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2024年02月01日「羊飼いとは何か」

聖句のアイコン聖書の言葉

1「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。2門から入る者が羊飼いである。3門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。4自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。5しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」6イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。
7イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨハネによる福音書 10章1節~10節

原稿のアイコンメッセージ

先週、私たちは、一人の愛する姉妹を天に送った。
私たちの群れは、一人、少なくなった。
しかし今、この場所に立って、一人少ないということがこれほど決定的なことであるということに驚かされている。
イエスのたとえ話に、羊飼いは、羊が百匹いて、一匹いなくなったとしても、九十九匹の羊を残しておいて、その一匹を探しに行く、という話がある。
その話の意味が今、私たちには良く分かるのではないかと思う。
ただ、私たちは、私たちの愛する一人の姉妹を探しに行く必要はない。
私たちの愛する姉妹は天に召された。
今は、まことの羊飼いに養われている。

今日の聖書のお話も羊と羊飼いのたとえ。
聖書では、神のことが羊飼いに、神の民のことが羊にたとえられることが良くある。
神がまるで羊飼いであるように、羊である神の民を守り、養い、育ててくださる。
動物と飼い主のたとえ、ということなら、羊でなくて他の動物でたとえても良いのではないかと思うが、羊には、他の動物とは違う特徴がある。
羊は、あのくらいのサイズの動物の中では、脳が一番小さい。
そして、羊には角があるが、その角は巻いているので、角で戦うことができない。
つまり、羊というのは自分たちだけで群れをつくって生きることができない。
一匹狼というのはいても、一匹羊というのは絶対にいない。
そう考えると、人間を羊にたとえるというのは、良く出来たたとえだと思う。
人間は自分の賢さを誇るものだし、非常に強い力を持っているように見えるけれども、たった一人で自然環境の中に置かれたとしたら、他のどんな動物よりも弱者になってしまう。
たとえそこで生き残れたとしても、人間らしく生きることはできない。
人間が賢く、強いように見えるのは、人間が社会というものを作って生きているから。
しかし、その世の中というものが、今は、わずか10年先でもどうなっているか分からない時代。
何に導かれて生きているか分からない時代。
そう考えると、今日の話は私たちにとって本当にリアルな話。
今ほど、まことの羊飼いを必要としている時代はない。

ただこの、羊と羊飼いのたとえは、聖書では、羊飼いが神で、羊が神の民、ということで語られるだけではない。
聖書の中で、神の民のために、神が立ててくださった指導者たちのことが羊飼いと言われることもたくさんある。
王や祭司は、自分のことを羊飼い、民衆を羊と呼んだ。
私は牧師という務めについているが、この牧師という言葉も、羊飼いであることを意味する表現。
しかし、現実に、王や祭司や牧師の中には、神の民を養い導くことができない場合もある。

今日の1節に書かれているのも、そういうこと。
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」。
例えば旧約聖書の時代には、王が先頭に立って偶像礼拝をして、神殿にも偶像が立ち並んで、民にも偶像礼拝をさせたということが何度もあった。
それは例えて言えば、羊泥棒、盗人。
神の羊である神の民を偶像にささげた。
10節に、「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない」とあるが、神から引き離されて偶像にささげられることが、屠る、滅ぼすことであると言われている。
そのように、羊飼いが盗人になってしまうことというのはある。

ここで難しいのは、盗人は盗人としてくるのではないということ。
羊飼いの姿でやってくる。
見た目で見分けることはできない。
ただ、見分けることはできる。
それは、どこを通ってくるか、ということで見分けられる。
「門から入る者が羊飼い」。
では、門とは何か。
7節8節。
「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」。
イエスが羊の囲いに入るための門で、この門を通って入るのが羊飼い。
羊の囲いは、人の身長くらいの石垣でできていた。
そして、出入りする門は普通、一つだけだった。
だから、盗人が囲いを乗り越えて羊を盗むのは難しいことではなかった。
ここでイエスは、「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言っているが、6節を見ると分かるように、今ここでは、イエスはファリサイ派の人々のことを意識して話している。
ファリサイという言葉は「分離する」という意味の言葉だが、この世から自分たちを分離する。
そして、聖書に完全に従った生活をしよう、という人々。
その人々のことを、実は盗人だ、神の民をミスリードする者だ、本当のところ、神の民を神から引き離している、とイエスは言う。
つまり、「わたしより前に来た」というのは、イエスより前の時代の預言者たちが皆、盗人だったと言いたいわけではない。
ファリサイ派はイエスが神の働きを始めるよりもずっと前から働いているので、そのことを言っている。
しかし、6節に書かれている通り、ファリサイ派の人たちには、イエスの話が分からなかった。
というより、今日に至るまでの話で分かる通り、ファリサイ派の人たちは、イエスのことを理解しようともせず、頭から否定した。
イエスを認めてしまうと自分の正しさが否定されるから。
ファリサイ派の人たちは、自分の正しさで生きている。
ということは、神に導かれる羊ではないし、神の羊を養う羊飼いでもない。

