困難を乗り越える
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- 説教
- 尾崎純 牧師
- 聖書 使徒言行録 6章1節~7節
1そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。2そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。3それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。4わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」5一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、6使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。7こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。 日本聖書協会『聖書 新共同訳』
使徒言行録 6章1節~7節
能登半島で大きな地震があった。
私は中学三年生だった時に神戸の地震を経験しているので、色々なことを思い出していた。
地震が恐ろしいのは、たとえ街が復興したとしても、人の心は復興しないということ。
私は神戸の震災直後に高校に入学したが、入学した高校で、私たち1年生は先生方にしばしば苦言を呈された。
「どうして勉強しないんだ。どうして道端にゴミを捨てるんだ」。
それまで、そのような学年はなかったのだそう。
人の力で地道にしっかりと作り上げたものでも、地面がひと揺れすれば何もなくなるのが地震。
そのことが、人を絶望させる。
人間の力はあまりにも脆い。
そのようなことがあった直後に、自分の力が問われるところの高校受験をした私たちなので、「勉強しない。ゴミを捨てる」……。
これから、被災地の人たちにどのような影響が出てくるだろうか。
地震が歪めた人の心というものは、それこそ、創り主なる神への信頼でしか取り戻されないと思う。
「地震」を覆すくらいのスケールの善いこと、素晴らしいことというのはこの世にはまず無いだろうから。
神様が御言葉の種を蒔いてくださるように祈ろう。
そして、当たり前の日常が与えられていることを、神様に感謝したい。
当たり前は当たり前ではない。
今年の年間聖句を今日の個所とした。
今日の個所から、困難を乗り越えて教会を成長させるということを学びたい。
私たちは、私たちの教会に大きな困難を感じていないかもしれない。
しかし、教会というところに、困難というものは起こってくるもの。
ただ、「困難」という言葉をつかうことで、困難だと思わなければならないのか、と受け取られてしまうと、こちらの意図とは違うので、年間の標語は、今日の個所の内容から、「壁を壊して、橋を架ける」とさせていただいた。
壁とか橋とかいう言葉は出てこない個所だが、説教を聞いていただければ、ご理解いただけるかと思う。
まず、教会の中で、「苦情が出た」。
苦情というものはどこにでもある。
当然、教会の中でも苦情が出ることはある。
教会とは何か。
原文では「集会」。
ただ、「集まる会」ではなく「集められた会」。
神に集められた人たち。
神が集めた。
私たちが集まったのではない。
神が集めたのが私たち。
だから、私たちが人の目にどのような人間であるかは関係ない。
神が私たちを選んだ。
つまり、教会というところは別に、善い人、優れた人が集まるところではない。
神が選んだ人が集まっているところ。
「神」がメインの場所。
そこにいる人がどうだ、ということではない。
あの人は「クリスチャンらしい」、あの人は「クリスチャンらしくない」と思うようなことがあるが、その考え方が間違っている。
良い人だから選ばれたわけではない。
ただ、神が憐れんでくださって、ここに集めてくださった。
私たちは人間として、あるレベルをクリアしているからここにいるのではない。
学校でも会社でも、試験を受けなければ入れないが、私たちは試験を受けて入ってきたわけではない。
人間の目で見ると、教会というのは、一致していない場所。
学校よりも、会社よりも、一致していない。
「苦情が出る」くらいは当然、あること。
この場面では、「日々の分配」(1節)のことで苦情が出た。
それは、「食事の世話」(2節)のことだった。
教会員であるやもめたちに対して、教会で、食事を出していた。
当時、夫をなくした女性は、自分の親か子どもに面倒をみてもらうしかなかった。
そのような女性に対して、教会が食事を提供していた。
教会の会員というのは、イエス・キリストを長男として、皆、キリストの弟たちであり、妹たち。
そのイエス・キリストの教えの通りに、教会というのが、皆、兄弟姉妹で、一つの家族になっていた。
人と人との間に壁がない。
だから、これは別にキリストに命じられたわけではないけれども、誰に言われたわけでもなく、やもめである姉妹に食事を出そうということになったのだろう。
