先週の日曜の礼拝の説教の中で、星野富弘さんの話をさせていただいたが、まさにその先週の日曜に、星野富弘さんが天に召された。
星野さんは、お体が動かないという大変な不自由の中にあって、78歳という年齢まで生きた。
そのこと自体が証しのようなものだが、生涯をかけて救い主イエス・キリストを証しした人だった。
教会の2階にも、星野さんの本があったので手を取ってみた。
一つの詩に目が留まった。
草花のイラストと共にこうあった。
「花からとりのぞけるものはない。花に付け加えるものもない」。
ああ、そうだ……。
それに対して自分は、取り除くべき点がいくつもある。
星野さんもそうだったのだろう。
だから、花から取り除けるものはないことに気付いた。
ヨハネによる福音書の15章には、イエス・キリストがぶどうの木で、私たちがその枝であること、そして、神が私たちという枝の手入れをしてくださるということが記されている。
枝の手入れというのは、余計な枝や葉っぱを取り除くこと。
星野さんは神から入念に手入れを受けたに違いない。
もしかすると、若い体育の先生が、事故で体が動かなくなったというのも、そういうことだったのかもしれない。
自分が必要だと思っていたものが、取り除かれる。
しかし、それによって、星野さんは、この人にしかできない、かけがえのない実を結んだ。
私たちも、取り除けるものも、付け加えるものもないような私たちになりたい。
今日、登場している人たちは、その後に、神から手入れを受けることがあっただろうか。
イエスがラザロを復活させた。
そうすると、多くの人はイエスを信じた。
「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」。
これは、イエスのことを当局に通報したということ。
ラザロの復活があっても、信じない。
それどころか、イエスをつけ狙っている者に通報する。
この人たちは、最初から信じないと決めている。
それは個人の自由だが、非常に頑なで、通報までするというあたり、心の状態が非常に悪い。
墓の中に葬られていた時のラザロではないが、心が墓石で塞がれているような状態。
通報を受けて最高法院が召集される。
最高法院というのは国会のこと。
イエスにどう対応するか、ということで国会が開かれた。
イエスが民衆に非常に信頼されていたということが、国会を動かすほどのことだった。
どうして権力者たちがそこまで恐れたか。
47節でこう言われている。
「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。
これは怖がり過ぎではないかと思うところだが、理由がある。
イエスは、多くのしるしを行っていた。
しるしというのは奇跡のこと。
それがしるしと呼ばれるのは、イエスに神の力が現れているというしるしだということ。
イエスには、神の力がある。
そして、旧約聖書には、いつかの日に神が遣わしてくださる救い主は、奇跡を行うと記されている。
民衆は救い主を待ち望んでいた。
そして、奇跡を行うイエスが救い主ではないかと期待していた。
ただ、民衆は、自分たちの国を支配しているローマ帝国からの救いを求めていた。
救い主が来て、ローマ帝国の支配を打ち倒してくれるはずだと思っていた。
このままでは、民衆がイエスを王に担ぎ上げるかもしれない。
そして、ローマ帝国に対して、武器を取って立ち向かうことになるかもしれない。
そうなると、「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。
巨大な帝国であるローマ帝国に敵うはずはない。
国会議員たちにとっても、ローマ帝国が出て行ってくれるなら、ありがたいこと。
しかし、そうはならないと状況を冷静に判断していた。
ただ、事態を鎮静化させるためには、他に方法はいくらでもあったはずなのに、大祭司は言った。
この高慢な口ぶりは何か。
自分だけが物が分かっていると思っている。
「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」。
イエスを殺すことで、皆が救われると言っている。
ここでこの大祭司は、国民全体のことを考えているような言い方をしているが、彼が考えているのは、今のままの支配体制が続いて、その中で自分たちの立場が守られること。
大祭司にしても、他の国会議員たちにしても、ローマ帝国が出て行ってくれるなら、それはそれでありがたいことだった。
しかし、ローマ帝国を力で打ち倒すことはできないし、取り合えず、現在の支配体制の中で、自分たちの地位は守られている。
それを失うようなことになってはたまらない。
国会議員たちは、今の自分の立場を失うことを恐れていた。
そこに、大祭司が言った。
「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」。
この一言で、イエスについて、穏やかに解決するということはなくなった。
イエスを殺すのは、国を守るための正しいことなのだ、ということになった。
そして、この日から、国会議員たちはイエスを殺す方法を考えていくことになった。
このようなここというのは、もしかしたら政治の世界でそれほど珍しいことでもないのかもしれない。
どこの国にも、多かれ少なかれ、裏側にこのようなことがあるだろう。
ただ、この人々は、イエスがしるしを行っている、神の力がイエスに現れていると報告を受けていたはずなのに、それについては心を閉ざして、自分の利益についてだけ考えている。
この人たちも、心が墓石で塞がれているような状態。
私たちも気を付けたい。
私たちも、このような状態になることがないとは言えない。
しかし、たとえそのようなことがあったとしても、神はそのような人間の思いも組み込んで、ご自分のご計画を進めてくださる。
人間の思いが神の子を亡き者にしてしまおうとしている場面。
しかし、51節には、「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである」と書かれている。
大祭司の言葉は「預言」だった。
