自由になるために
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 ヨハネによる福音書 8章31節~38節
31イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。32あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」33すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」34イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。35奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。36だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。37あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。38わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 8章31節~38節
イエスの話を聞いて、イエスを信じた人たちがいた。
その人たちに、イエスが話したのが、今日の内容。
まず、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」。
信じた人たちに、イエスの言葉にとどまるようにと言われている。
イエスの言葉にとどまっているということ、イエスの言葉から離れないのがイエスの弟子だということ。
弟子と聞くと、師匠のように立派な人になることを目指すのが弟子ではないかと思うが、そこまでは言われない。
イエスの言葉にとどまれ、としか言われていない。
ただ、実際のところ、イエスの言葉にとどまることは簡単なことではない。
神に従うよりも自分の思い通りにしたいというのが人間。
イエスの言葉、神の言葉にとどまるよりも、自分の心の声の通りにしようとするのが人間。
人間はそのようなものなので、私たちは、神の御心は自分の考えと同じだと決めつけてしまうこともある。
そして、本当は自分のしたいようにしているだけなのに、自分は神に従っていると思い込んでいるということだって起こってくる。
要するに、私たちの中で、何としてでも神から離れようとする力が働いている。
だから、イエスの言葉にとどまるということは、実はものすごく難しいこと。
もうそれだけで立派な弟子。
自分の心の声に従わず、この世の言葉にも流されず、イエスの言葉にとどまる。
それこそがイエスの弟子。
そうなると、次の御言葉が実現する。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。
この言葉は、東京の国立国会図書館の入り口に置かれた大きな石に彫刻されている。
また、世界中の多くの図書館で、この言葉が掲げられている。
ただ、国会図書館の入り口の言葉は、この言葉とは少し違っていて、「真理が我らを自由にする」となっている。
図書館の入り口にそのような言葉が置かれるということは、その意味は、私たちが本を読んで学んで、真理を手に入れることによって、私たちは自由になる、ということになるだろう。
しかし、今日のイエスの話は、本を読んで学んで賢くなりなさいということではない。
ステップアップしていきなさいということではない。
とどまりなさいという話。
イエスの言葉にとどまる時に、私たちは真理を知る。
そして、その真理は、私たちを自由にする。
自由にすると言われているということは、今はまだ不自由だということになる。
不自由だったのが自由になれるのなら喜んでもいいはずだが、話を聞いていたユダヤ人たちは反発した。
「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」。
自分たちはアブラハムの子孫だ。
アブラハムはユダヤ人の最初の先祖。
神がアブラハムを選んで、アブラハムも神に従って生きた。
そして、その子孫が祝福されて、たくさん増えて、一つの民族になった。
それがユダヤ人。
だから、「わたしたちはアブラハムの子孫です」というのは、自分たちのプライドを示している。
ユダヤ人はアブラハムの子孫なんだから、神に選ばれた神の民だ、と言っている。
けれども、彼らが言っていることは正しいのか。
「今までだれかの奴隷になったことはありません」。
ユダヤ人は歴史上、何度も奴隷になってきた。
エジプトで奴隷にされていたことがあり、イスラエルという国を作ったけれども、国を滅ぼされて奴隷として外国に連れて行かれたことが二度もあった。
イエスの時代には、奴隷とまでは言えないけれども、ローマ帝国に支配されている。
形の上でヘロデ王という王がいるが、その王も、ローマ帝国に認めてもらわなければ王になれない。
実際のところ、支配されている。
そしてそれは、ユダヤ人だけの問題ではない。
自分たちのことを誇りながら、実際には自分たちより強い周りの国の顔色をうかがって生きているというのは、いつの時代のどこにでもある話。
