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2024年05月13日「労働と報酬の関係」

聖句のアイコン聖書の言葉

1「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。5それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。6五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。8夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。10最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11それで、受け取ると、主人に不平を言った。12『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』13主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」 日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 20章1節~16節

原稿のアイコンメッセージ

今日の話は、このすぐ前の話とつながっている話です。
今日の16節に、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」とありますが、今日の場面のすぐ前、19章30節でも同じようなことが言われていました。
「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」。
そして、19章の方でどんな話があったかというと、永遠の命をいただくということ、つまり、救いということです。
ということは、今日の話も、救いについての話だということになります。
天の国での永遠の命をいただくという話なんですね。
つまり、今日、労働者がいただいた1デナリオンが救いなんです。
救いを例えて、1デナリオン、つまり、1万円ということにしたんです。
これは金額の問題ではありません。
救いとはどういうものか、というのが今日のお話です。
救いというのは、ぶどう園の主人が、自分の所のぶどう園で働く人を雇って、その人に給料を出すようなものだ、ということを言いたいんですね。
最初に雇われた人たちは、1日1デナリオンの約束で夜明けから働きました。
主人が9時にまた広場に行ってみると、何もしないで広場に立っている人がいました。
仕事をもらえなかった人がいたんです。
その人も雇われました。
12時にも3時にも5時にも、主人は人を雇いました。
朝早くに雇われた人も、5時に雇われた人も、皆夕方まで働きました。
人によって、働いた時間はずいぶん違うことになりますね。
夜明けに雇われた人は、10時間は働いただろうと思います。
夕方5時に雇われた人は1時間くらいだろうと思います。
それでも、給料は同じなんですね。
1デナリオンなんです。
これは、皆、同じ救いが与えられるということです。
1時間しか働かなかった人には、10%だけの救い、ということはないんです。
10時間働いた人には10倍の救いということもないんです。

そして、救いは、主人が、神様が、与えてくださるものだということですね。
神様が人を呼んで、その日の終わりに、一人一人に救いを与えてくださるんです。
そして、そのために神様は、何度も何度も出かけて行って、人を雇ったんです。
神様は一人でも多くの人を救いたいんです。
だから、働いた分だけお金を払うということにはなりません。
あなたは1時間だけしか働かなかったから、10%だけ救います、ということは御心ではないんです。
私たちは、働けば働くほどたくさんもらえると思うものですが、そうではないんですね。
働けば働くほどたくさんもらえるというのは、私たちが自分の権利を主張しているということです。
救いはそういうものではないんですね。
救いは、神様が与えてくださるものです。
人間が働いた時間で変わってくるものではありません。
働くということはあるんです。
神に仕えるということはあるんです。
そして、働きに報いが与えられるということはあるんです。
ただそれは、私たちがどれだけ熱心にどれだけ犠牲を払って神様に仕えたか、ということで決まってくるのではなくて、神様の恵みによって与えられるものなんですね。
救いは神様のなさることです。
14節、15節にこうあります。
「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」。
救いは人間の権利ではありません。
神様が神様のご意志で、人を救うんです。

そもそも神様は、そんなに何度も広場に出て行って、働く人を求めなくても良かったんです。
夕方5時に雇われた人は、一日中、広場に立っていました。
夜明けからずっとです。
この時代には、働きたい人は夜明けに広場に集まって、雇ってもらえるのを待ったのでした。
でも、誰も雇ってくれなかった。
働きたい人は多かったけれど、仕事はそんなにたくさんなかったということになるでしょう。
この主人にしても、広場には十分に人がいたから、夜明けに人を雇って、もうそれで十分だったはずです。
でも、何度も広場に出て行って、何もしないでいる人たちに声をかけるんです。
雇われた側からすると、仕事にあぶれてしまったんだから、何ももらえなくても当然なのに、いただける。
私たちがぶどう園の労働者にしていただいたのは、神様の恵みなんですね。
労働者の権利とか言っている場合ではありません。
神様は4節で「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言っていますが、皆に同じ、1デナリオンだった。
でもこれがふさわしいんです。
神様の御心に適っているからです。
神様は人を救いたいんです。
働いた分だけ払う、という考えではありません。
何とかして人を救いたいということだけが御心なんです。

