この時、イエスさまは12歳です。
13歳が成人式ですから、12歳というのは大人になる一歩手前の年齢です。
両親はイエスさまと一緒にエルサレムでお祭りに参加しました。
その帰り道で、両親はイエスさまの姿を見失ってしまいます。
この時代に旅をする人たちは普通、キャラバンを作って、大勢が一緒になって移動しましたから、両親はイエスさまがキャラバンの中のどこかにいるのだろうと思い込んでいたのかもしれません。
丸一日移動してから、両親はイエスさまがいなくなっていることに気づきました。
そこで、イエスさまを捜しながらエルサレムに引き返します。
両親はあちこち探し歩いたんでしょう。
三日もかかってイエスさまを見つけ出しました。
イエスさまは神殿の境内にいたんですね。
イエスさまはどこかに行ってしまったわけではなかったんですね。
どこにも行っていなかったんです。
それも、親からすれば迷子になっていたわけですが、イエスさまはまったく平気です。
神殿の境内で学者たちと話を聞いたり質問したりしていたというんですね。
イエスさまの周りにいた人たちは皆、イエスさまの賢い受け答えに驚いています。
後になって、イエスさまが伝道を始めると、人々はイエスさまの言葉に驚くようになりますが、それは最初からそうだったということですね。
そして、驚いたのはイエスさまの両親もでした。
マリアはおそらく怒りながら、「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」と言いました。
イエスさまは答えます。
「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいるのを、ご存じなかったのですか」。
両親にはこの言葉の意味がわかりません。
イエスさまはストレートに話しているんですが、母には理解できません。
後になって、イエスさまが伝道を始めると、やっぱりこれと同じことが起こってきます。
イエスさまの言葉は人々を驚かせる言葉だった。
そして、人の理解を超える言葉であったわけです。
それも、やはり最初からそうだったということですね。
それにしても、この時のイエス様の言葉は大変な言葉です。
家族のつながりを拒否するような言葉です。
しかしそれも、後になってイエスさまが伝道を始められた後に、同じことが起こりました。
たくさんの人々の前で話をしているイエスさまのところに、母と兄弟たちが会いに来たことがありました。
イエスさまはその時、母と兄弟たちが来ているという知らせを聞いたのですが、これに対してイエスさまは言ったんですね。
「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」。
イエスさまはこの世の人間関係を超えてお働きになるんですね。
この世の人間関係が第一ではない、神との関係が第一なんですね。
だからこそ、私たちはイエスさまと血のつながりはないですが、イエスさまにつながって、イエスさまの弟、妹になることができる。
イエスさまの弟妹として、私たちも神の子になることができる。
ただこれは、人間同士のつながりを否定しているのではありません。
イエスさまも、「両親に仕えてお暮らしになった」と書かれています。
私たちも神の子として、家族や隣人に仕えていくのです。
それがイエスさまがなさったことで、私たちもやっていくことなんですね。
そしてそうする時、イエスさまは、神と人とに愛されるということになっていきました。
だから私たちもそうするんですね。
ただ、今日の話にはまた別の大切なことも言われています。
両親はイエスさまを見失ったんですね。
両親にとってはイエスさまは自分の子どもです。
ですから両親としては、この賢い子どもが自分から離れていくことはないと考えていたはずです。
賢い子だから、自分たちの見えるところにいるはずだと考えていたはずです。
けれどもそれは人間の考えです。
これはイエスさまの両親のことだけではありません。
私たちも人間の考えで、自分の思う通りにイエスさまが働いてくださることを願うことがあります。
けれども、人間の思いでキリストを理解しようとすると、キリストを見失ってしまうということですね。
見失うと捜します。
けれども、この時、両親はイエスさまを見つけることができませんでした。
どうして見つけることができなかったのでしょうか。
簡単なことです。
いないところを捜していたからです。
イエスさまがおられないところで、イエスさまを見出そうとしていたからです。
私たちも、人間の考えでイエスさまを捜すなら、見つけ出すことはできないでしょう。
ただ、難しいのは、私たちがこれは自分の考えではない、御言葉に立って信仰によって考えたことだ、と思っていることでも、そこに人間の考えが入り込んでいることがあるわけです。
そしてその場合、私たちはなかなか自分で気づくことができない。
どうしてそうなってしまうのか。
私たちは皆、自分は正しいと思っているんですね。
だから、私たちが何かを考えるとすぐに、「正しいはずの自分の考え」が入り込んできてしまう。
ただ、私たちの考えは本当に正しいのでしょうか。
私たちは雨が降ると傘を差します。
雨の時にさす傘がいつ頃から一般的なものになったのかというと、18世紀なのだそうです。
イギリスの商人、ジョナス・ハンウェイという人がペルシャを旅行している時に見た中国製の傘に、防水加工を施したことが最初とされています。
ところが、ハンウェイは数十年もの間、雨傘を差すたびに世間の笑いものになっていました。
どうして彼は笑われていたんでしょう。
