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2024年05月27日「大金のつかいみち」

聖句のアイコン聖書の言葉

1過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。2イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。3そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。4弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。7イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。8貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」9イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。10祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。11多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 12章1節~11節

原稿のアイコンメッセージ

最初の1節によると、今日の場面は「過越祭の六日前」ということですね。
この「過越祭」の時、イエスは十字架に付けられました。
イエスの最期の六日間がここから始まります。
その時、イエスはベタニアに行かれました。
ベタニアはエルサレムから東に三キロのところにある村です。
この前の場面では、イエスは、権力者たちに命を狙われて、エフライムというところに退いたのですが、この祭りに合わせてエルサレムの近くにまで戻ってきたということになります。
過越祭という祭りは、エルサレムで祝う祭りだったからです。
とは言え、エルサレムにはイエスの命を狙っている権力者たちがいます。
エルサレムに行くのは危険なことです。
しかし、イエスは過越祭に参加するつもりです。
権力者たちの方では、イエスはエルサレムには来ないと予想していたのではないかと思います。
自分の命を狙っている人たちの真ん中に、わざわざ自分から飛び込むようなことをする人というのはそうはいないでしょう。
そして、だからこそ、イエスは一度はエフライムに退いたのです。
しかし、イエスは過越祭の時にエルサレムに上り、逮捕され、十字架に付けられます。
だったらエルサレムに来なければ良かったのではないかと思いますが、そうではありません。
イエスはすでに、弟子の中から裏切り者が出ることを知っています。
その裏切り者がイエスのいつもの居場所を権力者たちに教えたので、イエスは捕まえられました。
もし、捕まりたくないのなら、裏切り者を追い出してしまえばいいのです。
あるいは、裏切り者が知っている場所にいなければいいのです。
けれども、イエスは、裏切り者も知っていたいつもの場所で、何の抵抗もせず、捕まりました。
過越祭に合わせて十字架に付けられることがご自分の使命であると承知しておられたからです。

そして、十字架も復活も、その後に弟子たちに聖霊が降ったことも、すべて、イスラエルの大事なお祭りに合わせてのことでした。
また、これから、いつか、世の終わりに起こることも、聖書ではすべて、イスラエルの大事なお祭りになぞらえられています。
一年に七つ、大事なお祭りを行うことが定められたのは神の言葉によってですが、――七つのお祭りは旧約聖書のレビ記23章に記されています――その神が、人の救いと世の終わりについて、大事なお祭りに合わせる、ということを定めていたということです。

ただ、今日の場面は、食事の席での話になります。
そして、その中で、一つの事件が起こります。
そして、そのことを通しても、イエスが、先々のことまですべて知っておられることが明らかになります。
場所はエルサレムに近いベタニア村です。
この村には、マルタとマリアとラザロの家がありましたが、この夕食会が開かれたのは、また別の家だったようです。
というのも、ラザロがホストであったような書かれ方になっていないからです。
ラザロもそこに来ていた、という感じで書かれています。
マルタは給仕をしていますが、これはこの家で手伝いをすることを引き受けたということでしょう。
そして、マリアですね。
マリアは純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来ました。
一リトラは326グラムだそうです。
値段は何と300デナリオン、300万円です。
この香油は、自分の結婚式の時に使うために、若い女性が持っていたもののようです。
とても高価なものですので、親は、女の子が生まれると、この香油を手に入れる計画を立てて、準備したのだそうです。
日本でも、嫁入り道具を親が準備するということがありましたが、この香油はそれと同じようなものだったわけです。
その香油を、マリアは、イエスにささげました。
大切なお客さんをお迎えする時には、来客の栄誉のしるしとして、その頭に香油を一滴注ぐという習慣がありました。
しかし、マリアはこの時、それをすべて、イエスの足にそそぎました。
頭に注ぐより、足に注ぐ方がやりやすいということはあります。
この時代、食事は、床に寝そべって、左腕で肘をついて頭を起こして、右手でテーブルの上の食べ物を取って食べていました。
足は後ろに伸ばされていますから、頭に注ぐよりも足に注いだ方が簡単でした。
しかし、香油を足に塗るというマナーはありません。
その後、マリアはイエスの足を自分の髪で拭いました。
もちろん、そんなマナーはありません。
というよりもむしろ、女性が人前で髪の毛をほどくことは恥ずかしいことだと考えられていました。
どうしてそんなことをするのかと、そこにいた人たちは驚いたに違いありません。

