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2024年04月08日「ユダの後悔」

聖句のアイコン聖書の言葉

1夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。2そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
3そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、4「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。5そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。6祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、7相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。8このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。9こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。10主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 27章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

今年は3月31日がイースターだった。
イエスが復活したのがイースター。
ただ復活しただけではなく、復活し、逃げ出した弟子たちに会いに来てくださった。
それが先週の日曜日だった。
そして、その一週間後の日曜日にも、イエスは弟子たちに会いに来てくださった。
それは、今年で言うと、今日。
この日曜日。
だから教会では、日曜に礼拝する。
日曜はイエスに会う日。

ただ、今日は、この聖書個所を選んだ。
十字架の裏話。
復活があるということはその前に、死があるということ。
十字架の死。
その裏側で、人間の側に、何が起こっていたのか。
他の弟子たちも、イエスが逮捕されると逃げ出して、部屋に鍵をかけて閉じこもっていたので、裏切ったのと大きな違いはない。
ではこのユダという裏切り者は何がまずかったのか。
逆に言って、私たちはどうあるのが良いのか。
そのことを学びたい。

ユダが自殺した。
イエスの弟子だった人が、自殺した。
これは大きなこと。
これ以上に大きなことはないくらいのこと。

ユダはイエスに何を学んでいたのか。
何も学んでいなかったのか。
そうではないはず。
けれども、与えられた命を自分で捨ててしまった。
命は自分で捨てていいものではない。
命は与えられたもの。
だから、逆に言うと、私たちは、生きているだけでいい。
私たちが生きているということは、私たちが、一番大事な神の使命を果たしているということ。
私たちが生きているということは、一番大事な御心を行っているということ。

どんな人でも、心のどこかでそれが分かっているのではないか。
だから、自分の周りで人が自殺したという話を聞くと、そのことはずっと心に残る。
皆さんの周りにも、自殺した人がいるかもしれない。
私の中学時代の同級生に、自殺した人がいた。
大学生になったものの、1年で大学を辞めてからのことだった。
何がうまく行っていなかったのか。
分からないし、考えても分かるはずがない。
でもずっと、心に残っている。
人が自分から死ぬということは大きなこと。

また別の見方をすると、ユダは死ななくても良かったのではないか。
ユダはイエスを裏切った。
裏切られたイエスは殺された。
しかし、この世で、同じようなことをして生きている人間はいくらでもいる。
では、どうしてユダは死んだのか。

逆に言って、どうして私たちは生きているのか。
ユダはイエスを殺したと言える。
しかし、イエスが全く逃げようとせずに死んだのは、私たちの代わりに罰を受けるためだった。
神の前に罪人である私たちが救われるために、イエスは十字架から逃げなかった。
私たちの罪がイエスを殺したとも言える。
だとしたら、どうして私たちはこの十字架を前にして、生きていられるのか。

その前に、今日の話は、イエスがどういうふうに扱われたかという話から始まっている。
イエスを殺そうとした人たちは、自分ではイエスを殺さなかった。
自分でイエスを殺してしまうと、イエスは多くの人に愛されていたので、自分の立場が危なくなる。
それで、イエスをピラトに引き渡した。
ピラトはローマ帝国の総督。
ローマ帝国にイエスを殺させる。
ローマ帝国にとって、イエスは危険な人間だと思わせて、イエスを死刑にさせる。
そうすれば、自分の立場は守られると考えた。

しかし、それも神の御心の中にあったと聖書は言っている。
ユダヤの死刑の方法は石打の刑。
ローマの死刑の方法は十字架。
十字架は木でできている。
そして、旧約聖書には、木にかけられた死体は呪われている、と書かれている。
イエスは神に呪われるような仕方で死んだ。
だからこそ、私たちは信じることができる。
私たちがどんなに悲惨なところにまで落ちてしまっても、その私のところにイエスは来てくださる。
私たち自身が神に呪われていると思ってしまうようなことがあったとしても、そこにもイエスはきてくださる。
人間の悪い思いが、イエスを木の十字架につけた。
しかし、人間がどれだけ神に逆らっても、すべて、最初から神の御手の内に在った。

そして、その話の後に、ユダの話が続く。
しかし、このユダの話は、この時に起こった話だろうか。
イエスがピラトに引き渡された、そのタイミングで、ユダは神殿に行ったのだろうか。
祭司長たちはイエスをピラトのところに引いて行って、イエスを訴えた。
ということは、祭司長たちは神殿にはいなかったはず。
ユダの話を聞いたり、ユダが返してきたお金をどうしようかと相談する時間もなかったはず。
つまり、この話は、イエスが逮捕されて訴えられてから、何日か後になってからの出来事のはず。
それなのに、この話がここに差し込まれている。
どうしてなのか。

