をなさいます。
「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。
『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。』
その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
これは一体何の話なのか、ということですが、一番大事なのは聖書に書かれている言葉ですよね。
『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。』
これは、詩篇118編22節の言葉です。
そして、この言葉に続いて、23節では、「これは主の御業」であると言われるんですね。
家を建てる者の捨てた石が隅の親石となったのは、主の御業、神様のなさったことであると言われるんですね。
状況としてはこういうことです。
家を建てようとする人が、使える石と使えない石を分けていく。
使えない石は捨ててしまう。
けれども、人が、これは使えないと考えた石を、神様は隅の親石にする。
人が捨てた石を、神様は最も大事な石として用いる。
この隅の親石というのはどういうものなのかと言いますと、四角い石を積んでいって、アーチを作るとき、そのアーチの一番上に来る石のことなんだそうです。
ですから、もう、隅の親石というのは一番大事な石ですね。
一番大事というか、その石がなかったらアーチはできないんです。
全部崩れてしまいますよね。
その石がしっかりしているから、アーチになるんですね。
ではこの話が、さっきのたとえ話とどのようにつながるのかということなんですが、本当は大事なものを、要らないと考えてしまうというところでつながりますよね。
家を建てようとする人は、その大切な石を使えない石だと思って捨ててしまったんですね。
要らないと考えてしまった。
さっきの話では、農夫たちは、主人の愛する息子を外に放り出して殺してしまった。
要らないと考えてしまった。
どちらも大事なものなのに、人はそれを要らないと考えて捨ててしまうんですね。
ここまできて、この話が自分たちについて言われているんだと気づいた人たちがいました。
それが律法学者たちや祭司長たちです。
この時、この人たちはイエス様を殺そうとしたと書かれています。
それは、この時だけではありません。
右側のページの19章47節でも、この人たちはイエス様を殺そうとしました。
まさにこの人たちは、神様の愛する息子であるイエス様を殺そうとしているんですね。
どうしてかというと、自分の立場を守りたかったからです。
イエス様がやってきて、民衆はみんなイエス様の方に行ってしまった。
これでは、自分の立場がない。
この人たちはそう思いました。
そこで、イエス様を殺してしまおうと考えるようになったんですね。
そしてこれは、この時始まったことではありません。
イエス様がやってくる前に、預言者と言いますが、神の言葉を伝える人たちは何人も現れてきていました。
旧約聖書には預言者の名前をタイトルにした預言書が、三人分どころではありません、いくつもありますが、預言者たちはまさに、今日登場した主人のしもべたちのように、次々に袋だたきにされて追い返されたんですね。
自分たちの立場を守りたいという人たちによって、預言者たちは袋だたきにされてきたんです。
そして今、律法学者や祭司長たちはイエス様を殺そうとしている。
この人たちはまさに、隅の親石を捨てようとしているんです。
神様の愛する息子を殺してしまおうとしているんです。
そうすれば、全部自分のものだと考えているんです。
それで自分の立場がしっかり守られると考えているんです。
完全に間違っています。
けれども、イエス様がおっしゃっているのはそれだけではありませんね。
家を建てる者の捨てた石は、隅の親石になるんですね。
彼らがイエス様を捨ててしまったとしても、殺してしまったとしても、神様はイエス様を隅の親石として用いるんです。
それはつまり、彼らがイエス様を殺すことによって、なしとげられるんだということですよね。
それがさっきの詩篇の言葉で言うと、主の御業、神のなさることなんだ、ということですね。
イエス様は捨てられることによって、隅の親石になります。
そうすると、どうなるのか。
イエス様の言葉にありますね。
18節です。
「その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」。
これはつまり、滅ぼされるということですね。
16節にも、農夫たちがこれから滅ぼされることになりそうな言葉がありますけれども、この隅の親石も、人を滅ぼすものであるわけです。
