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2024年10月07日「みなしごにはしておかない」

みなしごにはしておかない

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 14章12節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 14章12節~21節

原稿のアイコンメッセージ

今日の最初のところで、大変なことが言われています。
「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」。
私たちに、イエスと同じことができるでしょうか。
また、イエス以上のことができるでしょうか。
できるはずがありません。
もしそんなことが私たちにできるのなら、そもそも神の子イエスが人となって私たちの所に来る必要はなかったはずです。
イエスが私たちを救ってくださらなくても、私たちは自力で救われるはずです。
ただ、現実に、世々にわたって、イエスの弟子たちは、イエスよりも大きな業を行ってきたと言えます。
イエスの時代に、イエスによる救いを信じた人は何人くらいいたでしょうか。
イエスが十字架に付けられた後に復活して、五百人以上の弟子たちに姿を現したとコリントの信徒への手紙に書かれています。
これが弟子たちの数について書かれる一番多い数字なのですが、だとすると、イエスの時代に、イエスによる救いを信じた人は五百人くらいということになるでしょうか。
当時の世界の人口は二億人です。
二億人の内の、たった五百人。
今、世界の人口は八十億人に迫っています。
その内、クリスチャンは二十四億人です。
五百人が二十四億人に増えたということです。
何倍でしょうか。
救われた人の数だけで言うと、イエスよりも、イエスの弟子たちの方が、よほど大きな働きをしたことになります。
代々にわたってイエスの弟子たちがしたことは、ただ、イエスが救い主であることを証ししただけです。
けれども、私たちが証しするということは決定的なことです。
証しされなければ、誰も何も知らないままになってしまうからです。
ですから、弟子たちは、証しという形でイエスの行う救いの業を推し進めていったということができますし、イエスよりももっと大きな業を行ったと言えるわけです。

そして、イエスはその働きも、弟子たちに丸投げするということはありません。
今日の最初の言葉に続けて、「わたしが父のもとへ行くからである」と言われています。
救いの広まりは、イエスが天に昇ることによって実現するんですね。
では、イエスは天の父のもとで、何をしてくださるのか。
それが、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」ということですね。
私たちが伝道していくに当たって、イエスが私たちの祈りを天の父である神に取り次いでくださるのです。
イエスが父のもとにいらしたからこそ、私たちが祈ったことが父なる神にしっかりと伝えられるということになるわけです。
そしてそれは、父なる神の栄光にもなると書かれています。
神の子が、父なる神に、私たちの祈りを取り次いでくださることが父なる神の栄光になる。
父なる神が神の子を地上に遣わして、神の子が地上の人々に信仰を与え、父なる神の元に戻ってきた。
それは父なる神が計画して始めたことであり、私たちがイエスの名によって祈るのは、神の計画が実現していることの証しですから、父なる神の栄光にもなるわけです。
何より、そもそも、人を救うということは神しかできないことですし、神が最もなさりたいことです。
ですのでまさに、神の栄光であるわけです。

ただ、私たちの祈ることは、どんなわがままな願いでも聞いていただけるということではありません。
ここで、イエスの名によって祈るという言葉が繰り返されています。
「名」というのは「名義」ということですが、私たちは、神の子イエスの名義をお借りして祈るわけです。
ただ、名義を借りるというのはどういうことか。
私たちが誰かの名義を借りるということはこの世でもある訳ですが、名義を借りてできることというのは、その人がそれでいいよと承知してくれる限りでのことですね。
誰か偉い人の名義が借りられれば、何でもできるわけではありません。
この場合ですと、イエスの教えに沿って祈ることなら、聞いていただけるということになります。
それが15節の「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」ということですね。
いきなりこの言葉が出て来たような感じですが、イエスを愛し、イエスの掟を守っている限りで、つまり、イエスに沿って祈る限りで、聞いていただけるということなんですね。
すでにイエスの唯一の掟が与えられていましたけれども、ここでは掟の内容よりも、イエスを愛するということが大事なんだと思います。
最後の21節に、同じような言葉がまた出てきていますけれども、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」ということですね。
イエスの掟を守ることがイエスを愛している証になるわけですが、大事なのは愛することです。
そして、イエスを愛したら、神とイエスに愛されるわけです。
その愛の中で祈るなら、その祈りをイエスが父に取り次いでくださるんですね。

こういうことですから、私たちはこの世で、イエスのことを様々な方法で証ししていくわけですが、それよりも大事なのがまず祈ることですね。
私たちの伝道が大きな業となっていくのは、神の右におられるイエスが私たちの祈りを取り次いでくださるからです。
そして、私たちの伝道は、それ以外のものにも支えられているというのが16節ですね。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」。
イエスから、天の父にお願いして、私たちに聖霊を降してくださるんですね。
私たちの伝道は、聖霊の働きによっても支えられて、全世界に広がってきたのです。
その聖霊のことが、「別の弁護者」と言われています。
イエスとは別の弁護者ということですね。
この弁護者という言葉は法律家としての弁護士を指す言葉でもありますが、直訳すると、「そばに呼ばれた者」という言葉です。
そばに呼ばれて、その人を支援する人、ということですね。
つまり、イエスも聖霊も、私たちの祈りに聞き耳を立ててくださって、私たちを支援してくださる存在だということです。

ただ、17節によると、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない」ということですね。
確かに、神の霊というものは、天の父なる神に比べるとイメージしにくいのは事実です。
旧約聖書の中で何カ所かに、神の霊が人に降るという出来事が書かれていますが、それはその時だけで、神の霊が人に降って、ずっとその人に留まっていたというのは、旧約聖書には無かったことでした。
ですのでなおさら、神の霊について聞いたことはあるけれども、興味はない、ということになってしまうわけです。