この時はまだイエスが逮捕されて訴えられたばかりで、まだ裁判は始まっていない。
ピラトの裁判が始まる前に、この話を出しておけば、イエスに罪はない、ユダも祭司長も、自分が悪いことをしたということが分かっていた、ということになる。
ただ、ここにユダの話が出てきている理由は、それだけではないだろう。
このすぐ前のところには、ペトロの話があった。
ペトロは、イエスのことを、三度も知らないと言った。
そうすると鶏が鳴いた。
その時ペトロは、イエスが前もって、そういうことになると言っておられたことを思い出した。
そして、激しく泣いた。
ペトロは、自分が言ってしまったことを後悔した。
そして、今日の3節では、ユダも後悔している。
ペトロの話もユダの話も、後悔したという話。
同じ話がここに並べられている。
しかし、ペトロはその後、教会を建て上げる働きをしていった。
ユダは自殺してしまった。
後悔したことは同じでも、結果は正反対になった。

ユダは死んでしまった。
ユダは後悔していた。
反省していた。
だから、正直に話して、お金を返そうとした。
受け取ってもらえなかったけれども、神殿に投げ込んだ。
そして、死んだ。
ユダとしては、お金を返して、受け取ってもらえたら、その後、死なずに生きていこうという考えではなかっただろう。
死ぬつもりだったから、すべてを話して、お金も返した。
ユダは自分の罪を自分で背負った。
自分の罪を自分で背負ったら、死ぬしかない。
自殺は罪だと言われる。
いただいた命を勝手に終わらせるのだから。
けれども、自分の罪を自分で背負っている人に、そんなことを言っても自殺は止められない。
祭司長たちはユダに、「お前の問題だ」と言った。
自分の罪は、自分の問題。
それもそうだとは思う。
しかしそれでは、生きていられなくなる。
聖書がそう言っている。

ペトロはどうだったか。
ユダは自分の罪を告白した。
ペトロはしていない。
ユダは、お金を返した。
お金を返して済む話ではないが、何とかして自分で償おうとした。
ペトロは何もしていない。
ペトロは泣いただけ。
泣いたら許されるのか。
そういうことではない。
ただ、ユダは泣かなかった。
どうしてペトロは泣いたのか。
ペトロが泣いた時、ペトロは、イエスの言葉を思い出していた。
「鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言うだろう」。
イエスが、前もってすべてを知っておられたことを、ペトロは思い出した。
知っていて、その上で、自分をそばに置いてくださっていたことを知った。
ペトロが泣いたことは、イエスを見捨てた自分の罪を後悔したからでもあるだろう。
しかし、後悔するというだけなら、ユダも後悔している。
では、何がこの二人を分けたのか。
大事なのは、イエスが自分のことを知っておられて、それでもこの自分の罪をずっと前から背負ってくださっていたということに気づくこと。
自分の罪が分かるというだけだったら、ユダも分かっている。
イエスの赦しに気づくこと。
イエスは、私たちの罪を、もうずっと前から背負ってくださっている。
私たちが自分の罪に気づく前から。
今も。

イエスは赦しの主。
十字架の後、復活したイエスは、弟子たちに会いに来てくださるが、その時、イエスは一言も弟子たちに怒ったりしない。
それどころか、「赦す」という言葉もどこにも出てこない。
赦すのが当たり前というか、最初から赦している。
私たちのことは、すべて、御手の内に在って、最初から赦されている。

今日の6節からのところでは、ユダが返したお金で、祭司長たちは土地を買ったと書かれている。
しかし、このことも、聖書の言葉が実現したことだった。
これは実はエレミヤ書ではなく、ゼカリヤ書11章の言葉だけれども、エレミヤ書18章にも、陶器職人の話があり、エレミヤ書32章にはエレミヤが畑を買うという話がある。
エレミヤ書18章の陶器職人の話は、神が陶器職人で、人間が陶器だという例え。
そして、32章のエレミヤが畑を買う話は、人間には絶望しかなくても、神が回復させてくださるという話。
人は神に造られたものであり、すべてのことは、神の御手の内に在るということ。
つまり、ユダの裏切りも、後悔も、死んだことも、すべて、御手の内で起こったということ。

私たちの歩みも同じ。
神は私たちのことをすべて良くご存じで、私たちを招いてくださっている。
それが罪だと分かっていて罪を犯すこともあれば、後から気付くこともあれば、気づかないでいることもある。
しかし、イエスは、すべてを知っておられて、すべてを背負って、十字架にかかってくださった。
イエスは言っている。
わたしはあなたの罪をずっと前から背負っていた。
ずっと前から赦していた。
あなたは生きていきなさい。
イエスは、ご自分の命は見ていない。
私たちの命を見ている。
私たちにとって、生きることが神の前に一番大事なことだから。
生きることが一番大事な御心を行うことだから。
イエスは私たちを生かすために、神に呪われるような死を引き受けてくださった。
私たちがたとえどんな悲惨なところまで落ちてしまっても、生きられるように。
この方の御手の内で、生きていきたい。
どんな時も、赦しの主、命の主が、共におられる。

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