ただ、ここに一人、驚くよりも批判する人がいました。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。
ユダはそう言いました。
どうしてそんなことを言ったのか。
6節です。
「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」。
ということは、この人は、もし、この香油を売って300万円が入ったら、それをいくらかは自分の物にできたのにと考えていたのでしょう。
ただ、このユダのことが、「弟子の一人」だと4節に書かれています。
弟子の一人なのです。
イエスの弟子の中にも、こういう人はいると言われているのです。
ユダは、お金を自分の物にしたいとは言いませんでした。
本心では、お金を自分の物にしたかったのでしょう。
しかし、この人が言ったのは、これを売って、貧しい人に施すべきだったということでした。
この時代、社会保障という考え方はありませんでした。
貧しい人を社会が助けるシステムはありませんでした。
聖書は、貧しい人を顧みるように教えていますが、それはいわば、聖書を読んでいる一人一人に言われていることで、システムとしての社会保障が今の時代のように整えられていたわけではありませんでした。
だからこそ、貧しい人を助けるようにという聖書の教えは、とても重要なものになります。
その場にいた人たちの多くは、ユダの意見を聞いて、賛成したことでしょう。
これはつまり、本当は自分のことしか考えていないのに、人のためにということを装う人が、弟子の中にいるということです。
しかし、私たちの中で、一度もそういう思いを抱いたことがない人がいるでしょうか。
人のためのようなふりをしているけれども、本当は自分のため。
このユダは私たちのことです。
しかし、それでもなお、「弟子の一人」です。
そして、イエスは最後まで、ユダを裁くことはありませんでした。
財布を取り返すこともありませんでした。
するままにさせておいた。
ユダがイエスを裏切ることも、止めることはなかった。
するままにさせた。
そしてそれも、最後には、イエスが過越祭で十字架に付けられるために用いられたのです。
イエスは人をするままにさせます。
それが良いことであろうと、悪いことであろうと。
そして、それが結局は、神の御心の実現のために用いられていくのです。

イエスは、マリアも、するままにさせました。
イエスは言いました。
「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」。
イエスは、マリアの思いを良いものとして受け入れてくださいました。
マリアとしては、イエスの「葬りの日のために、それを取って置いた」ということはありません。
マリアはそんなことを考えて、この香油を持っていたわけではありません。
ただ、実際のところ、マリアが香油をすべて注いだことは、葬りのために用いられたと言えます。
イエスを葬る場面が19章38節からのところで描かれますが、時間はすでに夕方でした。
だから、本来は全身に香油を塗ってから亜麻布の包帯で、全身をぐるぐる巻きにするのですが、それをする時間が無かったようです。
19章40節では、「香料を添えて亜麻布で包んだ」と書かれています。
「香料を添えて」なんですね。
「全身に塗って」ではないんです。
もっとはっきりしているのは、ルカによる福音書の23章55節と56節です。
こちらの方では、イエスが葬られるのを見ていた婦人たちが、全てを見届けてから、「家に帰って、香料と香油を準備した」とあります。
そして、24章1節で、準備しておいた香料を持って、墓に行くのです。
これは、婦人たちが、イエスをお墓に葬る時、遺体に香料が塗られていないことを確認していたから、そうしたのです。
しかし、実は、イエスの体には、もう香油が塗られていたということですね。
6日前のこの日、マリアが香油を注いだからです。
マリアが香油を注いだ時、「家は香油の香りでいっぱいになった」と書かれていますが、何しろ、一滴でも良いようなものを、326グラムも注いだのです。
6日経っても、イエスの足もとからは、香油の香りがしたはずです。
もちろんマリアは、6日後にどのようなことが起こるのかは知りません。
先のことなど、考えてもいなかったでしょう。
イエスが自分の兄弟のラザロを生き返らせてくださった。
そのことに対する感謝と、救い主であるイエスへの思いが、一滴で良いはずの香油を、すべて注ぐようにさせた。
この香油は自分自身にとって大切なものなのに、惜しまずそれを全てささげた。
本来、頭に一滴付けるものですが、頭に香油を塗るのは、その人に栄誉を与えることです。
そんな、イエスを評価するようなことを自分がするわけにはいかない。
だから、足に塗った。
ただ、量的に多すぎたと思ったのでしょう、人目もはばからず、髪をほどいて、髪で拭った。
香油以上に、思いがあふれているような場面。
ただひたすら、出来る限りのことをしようという思い。
その思いがあふれすぎていて、自分でも何をしているのか分からなかったのではないでしょうか。
それでも、イエスはそれを喜んで受け入れ、そんなことをしても意味がないという見方を退けて、先々のことまで見通した上で、そこに意味を与えてくださるのです。