ですがもちろん、滅ぶ人ばかりではないんですよね。
16節では、「ぶどう園をほかの人たちに与える」ということが言われていました。
ですからつまり、救われる人は救われて、滅ぼされる人は滅ぼされるということですね。
これは隅の親石も同じでしょうね。
滅ぼされる人は滅ぼされるんですが、ということは、逆に言って、救われる人は救われるんですね。
何しろ、隅の親石ですから。
ですから大事なことは、この隅の親石、イエス様としっかり結び合わされることなんでしょうね。
隅の親石というのは、石造りのアーチの一番上の石です。
その石にしっかりと結び合わされて、私たちも一つ一つの石として、立派な石造りのアーチを作る。
これが大事なんでしょうね。
もちろんそれは、一人ではできません。
アーチを作ろうと思ったら、石がたくさん必要になりますね。
ただ、一番大事なのは親石です。
親石がなかったら、全部崩れてしまうんです。
みんなで集まって、親石を支えながら、親石によって、バランスを保ってもらうこと。
そういうふうになるようにと言われているんでしょうね。
考えてみると、私たちがこのようにここに集まって、イエス様の言葉を聞いているっていうこと、これは、まさに、そのようにして、私たちみんなとイエス様でアーチを作っているということではないかと思うんですね。
私たちみんなで、集まって、ひとつになって、イエス様を親石としていただいて、ここにしっかり立っている。
それが今の私たちではないかと思うんです。
ただ、今日のところを読んでいてどうしても思わされるのは、主人の愛する息子を殺した農夫たち、隅の親石を捨てた人、それは、律法学者や祭司長たちだけなのか、ということなんですね。
私たちはこの話を、自分たちのこととしても聞くべきだと思うのです。
気をつけてみてみると、この話は、「ある人がぶどう園を作」ったというところから始まっています。
ある一人の人がぶどう園を作った。
これは、聖書の一番最初のページの出来事を思い出しますね。
聖書の一番最初のページには、神様がお一人で天地をお造りになられたことが記されています。
イエス様は、そのことを思い起こさせるように、話しはじめられたんですね。
そして、ぶどう園を作った人は農夫たちにそのぶどう園を貸すんですね。
これも聖書の最初のところを思い出します。
聖書の最初のところに、神様が人を造る場面があります。
神様は人を造っただけでなく、人に、地上を管理する役割を与えるんですね。
ぶどう園を農夫たちに貸したというのはそのことではないでしょうか。
ということは、この農夫たちというのは、律法学者や祭司長たちのことだけではなくて、私たちも含めて、人間みんなのことなんだと言えるのではないでしょうか。
だとしたら、私たちが気をつけるべきことはなんでしょうか。
農夫たちは、自分がぶどう園を主人から借りているのに、それがまるで自分のものであるかのように振舞って、最後には自分のものにしてしまおうとしたんですね。
それが農夫たちの失敗です。
その失敗をしないために、気をつけておくことはひとつですね。
私たちに与えられたものは、神様から預かったものであるということ。
そのことをしっかり覚えておくことですね。
私たちは自分が持っているいろいろなものを自分のものだと考えていますけれども、考えてみれば、そもそも、自分の命というものが、自分で作ったものではありませんね。
自分の命を自分で作った人はいません。
そう考えるなら、この命も、この命がここにある限りでの人生も、人生の中でいただくいろいろなものも、すべて、与えられたものですね。
そして、自分の命も含めて、すべてを神様にお返しする日がいつか必ずやってきます。
ですから、与えられたものとは言っても、やっぱりそれはいつまでもということではなくて、私たちに命がある限りで預かっているものなんですね。
私たちは、預かっているものを、預かっているものだと理解しているでしょうか。
自分のものだから自分の自由にしていいと勘違いしていないでしょうか。
今、そのようなことを、イエス様から問われているように思うのです。
それなのに私たちは、それが自分のものだと勘違いしてしまうことがあります。
これは多くの方に思い出があるのではないかと思いますが、私の場合は、9歳の時、小学校3年生の時に、家の中に個室を与えられました。
家の中のひとつの部屋を、自分の部屋にしていいということですね。
自分の部屋をもらったんです。
家は、当然、親が建てた家ですよね。
自分が建てた家ではありません。
その家の中に、親が、自分の部屋も作ってくれたんですね。
感謝なことです。
ですけれども、これが自分のものだ、と思ってしまうと、だんだん感謝がなくなっていくんですね。
