イエスが弟子の足を洗ってくださる場面です。
これは有名な場面ですね。
この場面の後には、弟子たちがお互いに足を洗いあった場面が続くのですが、それに基づいて、「足を洗う式」と書いて「洗足式」という式を行っている教会もあります。
そのようなことをする教会があるくらい、この場面は、イエスの御心が強く現されている場面です。
イエスの御心が1節に書かれていますね。
「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。
もうこの時が、十字架前の最後の時だということですね。
その時イエスは、弟子たちを愛した。
ありったけの思いを込めて愛した。
もうこれが最後だと知って、愛さずにはいられなかった。
ただ、私たちが最後の最後、人を愛するとなったら、私たちは何をするでしょうか。
イエスは、普通に考えたら私たちの誰もしないようなことをしたわけです。
弟子の足を洗ったんですね。
そもそも、という話ですが、この時代には、足を全部覆うような靴というものはありません。
サンダルを履いていました。
そして、地面はアスファルトではありません。
土の地面です。
ですから、外を歩くと、足が土埃で汚れます。
ですので、外から帰ってきた人が最初にすることが、玄関で自分の足を自分で洗うということでした。
ほとんどの人は、自分の足を自分で洗います。
ですけれども、自分の足を人に洗わせる人もいました。
自分の家に奴隷がいる人は、奴隷に自分の足を洗わせるということがありました。
しかし、イスラエルでは、たとえ奴隷であったとしても、自分の足をイスラエル人の奴隷に洗わせてはいけない、足を洗わせていいのは、異邦人の奴隷だけであるということになっていました。
つまり、人の足を洗うという仕事は、この世で一番低い仕事だということになっていたわけです。
イエスは、ご自分の弟子たちに対して、そこまでご自分を低くしてくださいました。
ただ、そのことについて、イエスはこの上なく自分を低くしたとは書かれていません。
この上なく愛し抜かれたと書かれているんですね。
イエスは、低くなっている自分自身を見ているのではないわけです。
弟子たちのことが尊い。
ご自分よりも尊い。
そのような思いを持ってくださって、その思いが、とっさに、このような行動になって表れた。
そういうことではないかと思います。
この時、「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを」認識しておられたと書かれています。
「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを」悟った。
この話以上にスケールの大きい話はありません。
だとしたら、もっと他に、何かスケールの大きな奇跡を見せるとか、今までにはしなかった話をするとか、いろいろできそうな気もしますが、イエスがなさったことは、弟子の足を洗うということでした。
イエスが意識していたのは、ご自分のスケールの大きさではありません。
弟子たちと一緒に食卓を囲むのはこれが最後になる。
そうなった時に、最後の最後まで、この愛する弟子たちに、できる限りのことをしてやりたい。
その思いが、こういう行動になった。
そういうことだと思います。
しかし、この場面は食事の席です。
だとすると、弟子たちは、家の中に入るときに、自分の足を自分で洗ったはずです。
にもかかわらず、どうしてここで、足を洗うのでしょうか。
10節でイエスは言っています。
「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」。
まず、「既に体を洗った」と言われています。
これは、食事の前にお風呂に入ったということではありません。
この時は、過越祭というお祭りの前のことでした。
お祭りの前には、水で身を清めます。
町のいろいろなところに小さなプールがあって、そこに入って身を清めたんですね。
弟子たちはそのようなお清めをしていた、ということです。
そうすると、全身清いとイエスも言ってくださるんですね。
ただ、それでも、足だけは洗う必要があるとイエスは言うんですね。
仮に、お風呂に入って全身をきれいにしたとしても、サンダルで土の道を歩くと、足だけは汚れます。
それと同じように、一度全身をお清めしたとしても、この世とはつながらずに生きているわけではありませんから、この世を生きる中で、この世のけがれが足元から入ってくるということはあり得ます。
普通に生きているつもりで、知らない間にこの世の罪が入り込んでくるということは誰にでもあることです。
その意味で、私たちは自分の足元に注意しなくてはならないんですね。
そして、ここでイエスが弟子の足を洗ってくださったことから思わされることは、イエスの弟子たちとは、自分の足を自分で洗って自分できれいにするということではないのだということですね。
私たちの足は自分で洗うものではない。
イエスが洗ってくださるんです。
そしてこの、イエスが私たちの罪を清めてくださるということの延長線上に、罪を滅ぼす十字架があるんですね。
ただ、弟子たちはまだ、これから何が起こるのかを何も知りません。
イエスが弟子たちの足を洗い始めました。
一人一人洗って、何人目だったでしょうか、ペトロが洗っていただいた時、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言いました。
ペトロまでにも足を洗っていただいた弟子がいたはずですが、その弟子たちは驚いてしまって、何も言えなかったということでしょう。
