先週の説教の中で、「人間だけはフルカラーでものが見える」と申し上げてしまいましたが、そうではないのだというご指摘をいただきました。
昔は、「人間だけがフルカラーでものが見える」と思われていましたが、現在では、人間よりも鳥の方がもっと多くの色が見えていることが分かっているそうです。
鳥はそもそも視力が良いですし、人間が見えている色は全部見えていて、その上、人間には見えない紫外線まで見えるそうです。
また、魚は視力は弱いのですが、金魚や鯉など、種類によっては人間と同じくらい色が分かる魚もいくらかいるようです。
昆虫も視力は非常に弱いそうですが、 見える色の範囲が人間と違っているものの、 人間と同じくらい色が見えている、ただ、赤のような暖かい色は見えないので、全体に冷たい色で見えているけれども、その代わり、これも色の種類としては冷たい色になりますが、人間には見えない紫外線が見えるそうです。
色と言わずに「紫外線」とか「赤外線」と言っているのは、人間に見えないから、「外」という字を使って表現しているのであって、人間中心の発想ですね。
「人間だけがフルカラーでものが見える」というのも人間中心の発想だったような気がして、気を付けなければいけないと思わされました。
世界の豊かな色彩を楽しんでいるのは人間以上に鳥でした。
その面では人間よりも鳥の方が祝福されているんですね。
鳥は凄いスピードで空を飛んで、獲物に襲いかかりますから、視力が良い方が良いし、はっきり見えるように色も良く分かっていた方が良いということでそうなっているのですが、人間が人間として生きていくためには、他の哺乳類と同じように、色がそれほど見えなくても差し支えなさそうなのにこれだけ色が見えるというのは、必要ないものをわざわざいただいているということで、人間も人間としては祝福されているということで、そこのところは喜ぼうかなと思います。
今日の場面から、いよいよ、この福音書で最後にして最大の奇跡である、ラザロの復活が語られていく。
ラザロという名前は聖書に時々出てくるが、ラザロという言葉の意味は、「神が助ける」という意味。
その通り、イエスがラザロを助けてくださる。
ラザロには姉妹がいて、その内、マリアという姉妹は、「主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と言われている。
これは12章に出てくる話なので、今日の場面よりも先の話だが、ラザロの復活の方がもっと大事な出来事なので、ここで、後で起こることを先取りして、マリアのことも説明したということだろう。
マリアとマルタの姉妹は、3節で、ラザロのことを、「あなたの愛しておられる者」と言っている。
5節には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とある。
マルタとマリアとラザロは、イエスを愛し、イエスから愛されていた。
そのラザロが病気になった。
マルタとマリアは、イエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えた。
マルタとマリアとしては、早くイエスに来てもらって、イエスがラザロを癒してくれることを望んだ。
しかし、6節を見ると、イエスは、それから二日間、同じ場所に滞在された。
そして、この、二日間同じ場所に滞在されたということが、後から意味を持ってくる。
今日の場面の少し後の18節を見ると、ラザロたちがいたのはベタニアというところで、エルサレムの近くだった。
では、イエスはどこにいたのかというと、この前の10章40節で、「ヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所」だということだった。
そして、この福音書の1章28節の、洗礼者ヨハネが洗礼を授けていた所というのがどういう名前の場所かというと、これもベタニア。
このベタニアという言葉は、「貧しい者の家」という意味の言葉。
それは悪い意味ではなくて、自分の力を捨てて、神を信頼し、神の御力を求めるという意味で、貧しい者ということ。
今日から始まる出来事も、神に信頼する者に、神の力が現れたという話。
ただ、イエスのいるベタニアから、ラザロのいるベタニアまでは、60キロも離れていた。
頑張って歩いても、丸一日かかる距離。
ということは、マリアとマルタがイエスのところに人を遣わすのにも、丸一日かかったことになる。
その上で、イエスは二日間、動かなかった。
そして、次の日に移動した。
その移動に丸一日かかる。
合計で四日間かかった。
それで、11章17節で、「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」ということになる。