当時のイギリスでは傘と言えば、女性が日差しを避けるために使う道具であったんですね。
それを、あの男は、雨の時に傘をさしている、ということで笑いものにされたんです。
時には嫌がらせまで受けたそうです。
当時は雨が降ると、帽子をかぶって合羽を着て外出するのが普通でした。
彼を笑いものにする人、彼に嫌がらせをした人は、自分が正しいと思っていたから、違うことをしているハンウェイを攻撃したわけです。
しかし彼は、上流階級の人たちが集まるフォーマルなパーティーに、傘を持って出かけ続けたんですね。
そして、そうする内に、雨が降った時にいかに便利であるか、ということが認識されるようになっていきます。
そしていったん偏見がとけると、今まで採用していなかったことが不思議に思えてきて、今では誰でも雨傘を使っています。
逆に言うと、自分が正しいと思ってハンウェイをバカにしていた人たちは、傘を使わないことを正しいと思っていたわけです。
本当は不便で不自由なのに、自分が損をしていても、それでも正しいと思ってしまう。
それが人間なんですね。
私たちの周りにもそういう人がいるだろうと思いますし、私たち自身、ある面では同じではないでしょうか。
しかし、それではイエスさまを見つけることは決してできないんですね。
では、どうすれば良いのでしょうか。
イエスさまを捜さないことです。
捜さなければならないということは、もう見失ってしまっているということで、もう自分は十分に人間の考えで考えてしまっているということです。
両親がイエスさまを見つけたのは神殿でした。
その時のイエスさまの言葉がさっきの言葉ですね。
「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいるのを、ご存じなかったのですか」。
両親はいろいろなところを捜す必要はなかったのです。
イエスさまは必ず、父の家にいるのです。
そして、この父の家という言葉は、元々は「父のものである事柄」という言葉がつかわれています。
イエスさまはいつでも、神様の御手の内におられるのです。
ですから、人間の思いでイエスさまを見出すことはできませんし、イエスさまは私たちの願いに従って生きておられるのではありません。
イエスさまはどんな時でも必ず、神さまの御手の内におられるのです。
ですから私たちは、イエスさまを見失った時、神さまの御手の内を捜さなくてはなりません。
それは、御手の内から迷い出た私たち自身が、御手の内に戻らなくてはならないということです。
イエスさまはそこにおられます。
そのイエスさまは、私たちがイエスさまとはこういう方だと考えていた方とは違うのでしょう。
私たちが自分の考えで、イエスさまはこういう方だ、だから、こうしてくださるはずだ、でもそうならなかったら、イエスさまが迷子になった、そういう方ではない。
イエスさまはどういう方でしょうか。
今日の場面は過ぎ越し祭の時の出来事です。
今日のイエスさまの最初の言葉は、過ぎ越し祭の時の言葉です。
そして、イエスさまの生涯の最後、十字架も、過ぎ越し祭の時の出来事です。
過ぎ越し祭というのは、人の罪に対する神の怒りが私たちを過ぎ越す、私たちには神の怒りは及ばない。
そして、私たちが神に救い出される。
それを祝うお祭りです。
イエス様の最初の言葉も最後の言葉も、過越祭の言葉。
つまり、イエスさまは罪からの救い主だということです。
それでも私たちがイエスさまを見失うことはあります。
私たちが人間の思いにとらわれて、イエスさまの前から迷い出てしまうということはあります。
イエスさまは罪からの救い主ですが、罪というのが私たちは自分では分かりにくいからです。
罪という言葉はもともとは「的外れ」という言葉ですが、的外れなことに心が神様に向かわずに、自分中心になってしまっているのが私たちです。
そして、自分中心というのは自分では分かりにくいですね。
自分中心になっている時こそ、私たちは、自分が正しいと思い込んでいるわけです。
そうして、神様の前から迷い出てしまう。
自分が迷子になっているのに、イエスさまはどこにも行っていないのに、イエスさまが迷子になってしまったと思ってしまうんですね。
この時のイエスさまの両親もそうでした。
けれども、イエスさまは待ってくださっています。
私たちが御手の内に戻ってくるのを待ってくださっています。
この時、イエスさまは、三日間神殿で待っておられたんだと思うのです。
「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいるのを、ご存じなかったのですか」。
この言葉は、三日間待った上でおっしゃった言葉だと思うのです。
三日間待った上で、「あちこちを捜し回る必要なんてなかったんですよ」。
それがイエスさまのおっしゃりたいことだったと思うのです。
イエスさまは私たちのことも待ってくださっています。
どこにも行かずに、神の御手の中で。
私たちが人間の考えで捜しても見つからないでしょう。
ただ、その場合には、イエスさまの方から私たちのところに来てくださるはずです。
十字架の後、イエスさまに従っていた人々はイエスさまをお墓に捜しましたが、見つかりませんでした。
けれども、イエスさまの方から訪ねてきてくださった。
私たちがイエスさまを見失っても、イエスさまが私たちを見失うことはないということです。
イエスさまは御手の内におられて、私たちも御手の内に置かれているんです。
ですから安心して、イエスさまを捜しましょう。
見つからない時は、イエスさまの方からいらしてくださいます。