羊飼いの話の続き。
イエスはここで、ご自分のことを「良い羊飼い」と言った。
「良い羊飼い」ということは、「悪い羊飼い」もいるのか、ということになるが、「悪い羊飼い」とは言われていない。
「良い羊飼い」の反対語は、「自分の羊を持たない雇い人」。
悪いとは言われていないが、雇われた人にとって、羊は自分の羊ではないから、「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」。
そして、その結果どうなるかというと、「狼は羊を奪い、また追い散らす」。
この前の個所では、羊飼いと盗人が並べられていた。
前の個所で、「盗人」と言われていたのはファリサイ派の人々のことだった。
ファリサイという言葉は「分離する」という意味の言葉だが、この世から自分たちを分離する。
そして、聖書に完全に従った生活をしよう、という熱心な人々。
その人々のことを、実は盗人だ、神の民をミスリードする者だ、本当のところ、神の民を神から引き離している、とイエスは言う。
どうしてかと言うと、この人たちは、自分の正しさが第一。
だから、自分の正しさが揺るがされるかもしれないようなことは認めない。
ファリサイ派の人たちは、イエスのことを理解しようともせず、頭から否定した。
イエスを認めてしまうと自分の正しさが否定されるから。
ファリサイ派の人たちは、自分の正しさで生きている。
ということは、神に導かれる羊ではないし、神の羊を養う羊飼いでもない。
盗人。
熱心ではあるけれども、その熱心さで、神の民を神から引き離す。
神が賛美されるように、ということで熱心なのではなく、自分たちの正しさをほめてもらいたい。
今日の個所では、良い羊飼いと雇い人が並べられている。
盗人と言うより、雇い人と言った方がかなりマイルドな表現。
しかし、狼が来るということがある。
狼は羊を奪い、追い散らす。
雇い人が羊に悪さをするわけではないけれども、神の民が神の前から取り去られるということがある。
そのような時、雇い人は逃げ出してしまう。
雇い人は危ない目にあいたくない。
どうしてかというと、自分の羊ではないから。
しかし、ここで重要なことがある。
この時代の羊飼いというのは普通、雇い人。
羊飼いにとって羊たちは、普通、自分の羊ではない。
羊をたくさん持っているお金持ちに雇われて、羊飼いをしている。
ということは、私たちには、イエス・キリストという羊飼いが必要だということ。
イエス・キリストは雇人とは何が違うか。
それが14節、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。
このところの「知る」という言葉には、日本語で「知る」というよりももう少し深い意味がある。
13節に、雇い人は「羊のことを心にかけていない」と言われていたが、「知る」という言葉は、単に知っているというよりも「心にかける」と言って良いような言葉。
雇い人だって、羊のことをいくらかは知っているだろう。
ただ、そこに、誰かの財産である羊がいる、という感覚。
しかし、良い羊飼いは自分の羊のことをいつも心にかけていて、だからこそ、羊のことをもっとよく知っている。
そしてそれは、羊飼いだけではない。
羊の方でも、イエスのことを知っている。
この方が自分の羊飼いだ。
この方についていくのだ。
一方的な関係ではない。
お互いがお互いに結びつこうとする絆が、良い羊飼いと羊の間にはある。
15節を見ると、それは、「父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」と言われている。
羊飼いと羊の関係は、神とイエスの関係と同じ。
凄いことが言われている。
イエスは、神とイエスの絆、父と子の絆と同じものを、私たちとの間にも作り出そうとしておられる。
神とイエスの信頼関係、一体感。
イエスは私たちとの間に、それと同じ絆が結ばれることを願っておられる。
そのような関係はどのようにして結ばれるのか。
イエスはいつも神のことを父と呼ぶ。
ご自分のことは子と言う。
父と子の絆はどのように結ばれるか。
まず父が、子を愛することによって、子も父を信頼するようになる。
そこには条件はない。
父親が子どもに対して、お前がこういう人間になったら愛してやるぞ、というのでは、その父は子どもを愛していない。
条件の付く愛は、愛ではない。
父が子を無条件に愛するから、子も父の愛に自分から応えようとするようになる。
イエスは、11節と15節で、同じことを繰り返し言っている。
「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。
「わたしは羊のために命を捨てる」。
そこに条件はない。
私にとっては、自分の命よりもあなたの命の方が大切だ、というだけの無条件の愛。
それが十字架。
本来、神に心を向けるより自分に心を向けるものである人間というものは、いずれ神から離れて、滅びるより他ない。
しかし、イエスはそのような私たちに対する罰を、代わりに受けてくださった。
それは、私たちが御心に適う者になれたからではない。
御心に適わない私たちをそれでもなお愛して、私たちを救うために、十字架にかかってくださった。
私たちはイエスからの無条件の愛を、もういただいている。
ただ、私たちは、無条件の愛というものに慣れていないかもしれない。
ある心理学者が言った。
私たちが子どものころから愛だと思って経験して来たことは、愛ではなく報酬だった。
と言うのも、私たちはどんな時に認めてもらえただろうか。
親の言うことを聞いた時、いい成績を取った時、人に親切にした時、するべきことを自分できちんとした時にほめられる。
しかし、いい子にしないと愛してもらえない愛は、愛といえるのだろうか。
それは良い人であることと引き換えに手に入れる報酬ではないか。
イエスは私たちを本当に愛してくださった。
私たちが神と無関係に生きていた時、イエスが私たちを愛してくださり、人となってこの世にこられた。
そして、誰一人お願いしてもいないのに、ご自分から十字架にかかってくださった。
駆け引きも損得もない。
ただひたすらにあなたを愛した。