そして、イエスがラザロの所に行くと、「ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた」ということは、最初に、マリアとマルタが遣わした人が60キロ歩いてイエスのもとに着いた頃には、もうラザロは死んでしまっていたのだろう。
そう考えると、やってきた人から、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と知らされた時、イエスは、「この病気は死で終わるものではない」と答えているが、この言葉は、もうラザロが死んでしまっていることをイエスが知っていたから、こう言ったのではないかとも思える。
ただ、もう死んでしまっているラザロを生き返らせるということなら、いつ行っても構わないはずだが、この時代の人々は、死んだ人の魂は、三日間は遺体の周りにいて、四日目にこの世を離れると考えられていた。
つまり、死んでから四日たっているラザロは、完全に死んだということ。
もう生き返る可能性はないということ。
それを、イエスが、神の力で復活させる。
そのために、イエスは二日間、動かなかった。
二日間動かなかったのは、まだ生きていて、苦しんでいるラザロを放っておいたということではない。
神の力が死の力よりも強いものであることを示すため。
もっと大事なのは、どうしてそこまで念を入れるのか。
14節、15節でイエスは言っている。
「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」。
ということは、弟子たちはイエスを信じていなかった。
もし、イエスが、ラザロが死んだその場にいたとして、イエスがそこですぐにラザロを復活させたとしたら、弟子たちは、ラザロは仮死状態になったけれども、息を吹き返したのだ、と考えるだろう。
だから、「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった」。
ラザロの復活を見ることによって、弟子たちは信じるようになる。
実際にイエスのそばにずっといた弟子たちにとっても、神の力を信頼することはそんなにも難しいことだった。
イエスは言った。
「この病気は死で終わるものではない」。
これを直訳すると、「この病気は死に至るものではない」となる。
19世紀のデンマークの思想家ゼーレン・キルケゴールは、この御言葉から、『死に至る病』という本を書いた。
その本の第一部のタイトルは、「死に至る病とは絶望である」というもの。
しかし、神に信頼するなら、神に希望を置くなら、どうだろうか、ということ。
そして、この本の第二部のタイトルは、「絶望とは罪である」というもの。
絶望とは神に信頼しないこと、神から離れていることで、罪である。
キルケゴールは言っている。
本当のクリスチャンでない限り、自分自身が絶望について、意識しているか、していないかに関わらず、人間は実は絶望している。
逆に言って、本当に神様を信じている人だけが、絶望しない、ということ。
確かにそうなのだろう。
では、私たちはどうだろうか。
本当に神に信頼しているだろうか。
完全に信頼している、と言える人はあまりいないだろう。
イエスは、「この病気は死で終わるものではない」と言ってから、「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言った。
しかしそれは、ご自分のためではない。
ラザロの復活の出来事によって、最終的にどのような状況になったかということが、53節に書かれているが、「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」。
では一体何が栄光なのか。
この福音書で栄光というと、十字架と復活の栄光。
イエスが人の罪を背負って十字架にかかる。
人の代わりに罰を受ける。
しかし、神はイエスを死んだままにしておかれず、復活させる。
そして、十字架と復活にある救いを、人に与えてくださる。
これは父なる神と神の子イエスにしかできないことで、まさに栄光。
それはまだ先の話だが、今日の場面から始まる出来事、イエスが死者を復活させることができるということが、イエスに人を救う力があるという証しになる。
イエスだけが復活できるということだったら、私たちは救われるかどうか分からない。
しかし、イエスは死者を復活させることができる。
そこに、救い主の栄光がある。
イエスは、弟子たちに言われた。
「もう一度、ユダヤに行こう」。
しかし、弟子たちは恐れた。
「ラビ、――これは先生、という意味――ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。
