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2024年10月14日「起きて祈っていなさい」

起きて祈っていなさい

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ルカによる福音書 22章39節~46節

聖句のアイコン聖書の言葉

日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 22章39節~46節

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今日の場面は祈りの場面ですね。
私たちにとっても、一番大事なことですね。
そして、この場面は、イエス様が弟子たちと一緒に過ごした最後の場面でもありますので、その意味でも今日、この御言葉に聞くということはふさわしいことだと思いますなおさら大事な場面だということになると思います。
そして、この場面を読んでいて思い出したことがあるんですね。
推理小説で有名なアガサ・クリスティーという小説家がいますね。
そのアガサ・クリスティーが、「ベツレヘムの星」という短い小説を書いているんですね。
これはクリスマスのお話です。
聖書にもクリスマスの場面に天使が登場しますが、この小説の中では、クリスマスにお生まれになられたイエス様を見守っているマリアのところに天使が現れます。
そして、その天使はマリアに、イエス様の未来を見せてくれるんですね。
ただそれが大変な場面でして、まず第一に見せられたのが、今日の場面なんですね。
要するに、イエス様は苦しみながら必死で祈っているのに、弟子たちは眠っているんです。
次に見せられた場面は、十字架の場面です。
三本の十字架が丘の上に建てられて、三人の人が十字架につけられて、イエス様が真ん中。
マリアは自分の子どもが死刑にされる場面を見させられたんですね。
三つ目の場面は、少し時間を巻き戻して、イエス様が裁判を受けている場面です。
これも聖書に書かれていることですが、その場面で裁判長は「この男は神を冒涜した」と言って、死刑判決を出すんですね。
こうなるともう、マリアとしては大変ですね。
マリアはこの時まだ今でいう中学生くらいの女の子です。
それなのに、生まれたばかりのわが子がこれからこんな人生を歩むことになるんですね。
自分がどれだけ苦しんでも、弟子たちは支えてもくれない。
それどころか、神を冒涜した罪で死刑にされる。
ここで天使がマリアに言います。
「もしこの子にこういう辛い目に遭わせたくないなら、この子を私があずかってもよい」。
マリアは心を揺さぶられます。
けれどもその時、さっき見させられた場面の別の面が見えてきたのです。
眠っている弟子たちを見つめるイエス様の目には、慈しみがあふれていました。
十字架につけられた他の二人の内の一人は、イエス様を信頼の目で見つめていました。
そして、裁判を受けさせられているイエス様には、罪の意識は全く感じられなかったのです。
そこでマリアは天使の提案を断ります。
その天使は実は悪魔で、イエス様の命を奪うために、天使の姿でマリアのところにやってきていたのです。
これは見事な小説だと思いますね。
マリアが見させられた場面はすべて聖書に書かれているわけですけれども、聖書は小説に比べればあまりくわしくその時その時の様子を書いたりはしませんから、その人のまなざしがどうだったか、などということまでは、想像してみなくては分かりません。
この小説を読んで、なるほど、そういうことだっただろうな、と思わされました。

十字架につけられた他の二人の内の一人は、イエス様を信頼の目で見つめていたというのはそうでしょうね。
何しろこの人は自分も十字架にかけられているのに、十字架の上で、イエス様への信仰を言い表しているんですね。
裁判を受けさせられているイエス様に、罪の意識が全く感じられなかったというのもそうでしょうね。
実際にイエス様が神を冒涜したなんていうことはありませんから。
ただ、眠っている弟子たちを見つめるイエス様の目に慈しみがあふれていたのかどうか、これはちょっと難しいですね。
何しろ弟子たちはイエス様から祈るように言われたのに、眠ってしまったわけですから。
ではどうだったのか、この時、実際のところ、イエス様はどのような目をしておられたのか、想像しながら読んでいきたいと思います。

まず、今日の場面ですが、場所はオリーブ山というところですね。
この場所はいつもの場所だったということですね。
これは聖書の少し前の21章37節に書かれていますが、イエス様はいつも夜はここで過ごしたんですね。
ということになりますと当然、弟子たちはその場所を知っていることになりますね。
裏切り者のユダもその場所を知っていたことでしょう。
ですので、イエス様がこの場所に来るのは危険なことです。
もうこの時、イエス様は権力者たちにとって邪魔な存在になっていました。
権力者たちはイエス様を殺すチャンスを狙っていました。
そして、裏切り者のユダは権力者たちと裏でつながっていたんですね。
ですので、いつもの場所にいるのは危険なんです。
ユダが知っている場所にいるのは危険なんですね。
ユダがその場所を権力者たちに知らせてしまえば、その場所でイエス様は捕まえられてしまうことになります。
これは前のページの22章21節ですが、イエス様はもうすでに、ユダが裏切ることを知っておられました。
しかし、捕まりたくないなら、逃げればいいんです。
けれどもイエス様は、あえていつもの場所に行ったんですね。
イエス様は、権力者たちが自分を捕まえに来るのを静かに待っているんです。
その時が今日この時であるということも知っておられたことでしょう。
その最後の時にしたことが、弟子たちと共に祈るということだったんですね。