それなのにどうしてこの人たちは、「今までだれかの奴隷になったことはありません」と言えるのか。
この人たち自身は奴隷になったことはないかもしれない。
しかし、この人たちは、自分がアブラハムの子孫であると誇っている。
アブラハムの子孫、ユダヤ人の歴史は、奴隷にされながらも何とか生き延びてきた歴史。
ここに、人間の誇りというものがどういうものであるのかが現れている。
人間のプライドというのは歪んだメガネのようなもの。
歪んだメガネをかけると真っすぐのものが歪んで見える。
歪んだものが真っすぐに見える。
認識が歪んでしまう。
プライドを意識すると、現実を正しく認識することができなくなる。
ただ、イエスはここで、そのような話には付き合わなかった。
イエスは答えた。
「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」。
罪の奴隷、ということを言った。
初めて聞く人には非常に厳しい言葉。
ほとんどの人は、自分にはこういう悪い点があるとそれぞれに思ってはいる。
しかし、あなたは罪の奴隷だと面と向かって言われたらどうか。
自分にも問題はあるが、奴隷になっているとまでは思わない。
ただ、現実に、人間は皆、罪の奴隷。
もし私たちが罪の奴隷ではなく、罪から自由であるのなら、私たちは罪を犯さないことができるはず。
しかし、私たちは毎日、思いと言葉と行いにおいて罪を犯している。
罪を犯さないという選択肢がない。
人によって、罪を犯すことが多い少ないということはある。
罪が重い軽いということもある。
けれども、何の罪も犯さないという訳にはいかない。
これが、罪の奴隷になっているということ。
けれども、罪の奴隷でなくなる方法がある。
それが、真理によって自由にされるということ。
ではその真理とは何なのか。
イエスは続けて言った。
「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」。
「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかない」というのはもちろんそう。
奴隷はお金で売買される。
必要なくなったら売りに出される。
ただ、年を取って、あるいは、けがをして、働けなくなった奴隷を買い取る人がいるだろうか。
自由にしてやる、ということで、家を追い出される。
罪の奴隷というのも同じこと。
聖書には、「罪の支払う報酬は死である」という言葉がある。
罪の奴隷はそのままでずっと生きていけるわけではない。
そのままでは、いずれ、永遠の死に支配されることになる。
その続きに、「子はいつまでもいる」と言われている。
子は奴隷とは違う。
子は何かの仕事に使えるから、その限りで家にいるわけではない。
家族の一員だから家にいる。
イエスは神の子。
父なる神の家がイエスの家。
そして、子は奴隷を自由にすることができる。
奴隷の主人にお金を払って奴隷を買い取ることができる。
ただ、奴隷の代価として、お金を支払わなければならない。
イエスはご自分の命を支払ってくださり、罪の奴隷を買い取ってくださる。
旧約聖書の時代には、人間の罪の代価として、動物が犠牲としてささげられた。
しかし、人間と動物では釣り合わない。
動物の命をささげても完全ではない。
人間の命を買い取るために完全ということがあるなら、人間の命以上のものをささげなければならない。
それが十字架。
神の子の命がささげられた。
そのことによって私たちは自由にされる。
これが真理。
真理という言葉を聞くと、事実である、正しい、間違いない、という意味を思い浮かべるが、それはギリシャ語の意味で、ユダヤ人の間では、真理というのは「約束に対して忠実であること」を意味した。
神が私たちを救ってくださるという旧約聖書以来の約束があって、その約束を神様が忠実に守ってくださる、そのために、神の子の命を差し出しても惜しくはない、ということ。
そこまで神は私たちを愛して、私たちをまことにご自分の家族の一員として、ご自分の家に迎え入れたいと思っている。
イエスはその御心を分かった上で、受け入れておられる。
今日のところでも、こう言っている。
「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている」。
ユダヤ人が自分のことをアブラハムの子孫だと言って誇っている。
それは分かっている。
しかし、アブラハムは神の言葉に従った人なのに、ユダヤ人たちはイエスを殺そうとしている。
今、イエスの目の前にいる人たちはイエスを信じた人たちなので、イエスを殺そうとは思ってはいなかったかもしれないが、この人たちは結局、イエスの言葉を受け入れず、イエスから離れていってしまう。
十字架の場面で、イエスを「十字架につけろ」と叫んだ人たちの中に、この人たちはいたのではないかとも思う。
ただ、今日の場面でこの人たちの言葉は一か所だけ。
それでもそこに、イエスの言葉を受け入れられなくなる理由がある。
「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」。
「真理はあなたたちを自由にする」という言葉を聞いて、「わたしたちはアブラハムの子孫です」。
自分を誇る。