ただ、ペトロは、自分が一番弟子だと思っていますから、何も言わないわけにはいかないと思って、こう言ったのでしょう。
ただ、それに対するイエスの答えは、ペトロを戸惑わせるものでした。
「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」。
ペトロは自分が一番弟子だと思っています。
それだから頑張ってイエスに話しかけたのに、こんなことを言われてしまってはたまりません。
ペトロはイエスに口ごたえします。
「わたしの足など、決して洗わないでください」。
イエスを押しとどめようとします。
しかし、そこでイエスが言われたことは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」。
「何のかかわりもないことになる」という言葉は、「何の分け前も持たないことになる」という言葉です。
ペトロにはイエスと共にいただく分け前がない。
神の子イエスと一緒に、神からいただく分け前がない。
イエスと無関係な者とされてしまう。
救われない。
そんなことを言われてしまってはたまりません。
一番弟子どころか、ただの罪びとになってしまいます。
そこで、ペトロは言いました。
「主よ、足だけでなく、手も頭も」。
何とかしてイエスにしがみつこうとします。
けれども、イエスは言われました。
「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」。
ここで、ペトロは失敗しています。
何を失敗したのかというと、まず一つには、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言って、イエスを押しとどめようとしたことです。
これでは、イエスよりも自分を上に置いていることになります。
それは、弟子としてふさわしいことではありません。
そしてこれは、私たちも気を付けなければならないことです。
私たちも、「主よ、あなたが私の足を洗ってくださるのですか」ということがあります。
今起こっているこのような出来事には、どのような御心があるのですか、と問うことがあります。
また、「わたしの足など決して洗わないでください」と言うことがあります。
イエスの御心を考えないで、自分が居心地が悪いものだから、とにかく止めてください、停めてください、と言うことがあります。
そのような思いになってしまうことは仕方のないことかもしれませんが、もっと大事なことは、弟子のために足を洗ってくださり、十字架にかかってくださるイエスにゆだねることです。
ペトロのもう一つの失敗は、「主よ、足だけでなく、手も頭も」と求めたことです。
イエスは弟子たちの足を洗ってくださっているのに、これでは、イエスがなさってくださる以上のことを求めたことになります。
しかし、ペトロはここで大きな失敗をしたということでもないでしょう。
言葉の上では失敗しましたが、イエスはそれを厳しくとがめたりはしていません。
この後、結局、ペトロは足だけ洗ってもらったのでしょうから、結果として、イエスにゆだねたということになるでしょう。
ただ、ここには、裏切り者もいました。
2節には、「既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」とあります。
この悪魔という者は、聖書ではいつも、人間よりも力のある存在として登場してきます。
悪魔がある考えを抱かせようとしたなら、人間にはそれをどうすることもできません。
ただ、この後、裏切り者はイエスの敵たちのところに行って、イエスの居場所を教えるのですが、居場所を教えるのなら、十二人の弟子たち誰にでもできることです。
ではどうして、ユダなのか。
ユダは財布を預かっていたのにお金をくすねていたということがありました。
イエスの話にも、人は、神と富との両方に仕えることはできないという話があります。
お金を第一にしてしまうと、神には心が向かわなくなる、ということですね。
ユダもそうだったということになるでしょう。
だとしたら、悪魔は、弱い人間を選んで、裏切らせた、ということになりそうです。
けれどもイエスは、それを知っていながら、弟子たちの足を洗ってくださいました。
ユダの足は洗わなかったとは書かれていません。
イエスはユダとほかの弟子たちを分け隔てしていません。
イエスにとっては、皆、愛する弟子なのです。
弟子たちの中にはユダのように弱い者がいます。
逆に、ペトロのように強がる者もいます。
けれども、今の今まで、ご自分に付いてきた。
その弟子たちすべてを愛しておられるのです。
私たちにも、他のものに目がくらんで、神に心が向かわない時があります。
私たちにも、イエスを押しとどめようとしたり、イエスのなさってくださる以上のことを求めることがあります。
ユダもペトロも、私たちと大きな違いはありません。
私たちは、ペトロを見たりユダを見たりすると、残念な思いになるかもしれません。
この人はどこで間違ったのかと思うこともあるでしょう。
ただ、イエスは今日、あなたはここを直しなさいとは言われませんでした。
イエスは弟子たちを愛して、限りなく愛し抜かれた。
私たちは、安心して信じていいですね。
たとえ私たちがどうであろうと、イエスはどこまでも私たちを愛してくださる。
イエスは、この私を救うために、この私のところに来られた。
分からないことというのはあります。
どうしてこのようなことになったのか、と思うことのない人生はありません。
ただ、イエスはおっしゃってくださいます。
「後で、分かるようになる」。
私たちはそれを信じて良いのであります。