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2024年06月30日「人からほめられたい人々」

人からほめられたい人々

日付
説教
尾崎純 牧師
聖書
ヨハネによる福音書 12章36節~43節

聖句のアイコン聖書の言葉

36イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。37このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。38預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。
「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。
主の御腕は、だれに示されましたか。」
39彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。
40「神は彼らの目を見えなくし、
その心をかたくなにされた。
こうして、彼らは目で見ることなく、
心で悟らず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。」
41イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。42とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。43彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 12章36節~43節

原稿のアイコンメッセージ

イエスは今までの話を終えると、その場を立ち去りました。
どうしてかというと、結局、人々が、イエスを信じなかったからです。
イエスは今までにも多くのしるし(これは奇跡ということですが)を彼らの目の前で行われたのですが、それでも彼らはイエスを信じなかったのです。
これは、聖書の色々な所に書かれていることでもありますね。
奇跡を見るというのと、信じるというのは別のことです。
奇跡を見たら信じるというのが普通ではないかと思ってしまいますが、奇跡を見て、それを奇跡だと認めることと、イエスが神であり救い主であると認めるのとは別のことです。
ですから聖書には、奇跡を見ても信じなかった人たちがたくさん出てきます。
イエスは、そのような人たちの前から姿を消しました。
そして、次にイエスが人々の前に現れるのは、逮捕されて、裁判の場に引き出される時です。
そして、裁判の場ではイエスは沈黙したままです。
つまり、イエスが人前で御言葉を語ることは、もうこれで終わりになってしまったわけです。

ただ、今日の個所では、なぜ人々がイエスを信じなかったのか、ということについて、説明がなされています。
それは、「預言者イザヤの言葉が実現するためであった」ということなんですね。
人々がイエスを信じなかったのは、実は人間の都合ではなくて、神の言葉の実現だったというのです。
ここに、イザヤの言葉が記されています。
「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか」。
これはイザヤ書53章1節の言葉です。
イザヤはここで神に訴えています。
どれだけ自分が神の言葉を伝えても、誰も聞いてくれない。
このことが、イエスにおいても起こったのだ、ということなんですね。

そして、このイザヤ書53章は、人々に受け入れられず、侮辱されて殺される「主の僕」という人のことを語っています。
そして、この主の僕が苦しみを受けたのは、人々の罪を背負って、身代わりになって死んだということであり、それによって人が罪を赦され、救われる、ということを記しています。
このイザヤ書53章の言葉は、長い間、訳が分からない個所だということになっていました。
この主の僕は神から遣わされて神の働きをしていると言えますが、メシアのことだとは考えられていませんでした。
神から遣わされる救い主のことを旧約聖書の言葉でメシアと言い、人々はメシアを待ち望んでいたのですが、メシアは強い政治家か軍人で、メシアが人の罪を代わりに背負って死ぬとは考えられていませんでした。
ですので、この主の僕とは一体誰のことなのか、確かな答えが出ていなかったのです。
しかしここで、それが救い主イエス・キリストのことだった、とこの福音書を書いたヨハネは言ったわけです。
神の言葉を人が受け入れない、という場面は他にいくらでもありますが、わざわざここを引用したのは、それが言いたかったからです。
この主の僕はイエスのことで、イザヤ書53章は十字架の罪の赦しのことを書いているということです。
そして、このイザヤ書53章は、罪の赦しと救いだけではなく、人々が主の僕を受け入れず、侮辱したことも記しています。
受け入れられず、侮辱され、殺されてしまうところで、人の罪を背負って代わりに罰を受け、罪の赦しと救いが人に与えられることが実現していった、ということなんですね。
長い間、謎になっていた聖書の言葉を持ち出して、ヨハネは、これはまさに十字架のイエスを指していたんだ、と言ったわけです。

そして、ヨハネは、イザヤ書からもう一つの言葉を引用します。
イザヤ書6章10節、イザヤが聞いた神の言葉です。
「神は彼らの目を見えなくし、
その心をかたくなにされた。
こうして、彼らは目で見ることなく、
心で悟らず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない」。
これが、人々がイエスを信じなかった本当の理由だと言うんですね。
つまり、神が人々を信じないようにしたということです。
人々がもともと頑固だったとか、もともと理解力が足りなかったということではなくて、神が人々をそのようにさせた。
だから、人々はイエスを受け入れず、侮辱し、十字架に付けた、ということなんですね。
つまり、イザヤ書53章の身代わりになっての救いが実現するために、イザヤ書6章で、神が人々を頑なにした、ということです。

続けて、今日の41節で、「イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」と言われています。
これはおかしなことです。
イザヤはイエスの時代から700年も前の人です。
そのイザヤがイエスの栄光を見たというのはどういうことでしょうか。
イザヤの時代には、まだイエスは生まれていません。
しかしイザヤには、神の栄光を見たことがありました。
そのことが、先ほどの個所の少し前、イザヤ書6章1節からのところに書かれています。
それは、イザヤにとっては恐ろしい体験でした。
神の栄光がイザヤのそばに現れます。
そうすると、イザヤは言うんですね。
「災いだ。わたしは滅ぼされる」。
どうしてかというと、イザヤが自分で言っていることですが、人間というものは汚れたものだからです。
だから、神の栄光に耐えられない、自分は滅んでしまう、と恐れたんです。
しかしそこで、天使がイザヤを清めて、言ったんですね。
「あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」。
イザヤは罪の赦しをいただいたのです。
このことを受けて、この福音書を書いたヨハネは、イザヤはイエスの栄光を見た、と書いているんですね。
人の罪を赦す、救い主の栄光です。

