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2024年09月09日「互いに足を洗う」

聖句のアイコン聖書の言葉

12さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。13あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。14ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。15わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。16はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。17このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。18わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。19事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。20はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 13章12節~20節

原稿のアイコンメッセージ

先週、イエスは弟子の足を洗ってくださいました。
弟子の足を洗うというのは、前の場面の10節を見ると、足元から忍び寄ってくる罪を清めるということですね。
この時はお祭りの前でしたから、皆、水に浸かって、お清めをしていたわけですが、一たび清められたとしても、この世と関わりなく生きているわけではありませんから、足元から罪が入ってくるということはあることです。
この世に生きている限り、この世からの悪影響を全く受けていない人というのはいません。
イエスはそれを清めてくださったわけです。
その意味で、この足を洗うという出来事は、私たちの罪に対する罰を代わりに受けてくださるキリストの十字架につながるものであるわけです。

そのことは、今日の場面でもほのめかされています。
最初の12節に、「イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた」とあります。
この12節に対応しているのが前の場面の4節で、4節には、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ」とありました。
イエスは上着を脱いでから足を洗い、洗い終えるとまた上着を着たと書かれているわけです。
どうして上着を脱ぐ、上着を着るということがいちいち丁寧に書かれているのかと言いますと、これからイエスが十字架で命を捨てること、その後に、復活の命を受けることが、上着を脱ぐ、上着を着るということに重ね合わされているんですね。
10章17節に、イエスの言葉として、「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」とありましたが、命を受けるというときの「受ける」という言葉が、上着を着るというときの「着る」という言葉と同じ言葉です。
命を捨てるというときの「捨てる」という言葉が、上着を脱ぐというときの「脱ぐ」という言葉と同じ言葉です。
イエスは、上着を脱いで、つまり、命を捨てて、人の罪を洗い清めてくださった。
そして、それが終わった後には上着を着る、つまり、命を受ける、復活するということです。
そのようにして、この場面が、十字架と重ね合わされているわけです。

そしてそれは、イエスだけのことではありません。
このことは、弟子たちが行うべきことでもあります。
この時、弟子たちがどれくらいのことを理解していたでしょうか。
イエスはまず、「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」と言います。
ただ、弟子たちの理解を確認せずに、ご自分が先生の立場であり、弟子たちはご自分に従うべき者であることを言います。
具体的には、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」ということですね。
ただこれは、簡単なことではありません。
相手の足を洗うというのは、単に足を水で洗えばそれでいいということではありません。
相手の足を洗うことは、十字架と重ね合わされることなのです。
この時代には、人の足を洗うという仕事は、奴隷の仕事、それも、異邦人の奴隷の仕事でした。
ですから、まず、世の中で一番自分が低い所にいるのだという気持ちにならなくてはならないわけです。
その上で、何も言わずに、相手の足を洗う、つまり、相手の罪を自分がぬぐうということですね。
できるでしょうか。
相手に罪があるんです。
その罪を、指摘するのではなく、まして、相手を批判するのでもなく、自分が一番下なんだと考えて、黙って相手の罪をぬぐう。
これは、ただ単に罪を赦す、責任を問わないということ以上のことが求められていると言ってもいいでしょう。
何かあった時、相手を批判するのではなく、「いいですよ、私は気にしていませんから」。
これでは、赦しただけです。
赦された方では何も分かっていなくて、また同じ罪を繰り返すかもしれない。
相手の足を洗うというのは、そういうことではないんですね。
相手の罪が無くなるように、自分が相手よりも誰よりも低くなって、自分が行動するということです。

ただここで言っておかなければならないことは、11節で、イエスご自身が、「皆が清いわけではない」と言っていたということです。
これはユダのことを言っているわけですが、この後、ユダは裏切ります。
ユダもお祭りの前に水に浸かって実を清めていたはずです。
ユダもイエスに足を洗ってもらったはずです。
ユダには悪魔がとりついていたということが2節に書かれていましたが、悪魔にとりつかれているとしか言えないようなことというのはあって、そうなったら、そこからいくら、水に浸かるとか足を洗うとか、誰にでもできる仕方で人間を清めても、もう手遅れだということなんですね。
そういうこともあると、イエスも認めているわけです。
ですからこれは、結果が求められているのではないということです。
ただ、相手の罪が無くなるように、自分が相手よりも誰よりも低くなって、自分が行動するということです。