ここでイエスは、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」ともおっしゃいました。
「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」ということで、イエスと弟子たちが、貧しい人たちへの奉仕をいつも心掛けていたことが分かります。
この時代にあって、それは、かけがえのない働きだったことでしょう。
しかしそれは、マリアを批判する理由にはなりません。
マリアはマリアで、イエスにすべてをささげるつもりでそうしたのです。
300デナリオンを無駄にしたように見えるかもしれません。
しかし、イエスは、この香油がいくらするか、ということを見ておられたわけではありません。
300デナリオンというのはユダが言ったことで、そもそもイエスが、金額を気にして、効率的にお金を使うことを第一にする方なら、ユダに財布を預けなかったでしょう。
イエスは、私たちのささげものや奉仕に、私たちが自分自身をささげているのを見い出してくださって、受け入れてくださるのです。
私たちは神の御前に立派な者ではありません。
私たちがささげることができるものは、拙いものであるかもしれません。
批判されたら反論できない、無駄なことだと言われてしまったらそれを認めるしかないようなものかもしれません。
しかし、イエスは、精一杯の思いで、自分自身をささげる私たちを受け入れてくださるのです。
そのような私たちを愛してくださるのです。
そのイエスの愛に支えられていることを私たちは知っているから、私たちも心置きなく精一杯、イエスを愛するのです。

私は、自分の息子が私にくれた初めてのプレゼントを今でも持っています。
三年前の父の日。
教会学校で、先生が子どもたちにネクタイのかたちの紙を配ってくれて、そこに、自分の父親の似顔絵と、自分の父親が素晴らしいと思うことを書いて、父親にプレゼントしようということを企画してくれました。
うちの子は字が書けませんでした。
ネクタイのかたちの紙には色鉛筆で乱雑に線が引かれています。
似顔絵はありません。
なぜか、ドラえもんのシールが二枚、貼られていました。
それを私は、今でも、机の前に貼っています。
イエスの御心が、少し分かるような気がしています。

イエスを愛するというのは、どういうことなのでしょうか。
9節では、イエスのところに大群衆がやってきます。
彼らはイエスを愛していたでしょうか。
そうではありません。
彼らは、死者を復活させたイエスという人を見たかった。
また、生き返ったラザロを見たかった。
話を聞くだけではなく、本物を、生で見たかった。
証しを聞くだけでなく、この目で証拠を見たかった。
10節では、権力者たちがラザロをも殺そうと考え出しました。
どうしてラザロを殺したいのか。
死者が復活したという証拠を消してしまいたいのです。
ある意味で、イエスのところに押しかけた大群衆も、この権力者たちと同じようなものです。
証拠に興味があるだけなのです。
それでは、イエスを愛することはできません。