ただ、イエスは、弟子たちには、聖霊を遣わすことを約束してくださいました。
そのことが起こるのはもう少し後のことになりますが、そうなったら、イエスの言葉で言いますと、「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」ということになっていくわけなんですね。
それにしても、聖霊というのは神ご自身です。
どうしてそこまでしてくださるのでしょうか。
18節に、イエスの御心が書かれています。
「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」。
神の目に、神と離れた人は、みなしごなんですね。
そんなかわいそうなことになさせない、ということなんです。
イエスは、私たちの所にいらしてくださったし、私たちの所に戻ってきてくださる方です。
神である聖霊を遣わしてくださるということは、神であるイエスが共にいてくださるというのと同じことですね。
この世の人には、もうイエスは見えません。
ですが、イエスは私たちとは一緒に生きてくださって、イエスの業を見させてくださるのです。
「かの日には」、それは、聖霊が弟子たちに降る日ですが、「わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」ということですね。
私たちの内に、聖霊が降ってくる。
私たちの内に聖霊がいることになる。
そうなると、私たちがイエスの内にいて、イエスが父の内にいるということが分かる。
前に、イエスが父の内にいて、イエスの内に父がいるという話がありましたが、父と子の関係は、それくらい一つになっているんですね。
どちらが外で、どちらが内か決められないくらい、一つなんです。
そしてその、一つの神の中に、私たちも入れられていくんです。
混じり合って、一つになっていく。
聖霊が降ることによってそういうことが起こるんですね。
だからこそ、イエスの名によって祈ることは何でもかなえられる、ということになっていくわけです。

ただ、今日の話を読み返してみると、本当に驚きますね。
私たちのために、あまりにも手厚い手当てがなされていることに驚きます。
どうしてここまでしてくださるんでしょうか。
イエスは今日、私たちに、もっと大きな業をするようにと言いました。
それは、救いを伝えて広めることですが、救いを広めなければならないということは、当然ですが、救いがまだ完成していないということを意味します。
つまり、この世における私たちの歩みには、罪があり、弱さがあり、苦しみがあり、悲しみがあり、時として、自分がみなしごになってしまったかのように感じることさえあるわけです。
その私たちの事情を知っておられて、そうはさせないと、今日、これだけのことを約束してくださったんです。

実際、イエスは、私たちのことをよくご存じです。
よく見ておられます。
そして、手を差し伸べてくださいます。
これは、こういう話があります。
ジョージ・パーカーというお年寄りがいました。
家族を残して、大きな町に出稼ぎに来ていたその人は、ある日、妻が死んだという電報を受け取ります。
しかし、彼には、葬式をするお金はありませんでした。
友人の助けを借りようと、銀行の頭取になっていた人を訪ねるのですが、お金を貸しても返済できないだろうと断られます。
その友人は、「イエスに祈って助けてもらってください」と言って、その人を追い返しました。
公園のベンチで途方に暮れていたところ、近くに教会があることに気付いて、一番後ろの席に座りました。
そうすると、自分自身が、この世の栄光を捨てて神と人とに仕えて生きてきた人生が思い起こされました。
にもかかわらず、今は、何の当てもなくさまよっているんです。
今までは、苦しいことがあっても祈ることはしませんでした。
それも神の与えられた分だろうということで、受け入れてきました。
しかし、この時になって、彼は状況を打開することを求めて祈りました。
「主よ、今、私は苦しみの内にあります。どうか天の窓を開いて、私に祝福を注いでください」。
祈り終えて、教会を出ると、道行く人に呼び止められました。
「あなたはジョージ・パーカーさんではありませんか」。
「そうです」と答えると、その人は手帳を取り出して何事かを書き込み、その紙をちぎって彼に渡しました。
「どうぞこれをお受け取り下さい」。
それは1万ドルの小切手でした。
そのようなことをしたのは、彼がお金に困っているということが一目でわかったからかもしれませんが、その人はこう言いました。
「ずっと前のことですが、あなたは私に、天国の財産をくださいました。これはその時のお礼です」。
「あなたは以前、カンザスの刑務所で何度もお話してくださったことがありましたね」。
「ある日、私は二人の看守に付き添われて、あなたのお話を伺ったんです。その時あなたは、旧約聖書のマラキ書三章十節『こうしてわたしをためしてみよ。……私があなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを試してみよ』という御言葉をお話になりました。当時私は手の付けられないような凶悪犯で、十年の懲役に服していました。しかし、その時神の恵みを受けて、それから間もなく信用を得て釈放され、実社会に出て来たのです。その後、多くの困難がありましたが、主は絶えず私をお守りになり、約束を果たしてくださいました。私は囚人として刑務所に入りましたが、あなたの話を聞いたおかげで、神の子として出所したのです」。
その人は老人の肩に手を置いて言いました。
「主が祝福を注ぐと約束なさったからには、必ずそうなるんですね」。

今日、私たちも、この上ない祝福の約束をいただいたと言えます。
その私たちに、苦しみ悲しみの出来事が覆いかぶさってくるようなことはあるでしょう。
時には、みなしごになってしまったと思われることもあるかもしれません。
しかし神の約束は祝福の約束です。
私たちが苦しみ悲しみに甘んじなければならないということではありません。
私たちにするべきことがあるとすると、信じて祈ること。
後のことはすべて、イエスがなさってくださいます。
私たちは今日、そのような約束の言葉を聞いたのです。

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