イエス様は弟子たちにも祈るように言いました。
「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言っていますね。
これは大事なことが言われていると思いますね。
「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われているということは、逆に言って、祈らないでいるなら、誘惑に陥ってしまうということですね。
この誘惑という言葉は原文では、誘惑という意味にもなるし、試練という意味にもなる、そういう言葉なんですが、要するに、人が正しい道を行くことができないようにするマイナスの力ですね。
祈りというのは神様との交わりですけれども、私たちは、神様と交わることなくして、マイナスの力に打ち勝つことができないと言われているんです。
祈らなかったら私たちは負けてしまうんですね。
その私たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われているんです。
祈れば、私たちはマイナスの力に勝つことができる。
誘惑を、試練を、乗り越えていくことができる。
聖書はそのことを約束してくれているんですね。

では一体どんな試練に弟子たちがあうことになるのかと言いますと、ヒントになるのが、今日の45節ですね。
弟子たちは、悲しみの果てに眠り込んでいたと書かれています。
「悲しみの果てに」なんです。
弟子たちには何か悲しいことがあったでしょうか。
それは前のページの下の段の22章31節ですね。
イエス様が、弟子の一人のシモンという人に言いました。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」。
「あなたがた」というのは弟子たちです。
弟子たちはこれから、小麦のようにふるいにかけられるんですね。
これはまさに試練ですよね。
小麦をふるいにかけるというのは、もみがらと実を分けるためですね。
もみがらは当然捨ててしまうわけです。
ということは、弟子たちは実りのないものとして捨てられてしまうかもしれないんです。
しかも、次の32節で、イエス様はシモンに言っていますよね。
「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
「立ち直ったら」と言われているんです。
これはもう、あなたはこれから倒れると言われているのと同じですね。
要するに、弟子として不合格なことになるんです。
実際に、この後イエス様が捕まってしまうと弟子たちは全員逃げ出しました。
シモンは、イエス様の裁判が行われている場所にこっそり行くんですけれども、そこにいた人たちに、あなたはイエスの弟子じゃないかと言われた時、それを否定してしまいました。
私はイエスの弟子ではない、あんな人のことは知らないと言ってしまった。
ふるいにかけられて、こぼれ落ちてしまうんです。
試練に負けてしまったんです。
しかも、イエス様は弟子たちに対して、サタンが神に願って、神がそれを受け入れたという言い方までしていますよね。
これはもう、必ずそうなりますと言われたということです。
だとしたら、弟子としてこんな悲しいことはないですね。
ですので、弟子たちは悲しんで眠り込んでしまったんです。
眠り込んでしまったというのは、祈っていることができなかったということですね。
神様と交わりつづけることができなかったんです。
祈っていれば試練を乗り越えることができたはずなのに、そのことをイエス様が言ってくれていたのに、祈りつづけることができなかったんです。
深い悲しみは神様との交わりを断ち切ってしまうんですね。

こうなると何かこう、救いのない話ですね。
祈っていれば試練は乗り越えられると約束されているのに、深い悲しみが祈りの邪魔をする。
けれども、話はそこで終わりません。
弟子たちが眠り込んでいる中で、イエス様は祈りつづけておられました。
それもこの時、イエス様は弟子たちと同じく、試練の前に立たされていました。
イエス様はこれから自分がどうなるのかを知っておられました。
そして、祈りました。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」。
「杯」という言葉がつかわれていますが、これは聖書では苦しみを表す言葉です。
それを「過ぎ去らせてください」と祈っています。
ただこれは少し不思議なんですね。
イエス様はこれから何が起こるのかを前もって知っておられたんです。
自分が捕まえられて十字架につけられることを、もう三回も予告しておられました。
イエス様はもう、死刑にされることを承知しておられるんです。
ですので、この「杯」というのは、ご自分が死刑にされることではありません。
ではどういうことになるのかと言いますと、この「杯」という言葉は神の怒りを表す言葉でもあるんですね。
神の怒りが自分に及ぶこと。
それがもう耐えられないくらいに辛い。
イエス様は神の子ですから、人になられた神の子ですから、だからこそ、神の怒りが自分に及ぶということが耐えられないくらいに辛いんです。
神の怒りをイエス様が受ける、というのは、イエス様が何か、神を怒らせるようなことをしたということではありません。
神を怒らせているのは人間です。
イエス様はこれから、人間が神に背いていることに対する罰を代わりに受けてくださるんですね。
イエス様は私たちの身代わりなんです。
身代わりになるためにイエス様は人になってくださったんです。
しかしこれこそ、何という悲しみでしょうか。
弟子として不合格なことになると言われてしまった弟子たちの悲しみは私たちにも分かりますけれども、このイエス様の悲しみは私たちには分からない悲しみですね。
神の子が、神の怒りを受ける。
どれくらいの悲しみでしょうか。