また、もう一つ考えなければならないことは、洗うのは足だけであるということです。
イエスも、弟子たちの全身を洗ったわけではありませんでした。
イエスは、10節で、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と言いました。
全身洗ったのなら、足も洗ったはずですが、足だけはこまめに洗うのがよいということですね。
足というのは、この世と一番接しているところであるとも言えます。
そして、私たちはこの世に流されやすい者でもあります。
この世になじんでいなくては生きていけないという現実もあります。
ただ、15章19節のイエスの言葉ですが、「わたしがあなたがたを世から選び出した」ということですね。
私たちはこの世から取り分けられて、ここにいるわけです。
ですので、イエスの弟子として、この世の罪が入り込まないようにいつも注意しているべきです。
足を洗うというのはそういうことですね。
その人に、この世の罪が足元から入り込もうとしているのを、取り除くことなんです。
それは、イエスの弟子としてのことです。
だから、このことを、弟子たち同士でやりなさいと言ったんですね。

そうは言っても、相手の罪が無くなるように、自分が相手よりも誰よりも低くなって、自分が行動するということは簡単なことではありません。
だから、イエスは言うんですね。
「はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない」。
しもべというのは弟子たちのことです。
主人はイエスのことです。
遣わされた者というのは弟子たちのことです。
遣わした者というのはイエスのことです。
イエスの弟子というのは、主人であるイエスによって遣わされる者であるわけです。
今はまだ弟子たちはイエスのもとにいますが、イエスはこれからのことを見すえて言っています。
これから、イエスは弟子たちと一緒に地上で生きるということはなくなります。
しかしそれは、弟子であることが終わったということではない。
イエスは天に昇っていくわけですが、それは、イエスからすると、弟子たちを遣わしたということなのです。
そして、主人であるイエスが、弟子の足を洗ってくださったのです。
そればかりか、十字架にかかってくださったのです。
そして、そのイエスに遣わされていくのです。
その立場で、人の足を洗いたくない、というのはおかしいのです。
だから、イエスは言うんですね。
「このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである」。
このことが分かり、その通りに実行できるなら、なぜ幸いなんでしょうか。
イエスが自分の足を洗ってくださった。
自分のために十字架にかかってくださった。
それが分かっているということだからです。

ここでイエスは、「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている」と言います。
裏切り者を意識した言葉です。
ただここで、裏切り者を取り上げたというのは、大きなことです。
私たちは、互いに足を洗い合うことによって幸いになるのか、そうせずに去っていくのか、どちらかしかないのです。

続けて、これから起こる裏切りが、聖書の言葉の実現であるということが言われます。
二重のカギカッコの中に入っているのは、詩篇41編10節の御言葉です。
ちょうど今、イエスと弟子たちは食卓についているわけですが、「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」ということですね。
これから起こる弟子の裏切りも、御心の実現であったわけです。
大事なのは十字架ですから、必ずしも弟子に裏切られなければならないわけではないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。
ただ、十字架は、過越祭の時でなければなりませんでした。
過越祭というのは、昔々、エジプトで奴隷にされていたイスラエルの人々が、神に救い出されたことを記念するお祭りです。
その時、イスラエルの人々は、小羊をほふって、その血を戸口に塗りました。
そして、小羊の血が塗ってある家には神の怒りが入っていかない、小羊の血が塗っていないエジプト人の家には神の怒りが入っていく、という仕方で、神はイスラエルの人々を救ったんですね。
つまり、小羊の血によって救われたわけです。
だから、十字架は、このお祭りの時こそふさわしいのです。
十字架は、神の小羊であるイエスの血によって救われることだからです。
ただ、イエスの敵であった権力者たちは、祭りの時にイエスを逮捕するのは止めておこう、と考えていました。
祭りのために多くの人が集まっている中ですから、暴動が起こった場合、大変なことになるからです。
ただ、この後、裏切り者がイエスの居場所を権力者たちに伝えます。
そうすると権力者たちはすぐにイエスを捕まえるために動きます。
居場所が分かったのです。
それも人が寝静まっている夜中でしたから、これはチャンスです。
そこで、急遽、やっぱり今すぐイエスを逮捕しようということになったのです。
逆に言って、そのような流れになるためには、一番身近にいるものの中から裏切り者が出なければならないわけです。
ただそれも、聖書の言葉の実現でした。
それも、人の考えを超えて神が定めておられたことだったのです。