その愛に十分に見合う応答などできないけれども、その愛に、感謝をもって応えていく。
そうする時、「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」という御言葉が実現していく。
そして、イエスの愛には、駆け引きも損得もない。
だから、その愛には、限界がない。
16節、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」。
囲いの外にも羊がいる。
そもそも、羊飼いとか羊というたとえは、神と神の民をたとえたものだが、神の民は今現在、囲いの中に入っていて、傍目に見ても神の民だと言える人たちだけではない。
もともと神の民というのはイスラエルの人々を指す言葉だったが、イスラエルではなく他の国で、伝道者に対して語られた、「この町には、わたしの民が大勢いる」という聖書の言葉もある。
イエスの愛は、今現在、囲いに入っている人たちだけを愛するような、範囲を限定したものではない。
そして、イエスの十字架は、2,000年後の今を生きる、私たちのためでもあった。
だから、イエスの愛は、時間を限定したものでもない。
イエスの愛には限界がない。
限界がないからこそ、16節のように、「その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ということが起こっていく。
エガートン・ヤングという宣教師がいた。
この人は、ネイティブ・アメリカンに伝道した最初の宣教師であった。
宣教師がネイティブ・アメリカンの人々に、神について伝えた。
宣教師が語り終えると、年老いた酋長が言った。
「あなたは今、私たちが『大いなる霊』と呼んでいるもののことを『わたしの父』と言ったように聞こえたが」。
「ええ、そう言いましたよ」と宣教師は言った。
「それは私たちにとって全く初めてのことだ」と酋長は言った。
「私たちは大いなる霊を父と考えたことはない。
私たちは雷の中に彼を聞き、稲妻の中、暴風雨の中に彼を見て恐れるのだ。
だからあなたが、その大いなる霊を私の父と言われるなら、それは私どもにとって実に素晴らしいことだ」。
酋長はそれからみるみる顔を輝かせて、こう続けた。
「先生、大いなる霊があなたの父だと言われましたね。
そして、あなたは、彼は私たちの父でもあるとも言われましたね」。
「そう言いました」。
酋長は、喜びにあふれて叫んだ。
「それでは、あなたとわたしは兄弟だ」。
全ての人が一つになれる可能性があるとしたら、人が皆、お一人の神に導かれる羊たちであるということ以外にないのではないか。
人間の目で見ると、人間には、文化の違いがあり、言語の違いがあり、国籍の違いがあり、同じ国の中でも、社会的な立場の違いがある。
それらの壁は、人間の力ではどうしようもないほど高く、分厚い。
イエスは羊飼いとして、そのようにして生きている私たちを、時間も空間も超えて、神の羊として導いてくださる。
最後にイエスは、ご自分の命を捨てるのは、ご自分の意思によることであると言う。
イエスはご自分の意思に反して、十字架につけられたのではない。
確かに、十字架の時、イエスはまず逮捕された。
しかし、イエスは逃げようと思えば逃げることもできた。
でもそうしなかった。
最後の晩餐の席で、裏切り者のユダが出て行ってしまったのに、そこで逃げ出すこともできたのに、食事を終えると、弟子たちと一緒にいつも祈っていたいつもの場所に行った。
自分から逮捕された。
イエスを殺そうとする者たちはたくさんいたが、この時はお祭りの日だったので、祭りの間はやめておこうということにしていた。
けれども、裏切り者からイエスはここにいるはずだ、という情報が寄せられたので、急遽、逮捕することになった。
イエスは、イエスを殺そうとする者たちの意思によって、十字架につけられたのではない。
全くご自分の意思で、自分から、十字架に上った。
そのことがどうして大事なのか。
ご自分から、ご自分の意思で、羊たちのために命を捨てる。
だからこそ、愛。
意志に反してではない。
強制ではない。
義務でもない。
自分から。
こうして、父なる神と子なるキリストの絆が、イエスと私たちとの間にも結ばれることになる。
第一次世界大戦の時の話。
重傷を負ったフランスの兵士がいた。
医者は彼の片腕を切断しなければならなかった。
医者は、その青年が一生不自由な体で生きていかなくてはならないことを悲しんだ。
青年が麻酔から覚めると、医者は彼に言った。
「とても言いづらいことだが、君は腕を失った」。
青年は答えた。
「僕は腕を失ったのではありません。僕はそれをささげたのです。フランスのために」。
イエスは、逃げ出して、自分の命を救うこともできた。
しかし、そうはしなかった。
全て自分から、事を進められた。
イエスは命を失ったのではない。
それをささげてくださった。
私たちのために。
しかし、最後のところでは、「この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた」と言われる。
多数派は、イエスのことを、「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている」。
少数派は、それに反論した。
「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか」。
「こういうことは言えない」というのはどういうことか。
イエスの話は、神と神の民についての話だった。
なるほど、聖書の中に、悪霊に取りつかれた者が神と神の民の関係について、掘り下げて話をしたという場面はない。
しかし、この人たちにしても、イエスのことを、悪霊に取りつかれているわけではないと言っただけ。
この人たちにしても、自分自身にとってイエスが何者であるのかは言っていない。
イエスは何者か。
良い羊飼い。
良い羊飼いは羊のために命を捨てる、いや、与えてくださる。
ご自分の命を。
ご自分の命よりも、私たちを愛しておられる。
そのような、他に例のない、ただお一人の羊飼いに、私たちは導かれている。