預言とは、神の言葉を聞いて、それを人に伝えること。
大祭司は自分ではそう思ってはいなかったが、実はこの時、神のご計画を話していた。
後になって、イエスは神の国の国民のために死んだ。
本来、人は神に従わない罪人であり、神の国にはふさわしくない。
そのような人を神の国の国民とするため、イエスは罪に対する罰を代わりに引き受けた。
そして、この時点で聖書を読んでいたのはユダヤ人だけだが、神の国の国民というのはユダヤ人だけではない。
現在では世界中に神の国の国民が広がっている。
それが、「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」ということ。
世界中にいる神の民が、いつか、心ひとつに、神を礼拝するためにキリストの教会に集まるようになる。
大祭司は、自分ではそんなことを言ったつもりではない。
大祭司にしても、その場にいた他の人々にしても、最初にイエスのことを告げ口した人も、心が墓石で塞がれているような人々。
しかし、そのような人々をも用いて、神の計画は実現していく。
神の計画は、人を超えたところにある。
神の計画には、人の心も人の動きも織り込み済み。
人間が神の計画を留めることはできない。
ただ、イエスはここで、エフライムという町に退いた。
これは逃げたということではない。
実際、イエスはこの後で、過越祭を祝うために、敵の真っただ中のエルサレムに上ってくる。
イエスが死ぬのは過越祭と決まっている。
その昔、小羊の血によって、神の怒りが過ぎ越したことを記念する祭りが過越祭。
まさにそのタイミングで、イエスは過越しの小羊として、十字架につけられる。
神は罪に対して裁きを降す方。
その神の怒りが人から過ぎ越して、人が神の国の国民とされる。
小羊の血によって。
イエスの血によって。
過越祭が近づいて、多くの人がエルサレムに上ってくる。
人々は神殿の境内で語り合った。
「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか」。
この言葉は、聖書の原文では、「あの人はこの祭りには来ないだろう」という言葉。
人々もすでに、国会権力がイエスを殺そうとしていることに気付いていた。
だとしたら、来るはずがないだろう。
これが常識的な考え方。
しかし、イエスはやってくる。
神の時が来たから。
この時までは隠れていて、この時に姿を現す。
神の計画、神の時というものは、人間の常識では把握できない。
そもそも、神の計画は、罪人であって、滅ぼされて当然である人というものを、神の元に取り戻すこと。
それがそもそも常識的ではない。
まして、そのために、神の子を遣わし、十字架につけることをも良しとしてくださるということ。
私たちからすると全く非常識なこと。
しかし、神はそれを良しとしてくださった。
それほどに、ご自身の手で、ご自身の似姿に造られた人間というものを愛しておられる。
イエスはその御心に応えて、来てくださった。
危険の真っただ中に、危険を顧みずに、いらしてくださった。
イエスはその時、どのような気持ちだっただろうか。
イエスにとっても楽なことではなかったはず。
それでもイエスは、神の計画の側に立った。
しかし、そのことを通して、私たちが知ることがある。
私たちを救うために、神の子が死ぬ覚悟を決めるほど、私たちは神の目に価値のあるものである。
信じられないことだが、それが事実。
そして、その事実を知れば、私たちは変えられる。
私たちに対する神の御心を知れば、私たちは、この世の常識から抜け出して、自ら神の計画の中に入っていくことになるだろう。
宗教改革者であったマルティン・ルターは、もともとはカトリックの修道士であったが、カトリック教会の誤りを堂々と指摘した。
そうなるとカトリック教会は黙っていられない。
国会に出席するようにという命令がルターのもとに届けられた。
しかし、そんなところにのこのこ出かけていけば、どうなるか分からない。
今日のイエスと同じ状況。
敵は手ぐすねを引いて待ち構えている。
ルターは周囲の人たちから行かないようにと引き止められた。
けれども、ルターは答えた。
「たとえ、そこに屋根の瓦の数ほど悪魔がいても、わたしは行きます」。
これはルターが恐れていなかったということではない。
国会に到着して、自分を非難する人たちに反論した時、ルターの声はしばしば震えていたし、足も震えていたと伝えられている。
私たちは、それだったら最初から行かなければ良かったのではないか、と思う。
しかし、ルターはその場で言った。
「私の良心は神の御言葉に捕らえられています」。
私は、自分の思いを超えて、人の思いを超えて、御言葉の側に立つ。
たとえ人がどれほど自分を憎んでも、御言葉の側に立つ。
神の御言葉こそが、自分を救ったのだから。
私たちは神に愛されている。
罪に陥ってしまっても、私たちは神の似姿に造られた者だから。
そして、聖書は、私たちがキリストの似姿になることを勧めている。
ルターはある面で、キリストの似姿だったと言える。
もちろんそれは簡単なことではない。
ただ、私たちの人生において、自分の思い通りにするのではなく、人に合わせるのではなく、神の側に立つべき時というのは、必ずある。
そのような時、今日の御言葉を思い起こしたい。
神の子が、私たちのために、神のご計画に従ってくださった。
だからこそ、神の子は、同じように神の計画に従おうとする私たちと共にいてくださる。
神のご計画は人を救うこと。
そして、事実私たちは、神の子によって救われた。
私たちは、現に救いの中にあり、私たちを救ってくださった神の子が、今も共にいてくださる。
それでも、私たちが恐れてしまって、何もできないということがあるかもしれない。
しかし、心配しなくていい。
私たちは今日の御言葉から、人の思いを超えて、それも、人の思いや行動を織り込んで、神の計画が実現していくことを知った。
できないならできないで構わない。
そこで、神の計画がストップしてしまうことはない。
ただ、神は私たち一人一人にも、計画を持っておられる。
それぞれのペースでその計画に従っていき、キリストの似姿に変えられていきたい。