キリストの教えに基づいて、具体的な善いことをしていた。
この時代には、社会保障という考え方はない。
つまり、教会が、他の人がしないような善いことをしていた。
しかし、善いことをしていても問題は起こってくる。
善いことをしていても、その中に人間の罪が入り込んでくることはある。
何しろ、教会というのは罪のない人の集まりではないから。
罪があるにもかかわらず、神が憐れんでくださって集めてくださったのが私たち。
そして、それを忘れてしまうと、いつでも、罪が入り込んでくる。
ではこの場合には、どのような問題が起こったのか。
「ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た」。
まず、言葉の違いがあった。
それが、自分と違う相手を「軽んじる」ということになっていった。
言葉の違いから差別が起こった。
言葉の違いというものは小さいものではない。
「人間は言葉を話す動物だ」とも言われる。
「人というのはその人の言葉である」という言葉もある。
言葉が違うということは、考え方が違うということであり、人間の在り方が違うということ。
しかし、それにしても、ユダヤ人であることに変わりはない。
これが、ユダヤ人と異邦人、というなら、何もかも違う。
同じ所を探す方が難しい。
それに比べると、言葉だけの違いなら、まだましなようにも思える。
それでも、一度、違いがあると認識されてしまうと、もうその違いを無かったことにすることはできない。
違いというのはどんな違いでも、最初は小さな違いに思えたとしても、そこに意識を向けていると、大きなことに思えてしまうもの。
一度、「あの人たちは自分たちとは違う」と認識されてしまうと、もうそれを覆すことは難しい。
このように、教会の中に人と人との間の壁が作られるということがある。
しかし、そもそも、人と人との違いを問題にするのがおかしい。
教会とは、神が人を集める場所。
私たちに共通点があるとすると、それは、神が私たちを選んでこの場所に置いてくださっているということだけ。
人間の目で見た場合、違いがあって当然。
むしろ、違いがないとするなら、その教会では、神が人を集めてくださったということ以外の人間の力が働いて、人を抑圧したり、人を排除していることになる。
人を抑圧して、人を排除して、問題が起こらないようにすることはできる。
実際、この世はそのようにして組織を作っている。
しかしそれは教会の姿ではない。
神が人を集めた教会なら、色々な人がいるはずで、だとしたら、問題が起きてくるということはある。
大事なことは、問題が起こった時にどう対処するか。
ここで、一番簡単な解決の方法がある。
ヘブライ語教会とギリシア語教会を別々に建てること。
それは言ってみれば、人と人との間の壁をもっと高くすること。
そうすれば、このような問題はもう起こらない。
しかし、この時、教会が出した答えはそうではなかった。
弟子たちの中でリーダーである12人は言った。
「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」(2-4節)
ここでまず、驚くことがある。
相手がギリシア語を話す人なのか、ヘブライ語を話す人なのかで、食事に差を付けていたのは、十二人の使徒たちだった。
イエスの直弟子である使徒たちが、教会の中に壁を作って、人の扱いを分けていた。
これは深刻な話。
イエスの話を一番近くで一番長く聞いてきた人たちが、人と人との間に壁を作る。
イエスはそのようなことは教えなかった。
イエスのなさった話に、「良いサマリア人」という話がある。
サマリア人とユダヤ人は敵同士。
普段から付き合いもしない。
口もきかない。
しかし、イエスは、それを覆すようなたとえ話をした。
あるサマリア人が道端に倒れて死にそうになっている人を見つけた。
そうすると、そのサマリア人は、その人がどこの誰かなどということを全く気にすることもなく、出来る限りのことをして、その人を助けた。
この話は、イエスに対して、「わたしの隣人とはだれですか」と質問してきた人に対して語られた話。
「わたしの隣人とはだれですか」と聞いてきたということは、その質問をした人は、隣人というのは、ここからここまでが隣人で、それ以外は隣人ではない、と線引きができると思っている。
それに対してイエスは、相手が誰であれ、目の前にいる、困っている人の隣人になりなさい、と教えた。
イエスは明確に、人と人との間に壁を作るなと教えた。
壁を壊して橋を架けろと教えた。
それなのに、使徒たちは壁を作った。
私たちも気を付けなくてはならない。
一番イエスに近かった使徒たちが壁を作った。
ということは、誰が壁を作ってもおかしくない。
しかし、この時、教会は、正しい解決を出した。
教会は、別々の教会を建てることを選ばなかった。
解決のために人を選んで仕事を任せた。
そして、この時に選ばれた七人は、これは名前で分かるのだが、全員、ギリシア語を話すユダヤ人だった。
つまり、弱い立場に置かれている人たちを助ける決定をした。
イエスの教えの通りにした。
そして、もう一つ言えることがある。
