仲直りの大切さ
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- 尾崎純 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 18章15節~20節
15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」 日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 18章15節~20節
今日の17節に「教会」という言葉が出てきました。
教会という言葉がイエス様の口から出てくることは珍しいことなんですね。
イエス様がまだ地上におられるので、弟子たちと一緒にいつもおられるので、教会ということをそれほど考えなくても良かったからです。
マタイによる福音書では、教会という言葉が出て来るのはこの他にひとつしかありません。
どういう場面か、思い浮かぶでしょうか。
16章で、ペトロが信仰告白をします。
イエス様に対して、ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」と言いました。
そうするとイエス様が、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言ったんです。
イエス様が神の子、救い主だという信仰に立つのが教会だ、ということですね。
そして、今日のところでは、その教会とはどういうところなのか、ということが言われています。
イエス様は、教会とはどういうところだと言っているでしょうか。
まず、罪のないところではないんですね。
罪があるところなんです。
それもそのはずですね。
イエス様が神の子、救い主だという信仰に立つのが教会だけれども、イエス様は私たちを何から救ってくださるのでしょうか。
罪と、罪に対する罰である滅びから救ってくださるわけです。
イエス様が神の子、救い主だ、と認めたら罪が無くなるわけではないんです。
むしろ、罪があるから、救ってくださいとイエス様に求めるんです。
だから当然、教会の中に罪が起こってくることもあるわけです。
「兄弟があなたに対して罪を犯したら」と言われています。
兄弟、というのは、イエス・キリストを長男として、教会の中の人たちは皆、兄弟姉妹だ、ということですね。
教会は神の家族です。
しかし、家族の中でも罪が現れるということは当然あります。
この場合は、教会の中の誰かが、自分に対して罪を犯した場合のことになります。
そういうことはある、とイエス様が言っているんです。
ではその時に、どうするべきなのでしょうか。
これが教会のやり方だ、教会らしくやりなさい、とイエス様は教えてくださっています。
しかし、教会とはどういうところなのかという話をするのなら、もっと他の話し方もあったと思うんですね。
私たちは、人から、教会とはどういうところかと聞かれたら、どう答えるでしょうか。
教会というのは、神様を愛するところです、救いを広めるところです、など、いろいろ考えられると思います。
他のもっと明るい話をすることもできたはずなんです。
しかしイエス様はここで、教会の中に罪があったらどうするか、という話をしているんです。
何か、マイナスの話をされている感じになりますね。
しかし、罪をどうするのかは教会にとってとても大事なことです。
何しろ教会は、罪を赦されて救われた人の集まりです。
罪を赦されて救われた者として、他の人の罪をどうするのか。
これが教会にとって一番大事なことだ、とイエス様は言っているんですね。
イエス様は、まず何をするようにと言っているでしょうか。
「二人だけのところで忠告しなさい」。
忠告する、というのは、真心から、相手に対して、罪を悔い改めるように勧める、ということです。
相手が自分に対して、一対一で何か具体的に罪を犯したということがあって、それを、相手の人に、「あなたがやったことは罪になりますよ」ということをまず自分が相手に伝えに行く。
その結果、「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。
しかし、これは簡単なことでしょうか。
そもそも、人が罪を犯す時、多くの場合、その人は、それが罪になると思っていないという現実があります。
イエス様を十字架に付けた人たちは、自分のやっていることが罪になると思っていたでしょうか。
むしろ、自分は正しいことをしていると思っていたんです。
だから、「十字架に付けろ」と大声で叫んだんです。
もし、それが罪になると分かっていたら、ほとんどの人はそういうことはしませんね。
罪になると思っていないどころか、正しいことをしていると思っているから、一対一でも堂々と罪を犯すわけです。
罪になるかもしれないと思っているんだったら、少なくとも一対一で正面からやる、ということはないはずです。
そう考えると、このイエス様の話は少し簡単すぎるんですね。
ただ、ここでイエス様が一番大事にしていることは何でしょうか。
それは、「兄弟を得る」ということです。
「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」と言っています。
逆に言うと、相手が自分に罪を犯した時、相手はもう兄弟でなくなってしまうんです。
しかし、相手が罪を悔い改めたら、再び兄弟になることができるんです。
兄弟でいること目標なんです。
「忠告しなさい」というのは簡単すぎるけれども、兄弟でいるために忠告するんです。
罪を犯した相手を攻撃することが目的ではないんです。
そもそも忠告というのは、怒って言い返すようなことではないですね。
つまりここでイエス様は私たちに、目的を間違えるな、と言っているんです。
そして、物事にはステップがあります。
