2024年09月17日「今すぐ、しなさい」

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聖句のアイコン聖書の言葉

21イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」22弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。23イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。24シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。25その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、26イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。27ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。28座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。29ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。30ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 13章21節~30節

原稿のアイコンメッセージ

最後の晩餐の場面の続きです。
とうとう、イエスがはっきりした言い方をします。
「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
イエスは今までにも、裏切り者が出ることをほのめかすことはありましたが、ここでは、弟子の一人が裏切ることをはっきりと言いました。
そして、それを言うイエスは心を騒がせておられた、とありますね。
イエスの弟子というのは、ずっとイエスについて来た者たちです。
ずっと一緒にいた者たちです。
その弟子たちの中から、悪魔に捕らえられてしまう者が出てくる。
これはイエスにとって最もつらいことだったでしょう。
イエスは人を救うために来られたんです。
それなのに、弟子の中から、ご自分から離れて、滅ぼされる者が出る。
これほど辛いことはなかったでしょう。

しかし、弟子たちには、それを聞いても誰のことか分かりませんでした。
弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた」とあります。
この時、ペトロが、イエスの隣にいた弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図しました。
ペトロとしても、それが誰なのかは当然気にかかる所ですが、あまりにも深刻な話ですから、自分では聞かずに他の者に聞かせたわけです。
それにしても、ペトロの態度はどうでしょうか。
「だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した」とありますが、手振りと表情で、「質問しろ」と伝えたわけですね。
声には出さずに。
ずいぶん上からの態度です。

では一体、ここでペトロから合図された弟子は一体誰だったのかと言いますと、この弟子のことがここでは、「イエスの愛しておられた者」と言われています。
この「イエスが愛しておられた者」という言い方はここに初めて出てくるのですが、この後、何度か、大事な場面に出てきます。
そして、この福音書の最後の場面、イエスがペトロと一緒に歩いているところでも、このイエスの愛しておられた弟子は、後からついてくるんですね。
そして、それに続けて、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」と言われています。
つまり、この弟子はヨハネのことだということになります。

イエスが地上におられた時代に、ヨハネは10代半ばだったと考えられています。
当時は10代前半で成人式ですから、もう子どもではないんですが、若いですね。
それに対して、ペトロはイエスと同じくらい、30過ぎです。
ペトロとヨハネの年齢差は2倍なんですね。
そう考えると、この時のペトロの態度は理解しやすくなります。
もっとも、ヨハネの方ではペトロのことを納得していなかったようで、自分のことを「イエスの愛しておられた者」と書いていて、自分だけが愛されているかのように言ってみたり、弟子の誰かが失敗した時、他の福音書ではその人の名前は出さないでいるのに、ヨハネによる福音書では、それはペトロだと名前を挙げてみたり、そもそも、ペトロという名前はイエスからいただいた名前で、「岩」という意味で、「あなたの信仰は岩だ」という、イエスがほめてくださって付けてくださった名前なのに、ヨハネによる福音書では、ペトロのことはペトロではなく、シモン・ペトロなんですね。
シモンというのは元々のペトロの名前なんですが、意味は「小石」です。
つまりヨハネは、ペトロのことを、あの人は岩だと言われたけれども、本当は小石くらいのものだと言っているんですね。

ただ、心の中にはいろいろあっても、二倍年上の人に頭は上がりません。
ヨハネはイエスに尋ねます。
この時、ヨハネは、イエスの胸もとに寄りかかっていました。
ということは、ヨハネはイエスの右隣にいたんですね。
どうしてそれが分かるのかと言いますと、この時代には、食事をする時には、低いテーブルを囲んで、横になって寝そべって、左ひじをついて上半身を起こして、右手で食べ物を取って食べたんですね。
ですので、皆、横になって右側を向きますから、イエスの胸もとに寄りかかることができるのは、イエスの右隣の人だけです。
その、右隣のヨハネが、イエスに質問しました。
「主よ、それはだれのことですか」。
弟子の中で一番若いヨハネがこの質問をするのは楽なことではなかったでしょう。
皆に聞こえるような大きな声で質問したとは思えません。
ただ、もちろん、イエスには聞こえる声でした。
イエスは答えます。
「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」。
パンは酢に浸して、柔らかくして食べたんですね。
イエスがそれを与えたのがユダでした。
これではっきりしました。
裏切り者はユダですね。