しかし、ファリサイ派の人たちは、この時代にあって、熱心に神に従う人たちだ、と思われていた人たち。
そうなると、なおさら、本物の羊飼いを見分けることは難しい、ということになる。
しかし、難しくない。
3節だが、まず、「羊はその声を聞き分ける」。
そして、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。
しかし、5節、「ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」。
こういうことなので、本物と偽物を見分けるのは難しくない。
ここのところで言われていることは、実際の羊飼いと羊も同じ。
羊は羊飼いの声を知っている。
そして、羊飼いは羊の名前を知っていて、羊も自分の名前を分かっている。
そして、もし、自分の羊飼いの服を着た人が、その羊飼いの声をまねて呼びかけても、羊はついていかない。
何度かそれをすると、羊は逃げる。
羊でも実際にそうしている。
本物と偽物を見分けるのは難しくない。
大事なのは、羊飼いの羊飼いであるイエスの声を私たちが良く聞いて覚えていること。
そうすれば、その羊飼いが本物なのか偽物なのかはすぐに見分けがつく。
御言葉を聞く機会に、しっかりと御言葉を聞いて、心に収めておくこと。
それができれば、「羊飼い」の声と「盗人」の声を聞き分けるのだから、難しいことではない。

ただ、しっかりと聞く、ということについて、心したい。
この度の葬儀に当たって、中村姉が使っておられた聖書をお借りした。
中村姉の聖書には、三色のボールペンで線が引かれて、時にはそれに重ねて、マーカーが引かれて、その横に、細かい字でメモが書かれていた。
そればかりでなく、ページの余白に、そのページに書かれている聖書の言葉がそのまま書き写されているようなこともあった。
私は、聖書の余白に、聖書の言葉をそのまま書き写したことはない。
しっかりと御言葉を聞くとはどういうことなのかを教えていただいた。

4節には、羊飼いは、「自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く」とある。
この「連れ出す」という言葉は、9章22節で、イエスがメシアであると信じる者を会堂から追い出すとユダヤ人たちが決めていた、という時の、「追い出す」というのと同じ言葉。
つまり、ファリサイ派が追い出したと思っていた人は、実は、イエスに導かれているのだ、ということ。
少し後の時代に実際に、イエスという門を通ってきた教会の指導者たちが、人々をユダヤ人の間から連れ出し、先頭に立って導いていく、ということが起こっていく。

さて、6節までは、羊飼いが出入りするところとしての門についての話だったが、7節からは、「羊の門」という話になる。
羊が出入りする門。
そして、イエスという門を通って入る者は救われる、と9節にある。
「その人は、門を出入りして牧草を見つける」。
盗人は、門を通らない。
だから、彼らについて行っても、牧草にありつくことはできない。
彼らにミスリードされて神から引き離されると、10節に書かれている通り、滅びが待っている。
しかし、まことの羊飼いであるイエスは、「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」に来てくださった、というのが10節。
そのために、イエスが、命の門になってくださった。
逆に言うと、それまで、そのような門は無かった。
命に至る門は無かった。
羊たちが、囲いの中に入れられていたとしても、囲いを乗り越えてくる盗人に、一匹二匹と奪われていくばかりだった。
しかし今は、命に至る門がある。
そして、門とは何か。
くぐるだけ。
門はくぐるだけ。
だから、9節に、簡単に書かれている。
「その人は、門を出入りして牧草を見つける」。
くぐるだけで、牧草を見つけ、養われ、命を豊かに受ける。
どうしてそんなに簡単なのか。
私たちがまことの命を受けるために必要なことを、イエスがすべてしてくださったから。
私たちが罪に対する裁きを受けることのないように、私たちの罪を背負って、私たちの代わりに罰を受けてくださり、その後に復活して、まことの命、永遠の命を現わしてくださり、それを私たちに与えると約束してくださった。
だから、後は私たちが門をくぐるだけ。
教会の門をくぐるだけでいい。

昨日、葬儀があった。
中村姉は、教会の門をくぐって出て行かれた。
もう、中村姉がこの教会の門をくぐることはない。
今まで、数えきれないほどくぐってきた門だが、もう、くぐることはない。
今、中村姉は、見渡す限りの牧草の中におられる。
そして、その中村姉の隣には、イエスがおられる。
私たちも、信仰の先輩の模範に従って、しっかりと御言葉を聞いて、後に続いて行こう。
イエスと中村姉がおられるところを目指して、歩んでいこう。

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