そのことを、イエスは弟子たちに前もって伝えます。
「事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである」。
「わたしはある」という言葉が二重のカギカッコの中に入っていますが、これも旧約聖書からの引用ですね。
この「わたしはある」という言葉を、イエスは今までにも繰り返してこられましたが、これは神のお名前ですね。
名前というものは上の者が下の者に付けるものですから、神には名前がないわけですが、モーセが神に名前を尋ねた時、神が「わたしはある」と答えたんですね。
つまり、ここでイエスが言っているのは、あなたがたは後から、私が神であると知ることになるということです。

ただ、この話の流れでこのことが言われているというのは、大変なことです。
これだけ先のことまで話しておくということは、逆に言って、ここまで全部分かっていなければ、人間には、人の足を洗うことはできないと言われていることにもなるからです。

そして、それ以上に大きなことは、弟子たちの役割です。
これからイエスは天に昇っていきます。
弟子たちは地上に残ります。
それはイエスからすると、弟子たちを地上に遣わしたということになるのですが、弟子たちは、地上でイエスの十字架と復活をのべ伝えていきます。
救いを広めていくことになります。
その時、「わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。
結局のところ、人が、弟子たちを受け入れるかどうかに救いがかかっていると言うんですね。
人が弟子たちを受け入れてくれなければ、その人は救われないのです。
そのために、人に受け入れてもらうために、まず、あなたがた弟子たちが、お互いの間で、お互いに受け入れ合いなさい、罪を裁くのではなく、上から目線で忠告するのでもなく、お互いに足を洗い合いなさい、と言われているんです。

また別の見方をするなら、弟子たちが遣わされていくのは、この世の人たちのところにです。
だからこそ、この世から取り分けられた者である弟子たちは、この世の罪に染まらないように注意しなければなりません。
それを、お互いに批判し合うような形ではなく、何も言わずに身を低くして、相手の足を洗う、という仕方ですること。
それがイエスの弟子としてふさわしいのだ、とイエスが言っておられるのです。

しかしこれは、イエスもそう思っておられるように、簡単なことではありません。
相手の罪を何も言わずに、自分が身を低くしてぬぐうということ以前に、そもそも、私たちは人の罪を赦すことが苦手です。
人の罪に気づき、それを指摘する、または批判する方に、私たちの心は傾いています。
ある偉人は、こういうことを言いました。
「弱い人間は、決して許すことができない。許すということは、強い人間の象徴である」。
強い人間でなければできないのです。
「敵を許すということは敵を憎むことよりも気高いことである」。
気高い人間でなければできないのです。
弟子たちは、私たちは、強い人間でしょうか。
気高い人間でしょうか。
これらの言葉は、マハトマ・ガンジーの言葉です。
白人からの差別に対して、非暴力不服従を訴えて、やがては仲間からも煙たがられ、命を落とした人です。
そのガンジーはこうも言っています。
「私はキリストを尊敬している。しかし、キリスト教徒は尊敬できない。彼らは、キリストに似ていない」。
その通りです。
私たちの、自分の力ではできません。
しかし、そこで思います。
だから、キリストがこの世に来てくださった。
私のために十字架にかかってくださった。
私のために、神が、十字架の救い主となってくださった。
そのことを心に収めましょう。
その神が、私の足を洗ってくださったのです。

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