でも、他の弟子たちは、この後も、誰が裏切り者なのか分かっていません。
ということは、イエスが、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言った時、その声も非常に小さな声だったのではないかと思います。
つまり、「主よ、それはだれのことですか」、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」というこの会話は、ヨハネとイエスだけが聞き取れた会話だったんです。
そして、イエスが横になったままでパンをユダに渡すことができたということは、ユダは、イエスの背中側、イエスの左側にいたはずなんですね。

とにかくこの時、ユダにサタンが入りました。
13章の最初に、悪魔がユダに、「イエスを裏切る考えを抱かせていた」とありますが、逆に言うと、今までは、悪い考えを抱かせるだけでした。
けれどもこの時は、サタンがユダの中に入ってきたんですね。
イエスは続けて、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われました。
そうすると、ユダはそこから出て行きました。
「夜であった」と書かれています。
夕食の時のことなので、夜なのは当たり前ですが、ユダは、夜の闇の中に出て行きました。
光であるイエスを離れて、サタンの闇の中に溶け込んでいったということです。

ただ、この場面には不思議なことがあります。
そもそも、ヨハネが質問したのは、裏切り者は誰なのか、ということです。
だったら、イエスは、ヨハネにだけ聞こえるように、名前で答えてくださっても良かったのではないでしょうか。
でも、イエスはパンを差し出した。
どうしてそんな回りくどいことをするのでしょうか。
食事の席でパンを差し出すというのは、その人に対する好意の現れなんですね。
そもそも、この晩餐の主人であるイエスの左側の席というのは、一番いい席なんですね。
そこにユダを居させていたんです。
つまり、イエスは、この時になっても、ユダを愛していたということです。
また、13章18節に、「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」という旧約聖書の言葉が引用されていました。
ここでイエスがユダにパンを渡したことによって、昔々から預言されていた通りになったのだということにもなりますね。

ユダはイエスからパンを受け取りました。
その前の、ヨハネとイエスのやり取りはユダには聞こえていなかったんでしょう。
ユダとしては、差し出されたので受け取っただけです。
しかし、ユダはこの時までに、イエスを裏切る考えを抱いていました。
まだ裏切ってはいません。
まだ、権力者たちのところに行って、イエスの居場所を告げ口してはいません。
けれども、チャンスがあったらそうしようと思っていました。
そのような状態の時に、イエスからパンを差し出されました。
ただ、そのパンを食べる前に、サタンが入りました。
どうしてこの時なのかと思いますが、パンはイエスの好意ですから、ユダがそれを食べると、裏切る気持ちを無くしてしまうかもしれないということを、サタンは心配したのかもしれません。
サタンとしては、何とかしなければいけないという状態だったのでしょう。
ただ、イエスは、ここでユダにサタンが入ったことに気付いたはずです。
サタンを追い払ったこともあるイエスですが、ここではそうしません。
イエスは言いました。
「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」。
サタンとしては、これほどラッキーなこともないですね。
ユダは出て行きます。
イエスはそのようにして、「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」という御言葉を実現させたのです。
ここでの流れをそのように考えてみますと、この御言葉は偶然この時に実現したのではありません。
イエスがこの時に実現させたのです。

また別の見方をしますと、イエスは、私たちをどこまでも愛してくださる方ですが、私たちがイエスの元に留まることを強制なさることはない、ということになるでしょう。
イエスは私たちを救うために私たちをご自身の元に集めてくださる方ですが、救いは強制されるものではありません。
救いは、むしろ、私たちが求めるものであり、求めたところで与えられるものです。
イエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とおっしゃいました。
同じことは、私たちにも言われていると言えます。
私たちは、したいようにしていいのです。
今までそうしてきたように、これからもです。
では、私たちは、今、何をしようとしているのでしょうか。
そこに、私たちが救いに至るのか、滅びに向かうのかがかかっているということなんですね。