そして、「今までだれかの奴隷になったことはありません」。
イエスが言っているのはこの世における立場の話ではないのに、自分に引き付けて考えた。
けれども、アブラハムの子孫に奴隷はたくさんいた。
真面目に話しているつもりで、全部筋違い。
ただ、このようなことは、私たちにもいくらでもあるのではないか。
私自身、毎週経験していることは、説教の準備をする時、最初に聖書を読んだ時の印象と、説教を書き終えた後のその聖書個所についての印象は、いつも必ず違う。
ということは、私は、少なくとも最初に聖書を読む時には、自分に引き付けて勝手に理解してしまっている。
そして、私たち皆に、何らかのプライドがあり、そのためもあって、私たちが罪の奴隷であるといつも真面目に考えているかというと、それほどではない。
もっと言うと、私たちの罪の内で、大きな罪ほど、私たちは自分で気づいていないのではないかと思うことがある。
メガネが歪んでいるということは、私たちにもあるはず。
そのために、イエスの言葉を受け入れることができない。
この「受け入れない」という言葉は、「場所がない」という言葉。
私たちの心の中に、イエスの言葉を収める場所がない。
イエスの言葉を締め出してしまっている。
ハブという毒蛇がいる。
ハブが恐れられているのは、なんといっても毒が強力だから。
しかし、血清を使うと、蛇の毒を中和することができる。
前もって、蛇の毒液をごく少量だけ馬に注入して、約半年間をかけて馬の体内で毒の抗体を作らせ、この馬の血から血清を精製する。
まさに、血によるあがない。
ただ、どんなに効き目のある血清であったとしても、それをただ眺めているだけでは役に立たない。
効能の説明を聞いているだけでは意味がない。それを体内に受け入れなければ救われない。
キリストの言う真理も同じ。
それを受け入れることで人は自由にされる。
今日のところで深刻なのは、イエスを信じているつもりの人でも、イエスの言葉を受け入れない人がいるということ。
そして、それは重大なこと。
イエスは言っている。
「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている」。
イエスは父なる神の元で見たことを話している。
しかし、ユダヤ人たちは、「父から聞いたことを行っている」。
こちらの「父」という言葉は、「あなたたちの父」という言葉。
父なる神とは違うということ。
後のところで、この、「あなたたちの父」というのは悪魔のことであるということが明らかになる。
重大なこと。
イエスの言葉を締め出してしまうというのは私たちにとって仕方のないようなことだが、それではあなたがたは悪魔の子だ、とイエスは言う。
私たちはどうなのか。
悪魔の子なのか。
父なる神の子なのか。
今日、最初のところで、イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」と言っていた。
言葉を正しく理解しろ、とは言われていない。
言葉の通りに行え、とも言われていない。
私の言葉にとどまりなさい、と言われている。
今日話を聞いていたユダヤ人たちには、それが出来なかった。
イエスから離れていった。
私たちはどうか。
私たちはこうして、礼拝に集っている。
イエスの言葉にとどまっている。
この「とどまる」という言葉は「つながる」とも翻訳される言葉だが、私たちは、イエスの言葉につながっている。
だから、今日ここに来た。
つながっていないんだったら来ない。
私たちは本当にイエスの弟子。
そして、弟子であるなら、神が約束を確かに守ってくださって、私たちをご自分の元に迎え入れてくださる。
それが、今日のイエスの最初の言葉の意味。
弟子であるなら、それだけで救われる。
クリスチャンの作家のC.S.ルイスの友人たちが、聖書の神と人間のつくった宗教の最大の違いは何だろうと議論していた。
そこへC.S.ルイスが後から入ってきてこう言った。
「そりゃあ、簡単だよ。恵みだよ」。
恵みとは受けるに値しない者に対する、神の愛。
私たちはそれを受けるに値しない。
私たちにも罪があり、プライドがあり、認識が歪んでいる。
真理は私たちの内にはない。
それでも、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。
人間のつくった宗教には恵みはない。
教えはある。
人間はその教えを、まず正しく理解しなくてはならない。
そして、その教えというのは、結局のところ、頑張って成長しなさい、こうすれば成長できるよということ。
結局、人間の教えというのは宗教だろうと学校や企業での教育だろうと同じこと。
そして、それに従って、プライドが形作られていく。
だから、この世的になればなるほど、イエスの言葉を受け入れられなくなる。
いやおそらく、誰にとっても、イエスの言葉は簡単に受け入れられるものではない。
それは、イエスからすると、罪の奴隷であり、悪魔の子になってしまっていることだけれども、それでも、イエスは私たちを神の家に買い取ってくださる。
まさに恵み。
私たちには何の価値もないのに。
そのことを喜びたいと思う。
弟子は、弟子であるというだけで、自由にされる。
それを喜ぶことが弟子にふさわしいこと。