ただ、この話で、一番最後に言われた、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」というのは、どういうところでそうなんでしょうか。
この話で、順番が変わったというところがありますね。
皆が1デナリオンをいただく時に、最後に雇われた人が最初にお金をもらったことです。
そして、最初に雇われた人は最後にもらったんですね。
順番がひっくり返ったんです。
これによって、一つの事件が起こりました。
最後に雇われた人、夕方5時から1時間だけ働いた人が最初に1デナリオンを受け取りました。
もちろん、この人たちは喜んだだろうと思います。
1時間のアルバイトで1万円もらえた。
それは嬉しいですね。
そして、最初に雇われた人は、それを見ていました。
1時間働いた人が1万円もらうのを見て、丸1日働いた人たちは、どう考えたでしょうか。
自分はもっと多くもらえると思っただろうと思います。
それなのに、同じ1デナリオンだったということなんです。
それで、最初に雇われた人が文句を言うことになったんですね。
もしこれが、最初に雇われた人から順にお金を渡していれば、こういうことにはならなかったわけです。
最初に雇われた人は、雇われる時に、1日1デナリオンの約束をしていましたから、仕事が終わって、最初に1万円を受け取ったら、そのまま帰ったはずです。
そうなると、後から他の人たちがいくらもらったか知らないままになりますね。
つまり、雇った順番にお金を払ったら、最初の人は怒ることはなかったんですね。
ただこれで、神様の救いというものがどういうものなのか、明らかになります。
最初の人が怒ったから、私たちは、13節から15節の御言葉を聞くことになったんです。
それは、人を救いたいという神様の熱心ですね。
そして、救いは、神様が恵みとしてなさることなのだということです。
お金を払う順番を逆にしたことで、人間はそれが分かっていないということが明らかになったんです。
神様は人と人を比べないんです。
あの人はどれくらい働いた、あの人はまだ少ししか働いていない。
そんなことは考えない。
けれども、人間は人と人とを比べてしまうんですね。
そして、私には権利がある、と考えてしまう。
ただ、救いはそうではない。
神様の熱心、神様の恵みなんです。

そもそもこの話はぶどう園で人を雇うという話ですけれども、神様はそこで自分の利益を出したいと思っているのではありません。
利益を出したいというのならこんなことはしません。
後から後から次々人を雇う必要はありません。
そもそも、神様は、後から雇った人のことをどう見ていたでしょうか。
神様がその人を雇う理由は、3節や6節に書かれていますが、その人たちが何もしないで立っていたからなんです。
その人たちが、力が強そうだから、頭が良さそうだから、ということで雇ったのではないんです。
ただ立っているしかない、救われていない人がそこにいる。
それだけでもう神様は我慢できないんです。
神様はその人をご自分の元に引き寄せます。
自分の利益のためではありません。
その人に救いを与えるためです。

だから、神様のぶどう園には、何人まで、という定員はないんですね。
もうこれ以上人を雇わないということはありません。
ただ、ぶどう園で働くことは必ずしも楽なことではないですね。
12節で、一日中働いた人は、自分は「まる一日、暑い中を辛抱して働いた」と言いました。
1時間だけ働いた人がどういう感想を持ったのかは分かりませんが、苦労して働いた人もいたんですね。
神様のぶどう園でも、苦労して働くということはあるんです。
その上、この人たちは、後から働いた人と同じ、1デナリオンしかもらえませんでした。
これはつまり、人間の考えからすると、割に合わないと思うことだってあるということなんです。

しかし、このぶどう園で働くということはどういうことでしょうか。
どうしても人を救いたいという神様の御心の中に、私たちがいるということなんですね。
人を救いたいという神様の御心にあふれているのがぶどう園なんです。
利益なんていうことは最初から考えもしない。
人間の考えを超える神様の御心の中に、私たちが置かれて、愛されているということなんです。
私たちはこのぶどう園で、私たちがここにいることを知って喜んでくださっている神様を見い出したいですね。
ここにあるのは、働いた分、もらう、というシステムではありません。
人と自分を比べるという感覚でもありません。
神様はとにかく目の前にいる人を救いたい。
その御心で、私たちは、救われて、今、ここにいるんです。

だから、この中にもいらっしゃるでしょうね、一日中働いて1デナリオンもらった人に申し上げたいですね。
あなたが一番幸せです。
あなたは一日中、神様の愛に抱かれていたから。

私たちの教会は、長らく、ずっと苦労してきました。
「まる一日、暑い中を辛抱して働いた」どころではないですね。
7年間にわたって、仮会堂で礼拝をささげてきました。
それは、いつ終わるとも知れないようなことだったと思います。
牧師が辞職しなければいけなくなるということもありました。
それらの出来事は、ぶどう園が嵐に見舞われるというくらいのことだったと思います。
そんな中でも、皆さんはこのぶどう園から出て行くことはありませんでした。
皆さんは良く分かっておられたんだと思います。
働いた分、もらう、ということではないということ。
人と自分を比べるということでもないということ。
それでもなお神様が、この私たちの教会において、人を救おうとしておられるということ。
神様が皆さんに報いてくださり、今、このぶどう園には、たくさんの実りが与えられています。
神様は皆さんを愛しておられます。

しかし、本当のところは、誰が一番ということはないですね。
ぶどう園で働いた人が、1デナリオンを受け取る。
救いを受け取る。
そのために、イエス様は何をしてくださったでしょうか。
十字架です。
私たちが救いを受け取るために、私たちが神様の腕に抱かれるために、神の子が命を投げだしてくださったんです。
今日、イエス様は、私たちにこう言っておられます。
私はあなたに、私の命を与えたい。
まことの命を、あなたがた皆に与えたい。
私たちは皆、一番愛されているんです。
かけがえのない者として、他の誰かでは代わりのきかない者として、限りなく愛されているんです。

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