イエスはユダを最後の最後まで愛しました。
イエスが愛したのは、今日の場面に初めて出てくる、「イエスの愛しておられた者」だけではありません。
この13章の最初に書かれている通り、イエスは弟子たち皆を愛して、この上なく愛し抜かれました。
この食事の席で、弟子の足を洗った時も、ユダの足だけは洗わなかったとは書かれていません。
イエスはユダも含めて弟子たち全員の足を洗ってくださったのです。
イエスはヨハネを愛したが、ユダは愛さなかったとか、ユダに対する愛はヨハネより少なかったということはありません。
にもかかわらず、この場面ではユダが裏切り、同時に、「イエスの愛しておられた者」という言葉が、ここに初めて出てくるのです。
これは、ユダと「イエスの愛しておられた者」というこの二人は、私たちがこの二人のどちらにもなりうるということです。
この二人を分けたものは、決定的なこととしては、ユダにサタンが入ったことです。
ただ、裏切り者を権力者のところに行かせて、イエスの居場所を教えさせるというのなら、弟子たちの誰でも良かったはずです。
ユダでなくても良かったんです。
ヨハネでも良かったんです。
でもどうして、ヨハネではなかったのか。
ヨハネは、「イエスの愛しておられた者」だからです。
ヨハネは、自分が一番愛されていると思っていたからです。
本当のところ、これが決定的なことになるのだと思います。
自分が一番愛されていると思えるかどうか。

私の神学生時代、神学校の校長先生が、説教の中で、「私は誰よりも神に愛されていると思っている」と言いました。
どうしてそう言えるのか。
その先生は言うんですね。
私は人よりも罪深い、だから、私は誰よりも神に愛されていると思っている。
私の目にはその先生が罪深いようには見えませんでしたが、その先生は確信に満ちてそうおっしゃいました。
だからと言って、罪深さで一番を競うということはしなくて良いのだと思います。
皆、一番愛されている。
それが事実ではないでしょうか。

エディ・タウンゼントというボクシングのトレーナーがいました。
熱心なクリスチャンでもありました。
戦前のハワイで生まれ、ボクシングの選手として活躍して、戦後、日本に渡ってきて、ボクシングのトレーナーになりました。
キリストの愛で指導して、育てた日本人の世界チャンピオンはなんと6人。
藤猛、海老原博幸、柴田国明、ガッツ石松、友利正、井岡弘樹。
その指導方法は、「独特」のものでした。
当時、ボクシング・ジムには竹刀が置かれているのが普通でした。
トレーナーは、それを持ちながら、時には使いながら、指導するわけです。
今だったら問題になるところですが、当時はそれが当たり前でした。
しかし、エディさんはジムから竹刀を撤去させました。
「牛や馬みたいに叩かなくていいの。人間だから、話せば分かるの」。
カタコトの日本語で一生懸命そう言って、ジムの中で竹刀を使わないようにさせたそうです。
「ハートのラブで教えるの」。
それが、エディさんのモットーでした。
指導は熱心そのもので、選手以上に血気盛んなものでした。
試合になるとなおさらです。
ですが、日曜には、エディさんは、誰よりも早くに教会に行って、祈るのです。
時折はにかんでこう話したそうです。
「ボク、試合の時には選手に『相手を殺すのよ!』って怒鳴ってるのに、日曜は泣きながらお祈りするの」。
選手が勝ったときは、すぐさまリングを後にしました。
「勝ったらトモダチたくさんできるの。だから僕はいいの」。
選手が負けた時は、一晩中選手に付き添い、傷ついた選手の体を手当てしました。
負けた選手のところには誰も来ませんから、選手とふたりっきりです。
「勝った選手を抱くの、ジムの会長の仕事。負けた選手抱くの、僕の仕事」。
それが、ハートのラブ。
キリストの愛。
世界チャンピオンになった6人の教え子たちは、ある時、テレビ局のインタビューで、「誰が一番エディさんに愛されたと思うか」と質問されました。
そうすると、みんな同じ答えをしました。
「そりゃあ、僕ですよ」。
6人が、6人とも、です。
エディさんは、一人一人を、それぞれに、かけがえのない存在として愛していたんです。
教え子たち皆を、一番、愛していたんです。
どうしてそのように人を愛せるでしょうか。
キリストが、私たちを、そのように愛してくださっている。
私たちは、皆、一番愛されている。
エディさんはそのことを知っていたんでしょうね。
だから自分も、そのように自分の弟子たちを愛した。
私たちも皆、確信していいんですね。
私たちは、皆、一番愛されている。
キリストの愛は十字架に至る愛です。
命がけの愛です。
出し惜しみなんてないんです。
この上なく愛し抜くんです。
たった一人でも失いたくないから。
イエスにとって私たちは皆、オンリーワンなんです。
これが事実です。
イエスにとって、あなたの代わりになる人は、他に誰もいないのです。
あなたのことを、イエスは、一番、愛しておられます。

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