この時、どういう基準で人が選ばれたか。
公平な人を選んだのではない。
食事の量をきっちり量って、同じ量にすることができる、正確な人、きっちりした人を選んだのでもない。
そういう人を選んでも、この時の問題は解決する。
しかし、選んだ基準はそうではなかった。
「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」。
その人が聖霊に満たされていて、神様の働きがその人に現れているということ。
そして、神様がその人に知恵を与えてくださっている。
そのような人を選んだ。
逆に言うと、そのような人を選ばなければいけないくらい、人との間に壁を作らないというのは難しいこと。
選ばれたギリシャ語を話すユダヤ人たちが、今度は、ギリシャ語を話す人たちばかりを優遇するかもしれない。
それでは教会の中に分断があるまま。
人と人との間の壁は、人間の力では解決できない。
そもそも、何か問題があると壁を作ることの方が楽。
壁を作って、排除する。
しかも、壁を作る人は、それが間違っているとは思わない。
壁を作る人にとって、壁を作ることは正しいこと。
歴史上、人類は文字通り、何度も壁を作ってきた。
古くは中国で、秦の始皇帝が1,800キロの壁を作った。
万里の長城。
始皇帝は間違っていると思っただろうか。
正しいと思っていた。
これは異民族から自分の国を守るためだから、正しいことだ。
比較的最近のこととしては、ベルリンの壁というものがあった。
資本主義と共産主義に分断されていた。
政治や経済のシステムが違うということが、人と人を分断する理由になる。
韓国と北朝鮮の間も同じこと。
アメリカの前の大統領は、アメリカとメキシコとの間に3,200キロの壁を築くつもりだと言った。
メキシコから勝手に人が入ってこないようにするため。
勝手に入って来られて、仕事を奪われてはたまらない。
結局、壁を作る人たちは同じことを考えていると言える。
自分たちを守るため。
それを仲間意識ということもできるけれども、仲間でない人を敵にしてしまう。
この時の使徒たちにしても同じ。
使徒たち自身がヘブライ語を話すユダヤ人だから、ヘブライ語を話すユダヤ人を優遇した。
しかし、仲間に良くすることで、仲間でない人たちを敵に回すことになった。
ベルリンの壁なんて持ち出さなくても、今も、いつでも、どこででも起きている話。
しかしこの時、教会は、橋を架けることを考えた。
壁を作るのではなく、橋を架ける。
壁を壊して、橋を架ける。
これが教会だと聖書は言っている。
そして、単に橋を架けろと言ったのではない。
七人の人を選んで、仕事を任せたのは何のためか。
弟子たちの中でリーダーだった十二人が、「祈りと御言葉の奉仕に専念」(4節)できるように。
教会にとって一番大事なことは祈りと御言葉。
それを忘れないこと。
最後の7節で、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った」と言われている。
単に、問題が解決した、と言っているのではない。
神の言葉を第一にして、人と人との間に橋を架けるなら、神様はそれを祝福してくださる。
神様との縦のつながりがまずあり、そこに、人と人との横のつながりが広がっていく。
教会の中に大なり小なり問題は起こる。
私たちは神が集めたということ以外に共通点がないから、問題が起こらないはずはない。
その時、私たちは、何を第一にしているのかが問われる。
第一にしているのは神の言葉だ、と言えるかどうか。
そして、そのために何をしようとしているのか。
人と人との間に橋を架けているか。
橋を架けると言っても、大それたことが求められているのではない。
人を分け隔てしない、というだけのこと。
しかしそれが私たちにとって非常に難しい。
使徒たちですらたったそれだけのことができなかった。
ということは、人と人との間には、何らかの壁があるのが普通。
その壁を壊して、橋を架ける。
そうする時、今日の話は教会の中での出来事、教会の中のやもめに食事を出していたということで、どこか外に出て行って炊き出しをしたというような話ではないのに、それでも、神の言葉が教会の外に広まって、多くの人が弟子になるということが起こってくる。
これは、壁を壊して、橋を架けるなら、神が祝福してくださるということ。
この世のグループはどんなグループでも、壁があるのが基本。
この世では、気が合うから、趣味が一緒だから、考え方が一緒だから、ということで一つになる。
だから、違う人たちは入っていけない。
人間的に同じでないと一つになれない。
またそこで、仲が悪くなってしまったら一つでなくなるし、考え方が違ってきてしまったら別れてしまう。
しかし、教会はそうではない。
神が人を分け隔てせずに、人を集めてくださり、兄弟姉妹として、一つにならせてくださる場所。
だから、壁を壊す。
橋を架ける。
神の言葉を第一にしているから、そうすることができる。
そして、そうするなら、祝福される。
今年一年、どこにいても、そのことに取り組んでいきたい。
それが、御心だから。
新しい年、新しい祝福をいただこう。