一対一で話をしてもうまくいかない場合があります。
その場合、「ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい」と言われています。
その理由は、「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」ということです。
これは旧約聖書に書かれている、正しい裁判のためのルールなんですね。
一人の人が、何が事実であるのかを決めるな、ということです。
例えば、相手が自分に対して罪を犯した、と言っても、他の誰もそれを罪だとまでは思わない場合があります。
罪だとまでは思わないような場合があります。
また、それが罪だというのは受け取り方がおかしいでしょう、と思うような場合もあります。
あるいは、冗談を真に受けてしまっているようなこともあるかもしれません。
しかし、他に同じ意見の人がいるのなら、話は違ってきますね。
ただ、いずれにしても大事なことは、兄弟を得ることです。
これもつまり、二、三人で行って、攻撃するということではないわけです。
ただ、当然と言えば当然ですが、それでも相手が納得しない場合があるということですね。
そして、もしかすると、その相手の方が正しいかもしれません。
こちらに二人くらい、自分に賛成してくれる人がいたとしても、相手に十人、賛成してくれる人がいるかもしれないんです。
また別の見方をすると、何人で行っても納得しないという人だっています。
とにかく、ここまでステップを踏んで、「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」ということですね。
しかしここで、それでは困るな、ということがあるかもしれないですね。
イエス様が話しているのは、相手が自分に一対一で罪を犯した場合ですが、それは、相手と自分との個人的な問題だと言えます。
それを教会に申し出て、教会の問題にする必要があるのか、と思うかもしれませんし、そんなことはしたくない、と思うこともあるでしょう。
では一体どうしてイエス様は、教会に申し出るように、と言ったのでしょうか。
兄弟の間での罪の問題は、個人的な問題というだけではなくて、教会の問題だということなんです。
もちろん、本人同士の間で解決できるならそれは一番良いことです。
二、三人で解決できるのも、それもその次に良いことです。
ただ、どうしても解決されなくて、何かの罪が兄弟としての関係をなくしてしまったままだったら、それはもう教会の問題だということなんです。
教会というのは、罪を赦された者たちが兄弟になるところ、兄弟でいるところです。
だから、誰かと兄弟でなくなってしまうようなことがあったら、それが一対一の個人的な罪によることだったとしても、それは隠していないで自分から申し出なさいと言われているんですね。
そして、その人が教会に申し出た時、教会はどうするのでしょうか。
それは今までと同じですね。
兄弟を得るために話をするんです。
誰かと誰かの間での起こった問題です。
しかし、「あれはあの二人の個人的な問題で、私とは関係ない」ということではないんです。
兄弟とは何でしょうか。
家族です。
家族の問題なんです。
だから、17節の後半で厳しいことも言われているけれども、それは逆に言うと、もうこの人は自分たちとは全然違うんだ、これではもう話はできないと思えるようなところまで、最後の最後まで努力しましょうということなんですね。
どうしてかと言うと、私たちの責任は重いからです。
「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われています。
つなぐというのは罪につなぐということです。
罪に定めるということ。
解くというのは罪を赦すということです。
私たちが人を罪に定めたら、天でも同じように、その人は罪に定められるんです。
私たちが人を赦したら、天でも同じように、その人は罪が赦されるんです。
私たちの責任は重いんです。
だから、最後の最後まで努力しなくてはいけないんです。
そして、その努力は、どういうふうにしてするのでしょうか。
「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。
これは祈りです。
祈りで努力するんです。
二人だけでも、心を一つにして祈るなら、その祈りは聞かれるんです。
兄弟を得ることができるんです。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と言われています。
イエス様が共にいてくださる中で祈るんです。
そして、イエス様はどのような方でしょうか。
罪を赦してくださる方です。
罪を赦すことで、神様と私たちの関係を良い関係にしてくださる方です。
その方と一緒に祈るんです。
それがクリスチャンだということなんです。
それが教会だということなんです。
もちろんこれは、楽なことではありません。
そして、場合によっては、その人を異邦人か徴税人と同じように見なければいけないということだってあります。
つまり、最初から無理だったんだ、ということになってしまうこともあるんです。
けれども神様は、異邦人でも徴税人でも救ってくださる方です。
イエス様は、異邦人でも徴税人でも受け入れてくださる方です。
その神様を信頼して、最後の最後まで祈るんです。
兄弟を得るために。
それが、罪を赦された私たちの務めなんです。
イエス様も、最後の最後まで祈りました。
イエス様は、最後に何と祈ったでしょうか。
ご自分を十字架につけた人々のために、何と祈ったでしょうか。
「父よ、彼らを赦してください。自分のしていることが分からないのです」。
私たちはその祈りで救われたんです。
だから私たちも、最後の最後まで祈ります。
赦しの主であるイエス様と共に祈るんです。
それが教会なんです。