イエスはお答えになった。
「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」。
ここでイエスが言っていることによると、私たちが光を見つめると、私たちの内にも光があるということになるが、本来、人の内には光がない。
だから、夜歩くのは良くない。
昼の内に歩くべきである。
光を見ながら歩くのが良い。
そして、この福音書の1章では、イエスのことが、「世の光」として書かれていた。
光を見つめるというのは、イエスを見つめるということ。
ただ、それが出来なくなる時が来る。
夜が来る。
イエスが逮捕された際、――それは夜だったが――弟子たちはどうしたか。
全員、逃げ出した。
弟子たちは、イエスを世の光として見つめつづけることができなかった。
こういうことを言うということは、イエスは、いずれそうなるということも分かっていて、その上で、いつか立ち直って神のために働くようになる弟子たちのために、信仰の教育をしようとしておられる。
ただ、弟子たちはまるで分っていない。
イエスが、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と言うと、弟子たちは、本気で眠っていると思って、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
だったら、行かないでいいでしょう、ということ。
そこでイエスは、はっきりと言われた。
「ラザロは死んだのだ」。
「さあ、彼のところへ行こう。」
すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
トマスは、イエスと一緒に敵だらけのユダヤに行って、一緒に死ぬ覚悟を固めた。
けれども、そんな決意は何の役にも立たない。
そもそも、聖書は、人間の決意に期待していない。
実際、トマスはイエスが逮捕された時には逃げ出した。
このトマスの言葉は重い言葉に聞こえるが、人間は弱い。
まさに、昼の内に歩けばつまずくことはないけれども、夜歩けばつまずくのが人間。
19世紀のデンマークの思想家ゼーレン・キルケゴールが今日の御言葉から、『死に至る病』を書いたのは1849年のことだが、ロシアの文豪ドストエフスキーは、1866年に、このヨハネによる福音書の11章を引用しながら、『罪と罰』という小説を書いた。
『罪と罰』の主人公はラスコリニコフという青年だが、この青年は、本来善人であったが、間違った信念から殺人の罪を犯した。
主人公の「ラスコリニコフ」という名前は、ロシア語で「分裂」という意味になる。
善と悪に分裂している。
それはある面で、人間皆同じではないか。
昼の内に歩けばつまずくことはないけれども、夜歩けばつまずくのが人間。
覚悟を決めても逃げ出すのが人間。
では、私たちはどうすれば良いのか。
ラスコリニコフは、ソーニャという女性から、信仰を伝えられ、このヨハネによる福音書の11章を読み聞かせてもらう。
そこに救いを見出したラスコリニコフはソーニャに罪を告白し、自首して罰を受ける。
そこに人間としての復活が始まるところで、この小説は終わる。
しかし、ドストエフスキーは、信仰の先輩が後輩に信仰を教えることによって、人が救われると言いたいわけではない。
ソーニャという女性は信仰深い人だが、この人自身、自分と家族の生活のために罪を犯しつづけている人。
信仰の先輩が後輩に、というような簡単な話ではない。
ただ、ソーニャという名前は、もともとは神の知恵を現す「ソフィア」という言葉。
神の知恵が、本人たちも知らないところで、人を導いてくださる。
今日、私たちはそのような場面を読んだ。
キリストは、ラザロが病気であると聞いても、二日間、なおもそこに滞在された。
四日目にようやく出かけた。
その理由は弟子たちには分からなかったけれども、それは弟子たちが信じるようになるためだった。
ここに神の知恵があると言える。
私たちに分からないことも分かっていて、私たちが信仰を高めることができるように導いてくださる。
そのキリストを見つめつづけること。
世の光を見つめること。
そうすれば、私たちの内に光がある。
私たちは絶望しない。
希望の内に歩みつづける。
それが、キルケゴールの言っている、クリスチャンということ。
絶望しない。
神が共にいてくださるので、絶望しなくていいことを知っている。
自分の決意によってではなく、キリストの光に導かれて生きる、生かされる。
その意味で、教会というところは、ベタニア――貧しい者の家――自分の力を捨てて、神を信頼し、神の御力を求める、そのような場所。
これからも、この場所で導かれて行こう。
主が私たちを、まことに信じることができるようにしてくださる。