そして、考えさせられるのは、弟子たちがマリアほどの愛をイエスに示していないことです。
マリア以上にずっとイエスと一緒にいた弟子たちが、イエスのことをもっとよく知っていた弟子たちが、マリアほどの愛を示さないのです。
弟子たちはイエスのことを良く知っていて、尊敬していたでしょう。
だから、ついて行くのです。
けれどもその弟子たちが、弟子たち同士でしばしば話題にしていたことは、自分たちの中で誰が一番偉いかということでした。
一番はイエス。
では、その次は誰だ。
イエスのことを知っていて、尊敬しているから愛するというわけでもないのです。

ではどうして、マリアはイエスを愛したのか。
死んでいたラザロを、生き返らせてくださった。
自分の兄弟が救われたことへの感謝。
だとしたら、私たちもイエスを愛することができるはず。
私たちの場合、兄弟が救われたのではない。
私たち自身が救われたのです。
今、私たちが救われたということを、思い起こしたいと思います。
イエスは、私たちのために命を落としても構わないという思いで、私たちを愛してくださった。
それは、その時だけのことではありません。
今もです。
今も、イエスは、私たちのことを全身全霊で愛してくださっているのです。

私たちが、イエスを愛してイエスにささげることができるものは、まことに拙いものかもしれません。
やってみたところで、人の目には、そんなことをしてどうなるのか、他にもっといいやり方があるのにと思われることも多いでしょう。
元より、イエスの愛に本当の意味で報いることなど、私たちにはできるはずがありません。
しかし、イエスは、父の日のプレゼントを待つ父親のような方です。
私たちの精一杯のささげものを、それがどのようなものであれ、喜んで受け入れてくださり、たとえそれが人の目に無意味に見えるようなものだったとしても、それに意味を見い出してくださるのです。
人の目は気にしなくていいのです。
そもそも、どんなことでも、やらない人というのはやる人を批判するものです。
やる人は人を批判しないですね。
やる人は自分がやることに精一杯ですから、人を批判している暇はありません。
やらない人が人を批判します。
今日の話の通りです。
そして、私たちには、自分はやらないで、やる人を批判する傾向があるかもしれません。
こういう話を聞いたことがあります。
松下電器産業、現在のパナソニックを一代で作り上げた松下幸之助さんという方がいらっしゃいましたけれども、その昔、あの方が、大阪でセミナーを主催したことがあったんだそうです。
大阪の、松下電器の代理店、町の電気屋さんの店長さんたちを集めて、大阪で一番売り上げが多い店の店長さんを講師として、どうやったらうまくいくかについて、話をしてもらったんだそうです。
そうすると、その店長さん、宣伝の打ち方から、集客の仕方、人材の育成の仕方まで、企業秘密だと思われるようなことでも、どんどん話してくれたそうです。
それは全体にとって利益になりますけれども、どう考えても易々と話してはいけないようなことを全部話してくれたんだそうです。
松下幸之助さんはそれに驚いて、話をしてくれた店長さんに、「ありがたいんですが、あんな企業秘密みたいなことまで話して大丈夫ですか。近所のお店の店長さんが同じようにしたら、あなたのお店の売り上げが落ちるかもしれないですよ」。
そうすると、その店長さんは答えたんですね。
「大丈夫ですよ。全部知られてしまったとしても、誰もやりませんから」。
私たちは、やらない者なのかもしれないですね。
考えてみると、弟子たちは、その時点で必要なことを他の誰よりもたくさん教わって、良く知っていたわけです。
でも、やらなかった。
やらないで、人を批判した。
しかし、私たちは、そうであってはならない。
私たちも、今日、ある意味で、必要なことを教わりました。
何が大事なのか、そのことを知った。
知ったことを行う者になりたいと思います。
人目が気になることというのはあります。
ただ、私たちがどれほど拙くても、イエスは私たちを受け入れてくださり、私たちのやったことに意味を与えてくださいます。
安心して、自分自身を主にささげましょう。
主は喜んで受け入れてくださいます。

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