そして気が付くと、自分がその部屋の主人になってしまう。
中学校ぐらいになると、もうその部屋の主人は完全に自分です。
自分の部屋は、自分だけの空間、自分のためだけの場所なんですね。
でもそれっておかしいですよね。
その家は自分が建てた家ではありません。
自分は家の主人ではありません。
それなのに、自分の部屋だ、ここでは自分が主人だと勘違いしてしまうんです。
そして、自分がいない間に親が部屋に入ったりして、自分が帰ってきてからそれに気づくと、親に向かって「なんで勝手に自分の部屋に入ったのか」なんて言ったりするんですね。
家の主人は親なのに、この部屋の主人は自分だと勘違いをしてしまう。
こういう勘違い、したことのある人も多いのではないでしょうか。
だからイエス様は今、こういうお話をなさっているんだと思うんですね。
考えてみれば、私たちが罪を犯す時というのは、私たちが何かを自分のものであると勘違いしてしまった時ですね。
これは自分のものだ。
だから、自分の好きにしていい。
自分の好きにできないのなら、邪魔をしている何かを袋だたきにしても構わない。
そういう思いが私たちの中にあることをイエス様は見抜いておられて、そのためにも、今、こういう話をしてくださっているんでしょうね。
私たちは今、問われています。
あなたは、すべてのものが神様から預かっているものであるということを、正しく理解していますか。
限られた時間の中で一時的に預かっているんだということを、正しく理解していますか。
そういうふうに問われているんだと思いますね。
農夫たちは、そこを勘違いしていたんですね。
預かっている立場なのに、自分のものにしてしまおうと考えた。
それは、別の言い方をすると、本当の主人を主人として認めないということですね。
そこから、全ての罪が始まっていくのでしょう。
私たちも、気を付けたいと思います。
神様が主人だと言いながら、何かを、自分のものだと思っていないでしょうか。
そうではないんですね。
期間限定で、預かっているだけです。
命も、人生も、能力も、人生の中で起こる出来事も、与えられるモノや知識や技術も、友人知人家族も、与えられたもの、預けられているものなんです。
私たちはそのことを、正しく理解しているでしょうか。
ただ、不安になる必要はありません。
神様が私たちのことを大事に思ってくださる方であるということを、私たちは、今日、示されています。
今日、最初に申し上げたことですが、この主人、ちょっとおかしいくらいですよね。
三人も人を送ったのに、その度に袋だたきにされて追い返されて、もうどう考えたって無理なのに、今度は愛する息子を送る。
これは常識では考えられないことです。
この主人は、この農夫たちを、それでも大事に思っていたんです。
愛する息子と同じくらい、大事に思っていたんです。
だから、愛する息子まで、農夫たちのところに送ったんです。
主人は13節でこう言っていますね。
「わたしの愛する息子を送ってみよう。たぶん敬ってくれるはずだ」。
私はこの言葉に胸を打たれます。
主人は、最初、収穫を納めさせるために人を送ったんですよね。
それなのに、もうこの時には、目的が変わっているんです。
もう、収穫を手に入れることは目的ではないんです。
「わたしの愛する息子を送ってみよう。たぶん敬ってくれるはずだ」。
収穫なんてどうでもいい。
主人は、農夫たちと、正しい関係を結びたいんですね。
そのために、愛する息子を送るんです。
私たちは、何かを自分のものだと考えて、自分を主人にしてしまうということがあります。
けれども、神様は、そのような私たちと、正しい関係を結ぶために、こうまで忍耐してくださって、こうまで考えてくださるんですね。
ただこの、神様の願いはかなうことはありませんでした。
愛する息子は殺されます。
けれども、それで終わりではないんですね。
家を建てる者の捨てた石が、隅の親石になるんですね。
神様は、人々から捨てられたイエス様を一番大事な石として用いて、立派なアーチを組み上げてくださって、人が神と正しい関係を結べるようにしてくださるんですね。
それが、今ここで行われている礼拝なんです。
今ここに、主の御業が実現しているんですね。
「家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった」
これは詩編118編22節の言葉ですけれど、23節以下に、このように続きます。
「これは主の御業。
わたしたちの目には驚くべきこと。
今日こそ主の御業の日。
今日を喜び祝い、喜び躍ろう」。
喜び祝い、喜び踊りましょう。
それが、神様との関係が正しいということなのです。