そして、その後、イザヤは預言者として働くことになりますが、イザヤの預言者として働きは、イエスと同じものだったと言えます。
イザヤがいくら語っても、人々は受け入れてくれないんですね。
神が人を頑なにするからです。
しかし、それならどうして神はイザヤを預言者にしたのか、ということになってしまいます。
神が人に働きかけて人が受け入れないようにするのなら、預言者がいてもいなくても同じですから。
しかし、神の言葉は永遠に力のある言葉です。
ですから、もし誰かが、十字架の後で、イエスとは何者だったのか、と考えるなら、聖書を調べます。
十字架の後、イエスが復活した、ということを聞いた人は、当然、聖書を調べることでしょう。
そうすると、イザヤ書53章を見つけるわけです。
イザヤ書6章を見つけるわけです。
そこで、永遠なる神の御言葉が、イエスにおいて実現した、と考えることができるようになるわけです。
イエスの時代よりも少し後の時代のことになりますが、使徒言行録にも、イエスが何者かと考えるに当たって、聖書を調べる人たちのことが描かれていますが、そういうものなんですね。
ただこれは、ずいぶんややこしい方法ではないか、と思います。
むしろ最初からイエスを信じるようにしておけば良いのに、と思うかもしれません。
しかし、人々が最初からイエスを信じたのでは、イエスが十字架に付けられることにはなりません。
人々はイエスを十字架に付けたりはしなかったでしょう。
それでは、イザヤ書53章の救いは実現しないのです。
十字架の他に何か人を救う方法があれば良いと思うかもしれません。
しかし、罪に対しては罰を、というのが聖書です。
ですから、救い主というのは、人の代わりに罰を受けるしかないのです。

そして、今日のヨハネによる福音書の御言葉には、私たち自身がもっと深く教えられることがあります。
救いというものは本質的に、私たちが教えを聞いて理解して納得して受け入れることによって得られるものではないということです。
私たちが理解して受け入れて救われるのなら、その救いは、結局のところ、私たちの脳力にかかっているということになります。
しかし、救いはそのようなものではありません。
救いは、神が全てのハードルを乗り越えて、全ての事情を整えた上で、神が与えてくださるものなのです。
救いは、全て、神のなさることなのです。

しかし、だからと言って、人間には何の問題もないのかというと、そうではありません。
信じない人には問題があるというのが今日の最後のところです。
最後のところには、「議員の中にもイエスを信じる者は多かった」と書かれています。
ただ、「会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」ということですね。
会堂というのは単なる礼拝堂ではなく、地域の公民館でもありましたから、そこから追放されるというのは、地域から、社会から追放されるというのと同じことです。
そうなることを恐れて、表向きイエスについて何も言わなかった、もしかすると、表向きはイエスを信じていないと言っていたということですね。
その人たちのことが、「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」と言われています。
この一文は、原文では、「彼らは、神の栄光よりも、人間の栄光の方を愛した」となります。
つまり、彼らは、神の栄光よりも人間の栄光、自分の栄光を求めたと言われているのです。
神の栄光とは何でしょうか。
救いですね。
つまりここで、彼らは救いに与かることはできないと言われていることになるでしょう。
これほど深刻なことはありません。

先ほども申し上げました通り、救いは、神が実現してくださるものであり、神が与えてくださるものです。
人間が自力でそこにたどり着かなければいけないようなものではありません。
むしろ、人が救われるためには、自分の力を捨てて、神がなさってくださったことを見つめなくてはなりません。
その妨げになるのが、人間の栄光です。
救いは、人間の栄光ではなく神の栄光を求めるところに実現するのです。
もし、私たちが、人間の栄光を第一に求めるなら、どうなるでしょうか。
宗教改革者であるジャン・カルヴァンは、「人間の栄光は黄金の枷(手枷、足枷)である」と言いました。
人間の栄光は、人が手錠をはめられたまま、罪を赦されないままにしてしまうのです。
そして、私たちも、ここに出てくる議員たちほどではありませんが、人間の栄光を求め、人間の栄光を失うことを恐れる面があります。

明治時代に活躍した政治家で、衆議院議長も務めた人に、片岡健吉という人がいます。
その子孫の方が日本キリスト改革派教会におられますが、片岡健吉という人は、土佐藩の武士の家に生まれて、明治維新において活躍し、41歳の時、坂本竜馬の甥や、板垣退助の子どもと一緒に洗礼を受けました。
後に、衆議院議長の職についた後も、教会に行く時は誰よりも早く行き、玄関で下足番をしていたそうです。
教会の玄関にいて、人々の履物を預かって、下駄箱にしまっていたんです。
武士出身の片岡がそういうことをするのは、相当の覚悟とへりくだりがなければ出来ないはずのことではないかと思います。
まして、肩書はただの議員ではありません。
衆議院議長です。
でも、彼は、人間の栄光は気にも留めなかった。
イエスの模範がありますね。
最後の晩餐の席で、イエスが、弟子の足を洗ってくださった出来事です。
人の足を洗うというのは、奴隷の仕事、それも、異邦人の奴隷の仕事でした。
人となってくださった神は、誰よりもへりくだられた方でした。
そして、そのへりくだりの極限にあるのが十字架であると言えます。
私たちは、その十字架によって救われるのです。
人間の栄光が何でしょうか。
十字架には、人間の栄光を求める思いを打ち砕く力があります。
黄金の枷である人間の栄光を打ち砕いて、私たちを救い出し、私たちを、まことに自由な者とするのです。
十字架を見上げましょう。
そこに、全てを捨てた神の子のヘリくだりがあります。
私たちは、十字架のイエスによって救われたのです。

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