けれども、大事なことは、この悲しみにもイエス様は眠り込まなかったということです。
どうしてでしょうか。
イエス様は続けてこう祈っています。
「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。
これが大事なことなんだと思います。
「御心のままに」ですね。
試練にあった時、「取りのけてください」と祈ることがあります。
弟子たちもそう祈ったかもしれません。
けれども、「取りのけてください」という祈りだけでは、試練を乗り越えることはできないんですね。
「取りのけてください」という祈りだけでは、悲しみの果てに祈ることをやめて、神様との交わりをなくしてしまうことになるんですね。
大事なのは、「御心のままに」なんですね。
祈りというのは神様との交わりですけれども、「御心のままに」というのはまさに神様との交わりに生きているからこそ言えることですよね。
誘惑に陥らない祈り、試練に負けない祈りというのはそういう祈りだと、イエス様は今、ご自分で模範を示してくださっているんですね。

しかし、さっき私たちは、サタンが神に願って聞き入れられたという話を聞きました。
神が試練を承知しているという話ですよね。
そうなると、神との交わりに生きると言っても、何か怖いような気がします。
しかし、サタンが神に願って聞き入れられたということは、サタンは神の許しの中でしか動けないということです。
どんな悪いことも、神の御心の中にあるということです。
では、神の御心は何でしょうか。
神の怒りは私たちに及んでいません。
神の怒りは十字架のイエス様にあります。
それでもなお、私たちが試練にあうことがあるのは、私たちが試練を通してきたえられ、高められるためです。
聖書のいろいろな場面にそういう場面が描かれていますけれども、それが神の御心なんですね。
ですから、こう言うことができます。
耐えられない試練はないんです。
今この時も、神様は私たちが試練を乗り越えることを期待しておられます。
あなたは、この試練を乗り越えられる。
神様はそう思っておられます。
そして、私たちが試練を乗り越えて、きたえられ、高められて、もっと神様に近づくことができるようにと願っておられるんです。
ですので、苦難ではないんですね。
試練なんです。
意味のない苦しみではないんです。
それを乗り越えて高められるステップなんです。

もし神にとって私たちがどうでもいい存在なんだったら、神はただ、私たちをかわいがることしかしないでしょう。
私たちは、よその家の子どもをそういうふうに扱うことがありますね。
けれども、自分の家の子どもだったとしたらどうでしょうか。
かわいがるだけなんてことはありません。
厳しく叱ることもあるでしょう。
それは、自分の子どもを本当の意味で愛しているからです。
神様も私たちをそのように扱います。
それは、言ってみれば、神様にとって私たちは、自分の家の子どもなんだということです。

聖書に戻りますが、次の43節は励まされる話ですね。
「御心のままに」と祈るイエス様を天使が力づけたんですね。
この祈りが御心にかなうものであるということです。
ですから、私たちは信じていいですね。
私たちが「御心のままに」と祈る時、私たちのそばに天使がいて、私たちを力づけてくれている。
ただ、「御心のままに」と祈ることは誰にとっても楽なことではありません。
44節ですが、イエス様は苦しみもだえながら祈ったんですね。
これは私たちも承知しているべきことだと思います。
苦しみの中で祈りつづけなければならないことというのはあるんですね。
しかし、その時には思い出してください。
その私たちは御心にかなっているんですね。
その私たちを天使が力づけてくれるんですね。

イエス様は祈り終わって立ち上がりました。
この「立ち上がる」という言葉は原文では「復活する」という言葉です。
イエス様は悲しみ苦しみを乗り越えたんですね。
そのイエス様が、眠り込んでいる弟子たちを見つめます。
どんな目で見ていたでしょうか。
イエス様はこれから、十字架にかけられます。
神の怒りを受けます。
けれども、もうイエス様に、悲しみも苦しみもありません。
目の前で弟子たちが眠り込んでいます。
自分が十字架にかかるので、この弟子たちは、神の怒りを受けることはないのです。
イエス様は弟子たちをどんな目で見つめていたでしょうか。
やはり、慈しみに満ちていたのではないでしょうか。
ですから、イエス様はこう言います。
「起きて祈っていなさい」。
この「起きて」という言葉は原文では、さっきの「立ち上がる」という言葉と同じ言葉です。
復活して、祈っていなさい。
眠り込んでいる弟子たちを怒ったりしないんですね。
復活しなさい、と言ってくださる。
これも、覚えておいてくださいね。
私たちだって悲しみに打ちのめされてしまうことがあります。
祈ることもできなくなってしまうこともないとは言えません。
けれども、たとえ私たちが倒れてしまっても、イエス様が私たちを起き上がらせてくださるんですね。
復活したイエス様が、私たちを復活させてくださるんですね。
ですので、何も恐れることはないんですね。
大丈夫です。
安心して、御心の中を生きていきたいと思います。
祈れないときは祈れないでいいですね。
イエス様が起き上がらせてくださいますから、それを待ちましょう。
怒られたりはしません。
大丈夫です。
イエス様は私たちを慈しんでおられるんです。

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